十二月の中京は、思っていたより静かだった。
冬の空は低く、芝の色も少しだけ眠たげに見える。
けれど、そこに立つタガノデュードの心臓は、静かではなかった。
休養明け。
朝日セントライト記念の九着から、デュードはしばらくレースを離れていた。
エコロヴァルツが前にいた日。
横にいると思っていた子が、ちゃんと前にいた日。
それから、走らない日が続いた。
調整。
点検。
組み直し。
デュードは、何度も自分のメモを読み返した。
走らせない日も、足場。
休む日も、点検。
古吉さんに戻る前に、自分で立てる場所も必要。
そう書いた。
そして今日、その足場を試す。
ヤングジョッキーズシリーズ、ファイナルラウンド中京。
デュードの隣に立つのは、室影トレーナーだった。
地方所属のトレーナー。
中央の空気に慣れきっているわけではない。
けれど、立ち方が違った。
きらびやかではない。
派手な言葉もない。
でも、足元をよく見ている。
デュードは、初めて会った時から少し親近感を持っていた。
現場の人だ。
中央の綺麗な理屈だけではなく、砂も声も近い場所で、毎日その日の条件に対応してきた人の空気があった。
「中央の芝、どうですか」
デュードが聞くと、室影トレーナーは少し笑った。
「思ったより静かですね」
「静か?」
「地方はもっと、砂も声も近いんで」
「声……」
「客席も近いし、馬場も近い。いい意味でも悪い意味でも、逃げ場がない感じです」
デュードはその言葉を聞いて、少しだけ息を吸った。
「逃げ場がない現場ですか」
「はい。でも、そういう場所で覚えることもあります」
室影トレーナーは、デュードの方を見た。
「デュードさんは、足元を見すぎるところがあるって聞きました」
「宮田先生ですか」
「はい」
「余計なことを……」
「悪いことではないと思います」
室影トレーナーは静かに言った。
「ただ、足元を見ながらでも、前には行けます」
デュードは少しだけ目を丸くした。
古吉トレーナーなら、余計な荷物を下ろせと言う。
美幸トレーナーなら、少し柔らかいままでもいいと言う。
丹頂トレーナーなら、今いる場所で脚を残せと言う。
室影トレーナーは、足元を見ながらでも前に行ける、と言った。
それは、今のデュードに必要な言葉だった。
「今日は、走れますか」
室影トレーナーが聞いた。
デュードは自分の足元を見た。
休んだ。
点検した。
組み直した。
怖さはある。
セントライト記念の九着も、前にいたエコロヴァルツの姿も、まだ胸に残っている。
けれど、今日は走る日だ。
「走れます」
デュードは答えた。
そして少しだけ言い直す。
「今日は、走らせていい日です」
室影トレーナーは頷いた。
「じゃあ、行きましょう」
ゲートが開いた。
中京の芝二千。
デュードは出た。
久しぶりの実戦の感覚が、足元から上がってくる。
芝を踏む。
息を入れる。
周りの脚音を聞く。
室影トレーナーの声が届いた。
「急がなくていいです。足元あります」
足元はある。
デュードは、胸の奥でその言葉を受け取った。
休養中、何度も足場を組み直した。
自分の現在地を見直した。
朝日杯の五着も、こぶし賞の四着も、フローラルウォーク賞の三着も、アーリントンカップの十着も、京都新聞杯の七着も、セントライト記念の九着も。
全部、なかったことにはしない。
でも、全部を担いで走るわけでもない。
今日は、今の足元だけを見る。
三コーナー。
前が動く。
デュードは反応する。
焦りすぎない。
下げすぎない。
足元を見ながら、前へ。
室影トレーナーの声が重なる。
「ここからです」
四コーナー。
視界が開いた。
直線。
デュードは脚を使った。
前を追う。
一頭ずつ、足場を上がるように追う。
派手な脚ではない。
夢みたいな伸びでもない。
でも、今日は途中で足元が崩れない。
前が近い。
届く。
届く。
デュードは最後まで踏んだ。
ゴール。
一番前。
タガノデュードは、しばらく息を切らしたまま、前を見ていた。
勝った。
未勝利以来の勝利。
朝日杯から、春の重賞から、夏の取り消しから、セントライトの九着から、休養を経て。
勝った。
室影トレーナーが来る。
「勝ちました」
その声は、少し震えていた。
デュードは、ようやく顔を上げる。
「勝ちました」
「はい」
「わたし、勝ちました」
「はい」
室影トレーナーは笑った。
「足元、ありましたね」
デュードは、その言葉で胸が熱くなった。
「ありました」
「前にも行けましたね」
「行けました」
デュードは、少しだけ目元を押さえた。
「古吉さんじゃなくても、勝てました」
言ってから、自分で少し驚いた。
それは、ずっと怖かったことだった。
古吉トレーナーじゃないと駄目なのではないか。
古吉トレーナーじゃないと、余計な荷物を下ろせないのではないか。
古吉トレーナーじゃないと、自分は走れないのではないか。
でも、違った。
室影トレーナーと勝った。
地方所属の、中央の芝を「静か」と言うトレーナーと。
足元を見ながらでも前へ行けると言ってくれたトレーナーと。
デュードは勝った。
その夜、寮の部屋で、シェイクユアハートはデュードの帰りを待っていた。
机の上には、お茶が二つ。
それから、食堂でもらった小さな焼き菓子が二つ。
デュードが部屋に入ると、シェイクはぱっと顔を上げた。
「デュードさん」
「ただいまです」
「勝ちましたぁ」
「勝ちました」
「おかえりなさいですぅ」
シェイクは、ほわりと笑った。
「足場、上がりましたねぇ」
その言葉に、デュードは少しだけ目を細めた。
「上がりました」
「室影トレーナー、どうでしたかぁ?」
「現場の人でした」
「ほわ~……」
「足元を見ながらでも、前に行けるって言われました」
「いい言葉ですぅ」
「はい」
デュードは机に座り、新しいメモを書いた。
ヤングJSFR中京一着。
室影トレーナー。
地方所属。
中央の芝は静か。
足元を見ながらでも前に行ける。
古吉さんじゃなくても、勝てた。
足元はあった。
シェイクはその文字を覗き込んだ。
「古吉さんじゃなくても、勝てた」
「はい」
「大事ですかぁ?」
「大事です」
デュードはペンを置いた。
「古吉さんに戻りたい気持ちはあります」
「はいぃ」
「でも、古吉さんじゃないと走れない、では駄目なんだと思いました」
「はいぃ」
「室影さんで勝てて、よかったです」
シェイクは頷いた。
「よかったですぅ」
けれど、そのあとデュードは少し黙った。
シェイクは気づく。
「でも?」
「でも」
デュードは窓の外を見た。
「勝てたのに、古吉さんのところへ戻りたい気持ちは消えませんでした」
「……はいぃ」
「室影さんはいい人です。今日、勝たせてくれました。すごく大事な勝利です」
「はいぃ」
「でも、戻りたい場所とは、少し違いました」
シェイクは、静かに湯呑みを持った。
「勝てる足場と、帰りたい足場は違うんですねぇ」
デュードは少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり頷いた。
「そうです」
ペンを取り、もう一行書き足す。
勝てる足場と、帰りたい足場は違う。
「シェイクさん、また刺しましたね」
「ほわ。刺しましたかぁ?」
「刺しました」
「今日はデュードさんが勝った日なので、シェイク名言も出ましたぁ」
「調子に乗ってますね」
「乗ってますぅ」
二人は少し笑った。
その笑いは、久しぶりに軽かった。
デュードは勝った。
シェイクは、まだ三勝クラスの沼にいる。
それでも、その夜だけは、二人の部屋に少し暖かい空気があった。
年が明けた。
中京、茶臼山高原特別。
デュードの隣には、古吉トレーナーが戻ってきた。
久しぶり、というほど長い時間ではない。
それでも、デュードにとっては、戻ってきたという感覚があった。
パドックで古吉トレーナーを見た時、デュードは少しだけ息を吐いた。
「古吉さんです」
「おう」
「戻ってきました」
「どこからや」
「いろいろです」
「ざっくりしとるな」
「美幸さん、丹頂さん、室影さん。あと、休養と取り消しとセントライトと」
「荷物多いな」
「多いです」
「全部持って走るなよ」
その言葉を聞いて、デュードは少し笑った。
古吉トレーナーだった。
雑で、短くて、でも要る言葉だけを置く。
「室影さんで勝ちました」
「見た」
「古吉さんじゃなくても、勝てました」
「ええことや」
古吉トレーナーは、特別な顔をしなかった。
「俺やないとあかん、なんて面倒なことになるよりええ」
「面倒ですか」
「面倒やろ」
「少し寂しいですか」
「何がや」
「古吉さんじゃなくても勝てたこと」
古吉トレーナーは、デュードをちらりと見た。
「勝ったならええやろ」
「ほんとに?」
「ほんまに」
その言葉は、あまりにも古吉トレーナーらしかった。
デュードは、少しだけ肩の力が抜けた。
「でも、今日は古吉さんです」
「せやな」
「今日は、帰ってきた足場です」
「足場扱いか」
「はい」
「崩すなよ」
「崩さないようにします」
ゲートが開く。
茶臼山高原特別。
デュードは走った。
室影トレーナーとの勝利を持っている。
でも、それに寄りかかりすぎない。
古吉トレーナーの声が届く。
「焦るな」
この声だ。
デュードは思った。
美幸トレーナーの柔らかい声も、丹頂トレーナーの場所を見る声も、室影トレーナーの足元を確認する声も、全部必要だった。
でも、この声は、やはり帰ってきた感じがする。
直線。
デュードは伸びた。
届くか。
届かないか。
前を追う。
最後まで踏む。
ゴール。
二着。
勝てなかった。
けれど、悪くはない。
古吉トレーナーに戻って、ちゃんと走れた。
戻ってきたデュードに、古吉トレーナーは言った。
「二着や」
「はい」
「勝ってへんな」
「はい」
「でも、戻ってきた感じはあるな」
デュードは、少しだけ笑った。
「あります」
「なら、持って帰れ」
「はい」
寮に戻ると、シェイクがメモを見た。
茶臼山高原特別二着。
古吉トレーナー。
戻ってきた感じはある。
でも勝ってはいない。
「戻ってきましたねぇ」
「戻ってきました」
「でも二着ですぅ」
「はい」
「二着は、シェイクの領域ですぅ」
「いりません、その領域」
「返してくださいぃ……」
二人は少し笑った。
シェイクの机にも、そのころまた数字が増えていた。
寿ステークス、二着。
飛鳥ステークス、三着。
三勝クラスは、まだ終わらない。
シェイクはずっと、勝てそうで勝てない場所にいた。
デュードはそれを横で見ながら、自分もまた次の足場を組んでいた。
そして、三月。
阪神、淡路特別。
デュードは古吉トレーナーと走った。
二勝クラス。
ここを勝てば、次は三勝クラス。
シェイクがずっともがいている場所。
机の上に二着と三着を積み上げている場所。
古吉トレーナーと走っても、秋稔トレーナーと走っても、なかなか抜けられない場所。
そこが、目の前に見えていた。
「怖いですか」
パドックで古吉トレーナーが聞いた。
デュードは少し考えた。
「怖いです」
「せやろな」
「でも、行きたいです」
「そうか」
「シェイクさんがいる場所なので」
古吉トレーナーは、少しだけ目を細めた。
「シェイクの沼やぞ」
「はい」
「入りたいんか」
「入りたいわけではないです」
デュードは苦笑した。
「でも、そこまで行かないと、追いつけないので」
「誰に」
デュードは少し黙った。
エコロヴァルツ。
前にいた子。
シェイク。
同じ部屋で、ずっと近い負けを積み続けている子。
そして、自分自身。
「いろいろです」
「ざっくりしとるな」
「古吉さんがうつりました」
「俺のせいにするな」
デュードは小さく笑った。
「今日は、何を持っていけばいいですか」
「室影で勝ったこと」
「はい」
「茶臼山の二着」
「はい」
「古吉に戻ってきた感じ」
「はい」
「三勝クラスへの怖さ」
「それもですか」
「いるやろ」
デュードは息を吐いた。
「はい。たぶん、要ります」
「ほな、走れ」
ゲートが開いた。
淡路特別。
デュードは出た。
流れに乗る。
足元を見る。
前を見る。
今までの全部が、脚の奥にある。
朝日杯。
こぶし賞。
フローラルウォーク。
アーリントン。
京都新聞杯。
取り消し。
揖斐川。
セントライト。
室影トレーナーとの勝利。
茶臼山の二着。
そして、シェイクの机に並ぶ三勝クラスのメモ。
そこへ行くために、今日は勝たなければならない。
三コーナー。
デュードは動いた。
四コーナー。
前が見える。
直線。
古吉トレーナーの声が届く。
「最後まで」
デュードは踏んだ。
一頭を追う。
並ぶ。
交わす。
まだ終わらない。
後ろから来る気配がある。
前へ出る。
もう一度踏む。
ゴール。
一番前。
デュードは、息を切らしながら、しばらく何も言えなかった。
勝った。
二勝クラスを勝った。
三勝クラスへ上がる。
古吉トレーナーが来る。
「勝ったな」
「勝ちました」
「三勝クラスや」
その言葉に、デュードの胸が鳴った。
三勝クラス。
シェイクのいる場所。
シェイクがずっと、もがいている場所。
デュードは、ついにその入口に立った。
「怖いです」
デュードは正直に言った。
「でも、行きます」
古吉トレーナーは頷いた。
「せやな」
「足場、上がりました」
「上がったな」
「今度は、わたしが沼に入るんですね」
「言い方」
「シェイクさんが言ってました」
「やろうな」
古吉トレーナーは少しだけ笑った。
「まあ、入るなら歩け」
「はい」
「沈むなよ」
「努力します」
その夜、寮の部屋では、シェイクがそわそわしていた。
デュードが帰ってくると、シェイクは立ち上がった。
「デュードさん!」
「ただいまです」
「勝ちましたぁ!」
「勝ちました」
「二勝クラス、抜けましたぁ!」
「抜けました」
「三勝クラスですぅ!」
シェイクの声は嬉しそうだった。
けれど、その奥にほんの少し、複雑な色もあった。
デュードはそれに気づいた。
「シェイクさん」
「はいぃ」
「わたし、そっちに行きます」
「はいぃ」
「三勝クラス」
「ようこそですぅ」
シェイクは、ほわりと笑った。
「沼ですぅ」
「歓迎の言葉が怖いです」
「でも、待ってましたぁ」
その言葉で、デュードの胸が少し熱くなった。
シェイクは、自分よりずっと前から三勝クラスで苦しんでいる。
近いのに勝てない数字を積み続けている。
そこへ、デュードが入っていく。
追いついたわけではない。
同じ壁の前に立てるようになっただけ。
でも、それは確かな前進だった。
二人は机に向かい、デュードの新しいメモを書いた。
淡路特別一着。
古吉トレーナー。
室影トレーナーで勝ったあと、古吉さんに戻った。
茶臼山高原特別二着。
淡路特別一着。
三勝クラスへ。
シェイクさんのいる沼へ。
シェイクは自分のメモの横に、それを並べた。
寿ステークス二着。
飛鳥ステークス三着。
まだ三勝クラス。
デュードさんが来る。
「並びましたねぇ」
シェイクが言った。
「並びましたか」
「まだちょっと違いますぅ」
「はい」
「でも、同じ壁が見える場所に来ましたぁ」
デュードは頷いた。
「同じ壁」
「はいぃ」
「高そうですね」
「高いですぅ」
「足場、組みます」
「心臓も鳴らしますぅ」
二人はお茶を飲んだ。
冬が終わり、春が近づいていた。
デュードは室影トレーナーとの勝利で、自分で立てる場所を知った。
古吉トレーナーへ戻り、二着を経て、淡路特別で勝った。
そして、ついに三勝クラスへ上がる。
シェイクはその間も、三勝クラスでもがいていた。
二着。
三着。
近いのに届かない数字を重ねながら。
今、二人の机には、同じ壁へ向かうメモが並んでいる。
勝てる足場。
帰りたい足場。
そして、これから二人で見ることになる高い壁。
デュードは、最後にもう一行書き足した。
三勝クラス。
古吉さんと、シェイクさんのいる場所。
沈まないように、歩く。
シェイクはそれを見て、ほわりと笑った。
「歩きましょう、デュードさん」
「はい」
「沼ですけど」
「やっぱり怖いです」
「でも、一緒ですぅ」
同じ部屋で、二つの心臓が春へ向かって鳴っていた。
片方は、長い沼でまだ出口を探している心臓。
もう片方は、ようやくその沼の入口に立った心臓。
どちらもまだ、一番前には届いていない。
けれど、二人はもう、同じ壁を見ていた。