心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第三章]初勝利の手触り

新馬戦で八着になったあと、シェイクユアハートの毎日は、少しだけ音が変わった。

 

寮の廊下を歩く音。

朝の調教へ向かう足音。

食堂で食器が重なる音。

誰かが笑う声。

誰かが悔しそうに黙り込む気配。

 

宮田先生の寮には、勝った子も負けた子も帰ってくる。

レースの結果は掲示板に貼られ、先生たちの机にはメモが増え、トレーナーたちは次の予定を組む。

 

けれど、朝になればまた走る。

 

それが、シェイクには少し不思議だった。

 

「ほわ~……負けても、世界って普通に続くんですねぇ……」

 

朝食の席でそう呟くと、向かいにいた先輩ウマ娘が味噌汁を吹きかけた。

 

「そら続くやろ」

 

「そうなんですけどぉ……もっと、どーんってなるのかと……」

 

「どーんって?」

 

「お屋敷のシャンデリアが落ちるみたいな……」

 

「どんな実家やねん」

 

シェイクは首を傾げた。

別にシャンデリアがよく落ちる家ではない。たぶん。

ただ、周囲が「お嬢様」と呼ぶので、そういうものかと思っただけだった。

 

負けた。

でも、寮の朝ごはんは出る。

宮田先生は怒鳴らない。

藤川兄トレーナーは「嫌いにならなかったなら十分です」と言う。

自分の胸は、まだ走った時の音を覚えている。

 

ならば、次も走る。

 

その次の走りを任されたのは、藤川弟トレーナーだった。

 

藤川兄トレーナーの弟で、デビューから数年、宮田先生のところに所属していた若いトレーナー。

寮のウマ娘たちからはよく知られている。

少し言葉は荒い。判断も早い。言うべきことを、あまり柔らかい布で包まない。

 

そして、顔がいい。

 

シェイクは最初にそれを思った。

 

「藤川弟さん、顔がいいですねぇ……」

 

初めて本格的に打ち合わせをした日、開口一番そう言われた藤川弟トレーナーは、資料を持ったまま固まった。

 

「……それ、今必要な情報ですか」

 

「必要ですぅ」

 

「いらないです」

 

「そうですかぁ……」

 

「レースの話をします」

 

藤川弟トレーナーは机に資料を広げた。

新馬戦の映像。通過順。最後の反応。直線で使った脚。

シェイクは隣で椅子に座り、湯気の立つお茶を両手で持っていた。

 

「前走、最後だけ脚は使ってます」

 

「はいぃ。最後、ここかなって思いましたぁ」

 

「思うのが遅いです」

 

「ほわ」

 

「周りに遠慮して、位置が悪くなってます。自分の場所を取りに行けていない」

 

声は少し強かった。

シェイクの耳がぴくりと動く。

 

藤川弟トレーナーは、それを見ても言葉を止めなかった。

 

「別に乱暴に走れって意味じゃないです。でも、レースは譲り合いの場じゃない。

自分が走る場所を、自分で取りに行かないと、最後に脚があっても届きません」

 

「自分の場所……」

 

「はい。シェイクは、ここって思った時の反応は悪くないです。だから、その“ここ”をもう少し早く見つけてください」

 

シェイクはお茶を一口飲んだ。

 

「それは、難しいですぅ……」

 

「難しいです」

 

藤川弟トレーナーは、あっさり認めた。

 

「でも、できるから言ってます。無理なら言いません」

 

その言葉に、シェイクは瞬きをした。

 

怖い声だと思っていた。

少し荒い人だと思っていた。

でも、今の言葉は不思議と胸に残った。

 

できるから言っている。

 

名家の子だからではない。

期待されているからではない。

親がすごいからではない。

前走の脚を見て、できると思われた。

 

シェイクは、両手の中のお茶を見つめた。

 

「……できるんですかねぇ、わたし」

 

「できます」

 

「言い切りますねぇ」

 

「言い切らないと、伝わらないタイプに見えるので」

 

「ほわ~……見抜かれてますぅ……」

 

少し離れたところで聞いていた宮田先生が、笑った。

 

「藤川弟、シェイクをびびらせすぎるなよ」

 

「びびってます?」

 

藤川弟トレーナーが聞く。

 

シェイクは少し考えた。

 

「声はこわいですけどぉ……言ってることは、こわくないですぅ」

 

「それならいいです」

 

「あと、顔はいいですぅ」

 

「それはもういいです」

 

次の舞台は、中京の芝二千。

二歳未勝利戦。

 

冬の空気は冷たく、芝の色もどこか硬かった。

パドックで歩くシェイクの耳は、前走より忙しくなかった。まだ周囲の音は拾う。

けれど、すべてに驚くほどではない。

 

みんな速い。

みんな勝ちたい。

それはもう知っている。

 

藤川弟トレーナーが横に来た。

 

「今日は、前走より一つ前で競馬します」

 

「一つ前……」

 

「全部を取りに行かなくていいです。でも、譲りすぎない」

 

「譲りすぎない……」

 

「勝ちに行きます」

 

勝ちに行く。

 

その言葉は、思ったより重かった。

シェイクは胸に手を当てる。

心臓が鳴っている。

 

新馬戦の日より、少しはっきり。

 

「藤川弟さん」

 

「はい」

 

「勝ったら、どうなるんですかぁ?」

 

「どうなる?」

 

「世界が、どーんってなりますかぁ?」

 

藤川弟トレーナーは一瞬だけ眉を寄せた。

 

「なりません」

 

「ならないんですかぁ……」

 

「でも、少し変わります」

 

「少し……」

 

「次の場所へ行けます」

 

シェイクはその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。

 

次の場所。

 

それはお嬢様として用意された場所ではない。

親が望む場所でもない。

先生が連れて行くだけの場所でもない。

 

自分の足で勝ったら、行ける場所。

 

「ほわ~……それは、少し気になりますぅ」

 

「じゃあ、取りに行きましょう」

 

ゲートに向かう。

 

前走で知った狭さ。

前走で知った音。

扉が開いた瞬間、みんなが一斉に前へ出ること。

 

シェイクはそれを覚えていた。

 

ゲートが開く。

 

音が弾ける。

 

シェイクは前走より、はっきりと足を出した。

 

速すぎない。

慌てすぎない。

でも、譲りすぎない。

 

前に何頭かいる。

横にもいる。

後ろの気配もある。

 

藤川弟トレーナーの声が届いた。

 

「そこ、下げない!」

 

耳が動く。

シェイクは一瞬だけ引きかけた足を、もう一度前へ置いた。

 

「……ここですぅ」

 

自分の場所を取る。

奪うのではなく、そこに立つ。

 

一コーナー。

二コーナー。

 

流れは速すぎない。

それでも、前走とは違う緊張があった。

勝ちに行くということは、ただついていくより忙しい。

 

向こう正面で、シェイクは息を入れた。

藤川弟トレーナーの言葉を思い出す。

 

もう少し早く“ここ”を見つける。

 

三コーナー手前。

前の列が少し動いた。

まだ待てる。

けれど、待ちすぎると遅れる。

 

「シェイク、準備!」

 

声が飛ぶ。

 

シェイクの目から、ほわほわした膜が消えた。

 

ここ。

 

まだ直線ではない。

でも、ここで用意しないと間に合わない。

 

脚を使い切らないように。

でも、置いていかれないように。

 

身体が前へ運ばれる。

芝を踏む音が変わる。

息が熱くなる。

 

四コーナー。

 

前が見えた。

 

新馬戦の時は、そこに気づくのが遅かった。

道はあった。

でも遠かった。

 

今日は違う。

まだ、届く場所にいる。

 

「行け!」

 

藤川弟トレーナーの声がした。

 

シェイクは踏んだ。

 

直線に向く。

 

前にいる子の背中が近い。

もう一頭、その外にいる。

シェイクの脚は残っている。

胸が鳴る。

耳の奥で、スタンドの声が溶ける。

 

ここ。

ここ。

ここ。

 

シェイクの世界が、急に狭くなる。

花も、食堂の匂いも、親の名前も、お嬢様という言葉も遠ざかる。

 

前にいる背中。

自分の足。

胸の音。

 

それだけになる。

 

「ほわ……」

 

小さく息が漏れた。

 

「届きますぅ」

 

残りの距離が短くなる。

脚が苦しい。

それでも、前が近づく。

 

一頭を捕らえた。

もう一頭も並ぶ。

その先へ、ほんの少しだけ体が出た。

 

ゴール板が過ぎた。

 

音が、遅れて戻ってきた。

 

シェイクはしばらく、何が起きたのか分からない顔をしていた。

 

息が苦しい。

脚が熱い。

胸が強く鳴っている。

 

藤川弟トレーナーが駆け寄ってくる。

いつもより少しだけ、表情が崩れていた。

 

「シェイク!」

 

「はいぃ……」

 

「勝ちました」

 

「……勝ちました?」

 

「勝ちました」

 

「わたしが?」

 

「シェイクが」

 

「ほわ~……」

 

シェイクは、ぱちぱちと瞬きをした。

 

「勝っちゃいましたぁ……」

 

「勝っちゃいました、じゃないです。勝ちました」

 

「そうなんですねぇ……」

 

「実感、遅いですね」

 

「いま、追いついてきてますぅ……」

 

胸に手を当てる。

 

心臓が、いつもよりずっと強く鳴っていた。

八着の日に外の風を覚えたそこが、今日は何かを掴んでいた。

 

初めて、自分の足で一番前に出た。

初めて、ゴールの向こう側に誰もいなかった。

 

「ほわ~……一番前って、静かですねぇ……」

 

シェイクが呟いた。

 

藤川弟トレーナーは少し驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。

 

「そこにいる時は、そうかもしれません」

 

宮田先生が戻ってきた。

 

顔はいつも通りだった。

けれど、目元が少しだけやわらかい。

 

「初勝利やな」

 

「はいぃ……初勝利ですぅ……」

 

「どうやった」

 

「えっと……」

 

シェイクは考えた。

 

嬉しい。

苦しい。

びっくりしている。

まだふわふわしている。

でも、胸の奥だけははっきりしていた。

 

「自分の場所を、取れましたぁ」

 

宮田先生は頷いた。

 

「それでええ」

 

藤川弟トレーナーも頷く。

 

「今日は、ちゃんと勝ちに行けてました」

 

「藤川弟さんのおかげですぅ」

 

「走ったのはシェイクです」

 

「でも、声が聞こえましたぁ」

 

「なら、次も聞いてください」

 

「はいぃ。声はこわいですけどぉ……」

 

「まだ言います?」

 

「顔はいいですぅ」

 

「もういいです」

 

シェイクは笑った。

その笑いは、いつものほわほわしたものだった。

けれど、少しだけ違っていた。

 

勝った子の笑顔だった。

 

寮に戻ると、玄関で何人かのウマ娘が待っていた。

おめでとう。

初勝利だね。

すごいじゃん。

次は上だね。

 

言葉が次々と降ってくる。

 

シェイクは少しだけ耳を伏せた。

でも、逃げなかった。

 

「ありがとうございますぅ……」

 

ぺこりと頭を下げる。

所作はやっぱりきれいで、どこかおっとりしている。

お嬢様だ、と誰かが笑った。

 

けれどその日、シェイクは少しだけ分かっていた。

 

お嬢様だから勝ったのではない。

名家の親がいるから、ゴール前で体が出たのではない。

 

藤川兄トレーナーがレースを嫌いにさせないでくれた。

藤川弟トレーナーが、自分の場所を取りに行けと言ってくれた。

宮田先生が、走りを見てくれた。

 

それでも最後に踏んだのは、自分だった。

 

夜、シェイクは机に向かった。

 

新馬戦のメモの横に、新しい紙を置く。

そこに、ゆっくり書いた。

 

二歳未勝利一着。

自分の場所を取れた。

一番前は、少し静か。

 

書き終えてから、シェイクは首を傾げた。

 

「ほわ~……詩みたいですねぇ……」

 

窓の外は暗かった。

寮の明かりが、ガラスにぼんやり映っている。

遠くで誰かが笑っている。

どこかで先生たちが明日の予定を話している。

 

世界は、どーんとは変わらなかった。

 

でも、少し変わった。

 

シェイクユアハートは未勝利ではなくなった。

次の場所へ行く権利を、自分の足で取った。

 

胸の奥で、心臓が鳴る。

 

それはまだ、大きな舞台を揺らすような音ではない。

けれど、確かに一度、ゴール板の向こうへ届いた音だった。

 

「次の場所……」

 

シェイクは小さく呟いて、ベッドに転がった。

 

「どんなところなんでしょうねぇ……」

 

その声は、いつも通りほわほわしていた。

けれど、彼女の耳は、まだ少しだけ前を向いていた。

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