心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第二十一章]御堂筋、三着と四着

御堂筋ステークスの日、阪神の空は白く曇っていた。

 

春は近い。

けれど、まだ風の底には冬が残っている。

芝二四。三勝クラス。

シェイクユアハートにとっては、もう何度も見てきた壁。

タガノデュードにとっては、ようやく辿り着いた壁。

 

同じレースに、二人の名前が並んでいた。

 

シェイクユアハート。

タガノデュード。

 

同じ宮田先生の寮。

同じ部屋。

同じ古吉トレーナーを帰りたい場所としてきた二人。

 

けれど今日、古吉トレーナーの隣にいるのはシェイクだった。

 

デュードの隣には、山杉トレーナーが立っている。

 

「酒の匂い、しませんね」

 

パドックへ向かう前、デュードは山杉トレーナーに言った。

 

山杉トレーナーは、少しだけ口元を引きつらせた。

 

「第一声がそれか」

 

「確認は大事です」

 

「してへんわ」

 

「遅刻もしてません」

 

「してへん」

 

「今日は現場に入れます」

 

「許可制なんか」

 

「危険箇所なので」

 

山杉トレーナーは、呆れたように笑った。

 

「ほんま、やりにくい子やな」

 

「わたしも、やりにくいトレーナーだと思っています」

 

「でも走るんやろ」

 

「走ります」

 

デュードはまっすぐ答えた。

 

山杉トレーナーは若い。

問題はある。

酒の匂いの噂も、遅刻の話も、消えたわけではない。

 

それでも、今日の彼は少なくとも遅れてこなかった。

目も濁っていない。

資料も見ている。

レースの流れも、相手の脚質も、思っていたより鋭く捉えている。

 

腕はある。

 

それが、デュードには腹立たしかった。

 

下手なら、嫌いになればいい。

不真面目なだけなら、距離を置けばいい。

 

けれど、山杉トレーナーは腕がある。

危なっかしいのに、レースを見る目は確かだった。

 

「デュード」

 

「はい」

 

「今日、古吉さんやないからって下向くなよ」

 

デュードの耳が動いた。

 

「下向いてません」

 

「向いとる。心が」

 

「……見えるんですか」

 

「見える時もある」

 

山杉トレーナーは、珍しく真面目な声だった。

 

「俺は古吉さんやない。そんなん分かっとる。でも、今日お前の隣に立つんは俺や」

 

「はい」

 

「せやから、今日は俺で走れ」

 

デュードは、少しだけ息を吸った。

 

古吉トレーナーじゃない。

 

それは、もう分かっている。

分かっているのに、胸の奥がまだ少しだけ引っかかっている。

 

帰りたい足場は、目の前でシェイクの隣にある。

 

でも、今日の自分の足元にあるのは、山杉トレーナーという別の足場だ。

 

「分かりました」

 

デュードは答えた。

 

「今日は、山杉さんで走ります」

 

「おう」

 

「ただし、危ないと思ったら言います」

 

「レース中にか?」

 

「必要なら」

 

「怖いわ」

 

「安全管理です」

 

少し離れた場所で、シェイクは古吉トレーナーと並んでいた。

 

古吉トレーナーはいつも通りだった。

特別に気合いを入れるでもなく、余計な慰めを言うでもない。

 

ただ、シェイクの顔を見て言った。

 

「硬いな」

 

「はいぃ……」

 

「デュードのこと考えとるやろ」

 

「考えてますぅ」

 

「考えるなとは言わん」

 

「はいぃ」

 

「でも、走る時はお前のレースや」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

古吉トレーナーと走れる。

 

嬉しい。

心強い。

ここまで積んできたものがある。

 

けれど、その隣に立てないデュードがいる。

 

「シェイク、取ったみたいですぅ……」

 

「それは前にも言うたやろ」

 

「はいぃ……」

 

「お前が取ったんやない。先生が決めた。俺も受けた。デュードも山杉で走ると決めた」

 

「はいぃ」

 

「なら、お前がやることは一つや」

 

「走ることですかぁ」

 

「せや」

 

古吉トレーナーは短く言った。

 

「勝ちに行け」

 

その言葉で、シェイクの心臓が少し足元に戻った。

 

勝ちに行く。

 

何度も聞いてきた言葉。

けれど今日だけは、いつもより重い。

 

「はいぃ」

 

シェイクは頷いた。

 

「わたしのレースを走りますぅ」

 

パドックで、二人はすれ違った。

 

シェイクとデュード。

 

同じ部屋でお茶を飲む二人。

同じ机にメモを並べる二人。

同じ古吉トレーナーを、それぞれ違う意味で必要としてきた二人。

 

今日だけは、同じレースの相手だった。

 

「デュードさん」

 

「シェイクさん」

 

短い呼びかけ。

 

それだけで、十分だった。

 

シェイクは言った。

 

「謝りませんぅ」

 

「はい」

 

デュードは頷いた。

 

「わたしも、言い訳しません」

 

「はいぃ」

 

「お互い、自分のレースを走りましょう」

 

「走りますぅ」

 

二人は、それぞれのトレーナーのもとへ戻った。

 

ゲートに向かう。

 

阪神芝二四。

三勝クラス。

御堂筋ステークス。

 

シェイクの胸には、長い足踏みの数字があった。

 

二着。

三着。

四着。

また二着。

また三着。

 

近いのに勝てない数字。

 

デュードの胸には、別の数字があった。

 

朝日杯五着。

春の重賞。

取り消し。

セントライト九着。

室影トレーナーとの勝利。

淡路特別一着。

 

そして、山杉トレーナーとの初めての三勝クラス。

 

ゲートが開いた。

 

二人は出た。

 

レースは静かに始まったようで、内側には熱を持っていた。

 

シェイクは古吉トレーナーの声を聞きながら、いつものように前を見た。

 

「焦るな」

 

焦らない。

 

「寝るな」

 

眠らない。

 

「前見とけ」

 

前を見る。

 

デュードは山杉トレーナーの声を聞いていた。

 

「そこ、悪くない。下げるな」

 

思ったより、声が的確だった。

 

「前が動く前に準備しとけ」

 

デュードは少しだけ驚く。

 

山杉トレーナーは危険箇所だ。

でも、レースの中ではちゃんと足場を見ている。

 

だから腹が立つ。

 

けれど、今は腹を立てている場合ではない。

 

デュードは足元を見た。

山杉トレーナーの声を聞いた。

そして前を見た。

 

三コーナー。

 

流れが動いた。

 

シェイクも動く。

デュードも動く。

 

同じ壁へ向かって、違う足場から上がっていく。

 

四コーナー。

 

視界が開く。

 

直線。

 

前にはミステリーウェイがいる。

ラスカンブレスも止まらない。

その後ろで、デュードが脚を使う。

 

シェイクも伸びる。

 

心臓が鳴る。

 

届きたい。

勝ちたい。

同じ部屋の相手にも、前の二人にも。

 

古吉トレーナーの声。

 

「最後まで」

 

山杉トレーナーの声。

 

「踏め、デュード!」

 

二人は踏んだ。

 

デュードが前へ出る。

シェイクが追う。

 

一番前には届かない。

二番目にも届かない。

 

けれど、三番目をめぐって、二つの心臓が並ぶ。

 

デュードが少し前。

 

シェイクがその後ろ。

 

ゴール板。

 

デュード、三着。

 

シェイク、四着。

 

数字は、はっきりと出た。

 

どちらも勝っていない。

 

けれど、デュードが前だった。

 

山杉トレーナーと走ったデュードが、古吉トレーナーと走ったシェイクより前にいた。

 

レース後、デュードはしばらく動けなかった。

 

三着。

 

三勝クラス初戦で三着。

 

悪くない。

むしろ、よく走った。

 

でも、勝ってはいない。

 

そして、シェイクより前にいた。

 

山杉トレーナーが来る。

 

「三着や」

 

「はい」

 

「やれるやろ、俺でも」

 

その言葉に、デュードは顔を上げた。

 

言い返したいことが、一瞬でいくつも浮かんだ。

 

酒の匂い。

遅刻の噂。

危険箇所。

預けられるかどうか。

 

でも、今日の山杉トレーナーは、ちゃんと隣にいた。

 

危うい人だ。

それでも今日、デュードを三着まで連れてきた。

 

「やれました」

 

デュードは言った。

 

「でも」

 

「でも?」

 

「やれるのと、預けられるのは違います」

 

山杉トレーナーは、一瞬黙った。

 

それから、ふっと笑った。

 

「ほんま厳しいな」

 

「でも、今日はありがとうございました」

 

「おう」

 

「悔しいです」

 

「三着やからな」

 

「勝ってないので」

 

「せやな」

 

山杉トレーナーは、少しだけ真面目な顔で頷いた。

 

「でも、悪くなかった」

 

「はい」

 

「次、もっとやれる」

 

デュードは、その言葉を受け取った。

 

腹は立つ。

でも、嘘ではない。

 

少し離れたところで、シェイクは古吉トレーナーと向き合っていた。

 

「四着や」

 

「はいぃ……四着でしたぁ」

 

「デュードに負けたな」

 

古吉トレーナーは、ごまかさなかった。

 

シェイクの耳がぴくりと動く。

 

「はいぃ」

 

「山杉で三着や」

 

「はいぃ」

 

「お前は俺で四着や」

 

「はいぃ……」

 

言葉にすると、胸がきゅっと痛んだ。

 

古吉トレーナーと走った。

自分のレースを走った。

でも、デュードより後ろだった。

 

しかも、デュードは古吉トレーナーではなかった。

 

「シェイク、古吉さんと走ったのに……」

 

「それを言うなら、最後まで言え」

 

古吉トレーナーが言った。

 

シェイクは顔を上げた。

 

「古吉さんと走ったのに、勝てなかったですぅ」

 

「せや」

 

「古吉さんと走ったのに、デュードさんに負けましたぁ」

 

「せや」

 

「悔しいですぅ」

 

「おう」

 

古吉トレーナーは頷いた。

 

「それ持って帰れ」

 

「持って帰るんですかぁ……」

 

「いるやろ」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

いる。

 

たぶん、いる。

 

自分が古吉トレーナーを取ったわけではない。

けれど、古吉トレーナーと走ったのは自分だ。

 

その結果が四着。

 

デュードは山杉トレーナーで三着。

 

これは、なかったことにはできない。

 

「はいぃ……持って帰りますぅ」

 

帰りの道中、二人はあまり話さなかった。

 

怒っているわけではない。

嫌になったわけでもない。

 

ただ、お互いの数字があまりにも近くて、重かった。

 

デュード、三着。

シェイク、四着。

 

一つ違い。

 

でも、その一つには、いろいろなものが挟まっていた。

 

古吉トレーナー。

山杉トレーナー。

宮田先生の判断。

シェイクの長い足踏み。

デュードの戻れなかった日。

 

寮に戻ると、二人はいつものように机に向かった。

 

お茶は二つ。

湯気は少しだけ頼りない。

 

先にペンを取ったのはデュードだった。

 

御堂筋ステークス三着。

山杉トレーナー。

三勝クラス初戦。

シェイクさんより前。

でも、勝っていない。

山杉さんは危険箇所。でも腕はある。

やれるのと、預けられるのは違う。

 

シェイクはその横に書いた。

 

御堂筋ステークス四着。

古吉トレーナー。

デュードさんより後ろ。

でも、勝っていないのは同じ。

古吉さんと走っても、勝てるとは限らない。

悔しい。

持って帰る。

 

しばらく、二人は黙っていた。

 

やがて、デュードが言った。

 

「勝ってないのに、シェイクさんより前でした」

 

シェイクは、湯呑みを見つめながら頷いた。

 

「はいぃ……わたし、古吉さんと走ったのに四着でしたぁ」

 

「嬉しくないわけじゃないです」

 

「はいぃ」

 

「でも、なんか……足場の板が斜めです」

 

シェイクは小さく笑った。

 

「わたしも、心臓が斜めですぅ……」

 

デュードも少し笑った。

 

笑えた。

 

でも、痛かった。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「三着、おめでとうですぅ」

 

デュードは一瞬、言葉を失った。

 

それから、静かに頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

「シェイク、悔しいですぅ」

 

「はい」

 

「でも、おめでとうも本当ですぅ」

 

「……はい」

 

デュードは、自分の胸に手を当てた。

 

「わたしも、シェイクさんに勝ったって言いたい気持ちはあります」

 

「はいぃ」

 

「でも、一着じゃないです」

 

「はいぃ」

 

「だから、勝ったって言うには、足りないです」

 

シェイクは頷いた。

 

「どっちも、一着じゃないですぅ」

 

「はい」

 

「一着は、別の子ですぅ」

 

「はい」

 

「三勝クラス、意地悪ですぅ……」

 

「意地悪ですね」

 

二人はお茶を飲んだ。

 

湯気は、いつのまにか消えていた。

 

その夜、宮田先生は二人のメモを見た。

 

シェイクの四着。

デュードの三着。

 

選んだ結果だった。

 

シェイクに古吉トレーナーを残した。

デュードには山杉トレーナーを任せた。

 

結果として、デュードが先着した。

 

それが正しかったのか、間違っていたのか。

簡単には言えない。

 

デュードは山杉トレーナーで走れた。

シェイクは古吉トレーナーと走っても、また勝てなかった。

 

どちらにも、次へ持っていくものがある。

どちらにも、痛みがある。

 

「……ほんま、ようできた子らや」

 

宮田先生は小さく呟いた。

 

褒め言葉なのに、少し苦かった。

 

御堂筋ステークス。

 

デュード三着。

シェイク四着。

 

同じ壁の前で、二人は初めて数字を並べた。

 

デュードは、古吉トレーナーではない足場でも前へ行けることを知った。

けれど、そこが帰りたい足場かどうかは、まだ分からない。

 

シェイクは、古吉トレーナーと走っても届かない日があることを、また知った。

しかも、同室のデュードに先を行かれた。

 

どちらも、勝っていない。

 

でも、どちらも、止まっていない。

 

同じ部屋の机に、三着と四着のメモが並んでいる。

 

その数字は、春の夜に、静かに重かった。

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