心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

25 / 30
[番外編]エコロヴァルツもまた、前で苦しんでいた

タガノデュードにとって、エコロヴァルツは「前にいた子」だった。

 

朝日杯フューチュリティステークス。

 

勝ったのはジャンタルマンタル。

けれど、デュードの胸に残った名前は、二着だったエコロヴァルツの方だった。

 

エコロジーとロマンチックを掛け合わせた、少し不思議な名前。

夢みたいな響きなのに、足元はちゃんと芝を踏んでいる子。

 

デュードは思った。

 

この子とは、長い付き合いになりそうだ。

 

そして、秋のセントライト記念で再び会った時、エコロヴァルツはやはり前にいた。

 

三着。

 

デュードは九着。

 

横にいると思っていた子が、ちゃんと前にいた。

 

けれど、デュードは知らなかった。

 

前にいる子は、前にいる子で、ずっと苦しい。

 

高い場所は、風が強い。

 

エコロヴァルツは、そのことをよく知っていた。

 

朝日杯の二着は、彼女にたくさんの視線を連れてきた。

 

勝ったわけではない。

でも、GⅠで二着。

しかも、勝者に迫った二着。

 

周囲は言う。

 

次は。

春は。

クラシックは。

 

エコロヴァルツは、それを静かに聞いていた。

 

名前の通り、夢を見ない子ではない。

ロマンチックという言葉を自分の中に持っている。

大きな舞台へ行きたい。

勝ちたい。

自分の名前を、ただ綺麗な響きだけで終わらせたくない。

 

けれど彼女は、同時に分かっていた。

 

朝日杯二着は、未来の勝利を約束するものではない。

 

それはただ、あの日、自分が二番目にいたというだけだ。

 

共同通信杯。

 

皐月賞。

 

東京優駿。

 

春の高い足場は、思っていたよりずっと風が強かった。

 

朝日杯で見えた場所へ、同じように立とうとしても、同じ足場はそこにはない。

相手が変わる。

距離が変わる。

空気が変わる。

 

自分も変わっているはずなのに、結果だけが思ったようにはついてこない。

 

エコロヴァルツは、春の夜、ひとりでメモを書いた。

 

朝日杯二着。

共同通信杯。

皐月賞。

東京優駿。

前にいたはずなのに、前が遠い。

高い場所は、ずっと高い。

 

ペン先が止まる。

 

彼女は、自分の名前を書いた。

 

エコロヴァルツ。

 

エコロジー。

ロマンチック。

 

自然と夢。

 

でも、夢だけでは走れない。

自然に身を任せるだけでも勝てない。

 

「名前、重いな」

 

ぽつりと呟いた。

 

けれど、嫌いではなかった。

 

夢みたいな名前だからこそ、地面を踏まなければならない。

 

そして秋。

 

朝日セントライト記念。

 

パドックで、エコロヴァルツはタガノデュードを見つけた。

 

朝日杯で会った子。

建設会社のお嬢様。

足場という言葉で、自分の走りを考える子。

 

「また会いましたね」

 

エコロヴァルツが言うと、デュードは少しだけ背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

「もう少し上で、でしたっけ」

 

「覚えてたんですか」

 

「覚えてます」

 

あの日、デュードは言った。

 

次に会う時は、もう少し上で。

 

エコロヴァルツも、その言葉を覚えていた。

 

けれど、その「上」は、思っていたより単純ではなかった。

 

同じ場所に上がること。

前に出ること。

勝つこと。

残ること。

 

どれも少しずつ違う。

 

レースが始まる。

 

セントライト記念の直線。

 

エコロヴァルツは踏んだ。

 

勝ちたい。

春に置いてきたものを、少しでも取り戻したい。

朝日杯の二着が、ただの過去ではなかったと示したい。

 

脚を使う。

 

前には届かない。

 

それでも、沈まない。

 

三着。

 

勝ってはいない。

けれど、残った。

 

戻ってきたエコロヴァルツは、息を整えながら掲示板を見た。

 

自分の名前は三番目にある。

 

そして、少し下に、タガノデュードの名前があった。

 

九着。

 

デュードは、前を見ていた。

 

その目を見て、エコロヴァルツは何となく分かった。

 

あの子は今、自分を前に見ている。

 

朝日杯では、横にいると思ってくれたのかもしれない。

でも今日は、前にいると思ったのかもしれない。

 

それは少し誇らしい。

 

でも、少し苦しかった。

 

前にいるからといって、楽なわけではない。

 

三着は、勝利ではない。

 

夢の名前は、まだ勝者の名前にはなっていない。

 

レース後、通路でデュードとすれ違った。

 

「エコロヴァルツさん」

 

「デュードさん」

 

「前にいましたね」

 

デュードは、静かに言った。

 

エコロヴァルツは少しだけ笑った。

 

「今日は、です」

 

「今日は?」

 

「ええ。今日は、前にいました」

 

デュードは少し目を丸くした。

 

「でも、三着です」

 

エコロヴァルツは、自分でそう言った。

 

「勝ってはいません」

 

「……はい」

 

「前にいても、勝てない日はあります」

 

デュードは黙った。

 

その沈黙が、エコロヴァルツには少し懐かしかった。

 

朝日杯の時、デュードは高い足場に立っていた。

けれど、少し不安そうだった。

 

今も、不安そうだ。

 

でも、前よりその不安を見ている。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「また会うと思います」

 

「わたしも、そう思います」

 

「次は、横ですか」

 

デュードは少し考えた。

 

「横に行きたいです」

 

「では、わたしも横にいられるようにします」

 

「前じゃなくていいんですか」

 

「前にも行きたいです」

 

エコロヴァルツは静かに言った。

 

「でも、長い付き合いになるなら、前だけでは続きません」

 

デュードは、その言葉をしばらく考えていた。

 

「高いところって、風が強いですか」

 

「強いです」

 

「ですよね」

 

「でも、見晴らしはいいです」

 

エコロヴァルツは少しだけ空を見た。

 

「だから、また上がりたくなる」

 

そのあと、エコロヴァルツもまた走り続けた。

 

菊花賞。

 

長い距離。

長い直線。

長い名前たち。

 

夢だけでは届かない場所。

 

勝てない。

 

届かない。

 

それでも、走る。

 

冬のディセンバーステークスで、ようやく一番前に立った。

 

勝った。

 

その瞬間、エコロヴァルツは思った。

 

これで全部が報われるわけではない。

 

朝日杯の二着も、春の苦しさも、セントライトの三着も、菊花賞の届かなさも、全部が綺麗に一つの線になるわけではない。

 

でも、一番前に立った日がある。

 

それは確かに、自分の足元に残る。

 

エコロヴァルツはメモに書いた。

 

ディセンバーステークス一着。

一番前に立った。

でも、これで全部終わりではない。

前にいる日も、横にいる日も、後ろにいる日もある。

高い位置でも、もがく。

 

ペンを置く。

 

ふと、デュードのことを思い出した。

 

あの子は今、どの足場を組んでいるのだろう。

 

シェイクユアハートという同室の子がいると聞いた。

三勝クラスで長く苦しんでいた子。

そして、ついに抜けた子。

 

デュードは、きっとその机の向こうで、また資料の角をそろえているのだろう。

 

自分は前にいるのだろうか。

横にいるのだろうか。

それとも、またどこかで後ろになるのだろうか。

 

分からない。

 

でも、また会う気がする。

 

エコロヴァルツは窓の外を見た。

 

エコロジーとロマンチック。

 

自然と夢。

 

高い場所で、風に吹かれながら、それでも地面を踏む名前。

 

勝者だけが苦しいわけではない。

敗者だけがもがくわけでもない。

 

前にいる子も、前で苦しむ。

 

横にいる子も、横で迷う。

 

後ろにいる子も、後ろから見えるものを持って帰る。

 

タガノデュードが見上げたエコロヴァルツもまた、ずっと高い場所で、もがいていた。

 

そして、もがきながら思っていた。

 

次に会う時は。

 

前でも、後ろでもなく。

 

できれば、もう一度、横で。

 

そこから一緒に、一番前を見られたらいい。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。