心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第二十一章-b]正しかったから、痛かった

御堂筋ステークスの日、阪神の空は薄く曇っていた。

 

春なのに、少しだけ冷たい。

湿った風が、芝の上を低く流れていく。

 

シェイクユアハートは、パドックへ向かう前に手袋を直した。

 

右。

左。

 

今日は、ちゃんと左右そろっている。

 

でも、心臓の位置は少しだけずれていた。

 

隣にいるのは、古吉トレーナーではない。

 

「山杉です。今日はよろしく」

 

若い声がした。

 

山杉トレーナーは、資料を片手に立っていた。

若い。

姿勢は悪くない。

顔も悪くない。

 

けれどシェイクは、最初にそこを見なかった。

 

鼻を小さく動かす。

 

「……酒の匂いは、しませんぅ」

 

山杉トレーナーは一瞬固まった。

 

「いきなりそこ?」

 

「デュードさんから聞きましたぁ。現場確認ですぅ」

 

「現場確認なぁ」

 

山杉は苦笑した。

 

「今日はしてへん。遅刻もしてへん。資料も読んできた」

 

「すごいですぅ」

 

「それ、褒めてる?」

 

「最低限の安全確認ですぅ」

 

「厳しいな、この部屋の子ら」

 

山杉トレーナーは肩をすくめた。

 

けれど、目はちゃんとレースの方を見ていた。

 

「シェイクさん」

 

「はいぃ」

 

「俺は古吉さんやない」

 

シェイクの指が少し止まった。

 

「はいぃ」

 

「古吉さんの代わりにもならん」

 

「はいぃ」

 

「今日は、俺で走るしかない」

 

山杉トレーナーは、いつもの軽さを少しだけ消して言った。

 

「それが嫌でも、ゲートは開く」

 

シェイクは、胸に手を当てた。

 

嫌ではない。

 

山杉トレーナーが嫌なわけではない。

 

ただ、古吉トレーナーではない。

 

その違いが、思ったより大きかった。

 

「シェイク、走れますかぁ」

 

自分で聞いてしまった。

 

山杉トレーナーは少し目を細めた。

 

「走れるやろ」

 

「古吉さんじゃなくても?」

 

「古吉さんがそう判断したんやろ」

 

「はいぃ……」

 

「なら、それを証明する日や」

 

シェイクは黙った。

 

証明。

 

その言葉は少し重い。

 

自分が古吉トレーナーではなくても走れること。

外された理由が、見捨てられたからではなかったこと。

デュードが古吉トレーナーで走ることを、ちゃんと祝えること。

 

全部を一度に証明するには、心臓が小さかった。

 

少し離れたところに、タガノデュードがいた。

 

隣には、古吉トレーナー。

 

見慣れた並びだった。

 

デュードと古吉トレーナー。

未勝利を勝った時。

朝日杯へ行った時。

淡路特別を勝った時。

 

戻ってきた足場。

 

その言葉が、シェイクの胸を少しだけ刺した。

 

「シェイクさん」

 

デュードが近づいてきた。

 

「デュードさん」

 

二人は向かい合った。

 

言葉がすぐには出なかった。

 

古吉トレーナーは少し離れた場所で、二人を見ていた。

山杉トレーナーも黙っている。

 

「今日は、勝ちに行きます」

 

デュードが言った。

 

「はいぃ」

 

「シェイクさんに悪いから、とか言いません」

 

「はいぃ」

 

「でも、軽くはないです」

 

「はいぃ」

 

シェイクは、ほわりと笑おうとした。

 

けれど、少し失敗した。

 

「勝ってくださいねぇ」

 

前にも言った言葉だった。

 

でも今日、パドックで口にすると、もっと重かった。

 

「シェイクが何回も届かなかったところ、ちゃんと見てきてください」

 

デュードは、その言葉を受け取った。

 

重い。

 

でも、逃げられない。

 

「はい」

 

デュードは頷いた。

 

「見てきます」

 

古吉トレーナーがデュードの横へ戻った。

 

「持ちすぎるなよ」

 

「無理です」

 

デュードは即答した。

 

「持ちすぎます」

 

「せやろな」

 

「シェイクさんのことも、古吉さんのことも、宮田先生の判断も、全部重いです」

 

「ほな、重いまま行け」

 

古吉トレーナーは短く言った。

 

「ただ、直線で潰れるな」

 

「はい」

 

「勝ちに行くぞ」

 

「はい」

 

デュードは前を見た。

 

古吉トレーナーが隣にいる。

 

帰りたかった足場。

戻りたかった声。

 

でも今日は、それが少しだけ借りもののように感じた。

 

借りたわけではない。

取ったわけでもない。

 

それでも、シェイクの心臓の痛みを知ってしまっている。

 

その上で、勝ちたい。

 

ゲートが開いた。

 

御堂筋ステークス。

 

阪神、芝二四。

 

デュードは出た。

 

焦らない。

下げすぎない。

前を遠くしすぎない。

 

古吉トレーナーの声が届く。

 

「そこでええ」

 

そこでいい。

 

その一言だけで、足元の板が一枚、ぴたりとはまる。

 

デュードは思った。

 

やっぱり、この声は走りやすい。

 

それが嬉しくて、痛かった。

 

シェイクは少し後ろで流れに乗っていた。

 

山杉トレーナーの声は、思ったより悪くない。

 

「慌てるな。前だけ見すぎるな」

 

見えている。

 

山杉トレーナーは、ちゃんと見ている。

 

「そこで息入れて。まだ脚使うな」

 

悪くない。

 

悪くないのに、心臓が少しだけ返事を遅らせる。

 

古吉トレーナーなら、今、何と言っただろう。

 

その一瞬が、余計だった。

 

「シェイクさん、戻して」

 

山杉の声。

 

シェイクは、はっとした。

 

「はいぃ」

 

戻す。

 

走れている。

 

でも、少しずつ噛み合わせが遅い。

 

三コーナー。

 

レースが動き始める。

 

デュードは古吉トレーナーの声を聞いた。

 

「準備」

 

準備。

 

足場を組む。

踏み出す位置を見る。

前を見る。

 

「まだ」

 

待つ。

 

「ここ」

 

動く。

 

その短い声のひとつひとつが、デュードの身体へ入っていく。

 

四コーナー。

 

視界が開いた。

 

直線。

 

前にはまだ、何頭かいる。

 

だが今日は、遠くない。

 

「デュード」

 

古吉トレーナーの声。

 

「行け」

 

デュードは踏んだ。

 

脚が伸びる。

 

重さを持ったまま、それでも沈まない。

 

シェイクの痛み。

自分の嬉しさ。

古吉トレーナーが隣にいること。

宮田先生が選んだこと。

 

全部が背中ではなく、足元に落ちていく。

 

踏む。

 

前へ。

 

一頭かわす。

 

もう一頭。

 

ゴール板が見える。

 

届く。

 

届いてしまう。

 

「踏め」

 

古吉トレーナーの声が飛ぶ。

 

デュードは、最後の一歩を出した。

 

ゴール。

 

一番前。

 

タガノデュードは、御堂筋ステークスを勝った。

 

音が遅れて戻ってきた。

 

歓声。

 

息。

 

芝を踏む音。

 

古吉トレーナーの声。

 

「勝ったな」

 

デュードは、前を見たまま息を整えた。

 

「勝ちました」

 

「勝った」

 

「三勝クラス、終わりました」

 

「終わったな」

 

その言葉を聞いた瞬間、デュードの胸が熱くなった。

 

終わった。

 

三勝クラスを抜けた。

 

古吉トレーナーと。

 

帰りたかった足場で。

 

けれど、すぐに別の名前が胸に浮かんだ。

 

「……シェイクさんは」

 

古吉トレーナーは答えなかった。

 

デュードは掲示板を見た。

 

自分の名前が一番上にある。

 

少し下に、シェイクユアハートの名前があった。

 

四着。

 

シェイクは四着だった。

 

山杉トレーナーで。

古吉トレーナーではなく。

 

四着。

 

「わたし」

 

デュードの声は震えなかった。

 

でも、息は少し浅かった。

 

「シェイクさんの安全帯を借りて、出口を抜けたみたいです」

 

「借りたんやない」

 

古吉トレーナーは言った。

 

「今日は、お前のレースや」

 

「でも、そう思えないです」

 

「思えんでもええ」

 

「いいんですか」

 

「今日は勝った。それは事実や」

 

古吉トレーナーは、少しだけ声を低くした。

 

「シェイクが四着。それも事実や」

 

デュードは目を伏せた。

 

「両方、持って帰るしかないですか」

 

「せや」

 

古吉トレーナーは短く答えた。

 

「勝った日も、軽くない」

 

少し離れたところで、シェイクは息を整えていた。

 

山杉トレーナーが来る。

 

「四着や」

 

「はいぃ」

 

「悪くはない」

 

「はいぃ」

 

「でも、勝ってへん」

 

「はいぃ」

 

山杉トレーナーは、シェイクの顔を見た。

 

「俺のせいにしてええで」

 

シェイクは少しだけ驚いた。

 

「え?」

 

「古吉さんやったら、とか。俺じゃなかったから、とか。言うてもええ」

 

「……」

 

「今日は、そう思うやろ」

 

シェイクは、しばらく黙った。

 

言いたい。

 

言いたくない。

 

古吉さんだったら。

古吉さんと走っていたら。

古吉さんがシェイクを選んでくれていたら。

 

その言葉が、喉の奥まで来ていた。

 

でも、シェイクは首を振った。

 

「分からないですぅ」

 

「分からん?」

 

「古吉さんだったら、勝てたかは分からないですぅ」

 

「……」

 

「でも、古吉さんじゃなかったのは、痛いですぅ」

 

山杉トレーナーは、黙って聞いていた。

 

「山杉さんは、悪くなかったですぅ」

 

「ほんまに?」

 

「はいぃ。見てくれてましたぁ」

 

「なら、何が足りんかった」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「心臓の返事が、少し遅かったですぅ」

 

山杉トレーナーは、小さく息を吐いた。

 

「難儀やな」

 

「はいぃ」

 

「でも、四着や。崩れてへん」

 

「はいぃ」

 

「古吉さんやなくても、走れてはいる」

 

その言葉は、古吉トレーナーが言ったことと同じだった。

 

褒め言葉。

 

でも、また痛い。

 

「走れては、いるんですねぇ」

 

「おう」

 

「勝てては、いないですぅ」

 

「せやな」

 

「デュードさんは、勝ちましたぁ」

 

「せや」

 

山杉トレーナーはごまかさなかった。

 

シェイクは、それが少しありがたかった。

 

「正しかったんですねぇ」

 

山杉は眉をひそめた。

 

「何が」

 

「宮田先生も、古吉さんも」

 

シェイクは、掲示板を見た。

 

一番上に、デュード。

 

四番目に、自分。

 

「デュードさんを古吉さんにしたの、正しかったんですねぇ」

 

山杉トレーナーは、すぐには答えなかった。

 

「結果だけ見たらな」

 

少し遅れて、低い声がした。

 

古吉トレーナーだった。

 

シェイクは振り返った。

 

古吉トレーナーとデュードが、近くに来ていた。

 

デュードは、何かを言おうとして、言えない顔をしている。

 

「古吉さん」

 

「おう」

 

「デュードさん、勝ちましたぁ」

 

「勝ったな」

 

「三勝クラス、抜けましたぁ」

 

「抜けた」

 

「シェイクは、四着でしたぁ」

 

「見た」

 

「じゃあ、正解でしたねぇ」

 

古吉トレーナーは、シェイクをまっすぐ見た。

 

「結果はな」

 

「結果だけでは?」

 

「お前の顔見たら、正解だけでは済まん」

 

シェイクの胸が、少しだけ揺れた。

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「シェイクじゃなかった方が、よかったんですねぇ」

 

「それは違う」

 

「でも、勝ったのはデュードさんですぅ」

 

「せや」

 

「シェイクは、勝ってないですぅ」

 

「せや」

 

「……古吉さん、正しいのに、痛いですぅ」

 

古吉トレーナーは、しばらく黙った。

 

デュードが一歩前に出た。

 

「シェイクさん」

 

「デュードさん」

 

「勝ちました」

 

「はいぃ」

 

「三勝クラスを抜けました」

 

「はいぃ」

 

「おめでとうって、言ってほしいわけじゃないです」

 

シェイクは少し目を丸くした。

 

デュードの声は、静かだった。

 

「でも、言われないと、たぶん苦しいです」

 

シェイクは、ゆっくり息を吸った。

 

胸が痛い。

 

心臓が、まだ理解できていない。

 

それでも。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「おめでとうございますぅ」

 

デュードの目が少し揺れた。

 

「ありがとうございます」

 

「悔しいですぅ」

 

「はい」

 

「痛いですぅ」

 

「はい」

 

「でも、おめでとうも本当ですぅ」

 

デュードは、うつむかなかった。

 

ちゃんと、その言葉を受け取った。

 

「わたしも、嬉しいです」

 

「はいぃ」

 

「でも、苦しいです」

 

「はいぃ」

 

「勝ったのに、軽くないです」

 

「三勝クラス、意地悪ですぅ……」

 

シェイクが言うと、デュードは少しだけ笑いそうになった。

 

でも笑えなかった。

 

「抜けても、意地悪です」

 

「ほわ~……最悪ですぅ……」

 

寮に戻った夜、二人は机に向かった。

 

いつものように、お茶は二つある。

 

けれど、机に置かれるメモは、今まででいちばん重かった。

 

デュードのメモ。

 

御堂筋ステークス一着。

古吉トレーナー。

三勝クラス、終わった。

嬉しい。

でも軽くない。

シェイクさんは四着。

借りたわけではない。

取ったわけでもない。

でも、同じ机の上にある痛み。

勝った日も、軽くない。

 

シェイクのメモ。

 

御堂筋ステークス四着。

山杉トレーナー。

山杉さんは悪くなかった。

心臓の返事が少し遅かった。

デュードさん、一着。

古吉さんで三勝クラスを抜けた。

宮田先生も古吉さんも、結果だけ見れば正しかった。

正しかったから、痛かった。

でも、おめでとうも本当。

 

二人はメモを並べた。

 

一着と四着。

 

同じレース。

同じ距離。

違う隣。

違う出口。

 

デュードは、先に三勝クラスを抜けた。

 

シェイクは、まだ残った。

 

「シェイクさん」

 

「はいぃ」

 

「わたし、先に抜けました」

 

「はいぃ」

 

「待ってます、と言えばいいんでしょうか」

 

シェイクは少し考えた。

 

「言われたら、ちょっと痛いですぅ」

 

「ですよね」

 

「でも、言われなかったら、もっと痛いかもしれませんぅ」

 

「難しいです」

 

「難しいですぅ」

 

デュードは湯呑みを見つめた。

 

「待ってます」

 

シェイクは、静かに頷いた。

 

「はいぃ」

 

「でも、急かしません」

 

「はいぃ」

 

「シェイクさんの出口を、待ってます」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

心臓は、まだ痛い。

 

けれど、少しだけ足元に戻ってきた。

 

「シェイクの出口……」

 

「はい」

 

「古吉さんに選ばれなかった日も、持っていきますぅ」

 

「重くないですか」

 

「重いですぅ」

 

「置いていってもいいと思います」

 

「置ける分だけ、置きますぅ」

 

シェイクは、メモの端に小さく書き足した。

 

次は、シェイクのレース。

 

それを見て、デュードは何も言わなかった。

 

宮田先生は、自室で結果表を見ていた。

 

御堂筋ステークス。

 

一着、タガノデュード。

四着、シェイクユアハート。

 

判断は当たった。

 

古吉トレーナーをデュードにつけた。

デュードは勝った。

三勝クラスを突破した。

 

采配としては、正しかった。

 

宮田先生は椅子にもたれ、天井を見た。

 

「……正しかったから、きついな」

 

誰に言うでもなく、そう呟いた。

 

廊下の向こう、二人の部屋にはまだ灯りがついている。

 

選ばれた心臓は、一番前でゴールした。

 

選ばれなかった心臓は、四着で残った。

 

どちらも壊れてはいない。

 

けれど、どちらも無傷ではない。

 

御堂筋ステークス。

 

デュードは、借りたように感じた足場で勝った。

シェイクは、外された痛みを抱えたまま走った。

 

正しかった。

 

だからこそ、痛かった。

 

そしてその痛みは、次の朝、二人がまた同じ部屋で目を覚ますまで、机の上に静かに置かれていた。

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