心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第二章]はじめての外風

デビューの日の朝、シェイクユアハートは、いつもより少しだけ早く目を覚ました。

 

窓の外はまだ白っぽく、寮の廊下も静かだった。

起床時間には少し早い。誰かの足音も、洗面所の水音も、食堂の匂いもまだ遠い。

 

シェイクは布団の中で、ぱちりと瞬きをした。

 

「ほわ~……」

 

緊張しているのかどうか、自分ではよく分からなかった。

胸の奥は、いつもより少しだけ忙しい。けれど、それが怖いのか、楽しみなのか、判断できない。

 

今日、彼女は初めてレースに出る。

 

宮田先生の寮に来てから、毎日は思ったより早く過ぎていった。

走り方を覚えた。

ゲートの音を覚えた。

隣に誰かが並んだ時の圧を覚えた。

藤川兄トレーナーの声を覚えた。

 

焦らなくていいですよ。

まずはレースを嫌いにならんことです。

 

その声は、何度もシェイクの耳に残った。

 

「レース……」

 

小さく呟いて、シェイクは自分の耳に触れた。

ぴん、と立っている。いつもより少し敏感だった。

 

支度をして廊下に出ると、宮田先生がすでにいた。

 

「早いな」

 

「起きちゃいましたぁ……」

 

「緊張か?」

 

「ん~……たぶん、そうですぅ」

 

「たぶんか」

 

宮田先生は苦笑した。

けれど、無理に励ますことはしなかった。代わりに、片手で食堂の方を指した。

 

「朝ごはん、ちゃんと食べろ。走る前にふわふわしすぎるなよ」

 

「はいぃ……ふわふわしすぎないようにしますぅ……」

 

「それ、できるんか?」

 

「たぶん……」

 

「まあええ」

 

食堂では、いつもより少し控えめに食事を取った。

パンを小さくちぎり、スープを飲み、卵を半分残しかけて、宮田先生の視線に気づいてまた食べた。

 

「えらいですねぇ、わたし……」

 

「自分で言うな」

 

そのあと、準備が進んでいく。

 

勝負服。

ゼッケン。

スパイク。

髪を整える手。

耳の位置を確認する時間。

 

シェイクは鏡の前に立った。

 

そこには、名家の親を持つお嬢様として期待されているウマ娘がいた。

宮田先生の寮から送り出される新入りがいた。

藤川兄トレーナーが担当する、まだ何も知らない子がいた。

 

けれど、鏡の中のシェイクは、いつものように少し眠たげだった。

 

「ほわ~……勝負服、かわいいですねぇ……」

 

「そこですか」

 

後ろから声がした。

藤川兄トレーナーだった。

 

柔らかい表情で立っている。いつものように丁寧で、落ち着いていた。

シェイクは鏡越しに彼を見て、少し笑った。

 

「藤川兄さん、おはようございますぅ」

 

「おはようございます。調子はどうですか?」

 

「朝ごはん、ちゃんと食べましたぁ」

 

「それは大事ですね」

 

「はいぃ」

 

藤川兄トレーナーは、シェイクの肩のあたりを見た。

力が入っている。けれど、入りすぎて固まっているわけではない。

耳はよく動いている。目もぼんやりしているようで、周囲の音は拾っている。

 

「今日は、勝たなきゃって思いすぎんでいいです」

 

「勝たなくていいんですかぁ?」

 

「勝てるなら勝ちましょう。でも、今日一番大事なんは、レースを知ることです」

 

「レースを知る……」

 

「はい。走っている時に、周りがどう動くか。自分がどこで息を入れられるか。最後、どれくらい脚が残っているか。今日はそれを持って帰りましょう」

 

藤川兄トレーナーの言葉は、いつも通りやわらかかった。

だからシェイクは、少し安心した。

 

「じゃあ、持って帰りますぅ」

 

「はい。忘れ物せんように」

 

「それは自信ないですぅ……」

 

「そこは自信持ってください」

 

宮田先生が横で短く笑った。

 

阪神の芝二千。

初めての舞台は、思ったより広く、思ったより騒がしかった。

 

スタンドの声が空から降ってくる。

知らないウマ娘たちが並んでいる。

誰もが、自分の勝負を持っている。

 

シェイクはパドックで歩きながら、周りを見た。

 

強そうな子。

落ち着いている子。

目をぎらぎらさせている子。

まだ幼さを残しながらも、すでに勝つ気でいる子。

 

「ほわ~……みんな、ちゃんとしてますねぇ……」

 

ぽつりと呟いた言葉に、藤川兄トレーナーが隣で頷いた。

 

「シェイクもちゃんとしてますよ」

 

「そうですかぁ?」

 

「はい。少し耳は忙しいですけど」

 

「聞こえちゃうんですぅ……いろいろ」

 

「なら、僕の声だけ少し大きめに覚えておいてください」

 

シェイクは藤川兄トレーナーを見上げた。

 

「藤川兄さんの声ですかぁ?」

 

「はい。困ったら、それを探してください」

 

「ほわ~……分かりましたぁ」

 

輪乗りへ向かう。

ゲートが近づく。

空気が、さっきまでとは違っていた。

 

レース前の静けさは、本当の静けさではない。

音が消えるのではなく、全部の音が一点に集まっていく。

足音。呼吸。土を踏む音。芝の匂い。誰かの緊張。

 

シェイクの耳が、すっと前を向いた。

 

「シェイク」

 

藤川兄トレーナーの声がした。

 

「大丈夫です。覚えてきましょう」

 

「はいぃ」

 

ゲートに入る。

 

狭い。

前がある。

後ろがある。

隣に誰かがいる。

 

シェイクは一度だけ目を閉じた。

 

走ることは、嫌いではない。

でも、レースはまだ知らない。

 

次の瞬間、扉が開いた。

 

音が弾けた。

 

みんなが前へ出る。

シェイクも出た。

けれど、思ったより流れが速い。

 

「ほわっ……」

 

声にならない驚きが喉の奥で跳ねた。

 

調教で並ぶのとは違う。

みんなが自分のために走っている。

誰も待ってくれない。

誰も譲ってくれない。

 

藤川兄トレーナーの声が、外から届く。

 

「慌てんでいいです。リズムを取って」

 

シェイクはその声を探した。

足を動かす。

前を見る。

でも、前にいる子たちは遠い。

横にも後ろにも気配がある。

 

最初のコーナー。

体が少し外へ流れそうになる。

芝の感触が変わる。

自分の位置が、よく分からなくなる。

 

シェイクは必死に走った。

必死に、けれどどこか掴みきれないまま。

 

二千メートルは、思っていたより長かった。

 

向こう正面で息を入れようとしても、周囲が動く。

前の子の背中が近づいたと思えば、また離れる。

ここで行くのか、待つのか。

藤川兄トレーナーの声は聞こえる。けれど、判断するのは自分の足だった。

 

三コーナー。

四コーナー。

 

周りが一斉に色を変えた。

 

仕掛ける子がいる。

押し上げる子がいる。

苦しくなって下がる子がいる。

 

その瞬間、シェイクの目が変わった。

 

ほんの少しだけ、視界が澄んだ。

前に、狭い道がある。

そこへ行けば、もう少しだけ伸びられる。

 

「……ここ、ですかぁ」

 

彼女は踏んだ。

 

身体が前へ出た。

一瞬だけ、調教で宮田先生が見たあの反応が戻った。

 

けれど、遅かった。

 

直線に向いた時、上位はもう前にいた。

シェイクは脚を使った。最後までやめなかった。

それでも、届かない。

 

ゴール板が過ぎた。

 

八着。

 

数字は、思ったより静かに残った。

 

シェイクはしばらく、何が終わったのか分からない顔をしていた。

息は上がっている。脚も熱い。耳の奥に、スタンドの声が残っている。

 

藤川兄トレーナーがそばに来た。

 

「お疲れさまでした、シェイク」

 

「ほわ~……」

 

「大丈夫ですか?」

 

「みんな、速いですねぇ……」

 

それが、最初に出た言葉だった。

 

藤川兄トレーナーは、少しだけ目を細めた。

 

「そうですね。速かったですね」

 

「わたし、どこで走ればよかったんでしょう……」

 

「それを、今日覚えたんです」

 

「覚えられましたかぁ?」

 

「はい。たぶん」

 

「藤川兄さんも、たぶんって言いましたぁ……」

 

「移りましたね」

 

シェイクは少しだけ笑った。

でも、その笑いはいつものほわほわしたものより、少し弱かった。

 

宮田先生が戻ってきた。

結果を責める顔ではなかった。

ただ、いつものようにシェイクの全身を見た。

 

「最後、ちょっと目ぇ覚めたな」

 

「目……ですかぁ?」

 

「四コーナーから直線。あそこだけ、ちゃんと勝負の顔しとった」

 

「でも、遅かったですぅ……」

 

「せやな」

 

宮田先生は、はっきり言った。

 

「今日は遅かった。位置も後ろになった。周りに気を使いすぎた。勝つには足りん」

 

シェイクの耳が、少し下がった。

 

けれど、宮田先生の声は冷たくなかった。

 

「でも、やめてへん。最後に自分で道を探した。それは持って帰れ」

 

藤川兄トレーナーも頷いた。

 

「そうです。今日は八着でした。でも、何もなかった八着ではありません」

 

「何もなかった八着……」

 

「それは少し寂しいでしょう?」

 

「はいぃ……寂しいですぅ……」

 

「なら、今日は違います」

 

シェイクは、まだ息の整わない胸に手を当てた。

 

そこは、走る前よりずっと強く鳴っていた。

苦しい。

熱い。

でも、不思議と嫌ではなかった。

 

「レースって……お茶会じゃないんですねぇ……」

 

ぽつりと、シェイクが言った。

 

宮田先生が眉を上げた。

 

「そらそうや」

 

「みんな、ちゃんと自分の場所を取りに行ってましたぁ……」

 

「せやな」

 

「わたし、ちょっと遠慮しましたぁ……」

 

藤川兄トレーナーは、何も言わずに待った。

 

シェイクはゆっくり息を吸った。

 

「次は、もう少し早く、ここって思えるようになりたいですぅ……」

 

その言葉に、宮田先生が小さく頷いた。

 

「それでええ」

 

帰り道、シェイクは窓の外を眺めていた。

レース場の景色が遠ざかる。

スタンドも、芝も、ゲートも、少しずつ見えなくなる。

 

八着。

 

負けた。

でも、ただ怖かったわけではない。

ただ苦しかったわけでもない。

 

四コーナーで、一瞬だけ見えた道。

あそこへ行こうと思った時、胸の奥で何かが鳴った。

 

それは、まだ小さかった。

名前も分からない。

勝利には届かない。

けれど、確かにあった。

 

「藤川兄さん」

 

「はい」

 

「レース、嫌いではなかったですぅ」

 

藤川兄トレーナーは、穏やかに笑った。

 

「それなら、今日は十分です」

 

「十分なんですかぁ?」

 

「はい。まずは、そこからです」

 

宮田先生は前の席で、黙って窓の外を見ていた。

けれど、口元はほんの少しだけ緩んでいた。

 

シェイクユアハートは、まだ勝っていない。

期待に応えたわけでもない。

お嬢様と呼ばれる理由も、自分がどれほど見られているのかも、まだよく分かっていない。

 

それでも、彼女は一つだけ知った。

 

レースは、誰かに用意された道を歩く場所ではない。

自分で道を見つけて、自分の足で踏みに行く場所なのだ。

 

胸の奥で、小さな鼓動がもう一度鳴った。

 

まだ揺れない心臓が、ほんの少しだけ、外の風を覚えた。

 

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