垂水ステークスを勝ってから、シェイクユアハートの周りの空気は少し変わった。
三勝クラス。
あんなに長く、あんなに重く、あんなに湿った沼みたいだった場所が、ある日を境に「通ってきた場所」になった。
比叡ステークス、四着。
サンタクロースステークス、二着。
八坂ステークス、六着。
関門橋ステークス、三着。
ダイワスカーレットカップ、二着。
下鴨ステークス、三着。
テレQ杯、二着。
ムーンライトハンデキャップ、二着。
修学院ステークス、二着。
オリオンステークス、三着。
寿ステークス、二着。
飛鳥ステークス、三着。
御堂筋ステークス、四着。
烏丸ステークス、三着。
そして、垂水ステークス、一着。
机に並べると、そこには長い坂道のような数字があった。
その坂道を越えて、シェイクはオープンウマ娘になった。
「オープンウマ娘……」
寮の部屋で、シェイクは予定表を見ながら呟いた。
向かいの机では、タガノデュードが自分のストークステークス四着のメモを見直していた。
「オープンです」
「開きましたぁ……?」
「閉じていた門が開いた、くらいの意味では合ってます」
「ほわ~……門ですぅ……」
「でも、開いた先が楽とは限りません」
「デュードさん、すぐ現実を置きますぅ」
「現場なので」
デュードはペンを置いた。
「オープンって、今までよりもっと相手が強い場所ですよ」
「はいぃ」
「重賞も見えてきます」
「重賞……」
シェイクはその言葉を、湯呑みの湯気みたいに眺めた。
春には届かなかった。
クラシックの扉は、大寒桜賞のあとに閉じた。
そのあと長い夏休みがあって、札幌で古吉トレーナーと出会って、一勝クラスを勝って、二勝クラスを勝って。
三勝クラスでは、ずっと勝てなかった。
それでも、ようやく抜けた。
そして今度は、重賞。
「ほわ~……また高い足場ですぅ……」
「今度はわたしよりシェイクさんが足場の話をしてます」
「うつりましたぁ」
「責任重大です」
デュードは少し笑った。
その笑いは柔らかかった。
でも、その机にはまだストークステークス四着の紙がある。
デュードはまだ三勝クラスにいる。
シェイクは、先にオープンへ行く。
それは、部屋の中で言葉にしなくても分かることだった。
その日の午後、宮田先生からシェイクに呼び出しがあった。
「親御さんが来る」
宮田先生は、資料を見ながら言った。
「親……」
シェイクは首を傾げた。
「シェイクの親ですかぁ?」
「そうや」
「ほわ~……」
シェイクは少しだけ背筋を伸ばした。
親。
シェイクユアハートの親は、名家の人だった。
シェイク自身は、自分がお嬢様と呼ばれる理由を半分くらいしか分かっていなかった。
良いものを食べてきた。
綺麗な場所で育てられた。
周りの大人たちは、いつもきちんとしていた。
けれど、それがどれほど特別なことなのか、シェイクはあまり実感していない。
ただ、親に会うとなると、少しだけ空気が変わる。
ほわほわしている背中に、見えない絹のリボンが一本結ばれるような感じがする。
「何か、怒られますかぁ……?」
「怒られはせんやろ」
「オープンになったのに?」
「オープンになったから来るんや」
宮田先生は少しだけ苦笑した。
「お祝いと、これからの話や」
「これから……」
「重賞やな」
シェイクの耳が少し動いた。
重賞。
その言葉は、やはりまだ少し大きかった。
親が来たのは、夕方前だった。
寮の応接室に通されたその人は、シェイクが知っている通り、静かな華やかさを持っていた。
派手ではない。
声も大きくない。
けれど、部屋に入った瞬間、空気が一段整う。
シェイクは、ドアの前でぴしりと立った。
「お、お久しぶりですぅ……」
親は、少し目元を柔らかくした。
「久しぶりね、シェイク」
「はいぃ」
「垂水ステークス、おめでとう」
その言葉は静かだった。
でも、ちゃんと温かかった。
シェイクの胸が、ふわっと緩む。
「ありがとうございますぅ……」
「長かったわね」
シェイクは、少しだけ目を丸くした。
長かった。
その一言で、机に積んできた数字が一気に胸の中へ戻ってきた。
二着。
三着。
四着。
また二着。
また三着。
「長かったですぅ……」
「ええ。よく我慢したわ」
親はそう言った。
我慢。
シェイクはその言葉を少し考えた。
我慢していたのだろうか。
ただ走っていた気もする。
ほわほわしながら、悔しがりながら、古吉トレーナーに「持って帰れ」と言われながら、デュードとお茶を飲みながら、次のメモを書きながら。
けれど、たしかに長かった。
「古吉トレーナーさんにも、宮田先生にも、よくしていただいたのね」
「はいぃ。古吉さんは、定食屋兼安全帯ですぅ」
親は一瞬だけ止まった。
宮田先生が隣で眉間を押さえた。
「シェイク、それ説明いるやつや」
「ほわ?」
親は、少しだけ口元を押さえた。
「定食屋兼安全帯」
「はいぃ。落ち着くけど、落ちないようにしてくれますぅ」
「……なるほど」
親は静かに笑った。
「良い方なのね」
「良い方ですぅ。おっさんですけど」
「シェイク」
宮田先生の声が低くなった。
「本人にも言ってますぅ」
「言うなと何回言うたら……」
親は、ふふ、と小さく笑った。
シェイクは、その笑い声を聞いて少し安心した。
怒られに来たわけではない。
でも、ただ褒められるだけの日でもない。
それは、次の話が始まる空気だった。
親は、テーブルの上に資料を置いた。
「ここからは、見られ方が変わるわ」
その声は穏やかだった。
けれど、シェイクの背中のリボンが少しきゅっと締まる。
「見られ方……」
「三勝クラスを勝った子、ではなく、オープンの子として見られる」
「はいぃ」
「重賞に出るなら、もっとたくさんの人が見る。あなたがどこで走るのか、誰と走るのか、どう負けるのか、どう勝つのか」
シェイクは黙って聞いた。
「負け方も、見られるんですかぁ?」
「見られるわ」
親は静かに頷いた。
「でも、怖がらせたいわけではないの」
「はいぃ」
「あなたは、もうそこへ行けるところまで来た。だから、見られる」
シェイクは胸に手を当てた。
見られる。
それは、デュードの親の期待とは少し違う重さだった。
デュードの親は、前へ前へとかかっていた。
大きなところで勝ってほしい。
施設のみんなに見せたい。
クラシックは一生に一度だから、と。
シェイクの親は、それより静かだった。
けれど、静かなぶんだけ深い。
「シェイク」
「はいぃ」
「あなたは、お嬢様だから重賞へ行くのではないわ」
シェイクは顔を上げた。
「あなたが走って、そこへ行けるだけの結果を出したから、重賞へ行くの」
その言葉は、やわらかく、でも強かった。
「親の名前で走るのではありません。あなたの脚で走るの」
シェイクは、しばらく黙っていた。
自分はお嬢様だと言われる。
名家の親を持つ子だと言われる。
それは、たぶん本当なのだろう。
でも、垂水ステークスを勝ったのは、親の名前ではない。
宮田先生の資料でもない。
古吉トレーナーの声だけでもない。
自分の脚だった。
長い三勝クラスの沼を、何度も近い負けをしながら、最後まで走った脚。
「わたしの脚……」
「ええ」
親は頷いた。
「だから、ここから先は、あなた自身がどう走りたいのかも大切になる」
「どう走りたいか……」
「重賞に出たい?」
シェイクは、すぐには答えられなかった。
重賞。
怖い。
大きい。
また高い足場。
でも、胸の奥で心臓が鳴る。
春には届かなかった。
けれど、心臓はまだ夢を見ていた。
札幌で勝った時、いつか札幌記念で自分が一着だった夢を見た。
あの夢は、まだ机の奥にしまってある。
夢だった。
ただの夢だった。
でも、オープンウマ娘になった今、その夢は紙の奥で少しだけ息をし始めている。
「出たいですぅ」
シェイクは、小さく言った。
親は黙って聞いていた。
「怖いですぅ。たくさん見られるのも、強い子と走るのも、また届かないのも怖いですぅ」
「ええ」
「でも……」
シェイクは胸に手を当てた。
「心臓が、見たいって言ってますぅ」
親は、ゆっくり微笑んだ。
「そう」
「はいぃ」
「なら、見に行きましょう」
その言い方は、命令ではなかった。
行きなさい、ではない。
勝ちなさい、でもない。
見に行きましょう。
それが、シェイクには少し嬉しかった。
応接室を出たあと、シェイクは古吉トレーナーに会った。
古吉トレーナーは、廊下の端で缶コーヒーを持っていた。
「親御さん、来とったな」
「はいぃ」
「怒られたか」
「怒られませんでしたぁ」
「そらそうやろ」
「重賞に出たいかって聞かれましたぁ」
「何て答えた」
「出たいですって言いましたぁ」
「そうか」
古吉トレーナーは短く言った。
「なら、出るための準備やな」
「古吉さん」
「何や」
「シェイクは、親の名前で走るんじゃないって言われましたぁ」
「せやろな」
「シェイクの脚で走るんですって」
「その通りやな」
古吉トレーナーは、缶コーヒーを見ながら続けた。
「親がどれだけ立派でも、最後に芝踏むんはお前や」
「はいぃ」
「俺が隣におっても、最後に脚使うんはお前や」
「はいぃ」
「宮田先生がどれだけ考えても、走るんはお前や」
「はいぃ」
「ほな、分かりやすいやろ」
シェイクは首を傾げた。
「何がですかぁ?」
「お前が走るだけや」
「ほわ~……簡単そうに言いますぅ」
「簡単やないから、簡単に言うんや」
シェイクは少し笑った。
「古吉さん、定食屋兼安全帯ですぅ」
「また言うとる」
「親にも言いましたぁ」
「やめろ」
「良い方なのねって言ってましたぁ」
「余計恥ずかしいわ」
古吉トレーナーは、少しだけ顔をそらした。
その仕草を見て、シェイクはほわりと笑った。
夜、部屋へ戻ると、デュードが待っていた。
「親御さん、どうでしたか」
「静かでしたぁ」
「シェイクさんの親御さんらしいですね」
「親の名前で走るんじゃなくて、シェイクの脚で走るって言われましたぁ」
デュードは、その言葉を聞いて少し黙った。
「いい言葉ですね」
「はいぃ」
「わたしの親は、たぶん少しかかります」
「はいぃ……」
「でも、シェイクさんの親御さんは、静かに重いですね」
「重かったですぅ」
「嫌でしたか」
「嫌じゃなかったですぅ」
シェイクは机に座り、新しいメモを書いた。
オープンウマ娘になった。
親が来た。
長かったと言われた。
お嬢様だから重賞へ行くのではない。
自分の脚で行く。
心臓が、見たいって言っている。
デュードはそのメモを読んだ。
「心臓が見たい」
「はいぃ」
「シェイクさんらしいです」
「デュードさんは?」
「わたしですか」
「デュードさんの心臓は、何を見たいですかぁ?」
デュードは少し考えた。
エコロヴァルツ。
前にいた子。
三勝クラスの壁。
シェイクが抜けた先。
自分の一着の場所。
「足場の先です」
デュードは言った。
「今組んでる足場の、その先を見たいです」
「いいですぅ」
「まだ組んでる途中ですけど」
「シェイク、待ってますぅ」
「急かさずに?」
「急かさずにですぅ」
「それが一番難しそうです」
「ほわ~……がんばりますぅ」
二人は少し笑った。
その夜、シェイクの机には垂水ステークスの一着のメモと、親が来た日のメモが並んだ。
オープンウマ娘。
その言葉は、まだ少し大きい。
けれど、シェイクはもう知っている。
大きな言葉も、高い足場も、一度に全部持つと重すぎる。
持っていけるものだけ持っていく。
速くなるものだけ持っていく。
痛みも、夢も、少しずつ足元に置いていく。
親の名前ではなく、自分の脚で。
古吉トレーナーの声を聞きながら。
宮田先生の図面を持ちながら。
デュードが机の向こうで足場を組む音を聞きながら。
シェイクユアハートは、次の場所へ向かう。
春には届かなかった。
三勝クラスでは何度も届きそうで届かなかった。
けれど、心臓はまだ鳴っている。
オープンウマ娘になった日。
親は、静かに言った。
あなたの脚で走るの。
その言葉は、シェイクの胸の奥で、次の夢の形になり始めていた。