烏丸ステークスのあと、二人の机には、きれいすぎるほど嫌な数字が並んでいた。
御堂筋ステークス。
デュード、三着。
シェイク、四着。
烏丸ステークス。
シェイク、三着。
デュード、四着。
入れ替わっただけ。
一つ前になったり、一つ後ろになったり。
けれど、一番前にはどちらもいない。
シェイクユアハートは、その紙を何度も見た。
「三着と四着が、仲良しですぅ……」
「仲良くしなくていいです」
タガノデュードは即答した。
「一着と仲良くしたいです」
「はいぃ……」
二人はお茶を飲みながら、同時にため息をついた。
三勝クラスは、二人に同じ壁を見せた。
シェイクにとっては、もう長く長く見てきた壁。
デュードにとっては、ようやく来たと思ったらすぐに沈み始めた壁。
そして次の予定表には、二人の名前が別々の日に書かれていた。
シェイクは、垂水ステークス。
阪神、芝二千。
古吉トレーナー。
デュードは、ストークステークス。
阪神、芝二二。
山杉トレーナー。
同じ阪神。
同じ六月。
けれど、同じレースではない。
「今度は、古吉さんが一人問題はないですぅ」
シェイクが言うと、デュードは資料を見ながら頷いた。
「そうですね」
「デュードさんは山杉さんですぅ」
「はい」
「……山杉さん、最近どうですかぁ?」
「酒の匂いはしません」
「第一関門突破ですぅ」
「遅刻も減りました」
「すごいですぅ」
「ただ、本人が『俺、だいぶ改善してへん?』みたいな顔をするので腹が立ちます」
「ほわ~……」
デュードは、山杉トレーナーの欄を指で軽く叩いた。
「腕はあります」
「はいぃ」
「御堂筋も烏丸も、山杉さんはちゃんと見てました」
「はいぃ」
「でも、勝ってはいません」
「……はいぃ」
「わたしも、勝っていません」
その言葉は静かだった。
シェイクはデュードの横顔を見た。
御堂筋で三着。
烏丸で四着。
デュードは三勝クラスでも走れている。
だが、勝ててはいない。
山杉トレーナーは危険箇所。
でも腕はある。
やれるのは分かった。
預けられるかはまだ分からない。
デュードのメモには、そう書かれている。
「シェイクさん」
「はいぃ」
「垂水、勝ってください」
シェイクは瞬きをした。
「いいんですかぁ?」
「いいも悪いもないです。勝てるなら勝ってください」
「デュードさんを置いていくみたいですぅ」
「置いていくんじゃないです」
デュードは、資料から顔を上げた。
「シェイクさんが先に抜けるだけです」
「それは置いていくのと違いますかぁ?」
「違います」
デュードは少しだけ強く言った。
「わたしは、まだ組んでる途中です。シェイクさんは、もうずっとこの壁の前にいます」
シェイクは、黙った。
「だから、抜けられるなら抜けてください」
「デュードさん……」
「その代わり」
デュードは、少しだけ笑った。
「待っててください」
シェイクの胸が、ほわりと熱くなった。
「はいぃ」
小さく頷く。
「待ってますぅ」
垂水ステークスの日。
阪神の空は曇っていた。
芝二千。
三勝クラス。
シェイクはパドックで、いつもより静かだった。
緊張していないわけではない。
むしろ、胸の奥では数字がいくつも鳴っていた。
比叡ステークス、四着。
サンタクロースステークス、二着。
八坂ステークス、六着。
関門橋ステークス、三着。
ダイワスカーレットカップ、二着。
下鴨ステークス、三着。
テレQ杯、二着。
ムーンライトハンデキャップ、二着。
修学院ステークス、二着。
オリオンステークス、三着。
寿ステークス、二着。
飛鳥ステークス、三着。
御堂筋ステークス、四着。
烏丸ステークス、三着。
長かった。
あまりにも長かった。
近い数字が多すぎて、もうどれが最初の痛みだったのか分からなくなるほどだった。
古吉トレーナーは、隣で言った。
「メモ、全部持ってきたか」
「持ってきちゃいましたぁ」
「重いやろ」
「重いですぅ」
「半分置け」
「半分で足りますかぁ?」
「今日は、半分でええ」
シェイクは胸に手を当てた。
「デュードさんに、勝ってくださいって言われましたぁ」
「そうか」
「待っててくださいとも言われましたぁ」
「そうか」
「勝ちたいですぅ」
「せやな」
「でも、勝ちたいを持ちすぎると重いですぅ」
「分かっとるやん」
古吉トレーナーは少しだけ笑った。
「今日はな、勝ちたいを捨てんでええ。ただし、最後まで持ち直せる分だけにしとけ」
「最後まで……」
「直線で潰れるほど持つな」
シェイクは頷いた。
「はいぃ」
「ここまで来たんや」
古吉トレーナーは、芝の方を見た。
「そろそろ、終わらせよか」
その言葉は、静かだった。
派手な激励ではない。
でも、シェイクの心臓を確かに鳴らした。
「はいぃ」
シェイクは、前を見た。
「終わらせますぅ」
ゲートが開いた。
垂水ステークス。
シェイクは出た。
いつものように、前を見た。
いつものように、焦らないようにした。
いつものように、脚を残そうとした。
でも今日は、いつもと少し違った。
心臓が先に行きすぎていない。
足元にある。
胸の中で鳴っているのに、足と離れていない。
古吉トレーナーの声が届く。
「そこでええ」
そこでいい。
六番手あたりで流れに乗る。
前を遠くしすぎない。
下げすぎない。
急がない。
阪神の芝二千。
曇った空。
これまでの二着と三着と四着。
全部が、背中ではなく足元にある。
三コーナー。
前が動く。
シェイクも準備する。
「まだや」
古吉トレーナーの声。
待つ。
「そろそろ」
身体を起こす。
四コーナー。
視界が開いた。
「行こか」
その一言で、シェイクは踏んだ。
直線。
前にはバッデレイトがいる。
後ろからも来る。
簡単には止まらない子たちがいる。
でも、今日はシェイクの脚も止まらなかった。
一頭を追う。
並ぶ。
前へ出る。
心臓が鳴る。
サンタクロースの二着。
ダイワスカーレットの二着。
テレQの二着。
ムーンライトの二着。
修学院の二着。
寿の二着。
全部、一着の隣だった。
今日は、隣では終わらない。
「シェイク」
古吉トレーナーの声。
「最後まで」
シェイクは踏んだ。
もう一度。
もう一歩。
ゴール板。
一番前。
シェイクユアハートは、一番前でゴールした。
音が、一瞬遅れて戻ってきた。
歓声。
息。
芝を踏む音。
古吉トレーナーの声。
シェイクは、しばらく分からなかった。
「ほわ……?」
前に、誰もいない。
後ろに、誰かがいる。
自分が、一番前にいる。
古吉トレーナーが来た。
「勝ったな」
その言葉で、シェイクの目が大きく開いた。
「勝ちましたぁ……?」
「勝った」
「三勝クラス、終わりましたぁ……?」
「終わったな」
シェイクは、胸に手を当てた。
心臓が鳴っている。
でも、今までの痛い音ではない。
ゴールの少し手前に置いていかれた音でもない。
一着の隣で震えていた音でもない。
一番前で鳴っている。
「ほわ~……」
声が震えた。
「長かったですぅ……」
「長かったな」
古吉トレーナーは、いつも通り短く答えた。
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
「よう走った」
シェイクは、そこでようやく笑った。
泣くより先に、ほわりと笑った。
「古吉さん」
「何や」
「終わりましたぁ」
「せやな」
「でも、ここからまた始まりますかぁ?」
「始まるな」
「ほわ~……」
「でも、今日は終わった日でええ」
シェイクは頷いた。
「はいぃ……今日は、終わった日ですぅ」
寮に戻った時、デュードは部屋の前で待っていた。
シェイクを見るなり、デュードは少しだけ表情を崩した。
「シェイクさん」
「デュードさん」
「勝ちましたね」
「勝ちましたぁ」
「三勝クラス、抜けましたね」
「抜けましたぁ」
デュードは、ゆっくり息を吸った。
嬉しい。
それは、本当にある。
同じ部屋で、長い長い三勝クラスのメモを見てきた。
二着、三着、四着。
その痛みを、机の向こうでずっと見てきた。
シェイクが勝った。
それは嬉しい。
でも、胸の奥で別の音も鳴っている。
自分は、まだ残る。
「おめでとうございます」
デュードは言った。
シェイクは、その声の奥をちゃんと聞いた。
「ありがとうございますぅ」
「先に抜けましたね」
「はいぃ」
「置いていかれた、とは言いません」
「はいぃ」
「わたしが、まだ組んでる途中なので」
シェイクは、ほわりと笑った。
「待ってますぅ」
デュードの胸が、少しだけ熱くなった。
「はい」
「でも、デュードさんもすぐですぅ」
「分かりません」
「ほわ?」
「三勝クラスは、そんなに優しくないです」
デュードは少しだけ笑った。
「シェイクさんが一番知ってるでしょう」
「知ってますぅ……」
「だから、すぐとは言わないでください」
「じゃあ……」
シェイクは少し考えた。
「ちゃんと待ってますぅ」
デュードは頷いた。
「それでお願いします」
その夜、二人は机に向かった。
シェイクのメモ。
垂水ステークス一着。
古吉トレーナー。
三勝クラス、終わった。
長かった。
今日は、終わった日。
デュードさんを待つ。
デュードは、その文字を見て静かに笑った。
「終わった日、ですか」
「はいぃ」
「いいですね」
「はいぃ。今日は、終わった日ですぅ」
デュードは、自分の机へ目を落とした。
次は、ストークステークス。
阪神、芝二二。
三勝クラス。
山杉トレーナー。
シェイクが抜けた二週間後に、自分はまた同じクラスへ向かう。
その事実が、胸の奥で重く響いた。
ストークステークスの日、阪神の空は晴れていた。
シェイクの垂水ステークスとは違う空。
明るい分だけ、余計に自分の足元が見える。
デュードの隣には、山杉トレーナーがいた。
「酒の匂いは」
「せえへん」
「遅刻は」
「してへん」
「今日は現場に入れます」
「毎回それやるんか」
「安全確認です」
「はいはい」
山杉トレーナーは、苦笑した。
でも、以前より少しだけ、そのやり取りを受け入れているように見えた。
「シェイク、勝ったな」
山杉トレーナーが言った。
「勝ちました」
「焦るか」
「焦ります」
「やろな」
「でも、焦ったら足場が崩れます」
「分かっとるやん」
「分かってても焦ります」
「ほな、半分置いてけ」
デュードは、少しだけ山杉トレーナーを見た。
「古吉さんみたいなことを言うの、増えましたね」
「便利やからな」
「腹立ちます」
「でも使うやろ」
「使います」
デュードは息を吐いた。
シェイクさんは抜けた。
自分は残る。
置いていかれたとは言わない。
まだ組んでいる途中だから。
でも、心臓は少しだけ急ぎたがる。
「今日は、何を持っていけばいいですか」
デュードが聞くと、山杉トレーナーは少し考えた。
「御堂筋の三着」
「はい」
「烏丸の四着」
「はい」
「シェイクの垂水一着」
「それもですか」
「置いていけんやろ」
デュードは黙った。
置いていけない。
同じ部屋の机に置かれた、一着のメモ。
あれを見ないふりはできない。
「持ちます」
「重すぎる分は置け」
「はい」
「今日は、シェイクの後追いやなくて、お前のストークや」
デュードは顔を上げた。
山杉トレーナーの目は、ちゃんとレースを見ていた。
危険箇所。
でも、腕はある。
「分かりました」
デュードは頷いた。
「わたしのストークを走ります」
ゲートが開いた。
ストークステークス。
阪神、芝二二。
デュードは出た。
流れに乗る。
位置を取る。
前を見失わない。
山杉トレーナーの声が届く。
「そこでええ。焦るな」
焦るな。
言われなくても分かっている。
でも、心臓は焦っている。
シェイクは抜けた。
自分は残る。
待ってくれている。
それは優しい。
でも、優しさが時々、足に重くなる。
三コーナー。
前が動く。
デュードも動く。
山杉トレーナーの声。
「早すぎるな。準備だけしとけ」
準備。
足場を組む。
焦らず、でも遅れず。
四コーナー。
視界が開く。
直線。
前にはヴェルテンベルクがいる。
ガジュノリがいる。
オーロチェックも粘る。
デュードは脚を使う。
届きたい。
シェイクのところへ。
自分の一着へ。
三勝クラスの出口へ。
でも、一番前は遠い。
脚は使っている。
止まってはいない。
けれど、今日も勝ち切れない。
ゴール。
四着。
デュードは、息を弾ませながら前を見た。
また、四着。
烏丸ステークスと同じ数字。
シェイクが抜けたあと、自分は四着。
山杉トレーナーが来る。
「四着や」
「はい」
「悪くはない」
「でも、勝ってないです」
「せやな」
「シェイクさんは勝ちました」
「せやな」
「わたしは四着です」
「せや」
山杉トレーナーは、ごまかさなかった。
「今日は焦っとったな」
「はい」
「シェイクの勝ち、持ちすぎた」
「はい」
「でも、止まってへん」
「はい」
「次や」
デュードは、少しだけ笑った。
「山杉さん、次って言うんですね」
「言うやろ」
「ちゃんとトレーナーみたいです」
「みたい、やなくてトレーナーや」
「危険箇所ですけど」
「まだ言うか」
「言います」
少しだけ笑えた。
でも、悔しさは消えなかった。
寮に戻ると、シェイクが待っていた。
もう三勝クラスを抜けたシェイク。
それでも、部屋は同じだった。
お茶も二つあった。
机も向かい合っていた。
「デュードさん」
「四着でした」
「はいぃ……」
「勝てませんでした」
「はいぃ」
「シェイクさんのところへ、まだ行けません」
シェイクは、ゆっくり首を振った。
「シェイクのところじゃないですぅ」
「え?」
「デュードさんの一着のところですぅ」
デュードは、言葉を失った。
シェイクは湯呑みを置いた。
「シェイクは先に抜けました。でも、デュードさんが行くのは、シェイクのところじゃなくて、デュードさんの出口ですぅ」
「……はい」
「待ってます。でも、引っ張ることはできませんぅ」
デュードは、胸に手を当てた。
心臓が痛かった。
でも、少しだけ足元が見えた。
「ストークステークス四着」
デュードはメモに書いた。
山杉トレーナー。
シェイクさんが垂水で勝ったあと。
焦った。
勝っていない。
でも、行くのはシェイクさんのところではない。
わたしの一着のところ。
シェイクは、自分の垂水ステークスのメモをその隣に置いた。
垂水ステークス一着。
ストークステークス四着。
一つの心臓は、三勝クラスを抜けた。
もう一つの心臓は、まだ同じ沼にいる。
けれど、部屋は変わらない。
二人はまだ、同じお茶を飲んでいる。
同じ机で、次の図面を広げている。
「デュードさん」
「はい」
「ちゃんと待ってますぅ」
「はい」
「でも、急がなくていいですぅ」
「急ぎたいです」
「はいぃ」
「でも、急ぎすぎないようにします」
「足場が崩れますからぁ」
「はい」
デュードは、小さく笑った。
「足場、組み直します」
六月の夜は、少し湿っていた。
垂水ステークスで、シェイクユアハートは三勝クラスを抜けた。
ストークステークスで、タガノデュードは四着だった。
終わった子と、残った子。
けれどそれは、別れではなかった。
シェイクは待つ。
デュードは、自分の出口へ向かって足場を組む。
二人の机には、一着と四着のメモが並んだ。
その差は、今までの三着と四着よりずっと大きく見えた。
けれど、デュードはもう知っている。
高い足場でも、立てた日があった。
走らせない日もあった。
前にいる子が見えた日もあった。
古吉トレーナーじゃなくても勝てた日があった。
山杉トレーナーでも走れた日があった。
まだ、組める。
まだ、走れる。
シェイクの心臓は、一足先に次の場所へ向かった。
デュードの心臓は、少し遅れて、けれど確かに鳴り続けていた。