心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第二十三章]垂水とストーク

烏丸ステークスのあと、二人の机には、きれいすぎるほど嫌な数字が並んでいた。

 

御堂筋ステークス。

デュード、三着。

シェイク、四着。

 

烏丸ステークス。

シェイク、三着。

デュード、四着。

 

入れ替わっただけ。

 

一つ前になったり、一つ後ろになったり。

けれど、一番前にはどちらもいない。

 

シェイクユアハートは、その紙を何度も見た。

 

「三着と四着が、仲良しですぅ……」

 

「仲良くしなくていいです」

 

タガノデュードは即答した。

 

「一着と仲良くしたいです」

 

「はいぃ……」

 

二人はお茶を飲みながら、同時にため息をついた。

 

三勝クラスは、二人に同じ壁を見せた。

 

シェイクにとっては、もう長く長く見てきた壁。

デュードにとっては、ようやく来たと思ったらすぐに沈み始めた壁。

 

そして次の予定表には、二人の名前が別々の日に書かれていた。

 

シェイクは、垂水ステークス。

阪神、芝二千。

古吉トレーナー。

 

デュードは、ストークステークス。

阪神、芝二二。

山杉トレーナー。

 

同じ阪神。

同じ六月。

けれど、同じレースではない。

 

「今度は、古吉さんが一人問題はないですぅ」

 

シェイクが言うと、デュードは資料を見ながら頷いた。

 

「そうですね」

 

「デュードさんは山杉さんですぅ」

 

「はい」

 

「……山杉さん、最近どうですかぁ?」

 

「酒の匂いはしません」

 

「第一関門突破ですぅ」

 

「遅刻も減りました」

 

「すごいですぅ」

 

「ただ、本人が『俺、だいぶ改善してへん?』みたいな顔をするので腹が立ちます」

 

「ほわ~……」

 

デュードは、山杉トレーナーの欄を指で軽く叩いた。

 

「腕はあります」

 

「はいぃ」

 

「御堂筋も烏丸も、山杉さんはちゃんと見てました」

 

「はいぃ」

 

「でも、勝ってはいません」

 

「……はいぃ」

 

「わたしも、勝っていません」

 

その言葉は静かだった。

 

シェイクはデュードの横顔を見た。

 

御堂筋で三着。

烏丸で四着。

 

デュードは三勝クラスでも走れている。

だが、勝ててはいない。

 

山杉トレーナーは危険箇所。

でも腕はある。

やれるのは分かった。

預けられるかはまだ分からない。

 

デュードのメモには、そう書かれている。

 

「シェイクさん」

 

「はいぃ」

 

「垂水、勝ってください」

 

シェイクは瞬きをした。

 

「いいんですかぁ?」

 

「いいも悪いもないです。勝てるなら勝ってください」

 

「デュードさんを置いていくみたいですぅ」

 

「置いていくんじゃないです」

 

デュードは、資料から顔を上げた。

 

「シェイクさんが先に抜けるだけです」

 

「それは置いていくのと違いますかぁ?」

 

「違います」

 

デュードは少しだけ強く言った。

 

「わたしは、まだ組んでる途中です。シェイクさんは、もうずっとこの壁の前にいます」

 

シェイクは、黙った。

 

「だから、抜けられるなら抜けてください」

 

「デュードさん……」

 

「その代わり」

 

デュードは、少しだけ笑った。

 

「待っててください」

 

シェイクの胸が、ほわりと熱くなった。

 

「はいぃ」

 

小さく頷く。

 

「待ってますぅ」

 

垂水ステークスの日。

 

阪神の空は曇っていた。

 

芝二千。

三勝クラス。

 

シェイクはパドックで、いつもより静かだった。

 

緊張していないわけではない。

むしろ、胸の奥では数字がいくつも鳴っていた。

 

比叡ステークス、四着。

サンタクロースステークス、二着。

八坂ステークス、六着。

関門橋ステークス、三着。

ダイワスカーレットカップ、二着。

下鴨ステークス、三着。

テレQ杯、二着。

ムーンライトハンデキャップ、二着。

修学院ステークス、二着。

オリオンステークス、三着。

寿ステークス、二着。

飛鳥ステークス、三着。

御堂筋ステークス、四着。

烏丸ステークス、三着。

 

長かった。

 

あまりにも長かった。

 

近い数字が多すぎて、もうどれが最初の痛みだったのか分からなくなるほどだった。

 

古吉トレーナーは、隣で言った。

 

「メモ、全部持ってきたか」

 

「持ってきちゃいましたぁ」

 

「重いやろ」

 

「重いですぅ」

 

「半分置け」

 

「半分で足りますかぁ?」

 

「今日は、半分でええ」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「デュードさんに、勝ってくださいって言われましたぁ」

 

「そうか」

 

「待っててくださいとも言われましたぁ」

 

「そうか」

 

「勝ちたいですぅ」

 

「せやな」

 

「でも、勝ちたいを持ちすぎると重いですぅ」

 

「分かっとるやん」

 

古吉トレーナーは少しだけ笑った。

 

「今日はな、勝ちたいを捨てんでええ。ただし、最後まで持ち直せる分だけにしとけ」

 

「最後まで……」

 

「直線で潰れるほど持つな」

 

シェイクは頷いた。

 

「はいぃ」

 

「ここまで来たんや」

 

古吉トレーナーは、芝の方を見た。

 

「そろそろ、終わらせよか」

 

その言葉は、静かだった。

 

派手な激励ではない。

でも、シェイクの心臓を確かに鳴らした。

 

「はいぃ」

 

シェイクは、前を見た。

 

「終わらせますぅ」

 

ゲートが開いた。

 

垂水ステークス。

 

シェイクは出た。

 

いつものように、前を見た。

いつものように、焦らないようにした。

いつものように、脚を残そうとした。

 

でも今日は、いつもと少し違った。

 

心臓が先に行きすぎていない。

 

足元にある。

胸の中で鳴っているのに、足と離れていない。

 

古吉トレーナーの声が届く。

 

「そこでええ」

 

そこでいい。

 

六番手あたりで流れに乗る。

前を遠くしすぎない。

下げすぎない。

急がない。

 

阪神の芝二千。

曇った空。

これまでの二着と三着と四着。

 

全部が、背中ではなく足元にある。

 

三コーナー。

 

前が動く。

 

シェイクも準備する。

 

「まだや」

 

古吉トレーナーの声。

 

待つ。

 

「そろそろ」

 

身体を起こす。

 

四コーナー。

 

視界が開いた。

 

「行こか」

 

その一言で、シェイクは踏んだ。

 

直線。

 

前にはバッデレイトがいる。

後ろからも来る。

簡単には止まらない子たちがいる。

 

でも、今日はシェイクの脚も止まらなかった。

 

一頭を追う。

並ぶ。

前へ出る。

 

心臓が鳴る。

 

サンタクロースの二着。

ダイワスカーレットの二着。

テレQの二着。

ムーンライトの二着。

修学院の二着。

寿の二着。

 

全部、一着の隣だった。

 

今日は、隣では終わらない。

 

「シェイク」

 

古吉トレーナーの声。

 

「最後まで」

 

シェイクは踏んだ。

 

もう一度。

もう一歩。

 

ゴール板。

 

一番前。

 

シェイクユアハートは、一番前でゴールした。

 

音が、一瞬遅れて戻ってきた。

 

歓声。

息。

芝を踏む音。

古吉トレーナーの声。

 

シェイクは、しばらく分からなかった。

 

「ほわ……?」

 

前に、誰もいない。

 

後ろに、誰かがいる。

 

自分が、一番前にいる。

 

古吉トレーナーが来た。

 

「勝ったな」

 

その言葉で、シェイクの目が大きく開いた。

 

「勝ちましたぁ……?」

 

「勝った」

 

「三勝クラス、終わりましたぁ……?」

 

「終わったな」

 

シェイクは、胸に手を当てた。

 

心臓が鳴っている。

 

でも、今までの痛い音ではない。

ゴールの少し手前に置いていかれた音でもない。

一着の隣で震えていた音でもない。

 

一番前で鳴っている。

 

「ほわ~……」

 

声が震えた。

 

「長かったですぅ……」

 

「長かったな」

 

古吉トレーナーは、いつも通り短く答えた。

 

でも、その声は少しだけ柔らかかった。

 

「よう走った」

 

シェイクは、そこでようやく笑った。

 

泣くより先に、ほわりと笑った。

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「終わりましたぁ」

 

「せやな」

 

「でも、ここからまた始まりますかぁ?」

 

「始まるな」

 

「ほわ~……」

 

「でも、今日は終わった日でええ」

 

シェイクは頷いた。

 

「はいぃ……今日は、終わった日ですぅ」

 

寮に戻った時、デュードは部屋の前で待っていた。

 

シェイクを見るなり、デュードは少しだけ表情を崩した。

 

「シェイクさん」

 

「デュードさん」

 

「勝ちましたね」

 

「勝ちましたぁ」

 

「三勝クラス、抜けましたね」

 

「抜けましたぁ」

 

デュードは、ゆっくり息を吸った。

 

嬉しい。

 

それは、本当にある。

 

同じ部屋で、長い長い三勝クラスのメモを見てきた。

二着、三着、四着。

その痛みを、机の向こうでずっと見てきた。

 

シェイクが勝った。

 

それは嬉しい。

 

でも、胸の奥で別の音も鳴っている。

 

自分は、まだ残る。

 

「おめでとうございます」

 

デュードは言った。

 

シェイクは、その声の奥をちゃんと聞いた。

 

「ありがとうございますぅ」

 

「先に抜けましたね」

 

「はいぃ」

 

「置いていかれた、とは言いません」

 

「はいぃ」

 

「わたしが、まだ組んでる途中なので」

 

シェイクは、ほわりと笑った。

 

「待ってますぅ」

 

デュードの胸が、少しだけ熱くなった。

 

「はい」

 

「でも、デュードさんもすぐですぅ」

 

「分かりません」

 

「ほわ?」

 

「三勝クラスは、そんなに優しくないです」

 

デュードは少しだけ笑った。

 

「シェイクさんが一番知ってるでしょう」

 

「知ってますぅ……」

 

「だから、すぐとは言わないでください」

 

「じゃあ……」

 

シェイクは少し考えた。

 

「ちゃんと待ってますぅ」

 

デュードは頷いた。

 

「それでお願いします」

 

その夜、二人は机に向かった。

 

シェイクのメモ。

 

垂水ステークス一着。

古吉トレーナー。

三勝クラス、終わった。

長かった。

今日は、終わった日。

デュードさんを待つ。

 

デュードは、その文字を見て静かに笑った。

 

「終わった日、ですか」

 

「はいぃ」

 

「いいですね」

 

「はいぃ。今日は、終わった日ですぅ」

 

デュードは、自分の机へ目を落とした。

 

次は、ストークステークス。

 

阪神、芝二二。

三勝クラス。

山杉トレーナー。

 

シェイクが抜けた二週間後に、自分はまた同じクラスへ向かう。

 

その事実が、胸の奥で重く響いた。

 

ストークステークスの日、阪神の空は晴れていた。

 

シェイクの垂水ステークスとは違う空。

明るい分だけ、余計に自分の足元が見える。

 

デュードの隣には、山杉トレーナーがいた。

 

「酒の匂いは」

 

「せえへん」

 

「遅刻は」

 

「してへん」

 

「今日は現場に入れます」

 

「毎回それやるんか」

 

「安全確認です」

 

「はいはい」

 

山杉トレーナーは、苦笑した。

 

でも、以前より少しだけ、そのやり取りを受け入れているように見えた。

 

「シェイク、勝ったな」

 

山杉トレーナーが言った。

 

「勝ちました」

 

「焦るか」

 

「焦ります」

 

「やろな」

 

「でも、焦ったら足場が崩れます」

 

「分かっとるやん」

 

「分かってても焦ります」

 

「ほな、半分置いてけ」

 

デュードは、少しだけ山杉トレーナーを見た。

 

「古吉さんみたいなことを言うの、増えましたね」

 

「便利やからな」

 

「腹立ちます」

 

「でも使うやろ」

 

「使います」

 

デュードは息を吐いた。

 

シェイクさんは抜けた。

 

自分は残る。

 

置いていかれたとは言わない。

まだ組んでいる途中だから。

 

でも、心臓は少しだけ急ぎたがる。

 

「今日は、何を持っていけばいいですか」

 

デュードが聞くと、山杉トレーナーは少し考えた。

 

「御堂筋の三着」

 

「はい」

 

「烏丸の四着」

 

「はい」

 

「シェイクの垂水一着」

 

「それもですか」

 

「置いていけんやろ」

 

デュードは黙った。

 

置いていけない。

 

同じ部屋の机に置かれた、一着のメモ。

あれを見ないふりはできない。

 

「持ちます」

 

「重すぎる分は置け」

 

「はい」

 

「今日は、シェイクの後追いやなくて、お前のストークや」

 

デュードは顔を上げた。

 

山杉トレーナーの目は、ちゃんとレースを見ていた。

 

危険箇所。

 

でも、腕はある。

 

「分かりました」

 

デュードは頷いた。

 

「わたしのストークを走ります」

 

ゲートが開いた。

 

ストークステークス。

 

阪神、芝二二。

 

デュードは出た。

 

流れに乗る。

位置を取る。

前を見失わない。

 

山杉トレーナーの声が届く。

 

「そこでええ。焦るな」

 

焦るな。

 

言われなくても分かっている。

でも、心臓は焦っている。

 

シェイクは抜けた。

自分は残る。

待ってくれている。

 

それは優しい。

でも、優しさが時々、足に重くなる。

 

三コーナー。

 

前が動く。

 

デュードも動く。

 

山杉トレーナーの声。

 

「早すぎるな。準備だけしとけ」

 

準備。

 

足場を組む。

焦らず、でも遅れず。

 

四コーナー。

 

視界が開く。

 

直線。

 

前にはヴェルテンベルクがいる。

ガジュノリがいる。

オーロチェックも粘る。

 

デュードは脚を使う。

 

届きたい。

 

シェイクのところへ。

自分の一着へ。

三勝クラスの出口へ。

 

でも、一番前は遠い。

 

脚は使っている。

止まってはいない。

 

けれど、今日も勝ち切れない。

 

ゴール。

 

四着。

 

デュードは、息を弾ませながら前を見た。

 

また、四着。

 

烏丸ステークスと同じ数字。

 

シェイクが抜けたあと、自分は四着。

 

山杉トレーナーが来る。

 

「四着や」

 

「はい」

 

「悪くはない」

 

「でも、勝ってないです」

 

「せやな」

 

「シェイクさんは勝ちました」

 

「せやな」

 

「わたしは四着です」

 

「せや」

 

山杉トレーナーは、ごまかさなかった。

 

「今日は焦っとったな」

 

「はい」

 

「シェイクの勝ち、持ちすぎた」

 

「はい」

 

「でも、止まってへん」

 

「はい」

 

「次や」

 

デュードは、少しだけ笑った。

 

「山杉さん、次って言うんですね」

 

「言うやろ」

 

「ちゃんとトレーナーみたいです」

 

「みたい、やなくてトレーナーや」

 

「危険箇所ですけど」

 

「まだ言うか」

 

「言います」

 

少しだけ笑えた。

 

でも、悔しさは消えなかった。

 

寮に戻ると、シェイクが待っていた。

 

もう三勝クラスを抜けたシェイク。

 

それでも、部屋は同じだった。

お茶も二つあった。

机も向かい合っていた。

 

「デュードさん」

 

「四着でした」

 

「はいぃ……」

 

「勝てませんでした」

 

「はいぃ」

 

「シェイクさんのところへ、まだ行けません」

 

シェイクは、ゆっくり首を振った。

 

「シェイクのところじゃないですぅ」

 

「え?」

 

「デュードさんの一着のところですぅ」

 

デュードは、言葉を失った。

 

シェイクは湯呑みを置いた。

 

「シェイクは先に抜けました。でも、デュードさんが行くのは、シェイクのところじゃなくて、デュードさんの出口ですぅ」

 

「……はい」

 

「待ってます。でも、引っ張ることはできませんぅ」

 

デュードは、胸に手を当てた。

 

心臓が痛かった。

 

でも、少しだけ足元が見えた。

 

「ストークステークス四着」

 

デュードはメモに書いた。

 

山杉トレーナー。

シェイクさんが垂水で勝ったあと。

焦った。

勝っていない。

でも、行くのはシェイクさんのところではない。

わたしの一着のところ。

 

シェイクは、自分の垂水ステークスのメモをその隣に置いた。

 

垂水ステークス一着。

ストークステークス四着。

 

一つの心臓は、三勝クラスを抜けた。

もう一つの心臓は、まだ同じ沼にいる。

 

けれど、部屋は変わらない。

 

二人はまだ、同じお茶を飲んでいる。

同じ机で、次の図面を広げている。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「ちゃんと待ってますぅ」

 

「はい」

 

「でも、急がなくていいですぅ」

 

「急ぎたいです」

 

「はいぃ」

 

「でも、急ぎすぎないようにします」

 

「足場が崩れますからぁ」

 

「はい」

 

デュードは、小さく笑った。

 

「足場、組み直します」

 

六月の夜は、少し湿っていた。

 

垂水ステークスで、シェイクユアハートは三勝クラスを抜けた。

ストークステークスで、タガノデュードは四着だった。

 

終わった子と、残った子。

 

けれどそれは、別れではなかった。

 

シェイクは待つ。

デュードは、自分の出口へ向かって足場を組む。

 

二人の机には、一着と四着のメモが並んだ。

 

その差は、今までの三着と四着よりずっと大きく見えた。

 

けれど、デュードはもう知っている。

 

高い足場でも、立てた日があった。

走らせない日もあった。

前にいる子が見えた日もあった。

古吉トレーナーじゃなくても勝てた日があった。

山杉トレーナーでも走れた日があった。

 

まだ、組める。

 

まだ、走れる。

 

シェイクの心臓は、一足先に次の場所へ向かった。

デュードの心臓は、少し遅れて、けれど確かに鳴り続けていた。

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