心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[IFルート]心臓は、障害の前で立ち止まる
[第二十章-b]選ばれなかった心臓


御堂筋ステークスの出走予定表を前に、宮田先生は長く黙っていた。

 

阪神、芝二四。

三勝クラス。

 

シェイクユアハート。

タガノデュード。

 

同じ寮。

同じ部屋。

同じ先生。

同じ距離。

そして、どちらも古吉トレーナーと積んできた子。

 

古吉トレーナーは一人しかいない。

 

その当たり前の事実が、紙の上でやけに重く見えた。

 

「……どうします」

 

古吉トレーナーは、宮田先生の前で腕を組んでいた。

 

いつものように、声は大きくない。

感情も、余計には出さない。

 

だが、軽くはない。

 

宮田先生は眼鏡を外し、眉間を押さえた。

 

「シェイクは、長いこと三勝クラスでお前とやってきた」

 

「はい」

 

「デュードは、淡路特別で勝って、戻ってきたばかりや」

 

「はい」

 

「どっちも、切りにくい」

 

「でしょうね」

 

古吉トレーナーは短く答えた。

 

比叡ステークス。

サンタクロースステークス。

八坂ステークス。

関門橋ステークス。

ダイワスカーレットカップ。

下鴨ステークス。

テレQ杯。

ムーンライトハンデキャップ。

修学院ステークス。

オリオンステークス。

寿ステークス。

飛鳥ステークス。

 

シェイクは長く長く、この壁の前にいた。

 

古吉トレーナーの声を聞きながら。

一着の隣で止まりながら。

二着と三着と四着を、机に積みながら。

 

一方で、デュードは別の足場を組んできた。

 

古吉トレーナーで未勝利を勝ち、朝日杯に出た。

美幸トレーナーと走らない日を覚えた。

丹頂トレーナーとセントライトの高い足場を知った。

室影トレーナーで勝ち、古吉トレーナーに戻って、淡路特別を勝った。

 

そして今、三勝クラスの入り口にいる。

 

「普通に考えたら、シェイクや」

 

宮田先生は言った。

 

「長く組んできた流れを切らん方がええ」

 

「はい」

 

「でもな」

 

宮田先生は、デュードの資料に目を落とした。

 

「デュードは今、戻ってきたところや。ここでまた外すと、あの子の足場がぐらつく」

 

古吉トレーナーは黙っていた。

 

「お前は、どう見る」

 

宮田先生が聞く。

 

古吉トレーナーは、少しだけ間を置いた。

 

「シェイクは」

 

「うん」

 

「俺やなくても、走れるところまで来とると思います」

 

宮田先生は目を上げた。

 

それは、褒め言葉だった。

 

だが、褒め言葉だけではなかった。

 

「……それをシェイクに言えますか」

 

「言わなあかんでしょうね」

 

「痛いぞ」

 

「分かってます」

 

古吉トレーナーは、淡々と言った。

 

「でも、デュードは今切ると崩れるかもしれん。シェイクは、痛くても走れる」

 

宮田先生は深く息を吐いた。

 

「走れるから、外すんか」

 

「そうなります」

 

「残酷な褒め方やな」

 

「はい」

 

古吉トレーナーは否定しなかった。

 

その日の夕方、シェイクユアハートとタガノデュードは、宮田先生の部屋へ呼ばれた。

 

空気で分かった。

 

これは、ただの予定確認ではない。

 

シェイクは膝の上で手をそろえ、デュードは背筋を伸ばして座っていた。

 

宮田先生は資料を置いた。

 

「御堂筋ステークスの担当を決めた」

 

シェイクの耳が少し動く。

 

デュードの指が、ほんの少しだけ止まる。

 

「デュード」

 

「はい」

 

「今回は、古吉で行く」

 

部屋の空気が、薄く鳴った。

 

デュードは、すぐには返事をしなかった。

 

シェイクも、動かなかった。

 

「……はい」

 

先に声を出したのは、デュードだった。

 

それは嬉しい声ではなかった。

嬉しさがないわけではない。

 

けれど、嬉しさだけで返事をできるほど、デュードは単純ではなかった。

 

宮田先生は、今度はシェイクを見た。

 

「シェイク」

 

「はいぃ」

 

「お前は、山杉トレーナーで行く」

 

「……山杉さん」

 

「藤川先生から紹介を受けた若いトレーナーや。腕はある」

 

シェイクは、少し瞬きをした。

 

山杉トレーナー。

 

聞いたことはある。

若い。

腕はある。

ただし、少し危なっかしい。

 

そういう話だった。

 

けれど、今のシェイクの耳には、その説明が遠かった。

 

「古吉さんじゃ、ないんですかぁ……?」

 

声は小さかった。

 

怒ってはいない。

泣いてもいない。

 

ただ、そこにあった安全帯が急に外れたような顔だった。

 

宮田先生は一瞬、言葉を失った。

 

その沈黙の中で、古吉トレーナーが口を開いた。

 

「シェイク」

 

「はいぃ」

 

「お前を軽く見たわけやない」

 

「はいぃ……」

 

「俺やなくても、走れると思った」

 

シェイクは、古吉トレーナーを見た。

 

その目は、いつものほわほわしたものではなかった。

 

大きな言葉を受け取ろうとして、でも受け取り方が分からない目だった。

 

「それ、褒めてますかぁ……?」

 

「褒めとる」

 

「じゃあ」

 

シェイクは、胸に手を当てた。

 

「なんで、こんなに痛いんですかぁ……?」

 

古吉トレーナーは、すぐには答えなかった。

 

答えられない沈黙が、部屋の床に落ちる。

 

「痛いと思う」

 

古吉トレーナーは、やっと言った。

 

「でも、痛くても走れると見た」

 

「走れるから、古吉さんじゃないんですかぁ」

 

「そうや」

 

残酷なくらい、まっすぐだった。

 

シェイクは少しだけ笑った。

 

笑ったように見えた。

 

けれど、それは笑顔ではなかった。

 

「強くなったら、外れることもあるんですねぇ……」

 

デュードが息を呑んだ。

 

「シェイクさん」

 

「大丈夫ですぅ」

 

シェイクはすぐに言った。

 

「デュードさん、古吉さんに戻ってきたところですもんねぇ」

 

「違います」

 

デュードの声が、思ったより強く出た。

 

「違わないかもしれないです。でも、それだけじゃないです」

 

「はいぃ」

 

「わたし、古吉さんで走りたいです」

 

「はいぃ」

 

「でも、シェイクさんから取ったみたいで嫌です」

 

「取ってないですぅ」

 

シェイクは首を振った。

 

「古吉さんは、物じゃないですぅ」

 

「分かってます」

 

「でも、痛いですぅ」

 

「……はい」

 

デュードは、それ以上言えなかった。

 

構造が見えてしまう。

 

古吉トレーナーで走りたい自分。

古吉トレーナーを外されたシェイク。

その二つが、同じ部屋に置かれている。

 

嬉しい。

 

苦しい。

 

どちらも本当だった。

 

その夜、二人の部屋は静かだった。

 

シェイクは机に向かっていた。

 

いつもなら、湯呑みを抱えながら「ほわ~……」と何かを呟く。

でも今日は、ペン先だけが紙の上で止まっていた。

 

デュードは、自分の机で資料を見ていた。

けれど、文字はほとんど頭に入っていなかった。

 

「シェイクさん」

 

「はいぃ」

 

「怒ってますか」

 

「怒ってないですぅ」

 

「じゃあ、悲しいですか」

 

「悲しいですぅ」

 

シェイクは素直に言った。

 

その素直さが、余計に痛かった。

 

「デュードさんが悪いんじゃないですぅ」

 

「はい」

 

「宮田先生も、古吉さんも、考えてくれたんだと思いますぅ」

 

「はい」

 

「でも、心臓が納得するの、遅いですぅ」

 

シェイクは、自分の胸を軽く押さえた。

 

「古吉さんじゃなくても走れるって、いいことなんですよねぇ」

 

「いいことだと思います」

 

「じゃあ、なんで寂しいんですかぁ」

 

「……わたしにも分からないです」

 

デュードは嘘をつかなかった。

 

「でも、分かる気はします」

 

シェイクは少しだけ顔を上げた。

 

「デュードさんも?」

 

「はい」

 

「デュードさんは、古吉さんで走れるのに?」

 

「だからです」

 

デュードは資料を閉じた。

 

「嬉しいです。でも、その嬉しさがシェイクさんの痛みの上にある気がします」

 

「上じゃないですぅ」

 

「横ですか」

 

「横でも、ちょっと痛いですぅ」

 

「じゃあ、どこですか」

 

シェイクは少し考えた。

 

「同じ机の上ですぅ」

 

デュードは黙った。

 

その言い方が、いちばん近い気がした。

 

痛みも、嬉しさも、選ばれたことも、選ばれなかったことも。

全部、同じ部屋の机の上にある。

 

シェイクは、ようやくメモに文字を書いた。

 

御堂筋ステークス。

シェイク、山杉トレーナー。

デュードさん、古吉トレーナー。

古吉さんは、シェイクなら自分じゃなくても走れると言った。

褒めているらしい。

痛い。

でも、走る。

 

デュードは、その文字を見て胸が詰まった。

 

自分もメモを書く。

 

御堂筋ステークス。

古吉トレーナー。

嬉しい。

でも、シェイクさんが痛い。

借りたわけではない。

取ったわけでもない。

でも、軽くない。

勝ちたい。

勝たなければ、もっと軽くならない。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「勝ってくださいねぇ」

 

デュードの手が止まった。

 

「……いいんですか」

 

「いいも悪いもないですぅ」

 

「シェイクさん」

 

「古吉さんで走るなら、勝ってください」

 

シェイクは、ほわほわしていない声で言った。

 

「シェイクが何回も届かなかったところ、ちゃんと見てきてください」

 

デュードは、まっすぐにシェイクを見た。

 

その言葉は祝福ではない。

 

呪いでもない。

 

ただ、重い願いだった。

 

「はい」

 

デュードは答えた。

 

「勝ちに行きます」

 

「はいぃ」

 

「でも、シェイクさんも」

 

「はいぃ」

 

「走ってください」

 

シェイクは、少しだけ笑った。

 

「走りますぅ」

 

「山杉トレーナーで」

 

「はいぃ」

 

「古吉さんじゃなくても」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

心臓はまだ痛い。

 

けれど、動いている。

 

「走りますぅ」

 

その夜、二人の机には、御堂筋ステークスのメモが並んだ。

 

同じレース。

同じ距離。

違う隣。

 

古吉トレーナーは、デュードの隣に立つ。

シェイクの隣には、山杉トレーナーが立つ。

 

選ばれた心臓と、選ばれなかった心臓。

 

どちらが軽いわけでもない。

 

どちらも、重い。

 

そして、その重さを持ったまま、二人は阪神へ向かう。

 

御堂筋ステークス。

 

まだ、ゲートは開いていない。

 

けれどこの日、シェイクユアハートの心臓は一度、確かに立ち止まった。

 

立ち止まって、それでも次の朝には、走る準備を始めた。

 

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