タガノデュードが淡路特別を勝った日、シェイクユアハートは心から喜んだ。
それは本当だった。
同じ部屋で、同じお茶を飲んで、同じようにメモを並べてきた子が、ようやく次の足場へ上がった。
未勝利を抜け、朝日杯で高い場所を見て、春に風に押され、夏に取り消し、秋にエコロヴァルツの背中を見て、冬に室影トレーナーと勝ち、古吉トレーナーへ戻って、そして淡路特別を勝った。
三勝クラスへ。
それは、デュードにとって大きな前進だった。
だからシェイクは笑った。
「ようこそですぅ」
と、言った。
「沼ですぅ」
とも、言った。
デュードは少し困った顔をしながら、それでも嬉しそうに笑った。
けれど、その夜が明けて、予定表に二人の名前が並んだ時、宮田先生は笑えなかった。
阪神、御堂筋ステークス。
三勝クラス。
芝二四。
シェイクユアハート。
タガノデュード。
同じレース。
同じ距離。
同じクラス。
そして、どちらも古吉トレーナーと走ってきた。
宮田先生は、予定表を前にして、長く黙っていた。
「……こうなるか」
部屋には誰もいなかった。
それでも、思わず声が出た。
いつか来るとは思っていた。
シェイクは三勝クラスで長く足踏みしている。
デュードが上がってくれば、どこかで重なる。
それは、戦歴を見れば予想できることだった。
けれど、いざ同じレースに二人の名前が並ぶと、紙の上の話では済まなくなる。
古吉トレーナーは一人しかいない。
どちらにも立たせることはできない。
宮田先生は、シェイクの資料を見た。
比叡ステークス、四着。
サンタクロースステークス、二着。
八坂ステークス、六着。
関門橋ステークス、三着。
ダイワスカーレットカップ、二着。
下鴨ステークス、三着。
テレQ杯、二着。
ムーンライトハンデキャップ、二着。
修学院ステークス、二着。
オリオンステークス、三着。
寿ステークス、二着。
飛鳥ステークス、三着。
ずっと、近い。
ずっと、勝っていない。
その多くを古吉トレーナーと走ってきた。
シェイクにとって古吉トレーナーは、ただの担当ではなかった。
余計な荷物を下ろしてくれる人。
心臓を足元に戻してくれる人。
定食屋兼安全帯。
妙な呼び方だが、たしかに合っていた。
次に、デュードの資料を見る。
未勝利を古吉トレーナーで勝った。
朝日杯で五着。
春に揺れ、夏に取り消し、秋にエコロヴァルツの背中を見た。
室影トレーナーと勝ち、そして古吉トレーナーへ戻って茶臼山高原特別二着、淡路特別一着。
デュードにとっても、古吉トレーナーは特別だった。
古吉でなければ走れない、ではない。
室影トレーナーと勝ったことで、それは証明した。
けれど、勝てる足場と帰りたい足場は違う。
デュードは、そういう場所まで来ていた。
「……どっちも、古吉さんやな」
宮田先生は、眉間を押さえた。
同じレースに出す以上、どちらかは古吉トレーナーでは走れない。
どちらを選んでも、もう片方には言葉が必要になる。
そして、その言葉はたぶん、あまり優しくはならない。
古吉トレーナーは、呼び出されてもいつも通りだった。
先生の部屋に入ってきて、予定表を見て、短く言った。
「かぶりましたね」
「かぶりましたね、やないんですよ」
宮田先生は少しだけ声を荒げた。
「どっちも古吉さんでここまで来とるんです」
「せやな」
「せやな、やないんですよ」
「俺は一人ですし」
「それは分かってます」
分かっているから、困っている。
古吉トレーナーは資料を手に取った。
シェイクの資料。
デュードの資料。
どちらにも、古吉トレーナーの名前が並んでいる。
「シェイクは、長いですね」
「長いです」
「そろそろ勝たせたい」
「それは、こっちも同じです」
「デュードは、上がってきたばかり」
「でも、淡路特別は古吉さんで勝った」
「せやな」
「本人も、戻ってきた感じがあると言ってました」
「言うてました」
宮田先生は椅子に座った。
「正直、シェイクに古吉さんを残したい」
古吉トレーナーは何も言わなかった。
「ここまで三勝クラスでずっと惜しい。古吉さんと積んできた。今回も距離は二四。シェイクの流れを切りたくない」
「分かります」
「でも、デュードにもそれを言うのがきつい」
「分かります」
「分かりますしか言わんのですか」
「俺が二人になれたらええんですけどね」
「古吉さんが二人いたら、それはそれで困ります」
「何でですか」
「片方が定食屋で片方が安全帯になりそうなので」
「何の話ですか」
宮田先生はため息をついた。
少しだけ空気が緩んだ。
けれど、問題は何も解決していない。
「代わりを探します」
宮田先生は言った。
「デュードの方ですか」
「……はい」
言葉にするまで、少し時間がかかった。
「シェイクは、もうここまで来ている。ここで古吉さんを外すのは、やっぱり怖い」
「デュードは?」
「デュードは、古吉さん以外でも勝っている。室影トレーナーで勝った。美幸トレーナーとも走った。丹頂トレーナーとも重賞を経験した」
「だから、大丈夫と?」
「大丈夫、とは言いません」
宮田先生は首を振った。
「でも、デュードには外の足場を見せてきた。ここでそれを使わないなら、何のために見せたのか分からなくなる」
古吉トレーナーは、しばらく黙っていた。
それから、資料を机に戻した。
「デュード、傷つくでしょうね」
「分かってます」
「シェイクも、気にするでしょうね」
「分かってます」
「先生も、しんどいでしょうね」
「分かってます」
「なら、言うしかないですね」
古吉トレーナーは、いつも通り短かった。
「誰がですか」
「先生が」
「分かってますよ」
宮田先生は、深く息を吐いた。
その日、先に呼ばれたのはシェイクだった。
シェイクは宮田先生の部屋に入ると、少し不安そうに耳を動かした。
「宮田先生、呼びましたかぁ」
「呼んだ」
「御堂筋ステークスのことですかぁ?」
「そうや」
シェイクは椅子に座った。
宮田先生は、少し間を置いてから言った。
「御堂筋は、古吉さんで行く」
シェイクは瞬きをした。
ほっとした顔になりかけて、すぐに止まった。
「デュードさんは……?」
やはり、そこへ行く。
宮田先生は頷いた。
「別のトレーナーになる」
「……古吉さんじゃないんですかぁ」
「同じレースや。古吉さんは一人しかおらん」
「はいぃ……」
シェイクは、自分の手元を見た。
嬉しい。
それは、どうしてもあった。
長い三勝クラス。
何度も近くて届かなかった場所。
古吉トレーナーと一緒に、もう一度走れる。
それは心強い。
けれど、その心強さは、デュードから古吉トレーナーを借りたような形でもある。
「わたしが、取ったみたいですぅ……」
小さな声だった。
「違う」
宮田先生はすぐに言った。
「これは先生が決めることや。お前が取ったんやない」
「でも、デュードさんも古吉さんに戻ってきたところですぅ」
「分かっとる」
「淡路特別で勝ったばかりですぅ」
「分かっとる」
「それなのに……」
「それでも、今回はシェイクを古吉さんで行かせる」
宮田先生の声は、静かだった。
「お前は、ここまでずっとこの壁の前におる。古吉さんと積んできたものがある。今回、それを切らない」
シェイクは耳を伏せた。
「デュードさんに、どう言えばいいですかぁ」
「言わんでええ」
「でも、同室ですぅ」
「言わんでええ、は無理か」
宮田先生は少し苦い顔をした。
「謝るな」
「ほわ?」
「謝ると、デュードは余計に困る」
「じゃあ、どうすれば……」
「自分のレースを走れ」
宮田先生は言った。
「デュードはデュードのレースを走る。お前はお前のレースを走る。それしかない」
シェイクは黙った。
その言葉は正しい。
でも、正しい言葉は、いつも軽いわけではない。
次に呼ばれたのは、デュードだった。
デュードは部屋に入った時点で、何かを察している顔をしていた。
「御堂筋ステークスのことですね」
「そうや」
「古吉さん、シェイクさんですね」
宮田先生は、少しだけ目を細めた。
「分かるか」
「分かります」
「デュード」
「はい」
「今回は、山杉トレーナーで行く」
その名前を聞いた時、デュードは一瞬だけ眉を動かした。
「山杉さん……藤川先生のところの?」
「そうや」
「若い人ですよね」
「若い。問題もある」
「問題がある人を今ここで出してきますか」
デュードの声は、少しだけ鋭かった。
宮田先生は逃げなかった。
「腕はある」
「問題があるけど、腕はある」
「そうや」
「現場で一番困るタイプですね」
「分かっとる」
「朝の調教前まで酒の匂いがすると聞いたことがあります」
「それも分かっとる」
「合わせ調教に遅れたこともあるとか」
「分かっとる」
「分かってて、ですか」
「分かっててや」
デュードは、しばらく黙った。
「古吉さんじゃ、駄目なんですか」
分かっているはずなのに、聞いた。
宮田先生は答えた。
「同じレースや。古吉さんは一人しかおらん」
「はい」
「シェイクは、ここまで三勝クラスで古吉さんと積んできた。今回は、シェイクに残す」
言葉は、まっすぐだった。
デュードはそれを正面から受けた。
「わたしは、上がってきたばかりだからですか」
「それもある」
「室影さんで勝てたから、古吉さんじゃなくてもいいと?」
「それだけではない」
「でも、そういうこともありますよね」
宮田先生は、少し沈黙した。
「ある」
嘘をつかなかった。
デュードは、目を伏せた。
「……分かりました」
「納得はしてないな」
「してません」
「せやろな」
「でも、分かります」
デュードは、手元を握った。
「古吉さんじゃないと走れない、では駄目だと自分でも言いました。室影さんで勝ててよかったとも思いました。外の足場を見ることも必要だと、分かってます」
「うん」
「でも、淡路特別で古吉さんと勝って、三勝クラスへ上がって」
言葉が少し詰まった。
「その最初が、古吉さんじゃないんですね」
宮田先生は、すぐには答えなかった。
それは、答えようのない言葉だった。
「……すまん」
「謝らないでください」
デュードは顔を上げた。
「謝られると、わたしがかわいそうな子みたいになります」
「そうやな」
「わたしは、山杉トレーナーで走ります」
「頼む」
「ただし」
デュードの目が、少しだけ現場の目になった。
「山杉さんが朝に酒の匂いをさせていたら、わたしは本人に言います」
「言ってええ」
「遅れてきたら?」
「言ってええ」
「現場なら退場です」
「それも言ってええ」
宮田先生は、少しだけ苦笑した。
「たぶん、山杉にも必要や」
山杉トレーナーとの初顔合わせは、最悪ではなかった。
ただし、良くもなかった。
藤川先生の紹介で来た山杉トレーナーは、若かった。
目は鋭い。
立ち方も悪くない。
レースを見る感覚も、たしかにある。
だが、デュードは最初の数分で眉をひそめた。
「山杉さん」
「何や」
「酒の匂いします」
山杉トレーナーは、一瞬だけ目を逸らした。
「気のせいや」
「現場なら朝礼前に退場です」
「ここは現場か?」
「現場です」
「宮田先生のとこの子は、みんなそう言うんか」
「わたしが言ってます」
山杉トレーナーは、少し面白そうに笑った。
「聞いてたより、きついな」
「わたしも、聞いてたより危ない人だと思いました」
「はっきり言うやん」
「危険箇所は共有します」
山杉トレーナーは、そこで少しだけ真顔になった。
「腕はあるで」
「それは聞いてます」
「ならええやろ」
「やれるのと、預けられるのは違います」
デュードはまっすぐ言った。
山杉トレーナーは黙った。
それから、ふっと笑った。
「おもろいな」
「面白くないです」
「でも、走るんやろ」
「走ります」
「なら、勝ちに行こか」
「勝ちに行く前に、遅刻と酒をやめてください」
「厳しいな」
「安全管理です」
その夜、部屋でデュードはシェイクに報告した。
「山杉さん、酒の匂いがしました」
「ほわ~……だめですぅ……」
「だめです」
「でも、走るんですかぁ?」
「走ります」
「怖いですかぁ?」
「怖いです」
デュードは机に座った。
「でも、腕はありそうでした」
「じゃあ、大丈夫ですかぁ?」
「腕があるから困るんです」
「ほわ?」
「下手なら、嫌いになれば済みます」
デュードはペンを置いた。
「腕があるから、腹が立つんです」
シェイクは少し黙った。
「デュードさん」
「はい」
「ごめんなさいは、言わない方がいいですかぁ?」
「はい」
「じゃあ、言いません」
「ありがとうございます」
「でも、わたしは、古吉さんと走りますぅ」
「はい」
「嬉しいですぅ」
デュードは少し驚いた顔をした。
シェイクは、湯呑みを両手で持って続ける。
「嬉しいです。心強いです。でも、デュードさんのことも気になりますぅ」
「はい」
「どっちも本当ですぅ」
デュードは、しばらくシェイクを見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「それでいいと思います」
「いいですかぁ?」
「はい。変に謝られるより、ずっといいです」
デュードは自分のメモに書いた。
御堂筋ステークス。
三勝クラス。
シェイクさんは古吉トレーナー。
わたしは山杉トレーナー。
古吉さんに戻ったはずなのに、戻りきれない日がある。
山杉さんは危険箇所。
でも、腕はある。
シェイクはそれを覗き込んだ。
「危険箇所って書かれてますぅ……」
「事実です」
「山杉さん、現場でカラーコーン置かれますぅ」
「置きたいです」
二人は少しだけ笑った。
笑えたことに、二人とも少し救われた。
それでも、部屋の空気はいつもより複雑だった。
同じレース。
同じ距離。
同じクラス。
古吉トレーナーは一人しかいない。
シェイクは古吉トレーナーと走る。
デュードは山杉トレーナーと走る。
勝てる足場と、帰りたい足場は違う。
デュードは以前、そう書いた。
けれど今回は、帰りたい足場が目の前で別の子の隣に立つ。
それを見ながら、自分は別の足場で走らなければならない。
シェイクもまた、知っていた。
自分が古吉トレーナーと走ることは、デュードが古吉トレーナーでは走れないことでもある。
でも、譲ればいい話ではない。
ここは三勝クラスだ。
心臓の優しさだけでは、勝てない。
御堂筋ステークスへ向かう前夜、二人は遅くまで起きていた。
お茶はすっかり冷めていた。
「デュードさん」
「はい」
「明日、同じレースですねぇ」
「はい」
「変な感じですぅ」
「変です」
「同じ壁ですぅ」
「同じ壁ですね」
「でも、足場は違いますぅ」
「はい」
デュードは窓の外を見た。
「シェイクさん」
「はいぃ」
「わたし、山杉さんで走ります」
「はいぃ」
「嫌だなって気持ちもあります」
「はいぃ」
「でも、山杉さんで走るなら、山杉さんで走ります。古吉さんじゃないから、という言い訳は持っていきません」
シェイクは、ゆっくり頷いた。
「わたしも、古吉さんだからって、勝てると思いすぎないようにしますぅ」
「それ、難しいですね」
「難しいですぅ」
「でも、シェイクさんはずっと古吉さんと積んできました」
「はいぃ」
「なら、ちゃんと走ってください」
シェイクは少し驚いた。
「デュードさん」
「はい」
「強いですぅ」
「強くないです」
「強いですぅ」
「悔しいだけです」
デュードは少しだけ笑った。
「でも、悔しいなら、走れます」
その言葉に、シェイクの心臓が鳴った。
「はいぃ」
部屋の机には、二人のメモが並んでいる。
シェイク。
御堂筋ステークス。
古吉トレーナー。
三勝クラスの壁。
デュードさんと同じレース。
嬉しいも、気になるも、どっちも本当。
自分のレースを走る。
デュード。
御堂筋ステークス。
山杉トレーナー。
古吉さんに戻ったはずなのに、戻りきれない日。
山杉さんは危険箇所。でも腕はある。
言い訳は持っていかない。
悔しいなら、走れる。
宮田先生は、その夜、遅くまで資料を見ていた。
選んだ。
決めた。
だが、それで軽くなるわけではない。
シェイクを古吉トレーナーで行かせる。
デュードを山杉トレーナーで行かせる。
それが正しいかどうかは、レースが終わっても簡単には分からないだろう。
どちらかが勝てば正解、という話でもない。
どちらかが負ければ間違い、という話でもない。
ただ、同じ距離、同じクラス、同じトレーナーを必要とする二人が、同じ場所に来てしまった。
それだけは事実だった。
宮田先生は、最後に予定表へ目を落とした。
御堂筋ステークス。
シェイクユアハート。
タガノデュード。
名前が並んでいる。
「……どっちも、走れ」
小さく呟いた。
ひとりしか隣に立てない日。
それでも、走るのは二人だった。