シェイクユアハートは、障害練習場の前に立っていた。
朝の空気は、平地の調教場と同じように冷たい。
芝の匂いも、土の匂いも、知っているものだった。
けれど、目の前にあるものだけが違う。
障害。
横に長く、そこに立っている。
どう見ても、通り道をふさいでいる。
シェイクは、じっとそれを見つめた。
「……やっぱり、横が空いてますぅ」
隣に立っていた大牧トレーナーが、静かに言った。
「通りません」
「まだ何も言ってないですぅ」
「顔に書いてあります」
「ほわ……」
若く、姿勢がよく、見た目はやっぱり少し眩しい。
でも、言うことは眩しさより現実だった。
「大牧さん」
「はい」
「大牧さんは、障害専門トレーナーって聞きましたぁ」
「そうだね。俺は馬術経由だから」
「馬術……」
シェイクの耳が少し動いた。
「急にお嬢様っぽい単語ですぅ」
後ろで見学していたタガノデュードが、真顔で頷いた。
「たしかに、シェイクさんと相性がよさそうな響きです」
「シェイク、お嬢様なのでぇ」
シェイクは少しだけ胸を張った。
大牧トレーナーは、穏やかに言った。
「相性は、飛んでからですね」
「判定が厳しいですぅ……」
「馬術も障害も、優雅そうに見えるかもしれません。でも、やっていることはかなり現実的です」
「白いズボンで、きれいに飛ぶものではないんですかぁ?」
「白いズボンでも、落ちる時は落ちます」
「ひぇっ」
大牧トレーナーは障害の方を見た。
「踏み切る位置。飛越の姿勢。着地した後の一歩。次の障害までのリズム。全部つながっています」
「現場ですね」
デュードが言った。
「完全に現場です」
「デュードさん、楽しそうですぅ……」
「楽しいわけではありません。ただ、手順があるものは理解しやすいです」
「シェイクは手順より横が気になりますぅ……」
「横は通れません」
大牧トレーナーとデュードの声が重なった。
シェイクは小さく肩をすくめた。
「包囲網ですぅ……」
少し離れたところで、古吉トレーナーが腕を組んでいた。
「横の自由、もう死んだな」
「古吉さん、言い方がひどいですぅ」
「自由やない。反則や」
「古吉さんまでぇ……」
「近道やない。帰宅や言うたやろ」
「帰宅も禁止されましたぁ……」
大牧トレーナーは、軽く咳払いをした。
「今日は、まず小さな障害からです。飛ぶというより、跨いで越える感覚に近いところから始めます」
「跨ぐ……」
「怖いですか?」
「怖いですぅ」
「それでいいです」
その言い方は、昨日と同じだった。
怖くていい。
怖いものを消して飛ぶのではない。
怖いと分かった上で、正しい場所から踏み切る。
シェイクは胸に手を当てた。
心臓は、今日はちゃんと足元にある。
ただし、少し震えている。
「シェイクさん」
大牧トレーナーが言った。
「はいぃ」
「心臓だけ先に行かせないでください」
「はいぃ……」
「見るのは、障害の向こうだけではありません。踏み切る場所です」
「踏み切る場所……」
「そこを見失うと、届く届かない以前に危ないです」
シェイクはゆっくり頷いた。
平地では、いつも一番前を見ていた。
一着の隣。
届きそうな背中。
ゴール板。
そこを見すぎて、心臓が足より先に行くことがあった。
けれど障害は、それを許してくれない。
前だけを見ていたら、足元を間違える。
足元だけを見ていたら、向こうへ行けない。
ちょうどいい場所で、踏み切らなければならない。
「ずるいですぅ……」
「何がですか?」
「障害、考えることが多いですぅ」
「そうです」
「そして横を通れませんぅ」
「通れません」
デュードが横でメモを取っていた。
障害練習初日。
大牧トレーナー。
馬術経由。
白いズボンでも落ちる。
横は反則。
踏み切り位置が重要。
シェイクさん、まだ横を見ている。
「デュードさん、最後の一文いりますかぁ?」
「いります」
「厳しいですぅ……」
練習場の端には、何人かのウマ娘がいた。
平地の調教を終えた子たちだろう。
こちらを見て、ひそひそと話している。
シェイクは聞かないふりをした。
でも、聞こえた。
「え、シェイクさん障害やるの?」
「三勝クラス勝てないからって障害は草」
「平地で勝てない子が飛べるのかな」
その言葉は、軽かった。
軽いからこそ、胸に刺さる。
シェイクは目を伏せた。
三勝クラスで勝てなかったから。
デュードに先を越されたから。
古吉トレーナーに選ばれなかったから。
障害へ逃げた。
そう見えるのだろうか。
シェイクの心臓が、少し足元から浮きかけた。
その瞬間だった。
「ああん?」
低い声がした。
練習場の空気が、一段下がった。
オジュウチョウサンが、いつの間にかそこにいた。
昨日よりも圧が強い。
立っているだけなのに、障害物の方が敬礼しそうだった。
周りのウマ娘たちが固まる。
「今、障害を逃げ道みてぇに言ったの、誰だ」
「い、いや、その……冗談で……」
「冗談?」
オジュウチョウサンの目が細くなる。
「三勝クラス勝てないから障害?平地で勝てないから飛ぶ?お前ら、障害を下に見てんのか」
誰も答えなかった。
デュードが小さく言った。
「現場なら、安全講習行きですね」
古吉トレーナーがぼそりと続ける。
「怒らせたらあかん人を怒らせたな」
宮田先生が少し離れた場所で呟いた。
「人やなくて伝説や」
オジュウチョウサンは、シェイクの前へ歩いてきた。
「おい、シェイク」
「は、はいぃ……」
「お前は障害を舐めてんのか」
「舐めてませんぅ……ただ、横を通れば早いのではとは思いましたぁ……」
「それは舐めてる」
「すみませんぅ……!」
「でもな」
オジュウチョウサンは、障害の方を見た。
「怖がってるなら、まだマシだ」
シェイクは少し顔を上げた。
「怖いですぅ」
「なら覚えろ」
オジュウチョウサンの声は、周囲にも届くように響いた。
「障害は、怖いもんを怖いと分かって、それでも飛ぶ競技だ。怖くない顔して笑ってるやつから落ちる」
周りのウマ娘たちが黙る。
「障害は罰ゲームじゃねぇ。逃げ道でもねぇ。別の頂上だ」
別の頂上。
シェイクの胸に、その言葉が落ちた。
「平地で勝てなかったから来る場所じゃねぇ。飛ぶ覚悟があるやつだけが来る場所だ」
「飛ぶ覚悟……」
「お前、三勝クラスで何回も一着の隣にいたんだろ」
「はいぃ……」
「じゃあ分かるだろ。越えられねぇものの前に立ち続ける苦しさを」
シェイクは、ゆっくり頷いた。
分かる。
何度も分かった。
一着の隣にいて、届かないこと。
前にあるものが近いのに、越えられないこと。
もう少しだったと言われるたびに、心臓が少しずつ重くなること。
「それを笑うやつに、障害は飛べねぇ」
オジュウチョウサンは、周りのウマ娘たちを見た。
「俺に謝るな。飛ぶやつに謝れ」
沈黙のあと、小さな声がした。
「シェイクさん、ごめんなさい……」
「障害のこと、軽く言いました……」
シェイクは慌てて首を振った。
「い、いえぇ……シェイクも横を通る案を出したのでぇ……」
「そこは本当に反省してください」
デュードが即座に言った。
「はいぃ……」
大牧トレーナーは、シェイクの横に立った。
「まずは障害への敬意からですね」
「はいぃ」
オジュウチョウサンが大牧トレーナーを見た。
「大牧」
「はい」
「このほわほわ、落とすなよ」
「はい。落としません」
「横を通ろうとしたら?」
「止めます」
「デュード」
「はい」
「安全導線を封鎖しろ」
「了解しました」
シェイクは小さく震えた。
「障害界、包囲網がすごいですぅ……」
けれど、不思議と少しだけ安心していた。
逃げ道ではないと言われた。
罰ゲームではないと言われた。
別の頂上だと言われた。
その言葉は怖かったけれど、同時にシェイクの胸の中の何かを守ってくれた。
自分は、三勝クラスで勝てなかったから捨てられたわけではない。
飛ぶ覚悟があるかを、今から問われている。
「シェイクさん」
大牧トレーナーが言った。
「はいぃ」
「やめてもいいです」
シェイクは驚いて大牧トレーナーを見た。
「え?」
「障害は、無理にやるものではありません。怖さを確認して、それでも飛ぶかどうかを決めるものです」
「逃げてもいいんですかぁ?」
「横を通るのは反則です。でも、やらないと決めるのは反則ではありません」
シェイクは黙った。
やらないと決めること。
それは逃げではない。
でも、今のシェイクには分かっていた。
ここでやめたら、たぶん自分はまた別の場所で同じ障害に会う。
古吉に選ばれなかった日。
デュードが勝った日。
正しかったから痛かった日。
それらを横から通り過ぎようとしても、どこかでまた前に立ちはだかる。
「大牧さん」
「はい」
「シェイク、怖いですぅ」
「はい」
「横を通りたいですぅ」
「はい」
「でも、飛んでみたいですぅ」
大牧トレーナーは、静かに頷いた。
「では、小さいところから」
オジュウチョウサンが腕を組む。
「落ち着いて踏め」
「はいぃ……」
「怖いまま行け」
「はいぃ……」
シェイクは最初の低い障害の前に立った。
大牧トレーナーが踏み切り位置を示す。
「ここです」
「ここ……」
「早すぎても、遅すぎてもいけません」
「はいぃ」
「心臓をここに戻してください」
シェイクは胸に手を当てた。
心臓は怖がっている。
でも、足元にある。
デュードが息を止めて見ている。
古吉トレーナーも、宮田先生も、オジュウチョウサンも見ている。
周りのウマ娘たちも、もう笑っていない。
シェイクは一歩を出した。
踏む。
踏み切る。
小さな障害を、越える。
大きな飛越ではなかった。
美しいフォームでもなかった。
まだ、障害競走と呼ぶにはあまりに小さい一歩だった。
けれど、横は通らなかった。
着地した瞬間、シェイクは息を吸った。
「……越えましたぁ」
大牧トレーナーが頷いた。
「越えました」
オジュウチョウサンが低く言う。
「まだ入口だ」
「はいぃ……」
「でも、横は通らなかったな」
シェイクは少しだけ笑った。
「通りませんでしたぁ」
デュードがメモに書いた。
シェイクさん、初めて障害を越えた。
横を通らなかった。
小さいが、重要。
怖いまま踏み切った。
古吉トレーナーは、いつもの短い声で言った。
「ええやん」
シェイクは、振り返った。
「古吉さん」
「何や」
「シェイク、帰宅しませんでしたぁ」
「せやな」
「近道もしませんでしたぁ」
「せや」
「少しだけ、飛びましたぁ」
「見とった」
その言葉だけで、胸の奥が少し緩んだ。
シェイクユアハートは、もう一度障害を見た。
怖い。
まだ怖い。
でも、横を通れないことが、少しだけ嫌ではなくなっていた。
障害は逃げ道ではない。
別の頂上。
怖いまま、正しい場所で踏み切る場所。
その日のメモに、シェイクはこう書いた。
大牧トレーナー。
馬術経由。
白いズボンでも落ちる。
横は通れない。
オジュウさんが怒る。
障害は逃げ道ではなく、別の頂上。
怖いまま踏み切る。
今日、横を通らなかった。
少しだけ、飛んだ。
最後に、小さく書き足す。
心臓が、足元にいましたぁ。
それは、御堂筋ステークスのあと初めて、シェイクの心臓が自分の場所へ戻ってきた日の記録だった。