心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第二十二章]烏丸、三着と四着

御堂筋ステークスのあと、部屋の空気は少しだけ変わった。

 

壊れたわけではない。

 

シェイクユアハートとタガノデュードは、いつも通り同じ部屋でお茶を飲み、同じ机にメモを並べた。

朝になれば一緒に廊下を歩き、夜になれば次の予定表を見た。

 

けれど、机の上に置かれた二枚の紙は、何度片づけても存在感を消さなかった。

 

御堂筋ステークス。

デュード、三着。

シェイク、四着。

 

どちらも勝っていない。

 

けれど、デュードが前だった。

山杉トレーナーと走ったデュードが、古吉トレーナーと走ったシェイクより前だった。

 

その事実は、静かに部屋の隅へ座っていた。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「次も、同じレースですぅ」

 

「はい」

 

烏丸ステークス。

 

京都、芝2400。

三勝クラス。

 

また、同じ距離。

また、同じ壁。

また、同じ部屋の二人が、同じ場所へ向かう。

 

そして今回も、古吉トレーナーはシェイクの隣に立つ。

デュードの隣には、山杉トレーナーが立つ。

 

「前回と同じ足場ですぅ」

 

シェイクが言うと、デュードは資料の角をそろえた。

 

「同じようで、違います」

 

「違いますかぁ?」

 

「御堂筋の三着と四着を持ったまま行くので」

 

「ほわ~……重いですぅ」

 

「重いです」

 

デュードは自分のメモを見た。

 

山杉さんは危険箇所。でも腕はある。

やれるのと、預けられるのは違う。

三勝クラス初戦、三着。

でも、勝っていない。

 

「山杉さん、今日はどうですかぁ?」

 

「酒の匂いはしませんでした」

 

「最初の評価項目がそれですぅ……」

 

「重要項目です」

 

「遅刻は?」

 

「してません」

 

「現場に入れますかぁ?」

 

「今日も一応、入場可です」

 

シェイクは少し笑った。

 

笑いながらも、胸の奥に小さな緊張がある。

 

前回、シェイクは古吉トレーナーと走って四着だった。

何度も走ってきた三勝クラス。

何度も近くまで行って、何度も届かなかった壁。

 

その壁の前で、デュードが一つ前にいた。

 

悔しい。

 

それは、ちゃんとあった。

 

でも、デュードの三着を嬉しいと思う気持ちもある。

 

どちらも本当だった。

 

烏丸ステークスの日、京都の空は薄く曇っていた。

 

春の終わりに近い空気。

もう冬ではない。

けれど、軽やかとも言い切れない。

 

パドックへ向かう前、山杉トレーナーはデュードに言った。

 

「前回より、硬いな」

 

「分かりますか」

 

「分かる」

 

「前回、三着でしたから」

 

「勝ってへんけどな」

 

「はい」

 

デュードは頷いた。

 

「勝ってないです」

 

「でも、シェイクより前やった」

 

「はい」

 

「それ、持ちすぎるなよ」

 

デュードは少しだけ山杉トレーナーを見た。

 

山杉は、腕がある。

 

こういうところが、困る。

危ういのに、見えている。

不安定なのに、必要なことを言う。

 

「持ちすぎてますか」

 

「持っとるやろ」

 

「はい」

 

「ほな、半分置いてけ」

 

「古吉さんみたいなこと言いますね」

 

「嫌か?」

 

「腹が立ちます」

 

「正直やな」

 

「でも、分かりました。半分置いていきます」

 

山杉トレーナーは少し笑った。

 

「今日は今日や」

 

「はい」

 

「前回、俺で三着。今回は俺で勝つ。それだけ考えろ」

 

「勝てますか」

 

「知らん。でも勝ちに行く」

 

デュードは小さく息を吐いた。

 

「はい」

 

少し離れたところで、シェイクは古吉トレーナーと並んでいた。

 

「前回の四着、持ってきたか」

 

「持ってきましたぁ」

 

「重いか」

 

「重いですぅ」

 

「デュードの三着も持ってきたか」

 

「持ってきちゃいましたぁ……」

 

「それは半分置け」

 

「置けますかねぇ」

 

「置ける分だけでええ」

 

古吉トレーナーは、いつものように短く言った。

 

「今日、デュードに勝てばええわけやない」

 

シェイクの耳が動いた。

 

「そうなんですかぁ?」

 

「当たり前や。デュードに勝っても、一着じゃなかったら勝ってへん」

 

「はいぃ……」

 

「デュードに負けても、勝ったら勝ちや」

 

「それは、そうですぅ」

 

「なら見るところは一つや」

 

古吉トレーナーは前を見た。

 

「一番前」

 

その言葉は、すとんと胸に落ちた。

 

デュードを見ないわけにはいかない。

同室で、同じ壁の前にいる子だから。

 

でも、今日のレースで目指す場所は、デュードの前ではない。

 

一番前。

 

「はいぃ」

 

シェイクは頷いた。

 

「一番前を見ますぅ」

 

パドックで、二人はまたすれ違った。

 

前回より、少しだけ落ち着いていた。

でも、前回より重かった。

 

「デュードさん」

 

「シェイクさん」

 

「今日は、前回と逆にしたいですぅ」

 

デュードは少し笑った。

 

「わたしは、前回より上に行きたいです」

 

「一番前ですかぁ?」

 

「はい」

 

「シェイクもですぅ」

 

「じゃあ、同じですね」

 

「同じですぅ」

 

短く笑って、二人はそれぞれの場所へ戻った。

 

ゲートが開いた。

 

京都芝2400。

 

長い距離。

急いでもいけない。

待ちすぎてもいけない。

 

シェイクは古吉トレーナーの声を聞く。

 

「焦るな」

 

焦らない。

 

「寝るな」

 

眠らない。

 

「前見とけ」

 

前を見る。

 

デュードは山杉トレーナーの声を聞く。

 

「そこでええ。前を遠くしすぎるな」

 

山杉の声は、今日も的確だった。

 

「早く動くな。けど、準備は切るな」

 

デュードは足元を見ながら、前を見た。

 

御堂筋の三着はある。

でも、それは今日の一着を保証しない。

 

三コーナー。

 

レースが動く。

 

シェイクも動く。

デュードも動く。

 

前には、強い子たちがいる。

 

サンライズソレイユ。

シャイニングソード。

 

その背中が簡単には止まらない。

 

四コーナー。

 

視界が開いた。

 

直線。

 

シェイクの心臓が鳴る。

 

前を見る。

一番前を見る。

デュードの位置も、どうしても視界の端に入る。

 

でも、今日はそこではない。

 

「最後まで」

 

古吉トレーナーの声。

 

シェイクは踏んだ。

 

デュードも伸びる。

 

山杉トレーナーが叫ぶ。

 

「踏め、デュード!そこからや!」

 

デュードは応える。

脚を使う。

前を追う。

 

けれど、今日の直線で先に勢いを保ったのは、シェイクだった。

 

シェイクが前へ出る。

デュードが追う。

 

一番前には届かない。

二番目にも届かない。

 

それでも、三番目をめぐって、今度はシェイクの心臓が少しだけ前にいた。

 

ゴール板。

 

シェイク、三着。

 

デュード、四着。

 

前回と逆だった。

 

けれど、勝ったのはどちらでもなかった。

 

シェイクは、息を弾ませながら前を見た。

 

三着。

 

デュードより前。

古吉トレーナーと走って、前回の四着から一つ上がった。

 

でも、一着ではない。

 

古吉トレーナーが来た。

 

「三着や」

 

「はいぃ……三着でしたぁ」

 

「デュードには先着したな」

 

「はいぃ」

 

「けど、勝ってへんな」

 

「はいぃ……」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

嬉しい。

悔しい。

少しほっとしている。

でも、やっぱり痛い。

 

「前回と逆ですぅ」

 

「せやな」

 

「でも、一着じゃないですぅ」

 

「せや」

 

「三勝クラス、ほんとうに意地悪ですぅ……」

 

「意地悪やな」

 

古吉トレーナーは、ごまかさずに頷いた。

 

「でも、今日はデュードより前やった。それも持って帰れ」

 

「持って帰っていいんですかぁ?」

 

「事実や」

 

「でも、勝ってないですぅ」

 

「それも事実や」

 

シェイクは、ゆっくり頷いた。

 

「両方、持って帰りますぅ」

 

少し離れたところで、デュードは山杉トレーナーと向き合っていた。

 

「四着や」

 

「はい」

 

「前回より一つ下がったな」

 

「はい」

 

「シェイクに前行かれた」

 

「はい」

 

デュードの声は静かだった。

 

山杉トレーナーは少しだけ眉を寄せた。

 

「悔しいか」

 

「悔しいです」

 

「俺のせいにするか」

 

デュードは顔を上げた。

 

「しません」

 

「ほんまか」

 

「山杉さんは、今日もちゃんと見てました」

 

「おう」

 

「声も、悪くなかったです」

 

「褒めとる?」

 

「褒めてます」

 

「珍しいな」

 

「でも、勝ってないです」

 

「せやな」

 

「シェイクさんにも負けました」

 

「せや」

 

「前回、山杉さんで三着。今回は山杉さんで四着」

 

デュードは、息を整えながら言った。

 

「やれるのは分かりました。でも、勝ててはいないです」

 

山杉トレーナーは黙った。

 

「厳しいな」

 

「山杉さんにも、自分にもです」

 

「それでええ」

 

山杉トレーナーは短く言った。

 

「ぬるくなるよりええ」

 

「山杉さんがそれを言いますか」

 

「俺が言うからええんやろ」

 

「危険箇所が何か言ってます」

 

「ほんまきついな」

 

デュードは、少しだけ笑った。

 

笑ったけれど、胸は痛かった。

 

寮へ戻る道、二人は前回より少し早く話し始めた。

 

「前回と逆でしたね」

 

デュードが言った。

 

「はいぃ」

 

「シェイクさんが三着」

 

「デュードさんが四着ですぅ」

 

「でも、一着はどっちでもないです」

 

シェイクは、その言葉に小さく頷いた。

 

「はいぃ……そこがいちばん、痛いですぅ」

 

「痛いですね」

 

「勝ちたいですねぇ」

 

「勝ちたいです」

 

その言葉は、同じだった。

 

同じ部屋の二人。

同じ壁の前で、三着と四着を入れ替えた二人。

 

どちらが前か。

それも大事だった。

 

でも、本当に欲しい数字は、まだどちらの机にも来ていない。

 

夜、二人はいつものようにメモを書いた。

 

シェイク。

 

烏丸ステークス三着。

古吉トレーナー。

デュードさんより前。

でも、一着ではない。

前回と逆。

両方持って帰る。

 

デュード。

 

烏丸ステークス四着。

山杉トレーナー。

シェイクさんより後ろ。

でも、山杉さんはちゃんと見ていた。

やれるのは分かった。

勝ててはいない。

前回と逆。

でも、一着はどっちでもない。

 

二人はメモを並べた。

 

御堂筋ステークス。

デュード三着、シェイク四着。

 

烏丸ステークス。

シェイク三着、デュード四着。

 

綺麗に入れ替わっている。

 

あまりにも綺麗で、少し腹が立つくらいだった。

 

「並べると、嫌ですね」

 

デュードが言った。

 

「嫌ですぅ……」

 

「三着と四着を交換してます」

 

「でも、一着がありませんぅ」

 

「ありませんね」

 

シェイクは湯呑みを持った。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「ようこそ、三勝クラスですぅ」

 

「遅くないですか、その歓迎」

 

「本当の歓迎は、今日かもしれませんぅ」

 

デュードは少し黙った。

 

御堂筋の三着は、まだ少し前向きだった。

三勝クラス初戦で三着。

古吉トレーナーではなく山杉トレーナーでも走れた。

 

けれど烏丸の四着で、分かった。

 

ここは、本当に簡単には抜けられない。

 

シェイクが長くもがいていた場所。

近い数字が増えるほど、心臓が重くなる場所。

 

「沼ですね」

 

デュードは言った。

 

「沼ですぅ」

 

「足場、沈みます」

 

「沈みますぅ」

 

「でも、組まないといけない」

 

「はいぃ」

 

「シェイクさん」

 

「はいぃ」

 

「わたし、三勝クラスに来ました」

 

シェイクは、静かに頷いた。

 

「来ましたねぇ」

 

「ちゃんと、来た気がします」

 

「はいぃ」

 

「つらいですね」

 

「つらいですぅ」

 

「でも、少し安心しました」

 

「ほわ?」

 

「シェイクさんが、ここでずっと戦ってたことが、少し分かったので」

 

シェイクは、少しだけ目を丸くした。

 

それから、ほわりと笑った。

 

「じゃあ、一緒に抜けましょう」

 

「はい」

 

「先に抜けたら、待ちますぅ」

 

「シェイクさんが先に抜ける前提ですか」

 

「長くいますからぁ」

 

「年功序列ですか」

 

「沼歴ですぅ」

 

「嫌な序列ですね」

 

二人は笑った。

 

笑えたけれど、机の上の数字はやはり重かった。

 

宮田先生は、二人のメモを見て、深く息を吐いた。

 

「三着と四着を入れ替えたか……」

 

御堂筋で、デュードが三着。シェイクが四着。

烏丸で、シェイクが三着。デュードが四着。

 

どちらの判断が正しかったのか。

古吉トレーナーをシェイクに残し、デュードに山杉トレーナーを任せたこと。

 

答えはまだ出ない。

 

だが一つだけ分かることがあった。

 

二人とも、ここで戦える。

 

そして、二人とも、まだ勝てていない。

 

宮田先生は窓の外を見た。

 

「次やな」

 

小さく呟いた。

 

次。

 

その言葉は、シェイクの机にも、デュードの机にも、もう何度も書かれてきた。

 

次こそ。

ではなく。

 

次を走る。

 

烏丸ステークス。

 

シェイク三着。

デュード四着。

 

前回と逆。

 

けれど、一着はどちらでもなかった。

 

同じ壁の前で、二つの心臓はまた少しだけ深く沈んだ。

それでも、沈みきらないように、机の上で次の足場を組み始めていた。

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