朝日セントライト記念のあと、タガノデュードは休むことになった。
大きな故障があったわけではない。
どこかが完全に壊れたわけでもない。
けれど、宮田先生は予定表を見ながら、静かに言った。
「一回、休ませる」
その言葉を聞いた時、デュードはすぐには頷けなかった。
セントライト記念、九着。
エコロヴァルツは三着。
朝日杯で横にいると思った子が、秋にはちゃんと前にいた。
追いかけたい。
悔しい。
もう一度、横へ。
そう思ったばかりだった。
それなのに、休む。
「今ですか」
デュードは聞いた。
宮田先生は頷いた。
「今や」
「でも、わたし、まだ一勝クラスも抜けてません」
「せやな」
「エコロヴァルツさんは前にいました」
「せやな」
「ここで休んだら、また足場を組み直しです」
「だから休むんや」
デュードは言葉に詰まった。
宮田先生は資料を置いた。
「今のお前は、足場を組む前に次の高さを見すぎとる。朝日杯、春の重賞、取り消し、セントライト。全部持ったまま走っとる」
「持って帰れって言われました」
「持って帰るのと、全部担いで次へ行くのは違う」
その声は厳しくはなかった。
けれど、逃げられなかった。
「休むのも、組み直しや」
宮田先生は言った。
「壊れてから直すんやない。壊れる前に、点検する」
現場の言葉だった。
デュードは、反論できなかった。
休養が決まった日の夜、デュードは部屋で予定表を見ていた。
九月から、十二月まで。
そこに自分のレース名はしばらくない。
空白。
紙の上の空白は、思っていたより重かった。
「デュードさん」
向かいからシェイクユアハートが声をかける。
「はい」
「休むの、いやですかぁ?」
「いやです」
デュードは即答した。
「走れないほど悪いわけじゃないです。だから余計に」
「はいぃ」
「でも、休んだ方がいいのも分かります」
「分かるの、つらいですぅ」
「つらいです」
デュードは自分のメモを見た。
走らせない日も、足場。
走って届かなかった日も、足場。
横だと思った子が前にいた日も、足場。
そう書いた。
それなら、休む日も足場なのだろう。
分かる。
でも、分かったからといって、心臓が静かになるわけではなかった。
「シェイクさんは、走るんですよね」
「はいぃ」
「三勝クラス」
「はいぃ……三勝クラスですぅ……」
シェイクの机には、もう何枚ものメモがあった。
比叡ステークス、四着。
サンタクロースステークス、二着。
八坂ステークス、六着。
関門橋ステークス、三着。
ダイワスカーレットカップ、二着。
下鴨ステークス、三着。
勝っていない数字が、積み上がっている。
「シェイクさんも、休みたいですか」
デュードが聞くと、シェイクは少し考えた。
「休みたい日もありますぅ」
「はい」
「でも、走りたい日もありますぅ」
「はい」
「それで、走るとまた二着とか三着ですぅ」
「……はい」
「心臓が、いつもゴールの少し手前で置いていかれますぅ」
デュードは黙った。
自分は、休む。
シェイクは、走り続ける。
どちらが楽かなんて、言えなかった。
夏の小倉、テレQ杯。
シェイクは古吉トレーナーではなく、秋稔トレーナーと走ることになった。
古吉トレーナーの予定が合わなかった。
そう聞いた時、シェイクは少しだけぽかんとした。
「古吉さんじゃないんですかぁ」
宮田先生は予定表を見ながら頷いた。
「今回は秋稔トレーナーや」
「秋稔さん……」
「若いが、悪くない。小倉の流れも見られる」
「ほわ~……」
「不安か」
シェイクは少し考えた。
古吉トレーナーは、安全帯のような人だった。
定食屋の椅子のような人でもあった。
雑で、短くて、でも走る時に余計な荷物を少し下ろしてくれる。
その人がいない。
「不安ですぅ」
シェイクは正直に言った。
「でも、走りますぅ」
「それでええ」
テレQ杯の日、小倉は夏の熱を持っていた。
空気が重く、芝もどこか息をしているようだった。
秋稔トレーナーは、古吉トレーナーより少し若く、言葉の置き方も違っていた。
「シェイクさん、最後まで脚はあります。早く使いすぎないで、でも置いていかれないように」
「難しいですぅ……」
「難しいです。でも、できると思ってます」
「ほわ~……まっすぐですぅ」
「まっすぐ言うしかないので」
そのまっすぐさは、少し眩しかった。
ゲートが開く。
シェイクは走った。
三勝クラスの流れ。
小倉の二千。
夏の熱。
古吉トレーナーの声ではない。
けれど、秋稔トレーナーの声もちゃんと届いた。
前を見る。
脚を残す。
動く。
直線。
伸びた。
届くかと思った。
届きたいと思った。
だが、また一番前ではなかった。
二着。
戻ってきたシェイクは、息を弾ませながら、少し笑った。
「ほわ~……またですぅ……」
秋稔トレーナーは悔しそうに頭を下げた。
「すみません。勝たせられませんでした」
「謝らないでくださいぃ……シェイク、走りましたぁ」
「はい。すごく走りました」
「でも、勝ってないですぅ」
「はい」
「二着ですぅ」
「はい」
秋稔トレーナーは、まっすぐに言った。
「悔しいです」
その言葉を聞いて、シェイクは少しだけ目を丸くした。
古吉トレーナーは、悔しいと言葉にするより先に、結果をそのまま置く人だった。
秋稔トレーナーは、その悔しさを隠さなかった。
別の人と走ると、別の痛み方をする。
シェイクはそれを知った。
寮に戻った夜、デュードは休養中だった。
走っていないデュードの机と、また二着を増やしたシェイクの机。
二人はお茶を挟んで向かい合った。
「二着でしたね」
「二着でしたぁ」
「また近いです」
「また近いですぅ」
「古吉さんじゃなくても、近いんですね」
デュードがそう言うと、シェイクは少し黙った。
「そうですねぇ」
「いいことですか?」
「いいこと、だと思いますぅ」
「でも?」
「古吉さんじゃなくても近いなら、シェイク自身が近いんだなって思いましたぁ」
「それ、いいことでは?」
「はいぃ。でも、シェイク自身が近いのに勝てないなら……」
シェイクは湯呑みを見つめた。
「誰のせいにもできませんぅ」
デュードは何も言えなかった。
古吉トレーナーと勝てない。
秋稔トレーナーと走っても二着。
つまり、シェイクは確かに三勝クラスを勝てる場所の近くにいる。
近くにいるのに、勝っていない。
その事実は、優しくなかった。
九月、中京。
ムーンライトハンデキャップ。
シェイクは古吉トレーナーと戻ってきた。
「古吉さんですぅ」
「おう」
「ただいまですぅ」
「家みたいに言うな」
「定食屋さんですぅ」
「もっとやめろ」
久しぶりに隣に立つ古吉トレーナーは、やはり落ち着いた。
けれど、テレQ杯で秋稔トレーナーと二着になった記憶も、シェイクの中には残っていた。
古吉トレーナーは魔法ではない。
古吉トレーナーでなくても、近くまで行ける。
でも、古吉トレーナーといると、心臓が少しだけ足元に戻る。
どれも本当だった。
「前走の二着、持ってきたか」
古吉トレーナーが聞いた。
「持ってきましたぁ」
「秋稔との二着や」
「はいぃ」
「ええ二着やったな」
「はいぃ……でも、勝ってないですぅ」
「せやな」
「古吉さん、今日こそですぅ」
「それ、毎回思っとるやろ」
「はいぃ……」
「思うなとは言わん。でも、今日こそを持ちすぎるな」
シェイクは胸に手を当てた。
今日こそ。
その言葉は、とても重い。
「少しだけ持ちますぅ」
「それでええ」
ムーンライトハンデキャップ。
芝2200。
ハンデ戦。
シェイクは走った。
位置を取る。
流れに乗る。
前を見る。
脚を残す。
古吉トレーナーの声が、いつもの場所から届く。
「焦るな」
焦らない。
「寝るな」
眠らない。
「前見とけ」
前を見る。
直線。
シェイクは伸びた。
また、届くと思った。
届きたいと思った。
けれど。
二着。
また、二着。
シェイクはゴールのあと、前を見たまま小さく笑った。
「ほわ~……心臓が、また隣にいますぅ……」
古吉トレーナーが来た。
「二着や」
「はいぃ」
「よう走っとる」
「勝ってないですぅ」
「せやな」
「この会話、何回目ですかぁ?」
「数えるな」
「数えたくなりますぅ」
「なら、数えろ」
「ほわ」
「数えた上で、次走れ」
古吉トレーナーは、ごまかさなかった。
「近い負けが増えとる。これはしんどい。けど、お前がここで走れる証拠でもある」
「証拠……」
「せや。勝てん証拠やなくて、勝てる場所にいる証拠や」
シェイクは、胸に手を当てた。
心臓が痛い。
でも、鳴っている。
「はいぃ……持って帰りますぅ」
寮に戻ると、デュードはまだ休養中だった。
外から帰ってきたシェイクの荷物を、デュードが自然に受け取る。
「おかえりなさい」
「ただいまですぅ」
「二着でしたね」
「二着でしたぁ」
「また、近いですね」
「また、近いですぅ」
デュードは、机に新しい紙を置いた。
ムーンライトハンデキャップ二着。
そこに、シェイクが書き足す。
勝てる場所にいる証拠。
でも、勝っていない。
心臓が、また隣にいた。
デュードはそれを読んだ。
「心臓が隣にいる、ですか」
「はいぃ。一着の隣ですぅ」
「嫌な隣ですね」
「嫌ですぅ……」
「でも、見えてます」
「見えてますぅ」
「見えない方が楽です」
デュードがぽつりと言った。
シェイクは、顔を上げた。
それは、セントライト記念のあとにデュードが言った言葉だった。
横にいると思ったエコロヴァルツが、前にいた。
見えない方が楽。
でも、見えた。
「デュードさんも、見えましたもんねぇ」
「はい」
「見えるの、困りますぅ」
「困りますね」
二人は、しばらく黙ってお茶を飲んだ。
十月、シェイクは少し間を空けた。
デュードも休養を続けていた。
部屋の中には、レースへ行かない日の空気が増えた。
朝、シェイクが調教へ行く。
デュードは軽い運動とケア。
夜、二人でメモを見返す。
走る子と、休む子。
けれど、止まっているのはどちらなのか、ときどき分からなくなる。
「シェイクさんは、走ってるのに止まってるみたいです」
ある夜、デュードが言った。
「ほわ~……つらいですぅ」
「すみません」
「いえ、合ってますぅ」
シェイクはメモの束を見た。
三着。
二着。
三着。
二着。
二着。
進んでいるようで、同じ場所に戻ってくる数字。
「デュードさんは、休んでるのに組んでるみたいですぅ」
「そうですか」
「はいぃ。走ってないけど、足場を直してますぅ」
デュードは少しだけ笑った。
「それなら、まだマシですね」
「マシですぅ」
十一月、京都。
修学院ステークス。
シェイクはまた古吉トレーナーと走った。
秋の京都は、少し澄んでいた。
夏の小倉の熱も、九月の中京の湿り気もない。
空気が透明な分、勝ちたい気持ちまで透けて見えるようだった。
「今日こそ、持ってきたか」
古吉トレーナーが聞いた。
「少しだけですぅ」
「少しならええ」
「でも、二着が増えすぎましたぁ」
「増えたな」
「三着もありますぅ」
「あるな」
「メモが重いですぅ」
「なら、今日は軽く走れ」
「そんな簡単に……」
「簡単やないから、言うんや」
シェイクは胸に手を当てた。
軽く走る。
それは、諦めることではない。
期待を捨てることでもない。
ただ、重くなったメモを全部抱えて直線へ行かないこと。
ゲートが開いた。
シェイクは走った。
京都の芝二千。
流れに乗る。
脚を残す。
前を見る。
古吉トレーナーの声。
秋の空気。
これまでの二着たち。
すべてが胸にある。
でも、今日は少しだけ軽かった。
直線。
伸びる。
また、前が近い。
また、届きそう。
また、心臓が鳴る。
シェイクは最後まで踏んだ。
ゴール。
二着。
また、二着。
シェイクは、今度はすぐに俯かなかった。
前を見る。
一番前にいた子を見る。
自分の足元を見る。
「ほわ~……また、隣ですぅ……」
古吉トレーナーが来る。
「二着や」
「はいぃ」
「よう走った」
「勝ってないですぅ」
「せやな」
「でも、今日は少し軽かったですぅ」
「なら、それ持って帰れ」
「軽かったのに二着ですぅ」
「重くても二着やったやろ」
「ほわ」
「なら、軽い方がええ」
シェイクは少しだけ笑った。
「雑ですぅ」
「せやな」
その夜、寮の部屋。
デュードは修学院ステークスのメモを見た。
修学院ステークス二着。
また隣。
でも、今日は少し軽かった。
重くても二着なら、軽い方がいい。
「古吉さん、雑ですね」
「雑ですぅ」
「でも、ちょっと分かります」
「分かりますかぁ?」
「はい。休むのも、重く休むより、ちゃんと休んだ方がいいです」
「ほわ~……デュードさんも雑ですぅ」
「うつりました」
二人は笑った。
十二月が近づいていた。
デュードの休養は、もうすぐ終わる。
次はヤングジョッキーズシリーズ、ファイナルラウンド中京。
室影トレーナー。
地方所属のトレーナー。
中央へ参戦してくる、少し違う現場の人。
デュードの机に、その名前が書かれた。
「室影トレーナー……」
シェイクが覗き込む。
「地方所属の方です」
「ほわ~……外の現場ですぅ」
「はい。かなり外です」
「怖いですかぁ?」
デュードは少し考えた。
「怖いです」
「はいぃ」
「でも、休んでいる間に、少し分かりました」
「何をですかぁ?」
「古吉さんじゃないと走れない、では駄目だということ」
デュードは、自分の休養中のメモを見た。
走らない日。
足場の点検。
エコロヴァルツは前にいた。
追いかけたい。
でも、今は組み直す。
「古吉さんに戻りたい気持ちはあります」
「はいぃ」
「でも、戻る前に、自分で立てる場所も必要です」
シェイクは、静かに頷いた。
「室影トレーナーで、立てるといいですねぇ」
「はい」
「シェイクは、待ってますぅ」
「シェイクさんも、そろそろ抜けてください」
「ほわ~……言いますぅ……」
「言います。二着が多すぎます」
「シェイクもそう思いますぅ……」
机の上には、シェイクの二着のメモが何枚も並んでいる。
テレQ杯、二着。
ムーンライトハンデキャップ、二着。
修学院ステークス、二着。
そして、その横にはデュードの空白の秋がある。
走る子と、休む子。
止まれない子と、止められた子。
でも、どちらも次の場所へ向かっていた。
冬の入口で、二人はお茶を飲む。
窓の外の風は冷たい。
けれど、春の足場ほど高くは感じなかった。
デュードは十二月に戻る。
シェイクはまだ三勝クラスで、心臓を鳴らし続ける。
二人の机には、勝っていない数字と、走っていない空白が並んでいた。
それでも、そのどちらも、次の図面になる。
デュードはペンを取り、休養中のメモの最後に書いた。
十二月、もう一度走る。
室影トレーナー。
古吉さんに戻る前に、自分で立つ。
シェイクは自分のメモに書いた。
また二着。
でも、少し軽かった。
次こそ、ではなく、次を走る。
同じ部屋で、二つの心臓が冬へ向かって鳴っていた。
一つは、休んで組み直した心臓。
もう一つは、走り続けてもがいている心臓。
どちらもまだ、一番前には届いていない。
けれど、どちらもまだ、止まってはいなかった。