新馬戦で八着になったあと、シェイクユアハートの毎日は、少しだけ音が変わった。
寮の廊下を歩く音。
朝の調教へ向かう足音。
食堂で食器が重なる音。
誰かが笑う声。
誰かが悔しそうに黙り込む気配。
宮田先生の寮には、勝った子も負けた子も帰ってくる。
レースの結果は掲示板に貼られ、先生たちの机にはメモが増え、トレーナーたちは次の予定を組む。
けれど、朝になればまた走る。
それが、シェイクには少し不思議だった。
「ほわ~……負けても、世界って普通に続くんですねぇ……」
朝食の席でそう呟くと、向かいにいた先輩ウマ娘が味噌汁を吹きかけた。
「そら続くやろ」
「そうなんですけどぉ……もっと、どーんってなるのかと……」
「どーんって?」
「お屋敷のシャンデリアが落ちるみたいな……」
「どんな実家やねん」
シェイクは首を傾げた。
別にシャンデリアがよく落ちる家ではない。たぶん。
ただ、周囲が「お嬢様」と呼ぶので、そういうものかと思っただけだった。
負けた。
でも、寮の朝ごはんは出る。
宮田先生は怒鳴らない。
藤川兄トレーナーは「嫌いにならなかったなら十分です」と言う。
自分の胸は、まだ走った時の音を覚えている。
ならば、次も走る。
その次の走りを任されたのは、藤川弟トレーナーだった。
藤川兄トレーナーの弟で、デビューから数年、宮田先生のところに所属していた若いトレーナー。
寮のウマ娘たちからはよく知られている。
少し言葉は荒い。判断も早い。言うべきことを、あまり柔らかい布で包まない。
そして、顔がいい。
シェイクは最初にそれを思った。
「藤川弟さん、顔がいいですねぇ……」
初めて本格的に打ち合わせをした日、開口一番そう言われた藤川弟トレーナーは、資料を持ったまま固まった。
「……それ、今必要な情報ですか」
「必要ですぅ」
「いらないです」
「そうですかぁ……」
「レースの話をします」
藤川弟トレーナーは机に資料を広げた。
新馬戦の映像。通過順。最後の反応。直線で使った脚。
シェイクは隣で椅子に座り、湯気の立つお茶を両手で持っていた。
「前走、最後だけ脚は使ってます」
「はいぃ。最後、ここかなって思いましたぁ」
「思うのが遅いです」
「ほわ」
「周りに遠慮して、位置が悪くなってます。自分の場所を取りに行けていない」
声は少し強かった。
シェイクの耳がぴくりと動く。
藤川弟トレーナーは、それを見ても言葉を止めなかった。
「別に乱暴に走れって意味じゃないです。でも、レースは譲り合いの場じゃない。
自分が走る場所を、自分で取りに行かないと、最後に脚があっても届きません」
「自分の場所……」
「はい。シェイクは、ここって思った時の反応は悪くないです。だから、その“ここ”をもう少し早く見つけてください」
シェイクはお茶を一口飲んだ。
「それは、難しいですぅ……」
「難しいです」
藤川弟トレーナーは、あっさり認めた。
「でも、できるから言ってます。無理なら言いません」
その言葉に、シェイクは瞬きをした。
怖い声だと思っていた。
少し荒い人だと思っていた。
でも、今の言葉は不思議と胸に残った。
できるから言っている。
名家の子だからではない。
期待されているからではない。
親がすごいからではない。
前走の脚を見て、できると思われた。
シェイクは、両手の中のお茶を見つめた。
「……できるんですかねぇ、わたし」
「できます」
「言い切りますねぇ」
「言い切らないと、伝わらないタイプに見えるので」
「ほわ~……見抜かれてますぅ……」
少し離れたところで聞いていた宮田先生が、笑った。
「藤川弟、シェイクをびびらせすぎるなよ」
「びびってます?」
藤川弟トレーナーが聞く。
シェイクは少し考えた。
「声はこわいですけどぉ……言ってることは、こわくないですぅ」
「それならいいです」
「あと、顔はいいですぅ」
「それはもういいです」
次の舞台は、中京の芝二千。
二歳未勝利戦。
冬の空気は冷たく、芝の色もどこか硬かった。
パドックで歩くシェイクの耳は、前走より忙しくなかった。まだ周囲の音は拾う。
けれど、すべてに驚くほどではない。
みんな速い。
みんな勝ちたい。
それはもう知っている。
藤川弟トレーナーが横に来た。
「今日は、前走より一つ前で競馬します」
「一つ前……」
「全部を取りに行かなくていいです。でも、譲りすぎない」
「譲りすぎない……」
「勝ちに行きます」
勝ちに行く。
その言葉は、思ったより重かった。
シェイクは胸に手を当てる。
心臓が鳴っている。
新馬戦の日より、少しはっきり。
「藤川弟さん」
「はい」
「勝ったら、どうなるんですかぁ?」
「どうなる?」
「世界が、どーんってなりますかぁ?」
藤川弟トレーナーは一瞬だけ眉を寄せた。
「なりません」
「ならないんですかぁ……」
「でも、少し変わります」
「少し……」
「次の場所へ行けます」
シェイクはその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。
次の場所。
それはお嬢様として用意された場所ではない。
親が望む場所でもない。
先生が連れて行くだけの場所でもない。
自分の足で勝ったら、行ける場所。
「ほわ~……それは、少し気になりますぅ」
「じゃあ、取りに行きましょう」
ゲートに向かう。
前走で知った狭さ。
前走で知った音。
扉が開いた瞬間、みんなが一斉に前へ出ること。
シェイクはそれを覚えていた。
ゲートが開く。
音が弾ける。
シェイクは前走より、はっきりと足を出した。
速すぎない。
慌てすぎない。
でも、譲りすぎない。
前に何頭かいる。
横にもいる。
後ろの気配もある。
藤川弟トレーナーの声が届いた。
「そこ、下げない!」
耳が動く。
シェイクは一瞬だけ引きかけた足を、もう一度前へ置いた。
「……ここですぅ」
自分の場所を取る。
奪うのではなく、そこに立つ。
一コーナー。
二コーナー。
流れは速すぎない。
それでも、前走とは違う緊張があった。
勝ちに行くということは、ただついていくより忙しい。
向こう正面で、シェイクは息を入れた。
藤川弟トレーナーの言葉を思い出す。
もう少し早く“ここ”を見つける。
三コーナー手前。
前の列が少し動いた。
まだ待てる。
けれど、待ちすぎると遅れる。
「シェイク、準備!」
声が飛ぶ。
シェイクの目から、ほわほわした膜が消えた。
ここ。
まだ直線ではない。
でも、ここで用意しないと間に合わない。
脚を使い切らないように。
でも、置いていかれないように。
身体が前へ運ばれる。
芝を踏む音が変わる。
息が熱くなる。
四コーナー。
前が見えた。
新馬戦の時は、そこに気づくのが遅かった。
道はあった。
でも遠かった。
今日は違う。
まだ、届く場所にいる。
「行け!」
藤川弟トレーナーの声がした。
シェイクは踏んだ。
直線に向く。
前にいる子の背中が近い。
もう一頭、その外にいる。
シェイクの脚は残っている。
胸が鳴る。
耳の奥で、スタンドの声が溶ける。
ここ。
ここ。
ここ。
シェイクの世界が、急に狭くなる。
花も、食堂の匂いも、親の名前も、お嬢様という言葉も遠ざかる。
前にいる背中。
自分の足。
胸の音。
それだけになる。
「ほわ……」
小さく息が漏れた。
「届きますぅ」
残りの距離が短くなる。
脚が苦しい。
それでも、前が近づく。
一頭を捕らえた。
もう一頭も並ぶ。
その先へ、ほんの少しだけ体が出た。
ゴール板が過ぎた。
音が、遅れて戻ってきた。
シェイクはしばらく、何が起きたのか分からない顔をしていた。
息が苦しい。
脚が熱い。
胸が強く鳴っている。
藤川弟トレーナーが駆け寄ってくる。
いつもより少しだけ、表情が崩れていた。
「シェイク!」
「はいぃ……」
「勝ちました」
「……勝ちました?」
「勝ちました」
「わたしが?」
「シェイクが」
「ほわ~……」
シェイクは、ぱちぱちと瞬きをした。
「勝っちゃいましたぁ……」
「勝っちゃいました、じゃないです。勝ちました」
「そうなんですねぇ……」
「実感、遅いですね」
「いま、追いついてきてますぅ……」
胸に手を当てる。
心臓が、いつもよりずっと強く鳴っていた。
八着の日に外の風を覚えたそこが、今日は何かを掴んでいた。
初めて、自分の足で一番前に出た。
初めて、ゴールの向こう側に誰もいなかった。
「ほわ~……一番前って、静かですねぇ……」
シェイクが呟いた。
藤川弟トレーナーは少し驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。
「そこにいる時は、そうかもしれません」
宮田先生が戻ってきた。
顔はいつも通りだった。
けれど、目元が少しだけやわらかい。
「初勝利やな」
「はいぃ……初勝利ですぅ……」
「どうやった」
「えっと……」
シェイクは考えた。
嬉しい。
苦しい。
びっくりしている。
まだふわふわしている。
でも、胸の奥だけははっきりしていた。
「自分の場所を、取れましたぁ」
宮田先生は頷いた。
「それでええ」
藤川弟トレーナーも頷く。
「今日は、ちゃんと勝ちに行けてました」
「藤川弟さんのおかげですぅ」
「走ったのはシェイクです」
「でも、声が聞こえましたぁ」
「なら、次も聞いてください」
「はいぃ。声はこわいですけどぉ……」
「まだ言います?」
「顔はいいですぅ」
「もういいです」
シェイクは笑った。
その笑いは、いつものほわほわしたものだった。
けれど、少しだけ違っていた。
勝った子の笑顔だった。
寮に戻ると、玄関で何人かのウマ娘が待っていた。
おめでとう。
初勝利だね。
すごいじゃん。
次は上だね。
言葉が次々と降ってくる。
シェイクは少しだけ耳を伏せた。
でも、逃げなかった。
「ありがとうございますぅ……」
ぺこりと頭を下げる。
所作はやっぱりきれいで、どこかおっとりしている。
お嬢様だ、と誰かが笑った。
けれどその日、シェイクは少しだけ分かっていた。
お嬢様だから勝ったのではない。
名家の親がいるから、ゴール前で体が出たのではない。
藤川兄トレーナーがレースを嫌いにさせないでくれた。
藤川弟トレーナーが、自分の場所を取りに行けと言ってくれた。
宮田先生が、走りを見てくれた。
それでも最後に踏んだのは、自分だった。
夜、シェイクは机に向かった。
新馬戦のメモの横に、新しい紙を置く。
そこに、ゆっくり書いた。
二歳未勝利一着。
自分の場所を取れた。
一番前は、少し静か。
書き終えてから、シェイクは首を傾げた。
「ほわ~……詩みたいですねぇ……」
窓の外は暗かった。
寮の明かりが、ガラスにぼんやり映っている。
遠くで誰かが笑っている。
どこかで先生たちが明日の予定を話している。
世界は、どーんとは変わらなかった。
でも、少し変わった。
シェイクユアハートは未勝利ではなくなった。
次の場所へ行く権利を、自分の足で取った。
胸の奥で、心臓が鳴る。
それはまだ、大きな舞台を揺らすような音ではない。
けれど、確かに一度、ゴール板の向こうへ届いた音だった。
「次の場所……」
シェイクは小さく呟いて、ベッドに転がった。
「どんなところなんでしょうねぇ……」
その声は、いつも通りほわほわしていた。
けれど、彼女の耳は、まだ少しだけ前を向いていた。