心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第二十三章-b]横を通れない心臓

シェイクユアハートは、障害練習場の前に立っていた。

 

朝の空気は、平地の調教場と同じように冷たい。

芝の匂いも、土の匂いも、知っているものだった。

 

けれど、目の前にあるものだけが違う。

 

障害。

 

横に長く、そこに立っている。

どう見ても、通り道をふさいでいる。

 

シェイクは、じっとそれを見つめた。

 

「……やっぱり、横が空いてますぅ」

 

隣に立っていた大牧トレーナーが、静かに言った。

 

「通りません」

 

「まだ何も言ってないですぅ」

 

「顔に書いてあります」

 

「ほわ……」

 

若く、姿勢がよく、見た目はやっぱり少し眩しい。

 

でも、言うことは眩しさより現実だった。

 

「大牧さん」

 

「はい」

 

「大牧さんは、障害専門トレーナーって聞きましたぁ」

 

「そうだね。俺は馬術経由だから」

 

「馬術……」

 

シェイクの耳が少し動いた。

 

「急にお嬢様っぽい単語ですぅ」

 

後ろで見学していたタガノデュードが、真顔で頷いた。

 

「たしかに、シェイクさんと相性がよさそうな響きです」

 

「シェイク、お嬢様なのでぇ」

 

シェイクは少しだけ胸を張った。

 

大牧トレーナーは、穏やかに言った。

 

「相性は、飛んでからですね」

 

「判定が厳しいですぅ……」

 

「馬術も障害も、優雅そうに見えるかもしれません。でも、やっていることはかなり現実的です」

 

「白いズボンで、きれいに飛ぶものではないんですかぁ?」

 

「白いズボンでも、落ちる時は落ちます」

 

「ひぇっ」

 

大牧トレーナーは障害の方を見た。

 

「踏み切る位置。飛越の姿勢。着地した後の一歩。次の障害までのリズム。全部つながっています」

 

「現場ですね」

 

デュードが言った。

 

「完全に現場です」

 

「デュードさん、楽しそうですぅ……」

 

「楽しいわけではありません。ただ、手順があるものは理解しやすいです」

 

「シェイクは手順より横が気になりますぅ……」

 

「横は通れません」

 

大牧トレーナーとデュードの声が重なった。

 

シェイクは小さく肩をすくめた。

 

「包囲網ですぅ……」

 

少し離れたところで、古吉トレーナーが腕を組んでいた。

 

「横の自由、もう死んだな」

 

「古吉さん、言い方がひどいですぅ」

 

「自由やない。反則や」

 

「古吉さんまでぇ……」

 

「近道やない。帰宅や言うたやろ」

 

「帰宅も禁止されましたぁ……」

 

大牧トレーナーは、軽く咳払いをした。

 

「今日は、まず小さな障害からです。飛ぶというより、跨いで越える感覚に近いところから始めます」

 

「跨ぐ……」

 

「怖いですか?」

 

「怖いですぅ」

 

「それでいいです」

 

その言い方は、昨日と同じだった。

 

怖くていい。

 

怖いものを消して飛ぶのではない。

怖いと分かった上で、正しい場所から踏み切る。

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

心臓は、今日はちゃんと足元にある。

ただし、少し震えている。

 

「シェイクさん」

 

大牧トレーナーが言った。

 

「はいぃ」

 

「心臓だけ先に行かせないでください」

 

「はいぃ……」

 

「見るのは、障害の向こうだけではありません。踏み切る場所です」

 

「踏み切る場所……」

 

「そこを見失うと、届く届かない以前に危ないです」

 

シェイクはゆっくり頷いた。

 

平地では、いつも一番前を見ていた。

 

一着の隣。

届きそうな背中。

ゴール板。

 

そこを見すぎて、心臓が足より先に行くことがあった。

 

けれど障害は、それを許してくれない。

 

前だけを見ていたら、足元を間違える。

足元だけを見ていたら、向こうへ行けない。

 

ちょうどいい場所で、踏み切らなければならない。

 

「ずるいですぅ……」

 

「何がですか?」

 

「障害、考えることが多いですぅ」

 

「そうです」

 

「そして横を通れませんぅ」

 

「通れません」

 

デュードが横でメモを取っていた。

 

障害練習初日。

大牧トレーナー。

馬術経由。

白いズボンでも落ちる。

横は反則。

踏み切り位置が重要。

シェイクさん、まだ横を見ている。

 

「デュードさん、最後の一文いりますかぁ?」

 

「いります」

 

「厳しいですぅ……」

 

練習場の端には、何人かのウマ娘がいた。

 

平地の調教を終えた子たちだろう。

こちらを見て、ひそひそと話している。

 

シェイクは聞かないふりをした。

 

でも、聞こえた。

 

「え、シェイクさん障害やるの?」

 

「三勝クラス勝てないからって障害は草」

 

「平地で勝てない子が飛べるのかな」

 

その言葉は、軽かった。

 

軽いからこそ、胸に刺さる。

 

シェイクは目を伏せた。

 

三勝クラスで勝てなかったから。

デュードに先を越されたから。

古吉トレーナーに選ばれなかったから。

 

障害へ逃げた。

 

そう見えるのだろうか。

 

シェイクの心臓が、少し足元から浮きかけた。

 

その瞬間だった。

 

「ああん?」

 

低い声がした。

 

練習場の空気が、一段下がった。

 

オジュウチョウサンが、いつの間にかそこにいた。

 

昨日よりも圧が強い。

立っているだけなのに、障害物の方が敬礼しそうだった。

 

周りのウマ娘たちが固まる。

 

「今、障害を逃げ道みてぇに言ったの、誰だ」

 

「い、いや、その……冗談で……」

 

「冗談?」

 

オジュウチョウサンの目が細くなる。

 

「三勝クラス勝てないから障害?平地で勝てないから飛ぶ?お前ら、障害を下に見てんのか」

 

誰も答えなかった。

 

デュードが小さく言った。

 

「現場なら、安全講習行きですね」

 

古吉トレーナーがぼそりと続ける。

 

「怒らせたらあかん人を怒らせたな」

 

宮田先生が少し離れた場所で呟いた。

 

「人やなくて伝説や」

 

オジュウチョウサンは、シェイクの前へ歩いてきた。

 

「おい、シェイク」

 

「は、はいぃ……」

 

「お前は障害を舐めてんのか」

 

「舐めてませんぅ……ただ、横を通れば早いのではとは思いましたぁ……」

 

「それは舐めてる」

 

「すみませんぅ……!」

 

「でもな」

 

オジュウチョウサンは、障害の方を見た。

 

「怖がってるなら、まだマシだ」

 

シェイクは少し顔を上げた。

 

「怖いですぅ」

 

「なら覚えろ」

 

オジュウチョウサンの声は、周囲にも届くように響いた。

 

「障害は、怖いもんを怖いと分かって、それでも飛ぶ競技だ。怖くない顔して笑ってるやつから落ちる」

 

周りのウマ娘たちが黙る。

 

「障害は罰ゲームじゃねぇ。逃げ道でもねぇ。別の頂上だ」

 

別の頂上。

 

シェイクの胸に、その言葉が落ちた。

 

「平地で勝てなかったから来る場所じゃねぇ。飛ぶ覚悟があるやつだけが来る場所だ」

 

「飛ぶ覚悟……」

 

「お前、三勝クラスで何回も一着の隣にいたんだろ」

 

「はいぃ……」

 

「じゃあ分かるだろ。越えられねぇものの前に立ち続ける苦しさを」

 

シェイクは、ゆっくり頷いた。

 

分かる。

 

何度も分かった。

 

一着の隣にいて、届かないこと。

前にあるものが近いのに、越えられないこと。

もう少しだったと言われるたびに、心臓が少しずつ重くなること。

 

「それを笑うやつに、障害は飛べねぇ」

 

オジュウチョウサンは、周りのウマ娘たちを見た。

 

「俺に謝るな。飛ぶやつに謝れ」

 

沈黙のあと、小さな声がした。

 

「シェイクさん、ごめんなさい……」

 

「障害のこと、軽く言いました……」

 

シェイクは慌てて首を振った。

 

「い、いえぇ……シェイクも横を通る案を出したのでぇ……」

 

「そこは本当に反省してください」

 

デュードが即座に言った。

 

「はいぃ……」

 

大牧トレーナーは、シェイクの横に立った。

 

「まずは障害への敬意からですね」

 

「はいぃ」

 

オジュウチョウサンが大牧トレーナーを見た。

 

「大牧」

 

「はい」

 

「このほわほわ、落とすなよ」

 

「はい。落としません」

 

「横を通ろうとしたら?」

 

「止めます」

 

「デュード」

 

「はい」

 

「安全導線を封鎖しろ」

 

「了解しました」

 

シェイクは小さく震えた。

 

「障害界、包囲網がすごいですぅ……」

 

けれど、不思議と少しだけ安心していた。

 

逃げ道ではないと言われた。

 

罰ゲームではないと言われた。

 

別の頂上だと言われた。

 

その言葉は怖かったけれど、同時にシェイクの胸の中の何かを守ってくれた。

 

自分は、三勝クラスで勝てなかったから捨てられたわけではない。

 

飛ぶ覚悟があるかを、今から問われている。

 

「シェイクさん」

 

大牧トレーナーが言った。

 

「はいぃ」

 

「やめてもいいです」

 

シェイクは驚いて大牧トレーナーを見た。

 

「え?」

 

「障害は、無理にやるものではありません。怖さを確認して、それでも飛ぶかどうかを決めるものです」

 

「逃げてもいいんですかぁ?」

 

「横を通るのは反則です。でも、やらないと決めるのは反則ではありません」

 

シェイクは黙った。

 

やらないと決めること。

 

それは逃げではない。

 

でも、今のシェイクには分かっていた。

 

ここでやめたら、たぶん自分はまた別の場所で同じ障害に会う。

 

古吉に選ばれなかった日。

デュードが勝った日。

正しかったから痛かった日。

 

それらを横から通り過ぎようとしても、どこかでまた前に立ちはだかる。

 

「大牧さん」

 

「はい」

 

「シェイク、怖いですぅ」

 

「はい」

 

「横を通りたいですぅ」

 

「はい」

 

「でも、飛んでみたいですぅ」

 

大牧トレーナーは、静かに頷いた。

 

「では、小さいところから」

 

オジュウチョウサンが腕を組む。

 

「落ち着いて踏め」

 

「はいぃ……」

 

「怖いまま行け」

 

「はいぃ……」

 

シェイクは最初の低い障害の前に立った。

 

大牧トレーナーが踏み切り位置を示す。

 

「ここです」

 

「ここ……」

 

「早すぎても、遅すぎてもいけません」

 

「はいぃ」

 

「心臓をここに戻してください」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

心臓は怖がっている。

でも、足元にある。

 

デュードが息を止めて見ている。

 

古吉トレーナーも、宮田先生も、オジュウチョウサンも見ている。

 

周りのウマ娘たちも、もう笑っていない。

 

シェイクは一歩を出した。

 

踏む。

 

踏み切る。

 

小さな障害を、越える。

 

大きな飛越ではなかった。

美しいフォームでもなかった。

まだ、障害競走と呼ぶにはあまりに小さい一歩だった。

 

けれど、横は通らなかった。

 

着地した瞬間、シェイクは息を吸った。

 

「……越えましたぁ」

 

大牧トレーナーが頷いた。

 

「越えました」

 

オジュウチョウサンが低く言う。

 

「まだ入口だ」

 

「はいぃ……」

 

「でも、横は通らなかったな」

 

シェイクは少しだけ笑った。

 

「通りませんでしたぁ」

 

デュードがメモに書いた。

 

シェイクさん、初めて障害を越えた。

横を通らなかった。

小さいが、重要。

怖いまま踏み切った。

 

古吉トレーナーは、いつもの短い声で言った。

 

「ええやん」

 

シェイクは、振り返った。

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「シェイク、帰宅しませんでしたぁ」

 

「せやな」

 

「近道もしませんでしたぁ」

 

「せや」

 

「少しだけ、飛びましたぁ」

 

「見とった」

 

その言葉だけで、胸の奥が少し緩んだ。

 

シェイクユアハートは、もう一度障害を見た。

 

怖い。

 

まだ怖い。

 

でも、横を通れないことが、少しだけ嫌ではなくなっていた。

 

障害は逃げ道ではない。

 

別の頂上。

 

怖いまま、正しい場所で踏み切る場所。

 

その日のメモに、シェイクはこう書いた。

 

大牧トレーナー。

馬術経由。

白いズボンでも落ちる。

横は通れない。

オジュウさんが怒る。

障害は逃げ道ではなく、別の頂上。

怖いまま踏み切る。

今日、横を通らなかった。

少しだけ、飛んだ。

 

最後に、小さく書き足す。

 

心臓が、足元にいましたぁ。

 

それは、御堂筋ステークスのあと初めて、シェイクの心臓が自分の場所へ戻ってきた日の記録だった。

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