心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第二十二章-b]心臓は、障害の前で立ち止まる

御堂筋ステークスのあと、シェイクユアハートの机には一枚のメモが残った。

 

御堂筋ステークス四着。

山杉トレーナー。

山杉さんは悪くなかった。

デュードさん、一着。

古吉さんで三勝クラスを抜けた。

正しかったから、痛かった。

次は、シェイクのレース。

 

その最後の一行だけ、少し筆圧が強かった。

 

次は、シェイクのレース。

 

そう書いた。

 

書いたのに、次の朝になっても、その一行はうまく胸に入ってこなかった。

 

デュードはもう、三勝クラスの外にいる。

 

同じ部屋にはいる。

同じ机でメモを書く。

同じお茶を飲む。

 

けれど、予定表の上ではもう違う場所にいた。

 

タガノデュード。

オープンウマ娘。

 

シェイクユアハート。

三勝クラス。

 

その差は、数字で見るよりずっと大きかった。

 

「シェイクさん」

 

朝、デュードが声をかけた。

 

「はいぃ」

 

「目覚まし、三回鳴りました」

 

「心は一回目で起きてましたぁ……」

 

「身体は三回目でした」

 

「ほわ……」

 

いつもの会話だった。

 

いつもの朝だった。

 

でも、二人とも分かっている。

 

いつも通りに見えるものほど、少しだけ力を入れて作られている。

 

食堂へ向かう途中、何人かのウマ娘がデュードへ声をかけた。

 

「デュードさん、御堂筋おめでとう!」

 

「オープン入りだね!」

 

「次、重賞もあるんじゃない?」

 

デュードは礼儀正しく頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

シェイクはその横で、ほわりと笑っていた。

 

祝福は本当だった。

 

でも、祝福のたびに、胸の奥に小さな針が落ちる。

 

自分が長く歩いていた沼を、デュードは古吉トレーナーと抜けた。

 

古吉トレーナーが選んだ方が勝った。

 

宮田先生の判断は正しかった。

 

それが、まだ痛い。

 

数日後。

 

宮田先生から呼び出しがあった。

 

シェイクは、次走の話だと思った。

 

山杉トレーナーでもう一度行くのか。

古吉トレーナーが戻ってくるのか。

それとも、別の三勝クラスを選ぶのか。

 

部屋に入ると、宮田先生はいつもより少し難しい顔をしていた。

 

「来たか」

 

「はいぃ」

 

「座れ」

 

「はいぃ……」

 

シェイクは椅子に座った。

 

机の上には資料がある。

 

しかし、いつもの芝二千や芝二四の資料とは少し違った。

 

距離。

コース。

飛越。

 

シェイクは首を傾げた。

 

「宮田先生」

 

「なんや」

 

「この資料、障害って書いてありますぅ」

 

「書いてあるな」

 

「誰かの資料ですかぁ?」

 

「お前のや」

 

シェイクは瞬きをした。

 

一回。

 

二回。

 

三回。

 

「……ほわ?」

 

宮田先生は、資料を一枚めくった。

 

「シェイク」

 

「はいぃ」

 

「障害、やるか」

 

部屋の空気が止まった。

 

シェイクは、しばらく宮田先生を見ていた。

 

「障害……?」

 

「障害や」

 

「飛ぶやつですかぁ……?」

 

「飛ぶやつや」

 

「シェイクが?」

 

「お前が」

 

「……えっ」

 

その時、ドアが軽く叩かれた。

 

「失礼します」

 

若い声が入ってきた。

 

シェイクが振り向くと、そこには見慣れないトレーナーが立っていた。

 

姿勢がいい。

顔立ちが整っている。

若い。

 

シェイクの目が少しだけ動いた。

 

「大牧です。よろしくお願いします」

 

大牧トレーナーは、穏やかに頭を下げた。

 

「大牧トレーナーは、障害の専門や」

 

宮田先生が言った。

 

「障害専門……」

 

シェイクは大牧トレーナーを見た。

 

「若いですぅ」

 

「はい?」

 

「イケメンですぅ」

 

「シェイク」

 

宮田先生の声が低くなった。

 

「そこちゃう」

 

「でも、障害ですぅ……えっ……」

 

シェイクの頭の中で、いくつもの札が同時に回っていた。

 

若い。

イケメン。

障害専門。

飛ぶ。

落ちるかもしれない。

横を通れば早いのでは。

いや、たぶん怒られる。

 

宮田先生は、シェイクの混乱を見ながらも、声を落ち着けて続けた。

 

「いきなり転向を決めるわけやない。適性を見る。練習をする。合わなければ戻す」

 

「はいぃ……」

 

「ただ、今のお前には、足元を見る時間が要る」

 

「足元……」

 

「御堂筋のあと、お前は走れとる。でも、心臓の返事が遅い」

 

シェイクは少しだけ目を伏せた。

 

山杉トレーナーにも言われた。

心臓の返事が遅かった。

 

「古吉に選ばれなかったこと。デュードが勝ったこと。それを持ったまま走るのは悪いことやない」

 

宮田先生は、資料に手を置いた。

 

「でも、持ち方を変えなあかん」

 

「障害で、変わりますかぁ」

 

「分からん」

 

「分からないんですかぁ……」

 

「分からんから、見る」

 

宮田先生はまっすぐ言った。

 

「障害は逃げ道やない。平地で勝てんから行く場所でもない。別の競技や」

 

シェイクは黙った。

 

「だから、舐めて行くならやらせん」

 

「舐めてはないですぅ」

 

「ほんまか」

 

「横を通れば早いのでは、とは少し思いましたぁ……」

 

宮田先生は目を閉じた。

 

大牧トレーナーも一瞬だけ止まった。

 

「シェイク」

 

「はいぃ」

 

「天才の顔で反則を言うな」

 

「ほわっ」

 

大牧トレーナーは、少しだけ笑った。

 

けれど、すぐに真面目な声になった。

 

「シェイクさん。障害は、飛ぶところまで含めてコースです」

 

「横は……」

 

「通りません」

 

「即答ですぅ……」

 

「速くゴールしたのではなく、レースから外れたことになります」

 

「ほわ~……近道ではなく退場ですぅ……」

 

「はい」

 

大牧トレーナーは穏やかに頷いた。

 

「でも、そう考えるのは悪いことではありません」

 

「いいんですかぁ?」

 

「怖いものを避けたいと思うのは、自然です」

 

シェイクは、大牧トレーナーを見た。

 

「怖くてもいいんですかぁ」

 

「怖くていいです」

 

大牧トレーナーの声は、若いのに落ち着いていた。

 

「怖いと思わない方が危ないです。障害は、怖さを消して飛ぶものではありません。怖いと分かった上で、正しい場所から踏み切ります」

 

「正しい場所……」

 

「踏み切り。飛越。着地。その後の一歩。全部つながっています」

 

シェイクは資料を見た。

 

そこには、平地とは違う言葉が並んでいる。

 

高さ。

間隔。

踏み切り。

着地。

 

心臓だけが先に行ったら、落ちる。

 

それは、言われなくても分かった。

 

「シェイクさんは、心臓が先に行きやすいと聞いています」

 

大牧トレーナーが言った。

 

「はいぃ……一着の隣を見ると、心臓が先に走りますぅ」

 

「障害では、それをすると危ないです」

 

「落ちますかぁ……?」

 

「落ちます」

 

「即答二回目ですぅ……」

 

「だから、心臓と足を同じ場所に戻す練習をします」

 

シェイクは、その言葉を胸の中で繰り返した。

 

心臓と足を同じ場所に戻す。

 

御堂筋ステークスの日、心臓の返事は遅かった。

古吉トレーナーのいない隣で、少しだけ遅れた。

デュードが一着でゴールしたあと、自分の心臓はどこにあるのか分からなくなった。

 

それを、足元へ戻す。

 

「大牧さん」

 

「はい」

 

「障害って、痛いものを横から避ける練習じゃないんですねぇ」

 

「はい」

 

「痛いものの前で、ちゃんと踏み切る練習ですかぁ」

 

大牧トレーナーは少しだけ目を細めた。

 

「たぶん、そうです」

 

宮田先生は黙って二人を見ていた。

 

そのあと、シェイクは部屋へ戻った。

 

デュードは机に向かって資料を読んでいた。

 

シェイクが入ってきた瞬間、顔を上げる。

 

「どうでしたか」

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「宮田先生に、障害やるかって言われましたぁ」

 

デュードの手が止まった。

 

「障害」

 

「はいぃ」

 

「飛ぶやつですか」

 

「飛ぶやつですぅ」

 

「シェイクさんが?」

 

「シェイクがですぅ」

 

デュードは一度、資料を置いた。

 

そして、とても真剣な顔で言った。

 

「足場の話なら専門です」

 

「これは足場じゃなくて、飛ぶやつですぅ……」

 

「飛ぶためには、踏み切り位置と着地位置の確認が必要です」

 

「急に頼もしいですぅ……」

 

「横は通れませんよ」

 

「もう大牧さんにも言われましたぁ」

 

「考えたんですか」

 

「少しだけですぅ」

 

「シェイクさん」

 

「はいぃ」

 

「それは迂回路ではありません。安全導線です」

 

「安全導線……」

 

「現場でも、資材を避けるために勝手に近道したら怒られます」

 

「障害、現場ですぅ……」

 

デュードはすぐに紙を取り出した。

 

「障害初回確認項目を書きます」

 

「えっ」

 

「まず、障害を罰ゲーム扱いしないこと」

 

「はいぃ」

 

「平地で勝てないから行く場所ではなく、別の競技だと理解すること」

 

「はいぃ」

 

「横を通らないこと」

 

「重点項目ですぅ……」

 

「最重要です」

 

デュードは真顔で書いた。

 

シェイクはその横顔を見て、少しだけ笑った。

 

デュードはもう、オープンウマ娘だ。

 

自分とは違う場所にいる。

 

でも、こうして机の向こうで、当たり前のように安全確認をしてくれる。

 

そのことが、少しだけ心臓を足元へ戻した。

 

翌日。

 

シェイクは初めて障害練習場へ向かった。

 

大牧トレーナーが待っている。

 

宮田先生もいる。

少し離れたところに古吉トレーナーも立っていた。

 

「古吉さん」

 

「おう」

 

「見に来たんですかぁ」

 

「見に来た」

 

「止めに来たんですかぁ?」

 

「止めてほしいんか」

 

「止めてほしいような、大牧さんが若くてイケメンなので少し見たいような……」

 

「欲望が散らかっとるな」

 

古吉トレーナーは呆れた顔をした。

 

「お前、平地でずっと心臓が先に行っとったやろ」

 

「はいぃ」

 

「障害は、心臓だけ先に行ったら落ちる」

 

「怖いですぅ……」

 

「せや。怖いくらいでええ」

 

古吉トレーナーは、障害の方を見た。

 

「足元を見る練習にはなる」

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「シェイク、障害で逃げてるように見えますかぁ」

 

古吉トレーナーは、すぐには答えなかった。

 

「逃げるやつは、障害の横を通る」

 

「ほわ……」

 

「飛ぶなら、逃げやない」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

心臓は怖がっている。

 

でも、少しだけ返事をした。

 

その時だった。

 

練習場の端から、低い声が聞こえた。

 

「ああん?」

 

空気が変わった。

 

シェイクが振り向く。

 

そこにいたのは、圧の塊みたいなウマ娘だった。

 

立っているだけで、障害が背筋を伸ばしそうな存在感。

 

大牧トレーナーが姿勢を正す。

 

「オジュウチョウサンさん」

 

シェイクの耳がぴんと立った。

 

「オジュウ……」

 

障害界の名を、知らないわけではない。

 

伝説。

頂上。

中山大障害。

飛び続けた心臓。

 

その本人が、こちらを見ていた。

 

「今、横を通るとか言ったのは誰だ」

 

シェイクは固まった。

 

宮田先生が目を閉じた。

古吉トレーナーが小さく息を吐いた。

デュードがなぜか持参したメモ帳を開いた。

 

「シェイクですぅ……」

 

「障害、舐めてんのかァ」

 

「ひぇっ」

 

シェイクの心臓が、全力で足元へ戻った。

 

むしろ少し地下へ潜った。

 

オジュウチョウサンは、ゆっくり近づいてきた。

 

「横通れば早い?飛ばなくていい?お前それ、中山大障害の前でも同じこと言えんのかァ」

 

「な、中山大障害……名前がもう怖いですぅ……」

 

「怖いか」

 

「怖いですぅ……」

 

「ならいい」

 

シェイクは、恐る恐る顔を上げた。

 

「いいんですかぁ?」

 

「怖くねぇやつから落ちる。怖いって分かってるやつは、まだ飛べる」

 

オジュウチョウサンの声は、怖い。

 

でも、その奥に芯があった。

 

「障害は逃げ道じゃねぇ。罰ゲームでもねぇ。別の頂上だ」

 

「別の頂上……」

 

「平地で勝てなかったから来る場所じゃねぇ。飛ぶ覚悟があるやつだけが来る場所だ」

 

シェイクは、障害を見た。

 

高い。

 

怖い。

 

横を通りたい。

 

でも、横を通れば、それはレースではない。

 

「オジュウさん」

 

「ああん?」

 

「シェイク、怖いですぅ」

 

「おう」

 

「横、通りたいですぅ」

 

「おう」

 

「でも、飛ぶんですねぇ」

 

「飛べ」

 

その一言は、乱暴で、まっすぐだった。

 

大牧トレーナーが静かに頷いた。

 

「怖いまま、正しい場所で踏み切りましょう」

 

シェイクは深く息を吸った。

 

古吉に選ばれなかった日。

デュードが一番前でゴールした日。

正しかったから痛かった日。

 

それらは全部、横を通って避けたいものだった。

 

でも、横を通っても消えない。

 

飛ばなければならない障害がある。

 

シェイクは、最初の小さな障害の前に立った。

 

心臓は、まだ怖がっている。

 

でも、今日は足元にある。

 

「大牧さん」

 

「はい」

 

「踏み切る場所、教えてくださいぃ」

 

「はい」

 

「オジュウさん」

 

「ああん?」

 

「怒らないで見ててくださいぃ……」

 

「飛んだらな」

 

「条件が厳しいですぅ……」

 

デュードが横で小さく書いた。

 

障害は逃げ道ではない。

横は反則。

怖いまま踏み切る。

シェイクさん、初回から講師が強すぎる。

 

シェイクユアハートは、小さな障害を見つめた。

 

まだ飛んでいない。

 

まだ何も越えていない。

 

けれどこの日、心臓は初めて、障害の前で立ち止まった。

 

逃げるためではなく。

 

正しい場所から、踏み切るために。

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