御堂筋ステークスのあと、部屋の空気は少しだけ変わった。
壊れたわけではない。
シェイクユアハートとタガノデュードは、いつも通り同じ部屋でお茶を飲み、同じ机にメモを並べた。
朝になれば一緒に廊下を歩き、夜になれば次の予定表を見た。
けれど、机の上に置かれた二枚の紙は、何度片づけても存在感を消さなかった。
御堂筋ステークス。
デュード、三着。
シェイク、四着。
どちらも勝っていない。
けれど、デュードが前だった。
山杉トレーナーと走ったデュードが、古吉トレーナーと走ったシェイクより前だった。
その事実は、静かに部屋の隅へ座っていた。
「デュードさん」
「はい」
「次も、同じレースですぅ」
「はい」
烏丸ステークス。
京都、芝2400。
三勝クラス。
また、同じ距離。
また、同じ壁。
また、同じ部屋の二人が、同じ場所へ向かう。
そして今回も、古吉トレーナーはシェイクの隣に立つ。
デュードの隣には、山杉トレーナーが立つ。
「前回と同じ足場ですぅ」
シェイクが言うと、デュードは資料の角をそろえた。
「同じようで、違います」
「違いますかぁ?」
「御堂筋の三着と四着を持ったまま行くので」
「ほわ~……重いですぅ」
「重いです」
デュードは自分のメモを見た。
山杉さんは危険箇所。でも腕はある。
やれるのと、預けられるのは違う。
三勝クラス初戦、三着。
でも、勝っていない。
「山杉さん、今日はどうですかぁ?」
「酒の匂いはしませんでした」
「最初の評価項目がそれですぅ……」
「重要項目です」
「遅刻は?」
「してません」
「現場に入れますかぁ?」
「今日も一応、入場可です」
シェイクは少し笑った。
笑いながらも、胸の奥に小さな緊張がある。
前回、シェイクは古吉トレーナーと走って四着だった。
何度も走ってきた三勝クラス。
何度も近くまで行って、何度も届かなかった壁。
その壁の前で、デュードが一つ前にいた。
悔しい。
それは、ちゃんとあった。
でも、デュードの三着を嬉しいと思う気持ちもある。
どちらも本当だった。
烏丸ステークスの日、京都の空は薄く曇っていた。
春の終わりに近い空気。
もう冬ではない。
けれど、軽やかとも言い切れない。
パドックへ向かう前、山杉トレーナーはデュードに言った。
「前回より、硬いな」
「分かりますか」
「分かる」
「前回、三着でしたから」
「勝ってへんけどな」
「はい」
デュードは頷いた。
「勝ってないです」
「でも、シェイクより前やった」
「はい」
「それ、持ちすぎるなよ」
デュードは少しだけ山杉トレーナーを見た。
山杉は、腕がある。
こういうところが、困る。
危ういのに、見えている。
不安定なのに、必要なことを言う。
「持ちすぎてますか」
「持っとるやろ」
「はい」
「ほな、半分置いてけ」
「古吉さんみたいなこと言いますね」
「嫌か?」
「腹が立ちます」
「正直やな」
「でも、分かりました。半分置いていきます」
山杉トレーナーは少し笑った。
「今日は今日や」
「はい」
「前回、俺で三着。今回は俺で勝つ。それだけ考えろ」
「勝てますか」
「知らん。でも勝ちに行く」
デュードは小さく息を吐いた。
「はい」
少し離れたところで、シェイクは古吉トレーナーと並んでいた。
「前回の四着、持ってきたか」
「持ってきましたぁ」
「重いか」
「重いですぅ」
「デュードの三着も持ってきたか」
「持ってきちゃいましたぁ……」
「それは半分置け」
「置けますかねぇ」
「置ける分だけでええ」
古吉トレーナーは、いつものように短く言った。
「今日、デュードに勝てばええわけやない」
シェイクの耳が動いた。
「そうなんですかぁ?」
「当たり前や。デュードに勝っても、一着じゃなかったら勝ってへん」
「はいぃ……」
「デュードに負けても、勝ったら勝ちや」
「それは、そうですぅ」
「なら見るところは一つや」
古吉トレーナーは前を見た。
「一番前」
その言葉は、すとんと胸に落ちた。
デュードを見ないわけにはいかない。
同室で、同じ壁の前にいる子だから。
でも、今日のレースで目指す場所は、デュードの前ではない。
一番前。
「はいぃ」
シェイクは頷いた。
「一番前を見ますぅ」
パドックで、二人はまたすれ違った。
前回より、少しだけ落ち着いていた。
でも、前回より重かった。
「デュードさん」
「シェイクさん」
「今日は、前回と逆にしたいですぅ」
デュードは少し笑った。
「わたしは、前回より上に行きたいです」
「一番前ですかぁ?」
「はい」
「シェイクもですぅ」
「じゃあ、同じですね」
「同じですぅ」
短く笑って、二人はそれぞれの場所へ戻った。
ゲートが開いた。
京都芝2400。
長い距離。
急いでもいけない。
待ちすぎてもいけない。
シェイクは古吉トレーナーの声を聞く。
「焦るな」
焦らない。
「寝るな」
眠らない。
「前見とけ」
前を見る。
デュードは山杉トレーナーの声を聞く。
「そこでええ。前を遠くしすぎるな」
山杉の声は、今日も的確だった。
「早く動くな。けど、準備は切るな」
デュードは足元を見ながら、前を見た。
御堂筋の三着はある。
でも、それは今日の一着を保証しない。
三コーナー。
レースが動く。
シェイクも動く。
デュードも動く。
前には、強い子たちがいる。
サンライズソレイユ。
シャイニングソード。
その背中が簡単には止まらない。
四コーナー。
視界が開いた。
直線。
シェイクの心臓が鳴る。
前を見る。
一番前を見る。
デュードの位置も、どうしても視界の端に入る。
でも、今日はそこではない。
「最後まで」
古吉トレーナーの声。
シェイクは踏んだ。
デュードも伸びる。
山杉トレーナーが叫ぶ。
「踏め、デュード!そこからや!」
デュードは応える。
脚を使う。
前を追う。
けれど、今日の直線で先に勢いを保ったのは、シェイクだった。
シェイクが前へ出る。
デュードが追う。
一番前には届かない。
二番目にも届かない。
それでも、三番目をめぐって、今度はシェイクの心臓が少しだけ前にいた。
ゴール板。
シェイク、三着。
デュード、四着。
前回と逆だった。
けれど、勝ったのはどちらでもなかった。
シェイクは、息を弾ませながら前を見た。
三着。
デュードより前。
古吉トレーナーと走って、前回の四着から一つ上がった。
でも、一着ではない。
古吉トレーナーが来た。
「三着や」
「はいぃ……三着でしたぁ」
「デュードには先着したな」
「はいぃ」
「けど、勝ってへんな」
「はいぃ……」
シェイクは胸に手を当てた。
嬉しい。
悔しい。
少しほっとしている。
でも、やっぱり痛い。
「前回と逆ですぅ」
「せやな」
「でも、一着じゃないですぅ」
「せや」
「三勝クラス、ほんとうに意地悪ですぅ……」
「意地悪やな」
古吉トレーナーは、ごまかさずに頷いた。
「でも、今日はデュードより前やった。それも持って帰れ」
「持って帰っていいんですかぁ?」
「事実や」
「でも、勝ってないですぅ」
「それも事実や」
シェイクは、ゆっくり頷いた。
「両方、持って帰りますぅ」
少し離れたところで、デュードは山杉トレーナーと向き合っていた。
「四着や」
「はい」
「前回より一つ下がったな」
「はい」
「シェイクに前行かれた」
「はい」
デュードの声は静かだった。
山杉トレーナーは少しだけ眉を寄せた。
「悔しいか」
「悔しいです」
「俺のせいにするか」
デュードは顔を上げた。
「しません」
「ほんまか」
「山杉さんは、今日もちゃんと見てました」
「おう」
「声も、悪くなかったです」
「褒めとる?」
「褒めてます」
「珍しいな」
「でも、勝ってないです」
「せやな」
「シェイクさんにも負けました」
「せや」
「前回、山杉さんで三着。今回は山杉さんで四着」
デュードは、息を整えながら言った。
「やれるのは分かりました。でも、勝ててはいないです」
山杉トレーナーは黙った。
「厳しいな」
「山杉さんにも、自分にもです」
「それでええ」
山杉トレーナーは短く言った。
「ぬるくなるよりええ」
「山杉さんがそれを言いますか」
「俺が言うからええんやろ」
「危険箇所が何か言ってます」
「ほんまきついな」
デュードは、少しだけ笑った。
笑ったけれど、胸は痛かった。
寮へ戻る道、二人は前回より少し早く話し始めた。
「前回と逆でしたね」
デュードが言った。
「はいぃ」
「シェイクさんが三着」
「デュードさんが四着ですぅ」
「でも、一着はどっちでもないです」
シェイクは、その言葉に小さく頷いた。
「はいぃ……そこがいちばん、痛いですぅ」
「痛いですね」
「勝ちたいですねぇ」
「勝ちたいです」
その言葉は、同じだった。
同じ部屋の二人。
同じ壁の前で、三着と四着を入れ替えた二人。
どちらが前か。
それも大事だった。
でも、本当に欲しい数字は、まだどちらの机にも来ていない。
夜、二人はいつものようにメモを書いた。
シェイク。
烏丸ステークス三着。
古吉トレーナー。
デュードさんより前。
でも、一着ではない。
前回と逆。
両方持って帰る。
デュード。
烏丸ステークス四着。
山杉トレーナー。
シェイクさんより後ろ。
でも、山杉さんはちゃんと見ていた。
やれるのは分かった。
勝ててはいない。
前回と逆。
でも、一着はどっちでもない。
二人はメモを並べた。
御堂筋ステークス。
デュード三着、シェイク四着。
烏丸ステークス。
シェイク三着、デュード四着。
綺麗に入れ替わっている。
あまりにも綺麗で、少し腹が立つくらいだった。
「並べると、嫌ですね」
デュードが言った。
「嫌ですぅ……」
「三着と四着を交換してます」
「でも、一着がありませんぅ」
「ありませんね」
シェイクは湯呑みを持った。
「デュードさん」
「はい」
「ようこそ、三勝クラスですぅ」
「遅くないですか、その歓迎」
「本当の歓迎は、今日かもしれませんぅ」
デュードは少し黙った。
御堂筋の三着は、まだ少し前向きだった。
三勝クラス初戦で三着。
古吉トレーナーではなく山杉トレーナーでも走れた。
けれど烏丸の四着で、分かった。
ここは、本当に簡単には抜けられない。
シェイクが長くもがいていた場所。
近い数字が増えるほど、心臓が重くなる場所。
「沼ですね」
デュードは言った。
「沼ですぅ」
「足場、沈みます」
「沈みますぅ」
「でも、組まないといけない」
「はいぃ」
「シェイクさん」
「はいぃ」
「わたし、三勝クラスに来ました」
シェイクは、静かに頷いた。
「来ましたねぇ」
「ちゃんと、来た気がします」
「はいぃ」
「つらいですね」
「つらいですぅ」
「でも、少し安心しました」
「ほわ?」
「シェイクさんが、ここでずっと戦ってたことが、少し分かったので」
シェイクは、少しだけ目を丸くした。
それから、ほわりと笑った。
「じゃあ、一緒に抜けましょう」
「はい」
「先に抜けたら、待ちますぅ」
「シェイクさんが先に抜ける前提ですか」
「長くいますからぁ」
「年功序列ですか」
「沼歴ですぅ」
「嫌な序列ですね」
二人は笑った。
笑えたけれど、机の上の数字はやはり重かった。
宮田先生は、二人のメモを見て、深く息を吐いた。
「三着と四着を入れ替えたか……」
御堂筋で、デュードが三着。シェイクが四着。
烏丸で、シェイクが三着。デュードが四着。
どちらの判断が正しかったのか。
古吉トレーナーをシェイクに残し、デュードに山杉トレーナーを任せたこと。
答えはまだ出ない。
だが一つだけ分かることがあった。
二人とも、ここで戦える。
そして、二人とも、まだ勝てていない。
宮田先生は窓の外を見た。
「次やな」
小さく呟いた。
次。
その言葉は、シェイクの机にも、デュードの机にも、もう何度も書かれてきた。
次こそ。
ではなく。
次を走る。
烏丸ステークス。
シェイク三着。
デュード四着。
前回と逆。
けれど、一着はどちらでもなかった。
同じ壁の前で、二つの心臓はまた少しだけ深く沈んだ。
それでも、沈みきらないように、机の上で次の足場を組み始めていた。