デビューの日の朝、シェイクユアハートは、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
窓の外はまだ白っぽく、寮の廊下も静かだった。
起床時間には少し早い。誰かの足音も、洗面所の水音も、食堂の匂いもまだ遠い。
シェイクは布団の中で、ぱちりと瞬きをした。
「ほわ~……」
緊張しているのかどうか、自分ではよく分からなかった。
胸の奥は、いつもより少しだけ忙しい。けれど、それが怖いのか、楽しみなのか、判断できない。
今日、彼女は初めてレースに出る。
宮田先生の寮に来てから、毎日は思ったより早く過ぎていった。
走り方を覚えた。
ゲートの音を覚えた。
隣に誰かが並んだ時の圧を覚えた。
藤川兄トレーナーの声を覚えた。
焦らなくていいですよ。
まずはレースを嫌いにならんことです。
その声は、何度もシェイクの耳に残った。
「レース……」
小さく呟いて、シェイクは自分の耳に触れた。
ぴん、と立っている。いつもより少し敏感だった。
支度をして廊下に出ると、宮田先生がすでにいた。
「早いな」
「起きちゃいましたぁ……」
「緊張か?」
「ん~……たぶん、そうですぅ」
「たぶんか」
宮田先生は苦笑した。
けれど、無理に励ますことはしなかった。代わりに、片手で食堂の方を指した。
「朝ごはん、ちゃんと食べろ。走る前にふわふわしすぎるなよ」
「はいぃ……ふわふわしすぎないようにしますぅ……」
「それ、できるんか?」
「たぶん……」
「まあええ」
食堂では、いつもより少し控えめに食事を取った。
パンを小さくちぎり、スープを飲み、卵を半分残しかけて、宮田先生の視線に気づいてまた食べた。
「えらいですねぇ、わたし……」
「自分で言うな」
そのあと、準備が進んでいく。
勝負服。
ゼッケン。
スパイク。
髪を整える手。
耳の位置を確認する時間。
シェイクは鏡の前に立った。
そこには、名家の親を持つお嬢様として期待されているウマ娘がいた。
宮田先生の寮から送り出される新入りがいた。
藤川兄トレーナーが担当する、まだ何も知らない子がいた。
けれど、鏡の中のシェイクは、いつものように少し眠たげだった。
「ほわ~……勝負服、かわいいですねぇ……」
「そこですか」
後ろから声がした。
藤川兄トレーナーだった。
柔らかい表情で立っている。いつものように丁寧で、落ち着いていた。
シェイクは鏡越しに彼を見て、少し笑った。
「藤川兄さん、おはようございますぅ」
「おはようございます。調子はどうですか?」
「朝ごはん、ちゃんと食べましたぁ」
「それは大事ですね」
「はいぃ」
藤川兄トレーナーは、シェイクの肩のあたりを見た。
力が入っている。けれど、入りすぎて固まっているわけではない。
耳はよく動いている。目もぼんやりしているようで、周囲の音は拾っている。
「今日は、勝たなきゃって思いすぎんでいいです」
「勝たなくていいんですかぁ?」
「勝てるなら勝ちましょう。でも、今日一番大事なんは、レースを知ることです」
「レースを知る……」
「はい。走っている時に、周りがどう動くか。自分がどこで息を入れられるか。最後、どれくらい脚が残っているか。今日はそれを持って帰りましょう」
藤川兄トレーナーの言葉は、いつも通りやわらかかった。
だからシェイクは、少し安心した。
「じゃあ、持って帰りますぅ」
「はい。忘れ物せんように」
「それは自信ないですぅ……」
「そこは自信持ってください」
宮田先生が横で短く笑った。
阪神の芝二千。
初めての舞台は、思ったより広く、思ったより騒がしかった。
スタンドの声が空から降ってくる。
知らないウマ娘たちが並んでいる。
誰もが、自分の勝負を持っている。
シェイクはパドックで歩きながら、周りを見た。
強そうな子。
落ち着いている子。
目をぎらぎらさせている子。
まだ幼さを残しながらも、すでに勝つ気でいる子。
「ほわ~……みんな、ちゃんとしてますねぇ……」
ぽつりと呟いた言葉に、藤川兄トレーナーが隣で頷いた。
「シェイクもちゃんとしてますよ」
「そうですかぁ?」
「はい。少し耳は忙しいですけど」
「聞こえちゃうんですぅ……いろいろ」
「なら、僕の声だけ少し大きめに覚えておいてください」
シェイクは藤川兄トレーナーを見上げた。
「藤川兄さんの声ですかぁ?」
「はい。困ったら、それを探してください」
「ほわ~……分かりましたぁ」
輪乗りへ向かう。
ゲートが近づく。
空気が、さっきまでとは違っていた。
レース前の静けさは、本当の静けさではない。
音が消えるのではなく、全部の音が一点に集まっていく。
足音。呼吸。土を踏む音。芝の匂い。誰かの緊張。
シェイクの耳が、すっと前を向いた。
「シェイク」
藤川兄トレーナーの声がした。
「大丈夫です。覚えてきましょう」
「はいぃ」
ゲートに入る。
狭い。
前がある。
後ろがある。
隣に誰かがいる。
シェイクは一度だけ目を閉じた。
走ることは、嫌いではない。
でも、レースはまだ知らない。
次の瞬間、扉が開いた。
音が弾けた。
みんなが前へ出る。
シェイクも出た。
けれど、思ったより流れが速い。
「ほわっ……」
声にならない驚きが喉の奥で跳ねた。
調教で並ぶのとは違う。
みんなが自分のために走っている。
誰も待ってくれない。
誰も譲ってくれない。
藤川兄トレーナーの声が、外から届く。
「慌てんでいいです。リズムを取って」
シェイクはその声を探した。
足を動かす。
前を見る。
でも、前にいる子たちは遠い。
横にも後ろにも気配がある。
最初のコーナー。
体が少し外へ流れそうになる。
芝の感触が変わる。
自分の位置が、よく分からなくなる。
シェイクは必死に走った。
必死に、けれどどこか掴みきれないまま。
二千メートルは、思っていたより長かった。
向こう正面で息を入れようとしても、周囲が動く。
前の子の背中が近づいたと思えば、また離れる。
ここで行くのか、待つのか。
藤川兄トレーナーの声は聞こえる。けれど、判断するのは自分の足だった。
三コーナー。
四コーナー。
周りが一斉に色を変えた。
仕掛ける子がいる。
押し上げる子がいる。
苦しくなって下がる子がいる。
その瞬間、シェイクの目が変わった。
ほんの少しだけ、視界が澄んだ。
前に、狭い道がある。
そこへ行けば、もう少しだけ伸びられる。
「……ここ、ですかぁ」
彼女は踏んだ。
身体が前へ出た。
一瞬だけ、調教で宮田先生が見たあの反応が戻った。
けれど、遅かった。
直線に向いた時、上位はもう前にいた。
シェイクは脚を使った。最後までやめなかった。
それでも、届かない。
ゴール板が過ぎた。
八着。
数字は、思ったより静かに残った。
シェイクはしばらく、何が終わったのか分からない顔をしていた。
息は上がっている。脚も熱い。耳の奥に、スタンドの声が残っている。
藤川兄トレーナーがそばに来た。
「お疲れさまでした、シェイク」
「ほわ~……」
「大丈夫ですか?」
「みんな、速いですねぇ……」
それが、最初に出た言葉だった。
藤川兄トレーナーは、少しだけ目を細めた。
「そうですね。速かったですね」
「わたし、どこで走ればよかったんでしょう……」
「それを、今日覚えたんです」
「覚えられましたかぁ?」
「はい。たぶん」
「藤川兄さんも、たぶんって言いましたぁ……」
「移りましたね」
シェイクは少しだけ笑った。
でも、その笑いはいつものほわほわしたものより、少し弱かった。
宮田先生が戻ってきた。
結果を責める顔ではなかった。
ただ、いつものようにシェイクの全身を見た。
「最後、ちょっと目ぇ覚めたな」
「目……ですかぁ?」
「四コーナーから直線。あそこだけ、ちゃんと勝負の顔しとった」
「でも、遅かったですぅ……」
「せやな」
宮田先生は、はっきり言った。
「今日は遅かった。位置も後ろになった。周りに気を使いすぎた。勝つには足りん」
シェイクの耳が、少し下がった。
けれど、宮田先生の声は冷たくなかった。
「でも、やめてへん。最後に自分で道を探した。それは持って帰れ」
藤川兄トレーナーも頷いた。
「そうです。今日は八着でした。でも、何もなかった八着ではありません」
「何もなかった八着……」
「それは少し寂しいでしょう?」
「はいぃ……寂しいですぅ……」
「なら、今日は違います」
シェイクは、まだ息の整わない胸に手を当てた。
そこは、走る前よりずっと強く鳴っていた。
苦しい。
熱い。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「レースって……お茶会じゃないんですねぇ……」
ぽつりと、シェイクが言った。
宮田先生が眉を上げた。
「そらそうや」
「みんな、ちゃんと自分の場所を取りに行ってましたぁ……」
「せやな」
「わたし、ちょっと遠慮しましたぁ……」
藤川兄トレーナーは、何も言わずに待った。
シェイクはゆっくり息を吸った。
「次は、もう少し早く、ここって思えるようになりたいですぅ……」
その言葉に、宮田先生が小さく頷いた。
「それでええ」
帰り道、シェイクは窓の外を眺めていた。
レース場の景色が遠ざかる。
スタンドも、芝も、ゲートも、少しずつ見えなくなる。
八着。
負けた。
でも、ただ怖かったわけではない。
ただ苦しかったわけでもない。
四コーナーで、一瞬だけ見えた道。
あそこへ行こうと思った時、胸の奥で何かが鳴った。
それは、まだ小さかった。
名前も分からない。
勝利には届かない。
けれど、確かにあった。
「藤川兄さん」
「はい」
「レース、嫌いではなかったですぅ」
藤川兄トレーナーは、穏やかに笑った。
「それなら、今日は十分です」
「十分なんですかぁ?」
「はい。まずは、そこからです」
宮田先生は前の席で、黙って窓の外を見ていた。
けれど、口元はほんの少しだけ緩んでいた。
シェイクユアハートは、まだ勝っていない。
期待に応えたわけでもない。
お嬢様と呼ばれる理由も、自分がどれほど見られているのかも、まだよく分かっていない。
それでも、彼女は一つだけ知った。
レースは、誰かに用意された道を歩く場所ではない。
自分で道を見つけて、自分の足で踏みに行く場所なのだ。
胸の奥で、小さな鼓動がもう一度鳴った。
まだ揺れない心臓が、ほんの少しだけ、外の風を覚えた。