御堂筋ステークスの日、阪神の空は白く曇っていた。
春は近い。
けれど、まだ風の底には冬が残っている。
芝二四。三勝クラス。
シェイクユアハートにとっては、もう何度も見てきた壁。
タガノデュードにとっては、ようやく辿り着いた壁。
同じレースに、二人の名前が並んでいた。
シェイクユアハート。
タガノデュード。
同じ宮田先生の寮。
同じ部屋。
同じ古吉トレーナーを帰りたい場所としてきた二人。
けれど今日、古吉トレーナーの隣にいるのはシェイクだった。
デュードの隣には、山杉トレーナーが立っている。
「酒の匂い、しませんね」
パドックへ向かう前、デュードは山杉トレーナーに言った。
山杉トレーナーは、少しだけ口元を引きつらせた。
「第一声がそれか」
「確認は大事です」
「してへんわ」
「遅刻もしてません」
「してへん」
「今日は現場に入れます」
「許可制なんか」
「危険箇所なので」
山杉トレーナーは、呆れたように笑った。
「ほんま、やりにくい子やな」
「わたしも、やりにくいトレーナーだと思っています」
「でも走るんやろ」
「走ります」
デュードはまっすぐ答えた。
山杉トレーナーは若い。
問題はある。
酒の匂いの噂も、遅刻の話も、消えたわけではない。
それでも、今日の彼は少なくとも遅れてこなかった。
目も濁っていない。
資料も見ている。
レースの流れも、相手の脚質も、思っていたより鋭く捉えている。
腕はある。
それが、デュードには腹立たしかった。
下手なら、嫌いになればいい。
不真面目なだけなら、距離を置けばいい。
けれど、山杉トレーナーは腕がある。
危なっかしいのに、レースを見る目は確かだった。
「デュード」
「はい」
「今日、古吉さんやないからって下向くなよ」
デュードの耳が動いた。
「下向いてません」
「向いとる。心が」
「……見えるんですか」
「見える時もある」
山杉トレーナーは、珍しく真面目な声だった。
「俺は古吉さんやない。そんなん分かっとる。でも、今日お前の隣に立つんは俺や」
「はい」
「せやから、今日は俺で走れ」
デュードは、少しだけ息を吸った。
古吉トレーナーじゃない。
それは、もう分かっている。
分かっているのに、胸の奥がまだ少しだけ引っかかっている。
帰りたい足場は、目の前でシェイクの隣にある。
でも、今日の自分の足元にあるのは、山杉トレーナーという別の足場だ。
「分かりました」
デュードは答えた。
「今日は、山杉さんで走ります」
「おう」
「ただし、危ないと思ったら言います」
「レース中にか?」
「必要なら」
「怖いわ」
「安全管理です」
少し離れた場所で、シェイクは古吉トレーナーと並んでいた。
古吉トレーナーはいつも通りだった。
特別に気合いを入れるでもなく、余計な慰めを言うでもない。
ただ、シェイクの顔を見て言った。
「硬いな」
「はいぃ……」
「デュードのこと考えとるやろ」
「考えてますぅ」
「考えるなとは言わん」
「はいぃ」
「でも、走る時はお前のレースや」
シェイクは胸に手を当てた。
古吉トレーナーと走れる。
嬉しい。
心強い。
ここまで積んできたものがある。
けれど、その隣に立てないデュードがいる。
「シェイク、取ったみたいですぅ……」
「それは前にも言うたやろ」
「はいぃ……」
「お前が取ったんやない。先生が決めた。俺も受けた。デュードも山杉で走ると決めた」
「はいぃ」
「なら、お前がやることは一つや」
「走ることですかぁ」
「せや」
古吉トレーナーは短く言った。
「勝ちに行け」
その言葉で、シェイクの心臓が少し足元に戻った。
勝ちに行く。
何度も聞いてきた言葉。
けれど今日だけは、いつもより重い。
「はいぃ」
シェイクは頷いた。
「わたしのレースを走りますぅ」
パドックで、二人はすれ違った。
シェイクとデュード。
同じ部屋でお茶を飲む二人。
同じ机にメモを並べる二人。
同じ古吉トレーナーを、それぞれ違う意味で必要としてきた二人。
今日だけは、同じレースの相手だった。
「デュードさん」
「シェイクさん」
短い呼びかけ。
それだけで、十分だった。
シェイクは言った。
「謝りませんぅ」
「はい」
デュードは頷いた。
「わたしも、言い訳しません」
「はいぃ」
「お互い、自分のレースを走りましょう」
「走りますぅ」
二人は、それぞれのトレーナーのもとへ戻った。
ゲートに向かう。
阪神芝二四。
三勝クラス。
御堂筋ステークス。
シェイクの胸には、長い足踏みの数字があった。
二着。
三着。
四着。
また二着。
また三着。
近いのに勝てない数字。
デュードの胸には、別の数字があった。
朝日杯五着。
春の重賞。
取り消し。
セントライト九着。
室影トレーナーとの勝利。
淡路特別一着。
そして、山杉トレーナーとの初めての三勝クラス。
ゲートが開いた。
二人は出た。
レースは静かに始まったようで、内側には熱を持っていた。
シェイクは古吉トレーナーの声を聞きながら、いつものように前を見た。
「焦るな」
焦らない。
「寝るな」
眠らない。
「前見とけ」
前を見る。
デュードは山杉トレーナーの声を聞いていた。
「そこ、悪くない。下げるな」
思ったより、声が的確だった。
「前が動く前に準備しとけ」
デュードは少しだけ驚く。
山杉トレーナーは危険箇所だ。
でも、レースの中ではちゃんと足場を見ている。
だから腹が立つ。
けれど、今は腹を立てている場合ではない。
デュードは足元を見た。
山杉トレーナーの声を聞いた。
そして前を見た。
三コーナー。
流れが動いた。
シェイクも動く。
デュードも動く。
同じ壁へ向かって、違う足場から上がっていく。
四コーナー。
視界が開く。
直線。
前にはミステリーウェイがいる。
ラスカンブレスも止まらない。
その後ろで、デュードが脚を使う。
シェイクも伸びる。
心臓が鳴る。
届きたい。
勝ちたい。
同じ部屋の相手にも、前の二人にも。
古吉トレーナーの声。
「最後まで」
山杉トレーナーの声。
「踏め、デュード!」
二人は踏んだ。
デュードが前へ出る。
シェイクが追う。
一番前には届かない。
二番目にも届かない。
けれど、三番目をめぐって、二つの心臓が並ぶ。
デュードが少し前。
シェイクがその後ろ。
ゴール板。
デュード、三着。
シェイク、四着。
数字は、はっきりと出た。
どちらも勝っていない。
けれど、デュードが前だった。
山杉トレーナーと走ったデュードが、古吉トレーナーと走ったシェイクより前にいた。
レース後、デュードはしばらく動けなかった。
三着。
三勝クラス初戦で三着。
悪くない。
むしろ、よく走った。
でも、勝ってはいない。
そして、シェイクより前にいた。
山杉トレーナーが来る。
「三着や」
「はい」
「やれるやろ、俺でも」
その言葉に、デュードは顔を上げた。
言い返したいことが、一瞬でいくつも浮かんだ。
酒の匂い。
遅刻の噂。
危険箇所。
預けられるかどうか。
でも、今日の山杉トレーナーは、ちゃんと隣にいた。
危うい人だ。
それでも今日、デュードを三着まで連れてきた。
「やれました」
デュードは言った。
「でも」
「でも?」
「やれるのと、預けられるのは違います」
山杉トレーナーは、一瞬黙った。
それから、ふっと笑った。
「ほんま厳しいな」
「でも、今日はありがとうございました」
「おう」
「悔しいです」
「三着やからな」
「勝ってないので」
「せやな」
山杉トレーナーは、少しだけ真面目な顔で頷いた。
「でも、悪くなかった」
「はい」
「次、もっとやれる」
デュードは、その言葉を受け取った。
腹は立つ。
でも、嘘ではない。
少し離れたところで、シェイクは古吉トレーナーと向き合っていた。
「四着や」
「はいぃ……四着でしたぁ」
「デュードに負けたな」
古吉トレーナーは、ごまかさなかった。
シェイクの耳がぴくりと動く。
「はいぃ」
「山杉で三着や」
「はいぃ」
「お前は俺で四着や」
「はいぃ……」
言葉にすると、胸がきゅっと痛んだ。
古吉トレーナーと走った。
自分のレースを走った。
でも、デュードより後ろだった。
しかも、デュードは古吉トレーナーではなかった。
「シェイク、古吉さんと走ったのに……」
「それを言うなら、最後まで言え」
古吉トレーナーが言った。
シェイクは顔を上げた。
「古吉さんと走ったのに、勝てなかったですぅ」
「せや」
「古吉さんと走ったのに、デュードさんに負けましたぁ」
「せや」
「悔しいですぅ」
「おう」
古吉トレーナーは頷いた。
「それ持って帰れ」
「持って帰るんですかぁ……」
「いるやろ」
シェイクは胸に手を当てた。
いる。
たぶん、いる。
自分が古吉トレーナーを取ったわけではない。
けれど、古吉トレーナーと走ったのは自分だ。
その結果が四着。
デュードは山杉トレーナーで三着。
これは、なかったことにはできない。
「はいぃ……持って帰りますぅ」
帰りの道中、二人はあまり話さなかった。
怒っているわけではない。
嫌になったわけでもない。
ただ、お互いの数字があまりにも近くて、重かった。
デュード、三着。
シェイク、四着。
一つ違い。
でも、その一つには、いろいろなものが挟まっていた。
古吉トレーナー。
山杉トレーナー。
宮田先生の判断。
シェイクの長い足踏み。
デュードの戻れなかった日。
寮に戻ると、二人はいつものように机に向かった。
お茶は二つ。
湯気は少しだけ頼りない。
先にペンを取ったのはデュードだった。
御堂筋ステークス三着。
山杉トレーナー。
三勝クラス初戦。
シェイクさんより前。
でも、勝っていない。
山杉さんは危険箇所。でも腕はある。
やれるのと、預けられるのは違う。
シェイクはその横に書いた。
御堂筋ステークス四着。
古吉トレーナー。
デュードさんより後ろ。
でも、勝っていないのは同じ。
古吉さんと走っても、勝てるとは限らない。
悔しい。
持って帰る。
しばらく、二人は黙っていた。
やがて、デュードが言った。
「勝ってないのに、シェイクさんより前でした」
シェイクは、湯呑みを見つめながら頷いた。
「はいぃ……わたし、古吉さんと走ったのに四着でしたぁ」
「嬉しくないわけじゃないです」
「はいぃ」
「でも、なんか……足場の板が斜めです」
シェイクは小さく笑った。
「わたしも、心臓が斜めですぅ……」
デュードも少し笑った。
笑えた。
でも、痛かった。
「デュードさん」
「はい」
「三着、おめでとうですぅ」
デュードは一瞬、言葉を失った。
それから、静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
「シェイク、悔しいですぅ」
「はい」
「でも、おめでとうも本当ですぅ」
「……はい」
デュードは、自分の胸に手を当てた。
「わたしも、シェイクさんに勝ったって言いたい気持ちはあります」
「はいぃ」
「でも、一着じゃないです」
「はいぃ」
「だから、勝ったって言うには、足りないです」
シェイクは頷いた。
「どっちも、一着じゃないですぅ」
「はい」
「一着は、別の子ですぅ」
「はい」
「三勝クラス、意地悪ですぅ……」
「意地悪ですね」
二人はお茶を飲んだ。
湯気は、いつのまにか消えていた。
その夜、宮田先生は二人のメモを見た。
シェイクの四着。
デュードの三着。
選んだ結果だった。
シェイクに古吉トレーナーを残した。
デュードには山杉トレーナーを任せた。
結果として、デュードが先着した。
それが正しかったのか、間違っていたのか。
簡単には言えない。
デュードは山杉トレーナーで走れた。
シェイクは古吉トレーナーと走っても、また勝てなかった。
どちらにも、次へ持っていくものがある。
どちらにも、痛みがある。
「……ほんま、ようできた子らや」
宮田先生は小さく呟いた。
褒め言葉なのに、少し苦かった。
御堂筋ステークス。
デュード三着。
シェイク四着。
同じ壁の前で、二人は初めて数字を並べた。
デュードは、古吉トレーナーではない足場でも前へ行けることを知った。
けれど、そこが帰りたい足場かどうかは、まだ分からない。
シェイクは、古吉トレーナーと走っても届かない日があることを、また知った。
しかも、同室のデュードに先を行かれた。
どちらも、勝っていない。
でも、どちらも、止まっていない。
同じ部屋の机に、三着と四着のメモが並んでいる。
その数字は、春の夜に、静かに重かった。