御堂筋ステークスの日、阪神の空は薄く曇っていた。
春なのに、少しだけ冷たい。
湿った風が、芝の上を低く流れていく。
シェイクユアハートは、パドックへ向かう前に手袋を直した。
右。
左。
今日は、ちゃんと左右そろっている。
でも、心臓の位置は少しだけずれていた。
隣にいるのは、古吉トレーナーではない。
「山杉です。今日はよろしく」
若い声がした。
山杉トレーナーは、資料を片手に立っていた。
若い。
姿勢は悪くない。
顔も悪くない。
けれどシェイクは、最初にそこを見なかった。
鼻を小さく動かす。
「……酒の匂いは、しませんぅ」
山杉トレーナーは一瞬固まった。
「いきなりそこ?」
「デュードさんから聞きましたぁ。現場確認ですぅ」
「現場確認なぁ」
山杉は苦笑した。
「今日はしてへん。遅刻もしてへん。資料も読んできた」
「すごいですぅ」
「それ、褒めてる?」
「最低限の安全確認ですぅ」
「厳しいな、この部屋の子ら」
山杉トレーナーは肩をすくめた。
けれど、目はちゃんとレースの方を見ていた。
「シェイクさん」
「はいぃ」
「俺は古吉さんやない」
シェイクの指が少し止まった。
「はいぃ」
「古吉さんの代わりにもならん」
「はいぃ」
「今日は、俺で走るしかない」
山杉トレーナーは、いつもの軽さを少しだけ消して言った。
「それが嫌でも、ゲートは開く」
シェイクは、胸に手を当てた。
嫌ではない。
山杉トレーナーが嫌なわけではない。
ただ、古吉トレーナーではない。
その違いが、思ったより大きかった。
「シェイク、走れますかぁ」
自分で聞いてしまった。
山杉トレーナーは少し目を細めた。
「走れるやろ」
「古吉さんじゃなくても?」
「古吉さんがそう判断したんやろ」
「はいぃ……」
「なら、それを証明する日や」
シェイクは黙った。
証明。
その言葉は少し重い。
自分が古吉トレーナーではなくても走れること。
外された理由が、見捨てられたからではなかったこと。
デュードが古吉トレーナーで走ることを、ちゃんと祝えること。
全部を一度に証明するには、心臓が小さかった。
少し離れたところに、タガノデュードがいた。
隣には、古吉トレーナー。
見慣れた並びだった。
デュードと古吉トレーナー。
未勝利を勝った時。
朝日杯へ行った時。
淡路特別を勝った時。
戻ってきた足場。
その言葉が、シェイクの胸を少しだけ刺した。
「シェイクさん」
デュードが近づいてきた。
「デュードさん」
二人は向かい合った。
言葉がすぐには出なかった。
古吉トレーナーは少し離れた場所で、二人を見ていた。
山杉トレーナーも黙っている。
「今日は、勝ちに行きます」
デュードが言った。
「はいぃ」
「シェイクさんに悪いから、とか言いません」
「はいぃ」
「でも、軽くはないです」
「はいぃ」
シェイクは、ほわりと笑おうとした。
けれど、少し失敗した。
「勝ってくださいねぇ」
前にも言った言葉だった。
でも今日、パドックで口にすると、もっと重かった。
「シェイクが何回も届かなかったところ、ちゃんと見てきてください」
デュードは、その言葉を受け取った。
重い。
でも、逃げられない。
「はい」
デュードは頷いた。
「見てきます」
古吉トレーナーがデュードの横へ戻った。
「持ちすぎるなよ」
「無理です」
デュードは即答した。
「持ちすぎます」
「せやろな」
「シェイクさんのことも、古吉さんのことも、宮田先生の判断も、全部重いです」
「ほな、重いまま行け」
古吉トレーナーは短く言った。
「ただ、直線で潰れるな」
「はい」
「勝ちに行くぞ」
「はい」
デュードは前を見た。
古吉トレーナーが隣にいる。
帰りたかった足場。
戻りたかった声。
でも今日は、それが少しだけ借りもののように感じた。
借りたわけではない。
取ったわけでもない。
それでも、シェイクの心臓の痛みを知ってしまっている。
その上で、勝ちたい。
ゲートが開いた。
御堂筋ステークス。
阪神、芝二四。
デュードは出た。
焦らない。
下げすぎない。
前を遠くしすぎない。
古吉トレーナーの声が届く。
「そこでええ」
そこでいい。
その一言だけで、足元の板が一枚、ぴたりとはまる。
デュードは思った。
やっぱり、この声は走りやすい。
それが嬉しくて、痛かった。
シェイクは少し後ろで流れに乗っていた。
山杉トレーナーの声は、思ったより悪くない。
「慌てるな。前だけ見すぎるな」
見えている。
山杉トレーナーは、ちゃんと見ている。
「そこで息入れて。まだ脚使うな」
悪くない。
悪くないのに、心臓が少しだけ返事を遅らせる。
古吉トレーナーなら、今、何と言っただろう。
その一瞬が、余計だった。
「シェイクさん、戻して」
山杉の声。
シェイクは、はっとした。
「はいぃ」
戻す。
走れている。
でも、少しずつ噛み合わせが遅い。
三コーナー。
レースが動き始める。
デュードは古吉トレーナーの声を聞いた。
「準備」
準備。
足場を組む。
踏み出す位置を見る。
前を見る。
「まだ」
待つ。
「ここ」
動く。
その短い声のひとつひとつが、デュードの身体へ入っていく。
四コーナー。
視界が開いた。
直線。
前にはまだ、何頭かいる。
だが今日は、遠くない。
「デュード」
古吉トレーナーの声。
「行け」
デュードは踏んだ。
脚が伸びる。
重さを持ったまま、それでも沈まない。
シェイクの痛み。
自分の嬉しさ。
古吉トレーナーが隣にいること。
宮田先生が選んだこと。
全部が背中ではなく、足元に落ちていく。
踏む。
前へ。
一頭かわす。
もう一頭。
ゴール板が見える。
届く。
届いてしまう。
「踏め」
古吉トレーナーの声が飛ぶ。
デュードは、最後の一歩を出した。
ゴール。
一番前。
タガノデュードは、御堂筋ステークスを勝った。
音が遅れて戻ってきた。
歓声。
息。
芝を踏む音。
古吉トレーナーの声。
「勝ったな」
デュードは、前を見たまま息を整えた。
「勝ちました」
「勝った」
「三勝クラス、終わりました」
「終わったな」
その言葉を聞いた瞬間、デュードの胸が熱くなった。
終わった。
三勝クラスを抜けた。
古吉トレーナーと。
帰りたかった足場で。
けれど、すぐに別の名前が胸に浮かんだ。
「……シェイクさんは」
古吉トレーナーは答えなかった。
デュードは掲示板を見た。
自分の名前が一番上にある。
少し下に、シェイクユアハートの名前があった。
四着。
シェイクは四着だった。
山杉トレーナーで。
古吉トレーナーではなく。
四着。
「わたし」
デュードの声は震えなかった。
でも、息は少し浅かった。
「シェイクさんの安全帯を借りて、出口を抜けたみたいです」
「借りたんやない」
古吉トレーナーは言った。
「今日は、お前のレースや」
「でも、そう思えないです」
「思えんでもええ」
「いいんですか」
「今日は勝った。それは事実や」
古吉トレーナーは、少しだけ声を低くした。
「シェイクが四着。それも事実や」
デュードは目を伏せた。
「両方、持って帰るしかないですか」
「せや」
古吉トレーナーは短く答えた。
「勝った日も、軽くない」
少し離れたところで、シェイクは息を整えていた。
山杉トレーナーが来る。
「四着や」
「はいぃ」
「悪くはない」
「はいぃ」
「でも、勝ってへん」
「はいぃ」
山杉トレーナーは、シェイクの顔を見た。
「俺のせいにしてええで」
シェイクは少しだけ驚いた。
「え?」
「古吉さんやったら、とか。俺じゃなかったから、とか。言うてもええ」
「……」
「今日は、そう思うやろ」
シェイクは、しばらく黙った。
言いたい。
言いたくない。
古吉さんだったら。
古吉さんと走っていたら。
古吉さんがシェイクを選んでくれていたら。
その言葉が、喉の奥まで来ていた。
でも、シェイクは首を振った。
「分からないですぅ」
「分からん?」
「古吉さんだったら、勝てたかは分からないですぅ」
「……」
「でも、古吉さんじゃなかったのは、痛いですぅ」
山杉トレーナーは、黙って聞いていた。
「山杉さんは、悪くなかったですぅ」
「ほんまに?」
「はいぃ。見てくれてましたぁ」
「なら、何が足りんかった」
シェイクは胸に手を当てた。
「心臓の返事が、少し遅かったですぅ」
山杉トレーナーは、小さく息を吐いた。
「難儀やな」
「はいぃ」
「でも、四着や。崩れてへん」
「はいぃ」
「古吉さんやなくても、走れてはいる」
その言葉は、古吉トレーナーが言ったことと同じだった。
褒め言葉。
でも、また痛い。
「走れては、いるんですねぇ」
「おう」
「勝てては、いないですぅ」
「せやな」
「デュードさんは、勝ちましたぁ」
「せや」
山杉トレーナーはごまかさなかった。
シェイクは、それが少しありがたかった。
「正しかったんですねぇ」
山杉は眉をひそめた。
「何が」
「宮田先生も、古吉さんも」
シェイクは、掲示板を見た。
一番上に、デュード。
四番目に、自分。
「デュードさんを古吉さんにしたの、正しかったんですねぇ」
山杉トレーナーは、すぐには答えなかった。
「結果だけ見たらな」
少し遅れて、低い声がした。
古吉トレーナーだった。
シェイクは振り返った。
古吉トレーナーとデュードが、近くに来ていた。
デュードは、何かを言おうとして、言えない顔をしている。
「古吉さん」
「おう」
「デュードさん、勝ちましたぁ」
「勝ったな」
「三勝クラス、抜けましたぁ」
「抜けた」
「シェイクは、四着でしたぁ」
「見た」
「じゃあ、正解でしたねぇ」
古吉トレーナーは、シェイクをまっすぐ見た。
「結果はな」
「結果だけでは?」
「お前の顔見たら、正解だけでは済まん」
シェイクの胸が、少しだけ揺れた。
「古吉さん」
「何や」
「シェイクじゃなかった方が、よかったんですねぇ」
「それは違う」
「でも、勝ったのはデュードさんですぅ」
「せや」
「シェイクは、勝ってないですぅ」
「せや」
「……古吉さん、正しいのに、痛いですぅ」
古吉トレーナーは、しばらく黙った。
デュードが一歩前に出た。
「シェイクさん」
「デュードさん」
「勝ちました」
「はいぃ」
「三勝クラスを抜けました」
「はいぃ」
「おめでとうって、言ってほしいわけじゃないです」
シェイクは少し目を丸くした。
デュードの声は、静かだった。
「でも、言われないと、たぶん苦しいです」
シェイクは、ゆっくり息を吸った。
胸が痛い。
心臓が、まだ理解できていない。
それでも。
「デュードさん」
「はい」
「おめでとうございますぅ」
デュードの目が少し揺れた。
「ありがとうございます」
「悔しいですぅ」
「はい」
「痛いですぅ」
「はい」
「でも、おめでとうも本当ですぅ」
デュードは、うつむかなかった。
ちゃんと、その言葉を受け取った。
「わたしも、嬉しいです」
「はいぃ」
「でも、苦しいです」
「はいぃ」
「勝ったのに、軽くないです」
「三勝クラス、意地悪ですぅ……」
シェイクが言うと、デュードは少しだけ笑いそうになった。
でも笑えなかった。
「抜けても、意地悪です」
「ほわ~……最悪ですぅ……」
寮に戻った夜、二人は机に向かった。
いつものように、お茶は二つある。
けれど、机に置かれるメモは、今まででいちばん重かった。
デュードのメモ。
御堂筋ステークス一着。
古吉トレーナー。
三勝クラス、終わった。
嬉しい。
でも軽くない。
シェイクさんは四着。
借りたわけではない。
取ったわけでもない。
でも、同じ机の上にある痛み。
勝った日も、軽くない。
シェイクのメモ。
御堂筋ステークス四着。
山杉トレーナー。
山杉さんは悪くなかった。
心臓の返事が少し遅かった。
デュードさん、一着。
古吉さんで三勝クラスを抜けた。
宮田先生も古吉さんも、結果だけ見れば正しかった。
正しかったから、痛かった。
でも、おめでとうも本当。
二人はメモを並べた。
一着と四着。
同じレース。
同じ距離。
違う隣。
違う出口。
デュードは、先に三勝クラスを抜けた。
シェイクは、まだ残った。
「シェイクさん」
「はいぃ」
「わたし、先に抜けました」
「はいぃ」
「待ってます、と言えばいいんでしょうか」
シェイクは少し考えた。
「言われたら、ちょっと痛いですぅ」
「ですよね」
「でも、言われなかったら、もっと痛いかもしれませんぅ」
「難しいです」
「難しいですぅ」
デュードは湯呑みを見つめた。
「待ってます」
シェイクは、静かに頷いた。
「はいぃ」
「でも、急かしません」
「はいぃ」
「シェイクさんの出口を、待ってます」
シェイクは胸に手を当てた。
心臓は、まだ痛い。
けれど、少しだけ足元に戻ってきた。
「シェイクの出口……」
「はい」
「古吉さんに選ばれなかった日も、持っていきますぅ」
「重くないですか」
「重いですぅ」
「置いていってもいいと思います」
「置ける分だけ、置きますぅ」
シェイクは、メモの端に小さく書き足した。
次は、シェイクのレース。
それを見て、デュードは何も言わなかった。
宮田先生は、自室で結果表を見ていた。
御堂筋ステークス。
一着、タガノデュード。
四着、シェイクユアハート。
判断は当たった。
古吉トレーナーをデュードにつけた。
デュードは勝った。
三勝クラスを突破した。
采配としては、正しかった。
宮田先生は椅子にもたれ、天井を見た。
「……正しかったから、きついな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
廊下の向こう、二人の部屋にはまだ灯りがついている。
選ばれた心臓は、一番前でゴールした。
選ばれなかった心臓は、四着で残った。
どちらも壊れてはいない。
けれど、どちらも無傷ではない。
御堂筋ステークス。
デュードは、借りたように感じた足場で勝った。
シェイクは、外された痛みを抱えたまま走った。
正しかった。
だからこそ、痛かった。
そしてその痛みは、次の朝、二人がまた同じ部屋で目を覚ますまで、机の上に静かに置かれていた。