タガノデュードにとって、エコロヴァルツは「前にいた子」だった。
朝日杯フューチュリティステークス。
勝ったのはジャンタルマンタル。
けれど、デュードの胸に残った名前は、二着だったエコロヴァルツの方だった。
エコロジーとロマンチックを掛け合わせた、少し不思議な名前。
夢みたいな響きなのに、足元はちゃんと芝を踏んでいる子。
デュードは思った。
この子とは、長い付き合いになりそうだ。
そして、秋のセントライト記念で再び会った時、エコロヴァルツはやはり前にいた。
三着。
デュードは九着。
横にいると思っていた子が、ちゃんと前にいた。
けれど、デュードは知らなかった。
前にいる子は、前にいる子で、ずっと苦しい。
高い場所は、風が強い。
エコロヴァルツは、そのことをよく知っていた。
朝日杯の二着は、彼女にたくさんの視線を連れてきた。
勝ったわけではない。
でも、GⅠで二着。
しかも、勝者に迫った二着。
周囲は言う。
次は。
春は。
クラシックは。
エコロヴァルツは、それを静かに聞いていた。
名前の通り、夢を見ない子ではない。
ロマンチックという言葉を自分の中に持っている。
大きな舞台へ行きたい。
勝ちたい。
自分の名前を、ただ綺麗な響きだけで終わらせたくない。
けれど彼女は、同時に分かっていた。
朝日杯二着は、未来の勝利を約束するものではない。
それはただ、あの日、自分が二番目にいたというだけだ。
共同通信杯。
皐月賞。
東京優駿。
春の高い足場は、思っていたよりずっと風が強かった。
朝日杯で見えた場所へ、同じように立とうとしても、同じ足場はそこにはない。
相手が変わる。
距離が変わる。
空気が変わる。
自分も変わっているはずなのに、結果だけが思ったようにはついてこない。
エコロヴァルツは、春の夜、ひとりでメモを書いた。
朝日杯二着。
共同通信杯。
皐月賞。
東京優駿。
前にいたはずなのに、前が遠い。
高い場所は、ずっと高い。
ペン先が止まる。
彼女は、自分の名前を書いた。
エコロヴァルツ。
エコロジー。
ロマンチック。
自然と夢。
でも、夢だけでは走れない。
自然に身を任せるだけでも勝てない。
「名前、重いな」
ぽつりと呟いた。
けれど、嫌いではなかった。
夢みたいな名前だからこそ、地面を踏まなければならない。
そして秋。
朝日セントライト記念。
パドックで、エコロヴァルツはタガノデュードを見つけた。
朝日杯で会った子。
建設会社のお嬢様。
足場という言葉で、自分の走りを考える子。
「また会いましたね」
エコロヴァルツが言うと、デュードは少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
「もう少し上で、でしたっけ」
「覚えてたんですか」
「覚えてます」
あの日、デュードは言った。
次に会う時は、もう少し上で。
エコロヴァルツも、その言葉を覚えていた。
けれど、その「上」は、思っていたより単純ではなかった。
同じ場所に上がること。
前に出ること。
勝つこと。
残ること。
どれも少しずつ違う。
レースが始まる。
セントライト記念の直線。
エコロヴァルツは踏んだ。
勝ちたい。
春に置いてきたものを、少しでも取り戻したい。
朝日杯の二着が、ただの過去ではなかったと示したい。
脚を使う。
前には届かない。
それでも、沈まない。
三着。
勝ってはいない。
けれど、残った。
戻ってきたエコロヴァルツは、息を整えながら掲示板を見た。
自分の名前は三番目にある。
そして、少し下に、タガノデュードの名前があった。
九着。
デュードは、前を見ていた。
その目を見て、エコロヴァルツは何となく分かった。
あの子は今、自分を前に見ている。
朝日杯では、横にいると思ってくれたのかもしれない。
でも今日は、前にいると思ったのかもしれない。
それは少し誇らしい。
でも、少し苦しかった。
前にいるからといって、楽なわけではない。
三着は、勝利ではない。
夢の名前は、まだ勝者の名前にはなっていない。
レース後、通路でデュードとすれ違った。
「エコロヴァルツさん」
「デュードさん」
「前にいましたね」
デュードは、静かに言った。
エコロヴァルツは少しだけ笑った。
「今日は、です」
「今日は?」
「ええ。今日は、前にいました」
デュードは少し目を丸くした。
「でも、三着です」
エコロヴァルツは、自分でそう言った。
「勝ってはいません」
「……はい」
「前にいても、勝てない日はあります」
デュードは黙った。
その沈黙が、エコロヴァルツには少し懐かしかった。
朝日杯の時、デュードは高い足場に立っていた。
けれど、少し不安そうだった。
今も、不安そうだ。
でも、前よりその不安を見ている。
「デュードさん」
「はい」
「また会うと思います」
「わたしも、そう思います」
「次は、横ですか」
デュードは少し考えた。
「横に行きたいです」
「では、わたしも横にいられるようにします」
「前じゃなくていいんですか」
「前にも行きたいです」
エコロヴァルツは静かに言った。
「でも、長い付き合いになるなら、前だけでは続きません」
デュードは、その言葉をしばらく考えていた。
「高いところって、風が強いですか」
「強いです」
「ですよね」
「でも、見晴らしはいいです」
エコロヴァルツは少しだけ空を見た。
「だから、また上がりたくなる」
そのあと、エコロヴァルツもまた走り続けた。
菊花賞。
長い距離。
長い直線。
長い名前たち。
夢だけでは届かない場所。
勝てない。
届かない。
それでも、走る。
冬のディセンバーステークスで、ようやく一番前に立った。
勝った。
その瞬間、エコロヴァルツは思った。
これで全部が報われるわけではない。
朝日杯の二着も、春の苦しさも、セントライトの三着も、菊花賞の届かなさも、全部が綺麗に一つの線になるわけではない。
でも、一番前に立った日がある。
それは確かに、自分の足元に残る。
エコロヴァルツはメモに書いた。
ディセンバーステークス一着。
一番前に立った。
でも、これで全部終わりではない。
前にいる日も、横にいる日も、後ろにいる日もある。
高い位置でも、もがく。
ペンを置く。
ふと、デュードのことを思い出した。
あの子は今、どの足場を組んでいるのだろう。
シェイクユアハートという同室の子がいると聞いた。
三勝クラスで長く苦しんでいた子。
そして、ついに抜けた子。
デュードは、きっとその机の向こうで、また資料の角をそろえているのだろう。
自分は前にいるのだろうか。
横にいるのだろうか。
それとも、またどこかで後ろになるのだろうか。
分からない。
でも、また会う気がする。
エコロヴァルツは窓の外を見た。
エコロジーとロマンチック。
自然と夢。
高い場所で、風に吹かれながら、それでも地面を踏む名前。
勝者だけが苦しいわけではない。
敗者だけがもがくわけでもない。
前にいる子も、前で苦しむ。
横にいる子も、横で迷う。
後ろにいる子も、後ろから見えるものを持って帰る。
タガノデュードが見上げたエコロヴァルツもまた、ずっと高い場所で、もがいていた。
そして、もがきながら思っていた。
次に会う時は。
前でも、後ろでもなく。
できれば、もう一度、横で。
そこから一緒に、一番前を見られたらいい。