心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第十八章]休む子と、止まれない子

朝日セントライト記念のあと、タガノデュードは休むことになった。

 

大きな故障があったわけではない。

どこかが完全に壊れたわけでもない。

けれど、宮田先生は予定表を見ながら、静かに言った。

 

「一回、休ませる」

 

その言葉を聞いた時、デュードはすぐには頷けなかった。

 

セントライト記念、九着。

エコロヴァルツは三着。

朝日杯で横にいると思った子が、秋にはちゃんと前にいた。

 

追いかけたい。

悔しい。

もう一度、横へ。

 

そう思ったばかりだった。

 

それなのに、休む。

 

「今ですか」

 

デュードは聞いた。

 

宮田先生は頷いた。

 

「今や」

 

「でも、わたし、まだ一勝クラスも抜けてません」

 

「せやな」

 

「エコロヴァルツさんは前にいました」

 

「せやな」

 

「ここで休んだら、また足場を組み直しです」

 

「だから休むんや」

 

デュードは言葉に詰まった。

 

宮田先生は資料を置いた。

 

「今のお前は、足場を組む前に次の高さを見すぎとる。朝日杯、春の重賞、取り消し、セントライト。全部持ったまま走っとる」

 

「持って帰れって言われました」

 

「持って帰るのと、全部担いで次へ行くのは違う」

 

その声は厳しくはなかった。

けれど、逃げられなかった。

 

「休むのも、組み直しや」

 

宮田先生は言った。

 

「壊れてから直すんやない。壊れる前に、点検する」

 

現場の言葉だった。

 

デュードは、反論できなかった。

 

休養が決まった日の夜、デュードは部屋で予定表を見ていた。

 

九月から、十二月まで。

そこに自分のレース名はしばらくない。

 

空白。

 

紙の上の空白は、思っていたより重かった。

 

「デュードさん」

 

向かいからシェイクユアハートが声をかける。

 

「はい」

 

「休むの、いやですかぁ?」

 

「いやです」

 

デュードは即答した。

 

「走れないほど悪いわけじゃないです。だから余計に」

 

「はいぃ」

 

「でも、休んだ方がいいのも分かります」

 

「分かるの、つらいですぅ」

 

「つらいです」

 

デュードは自分のメモを見た。

 

走らせない日も、足場。

走って届かなかった日も、足場。

横だと思った子が前にいた日も、足場。

 

そう書いた。

 

それなら、休む日も足場なのだろう。

 

分かる。

 

でも、分かったからといって、心臓が静かになるわけではなかった。

 

「シェイクさんは、走るんですよね」

 

「はいぃ」

 

「三勝クラス」

 

「はいぃ……三勝クラスですぅ……」

 

シェイクの机には、もう何枚ものメモがあった。

 

比叡ステークス、四着。

サンタクロースステークス、二着。

八坂ステークス、六着。

関門橋ステークス、三着。

ダイワスカーレットカップ、二着。

下鴨ステークス、三着。

 

勝っていない数字が、積み上がっている。

 

「シェイクさんも、休みたいですか」

 

デュードが聞くと、シェイクは少し考えた。

 

「休みたい日もありますぅ」

 

「はい」

 

「でも、走りたい日もありますぅ」

 

「はい」

 

「それで、走るとまた二着とか三着ですぅ」

 

「……はい」

 

「心臓が、いつもゴールの少し手前で置いていかれますぅ」

 

デュードは黙った。

 

自分は、休む。

シェイクは、走り続ける。

 

どちらが楽かなんて、言えなかった。

 

夏の小倉、テレQ杯。

 

シェイクは古吉トレーナーではなく、秋稔トレーナーと走ることになった。

 

古吉トレーナーの予定が合わなかった。

そう聞いた時、シェイクは少しだけぽかんとした。

 

「古吉さんじゃないんですかぁ」

 

宮田先生は予定表を見ながら頷いた。

 

「今回は秋稔トレーナーや」

 

「秋稔さん……」

 

「若いが、悪くない。小倉の流れも見られる」

 

「ほわ~……」

 

「不安か」

 

シェイクは少し考えた。

 

古吉トレーナーは、安全帯のような人だった。

定食屋の椅子のような人でもあった。

雑で、短くて、でも走る時に余計な荷物を少し下ろしてくれる。

 

その人がいない。

 

「不安ですぅ」

 

シェイクは正直に言った。

 

「でも、走りますぅ」

 

「それでええ」

 

テレQ杯の日、小倉は夏の熱を持っていた。

 

空気が重く、芝もどこか息をしているようだった。

秋稔トレーナーは、古吉トレーナーより少し若く、言葉の置き方も違っていた。

 

「シェイクさん、最後まで脚はあります。早く使いすぎないで、でも置いていかれないように」

 

「難しいですぅ……」

 

「難しいです。でも、できると思ってます」

 

「ほわ~……まっすぐですぅ」

 

「まっすぐ言うしかないので」

 

そのまっすぐさは、少し眩しかった。

 

ゲートが開く。

 

シェイクは走った。

 

三勝クラスの流れ。

小倉の二千。

夏の熱。

 

古吉トレーナーの声ではない。

けれど、秋稔トレーナーの声もちゃんと届いた。

 

前を見る。

脚を残す。

動く。

 

直線。

 

伸びた。

 

届くかと思った。

 

届きたいと思った。

 

だが、また一番前ではなかった。

 

二着。

 

戻ってきたシェイクは、息を弾ませながら、少し笑った。

 

「ほわ~……またですぅ……」

 

秋稔トレーナーは悔しそうに頭を下げた。

 

「すみません。勝たせられませんでした」

 

「謝らないでくださいぃ……シェイク、走りましたぁ」

 

「はい。すごく走りました」

 

「でも、勝ってないですぅ」

 

「はい」

 

「二着ですぅ」

 

「はい」

 

秋稔トレーナーは、まっすぐに言った。

 

「悔しいです」

 

その言葉を聞いて、シェイクは少しだけ目を丸くした。

 

古吉トレーナーは、悔しいと言葉にするより先に、結果をそのまま置く人だった。

秋稔トレーナーは、その悔しさを隠さなかった。

 

別の人と走ると、別の痛み方をする。

 

シェイクはそれを知った。

 

寮に戻った夜、デュードは休養中だった。

 

走っていないデュードの机と、また二着を増やしたシェイクの机。

 

二人はお茶を挟んで向かい合った。

 

「二着でしたね」

 

「二着でしたぁ」

 

「また近いです」

 

「また近いですぅ」

 

「古吉さんじゃなくても、近いんですね」

 

デュードがそう言うと、シェイクは少し黙った。

 

「そうですねぇ」

 

「いいことですか?」

 

「いいこと、だと思いますぅ」

 

「でも?」

 

「古吉さんじゃなくても近いなら、シェイク自身が近いんだなって思いましたぁ」

 

「それ、いいことでは?」

 

「はいぃ。でも、シェイク自身が近いのに勝てないなら……」

 

シェイクは湯呑みを見つめた。

 

「誰のせいにもできませんぅ」

 

デュードは何も言えなかった。

 

古吉トレーナーと勝てない。

秋稔トレーナーと走っても二着。

つまり、シェイクは確かに三勝クラスを勝てる場所の近くにいる。

 

近くにいるのに、勝っていない。

 

その事実は、優しくなかった。

 

九月、中京。

 

ムーンライトハンデキャップ。

 

シェイクは古吉トレーナーと戻ってきた。

 

「古吉さんですぅ」

 

「おう」

 

「ただいまですぅ」

 

「家みたいに言うな」

 

「定食屋さんですぅ」

 

「もっとやめろ」

 

久しぶりに隣に立つ古吉トレーナーは、やはり落ち着いた。

けれど、テレQ杯で秋稔トレーナーと二着になった記憶も、シェイクの中には残っていた。

 

古吉トレーナーは魔法ではない。

古吉トレーナーでなくても、近くまで行ける。

でも、古吉トレーナーといると、心臓が少しだけ足元に戻る。

 

どれも本当だった。

 

「前走の二着、持ってきたか」

 

古吉トレーナーが聞いた。

 

「持ってきましたぁ」

 

「秋稔との二着や」

 

「はいぃ」

 

「ええ二着やったな」

 

「はいぃ……でも、勝ってないですぅ」

 

「せやな」

 

「古吉さん、今日こそですぅ」

 

「それ、毎回思っとるやろ」

 

「はいぃ……」

 

「思うなとは言わん。でも、今日こそを持ちすぎるな」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

今日こそ。

 

その言葉は、とても重い。

 

「少しだけ持ちますぅ」

 

「それでええ」

 

ムーンライトハンデキャップ。

 

芝2200。

ハンデ戦。

 

シェイクは走った。

 

位置を取る。

流れに乗る。

前を見る。

脚を残す。

 

古吉トレーナーの声が、いつもの場所から届く。

 

「焦るな」

 

焦らない。

 

「寝るな」

 

眠らない。

 

「前見とけ」

 

前を見る。

 

直線。

 

シェイクは伸びた。

 

また、届くと思った。

 

届きたいと思った。

 

けれど。

 

二着。

 

また、二着。

 

シェイクはゴールのあと、前を見たまま小さく笑った。

 

「ほわ~……心臓が、また隣にいますぅ……」

 

古吉トレーナーが来た。

 

「二着や」

 

「はいぃ」

 

「よう走っとる」

 

「勝ってないですぅ」

 

「せやな」

 

「この会話、何回目ですかぁ?」

 

「数えるな」

 

「数えたくなりますぅ」

 

「なら、数えろ」

 

「ほわ」

 

「数えた上で、次走れ」

 

古吉トレーナーは、ごまかさなかった。

 

「近い負けが増えとる。これはしんどい。けど、お前がここで走れる証拠でもある」

 

「証拠……」

 

「せや。勝てん証拠やなくて、勝てる場所にいる証拠や」

 

シェイクは、胸に手を当てた。

 

心臓が痛い。

 

でも、鳴っている。

 

「はいぃ……持って帰りますぅ」

 

寮に戻ると、デュードはまだ休養中だった。

 

外から帰ってきたシェイクの荷物を、デュードが自然に受け取る。

 

「おかえりなさい」

 

「ただいまですぅ」

 

「二着でしたね」

 

「二着でしたぁ」

 

「また、近いですね」

 

「また、近いですぅ」

 

デュードは、机に新しい紙を置いた。

 

ムーンライトハンデキャップ二着。

 

そこに、シェイクが書き足す。

 

勝てる場所にいる証拠。

でも、勝っていない。

心臓が、また隣にいた。

 

デュードはそれを読んだ。

 

「心臓が隣にいる、ですか」

 

「はいぃ。一着の隣ですぅ」

 

「嫌な隣ですね」

 

「嫌ですぅ……」

 

「でも、見えてます」

 

「見えてますぅ」

 

「見えない方が楽です」

 

デュードがぽつりと言った。

 

シェイクは、顔を上げた。

 

それは、セントライト記念のあとにデュードが言った言葉だった。

 

横にいると思ったエコロヴァルツが、前にいた。

見えない方が楽。

でも、見えた。

 

「デュードさんも、見えましたもんねぇ」

 

「はい」

 

「見えるの、困りますぅ」

 

「困りますね」

 

二人は、しばらく黙ってお茶を飲んだ。

 

十月、シェイクは少し間を空けた。

 

デュードも休養を続けていた。

 

部屋の中には、レースへ行かない日の空気が増えた。

 

朝、シェイクが調教へ行く。

デュードは軽い運動とケア。

夜、二人でメモを見返す。

 

走る子と、休む子。

 

けれど、止まっているのはどちらなのか、ときどき分からなくなる。

 

「シェイクさんは、走ってるのに止まってるみたいです」

 

ある夜、デュードが言った。

 

「ほわ~……つらいですぅ」

 

「すみません」

 

「いえ、合ってますぅ」

 

シェイクはメモの束を見た。

 

三着。

二着。

三着。

二着。

二着。

 

進んでいるようで、同じ場所に戻ってくる数字。

 

「デュードさんは、休んでるのに組んでるみたいですぅ」

 

「そうですか」

 

「はいぃ。走ってないけど、足場を直してますぅ」

 

デュードは少しだけ笑った。

 

「それなら、まだマシですね」

 

「マシですぅ」

 

十一月、京都。

 

修学院ステークス。

 

シェイクはまた古吉トレーナーと走った。

 

秋の京都は、少し澄んでいた。

夏の小倉の熱も、九月の中京の湿り気もない。

空気が透明な分、勝ちたい気持ちまで透けて見えるようだった。

 

「今日こそ、持ってきたか」

 

古吉トレーナーが聞いた。

 

「少しだけですぅ」

 

「少しならええ」

 

「でも、二着が増えすぎましたぁ」

 

「増えたな」

 

「三着もありますぅ」

 

「あるな」

 

「メモが重いですぅ」

 

「なら、今日は軽く走れ」

 

「そんな簡単に……」

 

「簡単やないから、言うんや」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

軽く走る。

 

それは、諦めることではない。

期待を捨てることでもない。

ただ、重くなったメモを全部抱えて直線へ行かないこと。

 

ゲートが開いた。

 

シェイクは走った。

 

京都の芝二千。

流れに乗る。

脚を残す。

前を見る。

 

古吉トレーナーの声。

秋の空気。

これまでの二着たち。

すべてが胸にある。

 

でも、今日は少しだけ軽かった。

 

直線。

 

伸びる。

 

また、前が近い。

 

また、届きそう。

 

また、心臓が鳴る。

 

シェイクは最後まで踏んだ。

 

ゴール。

 

二着。

 

また、二着。

 

シェイクは、今度はすぐに俯かなかった。

 

前を見る。

一番前にいた子を見る。

自分の足元を見る。

 

「ほわ~……また、隣ですぅ……」

 

古吉トレーナーが来る。

 

「二着や」

 

「はいぃ」

 

「よう走った」

 

「勝ってないですぅ」

 

「せやな」

 

「でも、今日は少し軽かったですぅ」

 

「なら、それ持って帰れ」

 

「軽かったのに二着ですぅ」

 

「重くても二着やったやろ」

 

「ほわ」

 

「なら、軽い方がええ」

 

シェイクは少しだけ笑った。

 

「雑ですぅ」

 

「せやな」

 

その夜、寮の部屋。

 

デュードは修学院ステークスのメモを見た。

 

修学院ステークス二着。

また隣。

でも、今日は少し軽かった。

重くても二着なら、軽い方がいい。

 

「古吉さん、雑ですね」

 

「雑ですぅ」

 

「でも、ちょっと分かります」

 

「分かりますかぁ?」

 

「はい。休むのも、重く休むより、ちゃんと休んだ方がいいです」

 

「ほわ~……デュードさんも雑ですぅ」

 

「うつりました」

 

二人は笑った。

 

十二月が近づいていた。

 

デュードの休養は、もうすぐ終わる。

次はヤングジョッキーズシリーズ、ファイナルラウンド中京。

 

室影トレーナー。

 

地方所属のトレーナー。

中央へ参戦してくる、少し違う現場の人。

 

デュードの机に、その名前が書かれた。

 

「室影トレーナー……」

 

シェイクが覗き込む。

 

「地方所属の方です」

 

「ほわ~……外の現場ですぅ」

 

「はい。かなり外です」

 

「怖いですかぁ?」

 

デュードは少し考えた。

 

「怖いです」

 

「はいぃ」

 

「でも、休んでいる間に、少し分かりました」

 

「何をですかぁ?」

 

「古吉さんじゃないと走れない、では駄目だということ」

 

デュードは、自分の休養中のメモを見た。

 

走らない日。

足場の点検。

エコロヴァルツは前にいた。

追いかけたい。

でも、今は組み直す。

 

「古吉さんに戻りたい気持ちはあります」

 

「はいぃ」

 

「でも、戻る前に、自分で立てる場所も必要です」

 

シェイクは、静かに頷いた。

 

「室影トレーナーで、立てるといいですねぇ」

 

「はい」

 

「シェイクは、待ってますぅ」

 

「シェイクさんも、そろそろ抜けてください」

 

「ほわ~……言いますぅ……」

 

「言います。二着が多すぎます」

 

「シェイクもそう思いますぅ……」

 

机の上には、シェイクの二着のメモが何枚も並んでいる。

 

テレQ杯、二着。

ムーンライトハンデキャップ、二着。

修学院ステークス、二着。

 

そして、その横にはデュードの空白の秋がある。

 

走る子と、休む子。

 

止まれない子と、止められた子。

 

でも、どちらも次の場所へ向かっていた。

 

冬の入口で、二人はお茶を飲む。

 

窓の外の風は冷たい。

けれど、春の足場ほど高くは感じなかった。

 

デュードは十二月に戻る。

シェイクはまだ三勝クラスで、心臓を鳴らし続ける。

 

二人の机には、勝っていない数字と、走っていない空白が並んでいた。

 

それでも、そのどちらも、次の図面になる。

 

デュードはペンを取り、休養中のメモの最後に書いた。

 

十二月、もう一度走る。

室影トレーナー。

古吉さんに戻る前に、自分で立つ。

 

シェイクは自分のメモに書いた。

 

また二着。

でも、少し軽かった。

次こそ、ではなく、次を走る。

 

同じ部屋で、二つの心臓が冬へ向かって鳴っていた。

 

一つは、休んで組み直した心臓。

 

もう一つは、走り続けてもがいている心臓。

 

どちらもまだ、一番前には届いていない。

 

けれど、どちらもまだ、止まってはいなかった。

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