御堂筋ステークスのあと、シェイクユアハートの机には一枚のメモが残った。
御堂筋ステークス四着。
山杉トレーナー。
山杉さんは悪くなかった。
デュードさん、一着。
古吉さんで三勝クラスを抜けた。
正しかったから、痛かった。
次は、シェイクのレース。
その最後の一行だけ、少し筆圧が強かった。
次は、シェイクのレース。
そう書いた。
書いたのに、次の朝になっても、その一行はうまく胸に入ってこなかった。
デュードはもう、三勝クラスの外にいる。
同じ部屋にはいる。
同じ机でメモを書く。
同じお茶を飲む。
けれど、予定表の上ではもう違う場所にいた。
タガノデュード。
オープンウマ娘。
シェイクユアハート。
三勝クラス。
その差は、数字で見るよりずっと大きかった。
「シェイクさん」
朝、デュードが声をかけた。
「はいぃ」
「目覚まし、三回鳴りました」
「心は一回目で起きてましたぁ……」
「身体は三回目でした」
「ほわ……」
いつもの会話だった。
いつもの朝だった。
でも、二人とも分かっている。
いつも通りに見えるものほど、少しだけ力を入れて作られている。
食堂へ向かう途中、何人かのウマ娘がデュードへ声をかけた。
「デュードさん、御堂筋おめでとう!」
「オープン入りだね!」
「次、重賞もあるんじゃない?」
デュードは礼儀正しく頷いた。
「ありがとうございます」
シェイクはその横で、ほわりと笑っていた。
祝福は本当だった。
でも、祝福のたびに、胸の奥に小さな針が落ちる。
自分が長く歩いていた沼を、デュードは古吉トレーナーと抜けた。
古吉トレーナーが選んだ方が勝った。
宮田先生の判断は正しかった。
それが、まだ痛い。
数日後。
宮田先生から呼び出しがあった。
シェイクは、次走の話だと思った。
山杉トレーナーでもう一度行くのか。
古吉トレーナーが戻ってくるのか。
それとも、別の三勝クラスを選ぶのか。
部屋に入ると、宮田先生はいつもより少し難しい顔をしていた。
「来たか」
「はいぃ」
「座れ」
「はいぃ……」
シェイクは椅子に座った。
机の上には資料がある。
しかし、いつもの芝二千や芝二四の資料とは少し違った。
距離。
コース。
飛越。
シェイクは首を傾げた。
「宮田先生」
「なんや」
「この資料、障害って書いてありますぅ」
「書いてあるな」
「誰かの資料ですかぁ?」
「お前のや」
シェイクは瞬きをした。
一回。
二回。
三回。
「……ほわ?」
宮田先生は、資料を一枚めくった。
「シェイク」
「はいぃ」
「障害、やるか」
部屋の空気が止まった。
シェイクは、しばらく宮田先生を見ていた。
「障害……?」
「障害や」
「飛ぶやつですかぁ……?」
「飛ぶやつや」
「シェイクが?」
「お前が」
「……えっ」
その時、ドアが軽く叩かれた。
「失礼します」
若い声が入ってきた。
シェイクが振り向くと、そこには見慣れないトレーナーが立っていた。
姿勢がいい。
顔立ちが整っている。
若い。
シェイクの目が少しだけ動いた。
「大牧です。よろしくお願いします」
大牧トレーナーは、穏やかに頭を下げた。
「大牧トレーナーは、障害の専門や」
宮田先生が言った。
「障害専門……」
シェイクは大牧トレーナーを見た。
「若いですぅ」
「はい?」
「イケメンですぅ」
「シェイク」
宮田先生の声が低くなった。
「そこちゃう」
「でも、障害ですぅ……えっ……」
シェイクの頭の中で、いくつもの札が同時に回っていた。
若い。
イケメン。
障害専門。
飛ぶ。
落ちるかもしれない。
横を通れば早いのでは。
いや、たぶん怒られる。
宮田先生は、シェイクの混乱を見ながらも、声を落ち着けて続けた。
「いきなり転向を決めるわけやない。適性を見る。練習をする。合わなければ戻す」
「はいぃ……」
「ただ、今のお前には、足元を見る時間が要る」
「足元……」
「御堂筋のあと、お前は走れとる。でも、心臓の返事が遅い」
シェイクは少しだけ目を伏せた。
山杉トレーナーにも言われた。
心臓の返事が遅かった。
「古吉に選ばれなかったこと。デュードが勝ったこと。それを持ったまま走るのは悪いことやない」
宮田先生は、資料に手を置いた。
「でも、持ち方を変えなあかん」
「障害で、変わりますかぁ」
「分からん」
「分からないんですかぁ……」
「分からんから、見る」
宮田先生はまっすぐ言った。
「障害は逃げ道やない。平地で勝てんから行く場所でもない。別の競技や」
シェイクは黙った。
「だから、舐めて行くならやらせん」
「舐めてはないですぅ」
「ほんまか」
「横を通れば早いのでは、とは少し思いましたぁ……」
宮田先生は目を閉じた。
大牧トレーナーも一瞬だけ止まった。
「シェイク」
「はいぃ」
「天才の顔で反則を言うな」
「ほわっ」
大牧トレーナーは、少しだけ笑った。
けれど、すぐに真面目な声になった。
「シェイクさん。障害は、飛ぶところまで含めてコースです」
「横は……」
「通りません」
「即答ですぅ……」
「速くゴールしたのではなく、レースから外れたことになります」
「ほわ~……近道ではなく退場ですぅ……」
「はい」
大牧トレーナーは穏やかに頷いた。
「でも、そう考えるのは悪いことではありません」
「いいんですかぁ?」
「怖いものを避けたいと思うのは、自然です」
シェイクは、大牧トレーナーを見た。
「怖くてもいいんですかぁ」
「怖くていいです」
大牧トレーナーの声は、若いのに落ち着いていた。
「怖いと思わない方が危ないです。障害は、怖さを消して飛ぶものではありません。怖いと分かった上で、正しい場所から踏み切ります」
「正しい場所……」
「踏み切り。飛越。着地。その後の一歩。全部つながっています」
シェイクは資料を見た。
そこには、平地とは違う言葉が並んでいる。
高さ。
間隔。
踏み切り。
着地。
心臓だけが先に行ったら、落ちる。
それは、言われなくても分かった。
「シェイクさんは、心臓が先に行きやすいと聞いています」
大牧トレーナーが言った。
「はいぃ……一着の隣を見ると、心臓が先に走りますぅ」
「障害では、それをすると危ないです」
「落ちますかぁ……?」
「落ちます」
「即答二回目ですぅ……」
「だから、心臓と足を同じ場所に戻す練習をします」
シェイクは、その言葉を胸の中で繰り返した。
心臓と足を同じ場所に戻す。
御堂筋ステークスの日、心臓の返事は遅かった。
古吉トレーナーのいない隣で、少しだけ遅れた。
デュードが一着でゴールしたあと、自分の心臓はどこにあるのか分からなくなった。
それを、足元へ戻す。
「大牧さん」
「はい」
「障害って、痛いものを横から避ける練習じゃないんですねぇ」
「はい」
「痛いものの前で、ちゃんと踏み切る練習ですかぁ」
大牧トレーナーは少しだけ目を細めた。
「たぶん、そうです」
宮田先生は黙って二人を見ていた。
そのあと、シェイクは部屋へ戻った。
デュードは机に向かって資料を読んでいた。
シェイクが入ってきた瞬間、顔を上げる。
「どうでしたか」
「デュードさん」
「はい」
「宮田先生に、障害やるかって言われましたぁ」
デュードの手が止まった。
「障害」
「はいぃ」
「飛ぶやつですか」
「飛ぶやつですぅ」
「シェイクさんが?」
「シェイクがですぅ」
デュードは一度、資料を置いた。
そして、とても真剣な顔で言った。
「足場の話なら専門です」
「これは足場じゃなくて、飛ぶやつですぅ……」
「飛ぶためには、踏み切り位置と着地位置の確認が必要です」
「急に頼もしいですぅ……」
「横は通れませんよ」
「もう大牧さんにも言われましたぁ」
「考えたんですか」
「少しだけですぅ」
「シェイクさん」
「はいぃ」
「それは迂回路ではありません。安全導線です」
「安全導線……」
「現場でも、資材を避けるために勝手に近道したら怒られます」
「障害、現場ですぅ……」
デュードはすぐに紙を取り出した。
「障害初回確認項目を書きます」
「えっ」
「まず、障害を罰ゲーム扱いしないこと」
「はいぃ」
「平地で勝てないから行く場所ではなく、別の競技だと理解すること」
「はいぃ」
「横を通らないこと」
「重点項目ですぅ……」
「最重要です」
デュードは真顔で書いた。
シェイクはその横顔を見て、少しだけ笑った。
デュードはもう、オープンウマ娘だ。
自分とは違う場所にいる。
でも、こうして机の向こうで、当たり前のように安全確認をしてくれる。
そのことが、少しだけ心臓を足元へ戻した。
翌日。
シェイクは初めて障害練習場へ向かった。
大牧トレーナーが待っている。
宮田先生もいる。
少し離れたところに古吉トレーナーも立っていた。
「古吉さん」
「おう」
「見に来たんですかぁ」
「見に来た」
「止めに来たんですかぁ?」
「止めてほしいんか」
「止めてほしいような、大牧さんが若くてイケメンなので少し見たいような……」
「欲望が散らかっとるな」
古吉トレーナーは呆れた顔をした。
「お前、平地でずっと心臓が先に行っとったやろ」
「はいぃ」
「障害は、心臓だけ先に行ったら落ちる」
「怖いですぅ……」
「せや。怖いくらいでええ」
古吉トレーナーは、障害の方を見た。
「足元を見る練習にはなる」
「古吉さん」
「何や」
「シェイク、障害で逃げてるように見えますかぁ」
古吉トレーナーは、すぐには答えなかった。
「逃げるやつは、障害の横を通る」
「ほわ……」
「飛ぶなら、逃げやない」
シェイクは胸に手を当てた。
心臓は怖がっている。
でも、少しだけ返事をした。
その時だった。
練習場の端から、低い声が聞こえた。
「ああん?」
空気が変わった。
シェイクが振り向く。
そこにいたのは、圧の塊みたいなウマ娘だった。
立っているだけで、障害が背筋を伸ばしそうな存在感。
大牧トレーナーが姿勢を正す。
「オジュウチョウサンさん」
シェイクの耳がぴんと立った。
「オジュウ……」
障害界の名を、知らないわけではない。
伝説。
頂上。
中山大障害。
飛び続けた心臓。
その本人が、こちらを見ていた。
「今、横を通るとか言ったのは誰だ」
シェイクは固まった。
宮田先生が目を閉じた。
古吉トレーナーが小さく息を吐いた。
デュードがなぜか持参したメモ帳を開いた。
「シェイクですぅ……」
「障害、舐めてんのかァ」
「ひぇっ」
シェイクの心臓が、全力で足元へ戻った。
むしろ少し地下へ潜った。
オジュウチョウサンは、ゆっくり近づいてきた。
「横通れば早い?飛ばなくていい?お前それ、中山大障害の前でも同じこと言えんのかァ」
「な、中山大障害……名前がもう怖いですぅ……」
「怖いか」
「怖いですぅ……」
「ならいい」
シェイクは、恐る恐る顔を上げた。
「いいんですかぁ?」
「怖くねぇやつから落ちる。怖いって分かってるやつは、まだ飛べる」
オジュウチョウサンの声は、怖い。
でも、その奥に芯があった。
「障害は逃げ道じゃねぇ。罰ゲームでもねぇ。別の頂上だ」
「別の頂上……」
「平地で勝てなかったから来る場所じゃねぇ。飛ぶ覚悟があるやつだけが来る場所だ」
シェイクは、障害を見た。
高い。
怖い。
横を通りたい。
でも、横を通れば、それはレースではない。
「オジュウさん」
「ああん?」
「シェイク、怖いですぅ」
「おう」
「横、通りたいですぅ」
「おう」
「でも、飛ぶんですねぇ」
「飛べ」
その一言は、乱暴で、まっすぐだった。
大牧トレーナーが静かに頷いた。
「怖いまま、正しい場所で踏み切りましょう」
シェイクは深く息を吸った。
古吉に選ばれなかった日。
デュードが一番前でゴールした日。
正しかったから痛かった日。
それらは全部、横を通って避けたいものだった。
でも、横を通っても消えない。
飛ばなければならない障害がある。
シェイクは、最初の小さな障害の前に立った。
心臓は、まだ怖がっている。
でも、今日は足元にある。
「大牧さん」
「はい」
「踏み切る場所、教えてくださいぃ」
「はい」
「オジュウさん」
「ああん?」
「怒らないで見ててくださいぃ……」
「飛んだらな」
「条件が厳しいですぅ……」
デュードが横で小さく書いた。
障害は逃げ道ではない。
横は反則。
怖いまま踏み切る。
シェイクさん、初回から講師が強すぎる。
シェイクユアハートは、小さな障害を見つめた。
まだ飛んでいない。
まだ何も越えていない。
けれどこの日、心臓は初めて、障害の前で立ち止まった。
逃げるためではなく。
正しい場所から、踏み切るために。