心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第二十四章-b]その名はオジュウチョウサン

障害を、初めて越えた日の夕方。

 

シェイクユアハートは、寮へ戻る途中で、大牧トレーナーに呼び止められた。

 

「シェイクさん」

 

「はいぃ」

 

「このあと、少し時間ありますか」

 

「ありますぅ」

 

「では、寄っていきましょう」

 

「どこへですかぁ?」

 

大牧トレーナーは、トレセンの奥を指さした。

 

調教場でも、先生の部屋でも、トレーナー室でもない。

 

緑の木立の向こうに、小さな建物が見えた。

白い壁。

深い茶色の扉。

窓辺には小さな鉢植え。

 

そして看板。

 

CAFE OJŪ

 

シェイクは、立ち止まった。

 

「カフェですぅ」

 

「はい」

 

「トレセンの中にカフェがありますぅ」

 

「あります」

 

「おしゃれですぅ」

 

「中身は、あまりおしゃれだけではありません」

 

「ほわ?」

 

大牧トレーナーが扉を開けると、涼しい空気と一緒に、コーヒーの香りが流れてきた。

 

木の床。

古いレース写真。

壁に飾られたゼッケン。

棚にはカップがきれいに並んでいる。

 

カウンターの奥に、彼女はいた。

 

オジュウチョウサン。

 

昨日、練習場で空気を変えた障害界の伝説。

 

今日は、黒いエプロンをつけていた。

 

「来たか」

 

低い声。

 

シェイクの背筋が勝手に伸びた。

 

「来ましたぁ……」

 

「何をびびってんだ」

 

「昨日の圧がまだ残ってますぅ……」

 

「圧はサービスだ」

 

「サービスが強すぎますぅ……」

 

オジュウチョウサンは、カウンターにカップを二つ置いた。

 

「座れ」

 

「はいぃ」

 

シェイクはそろそろと椅子に座った。

 

大牧トレーナーは慣れた様子で、その隣に座る。

 

「大牧さん、よく来るんですかぁ?」

 

「障害組はだいたい来ます」

 

「障害組……」

 

「ここは、障害の話をしても変な顔をされない場所です」

 

シェイクは店内を見回した。

 

壁にかかった写真には、障害を飛ぶウマ娘たちが写っていた。

 

高く跳ぶ姿。

泥を浴びた姿。

ゴール後に膝へ手をついて笑う姿。

悔しそうに芝を見つめる姿。

 

どの写真にも、普通の平地とは違う緊張があった。

 

そして、中央に一枚だけ、大きな写真が飾られている。

 

中山の障害。

大きな飛越。

観客席の歓声。

その真ん中で、オジュウチョウサンが前を向いていた。

 

「ほわ……」

 

シェイクは、思わず見入った。

 

昨日の怖い人。

 

今日のカフェ店主。

 

その前に、この人は、飛び続けた人だった。

 

「オジュウさんは」

 

「なんだ」

 

「引退して、カフェをやってるんですかぁ?」

 

「そうだ」

 

「なぜカフェを?」

 

オジュウチョウサンは、少しだけ黙った。

 

それから、コーヒーを淹れながら言った。

 

「障害のあとに、座る場所がいる」

 

「座る場所……」

 

「飛んだやつも、飛べなかったやつも、落ちたやつも、次に行くやつも。どこかで一回、座らなきゃならねぇ」

 

コーヒーが、カップに注がれる。

 

香りが静かに広がった。

 

「だから作った」

 

オジュウチョウサンは、シェイクの前にカップを置いた。

 

「カフェオレだ。お前にはまだブラックは早い」

 

「子ども扱いですぅ……」

 

「昨日、横を通ろうとしてたやつにブラックは早い」

 

「根に持たれてますぅ……」

 

大牧トレーナーには、濃いコーヒーが置かれた。

 

「ありがとうございます」

 

「大牧」

 

「はい」

 

「今日の初飛越、どうだった」

 

「小さな障害でしたが、横は通りませんでした」

 

「そこから報告か」

 

「最重要事項なので」

 

「そうだな」

 

シェイクはカフェオレを両手で包んだ。

 

あたたかい。

 

朝のお茶とは違う香り。

少し甘くて、少し苦い。

 

「オジュウさん」

 

「ああん?」

 

「今日、シェイク、少しだけ飛びましたぁ」

 

「見てた」

 

「見てたんですかぁ?」

 

「見てた」

 

「怒ってましたかぁ?」

 

「怒るほどじゃねぇ」

 

「ほっ……」

 

「褒めるほどでもねぇ」

 

「ほわぁ……」

 

オジュウチョウサンは、カウンターに肘をついた。

 

「でも、横は通らなかった」

 

「はいぃ」

 

「それで今日は十分だ」

 

その言葉は、昨日の怒声よりもずっと静かだった。

 

けれど、シェイクの胸にはこちらの方が深く入った。

 

「十分……」

 

「最初から格好よく飛ぼうとするな。最初から強いやつの顔をするな。怖いなら怖いでいい」

 

「怖かったですぅ」

 

「だろうな」

 

「でも、踏み切る場所を見たら、少しだけ足が分かりましたぁ」

 

「なら覚えとけ」

 

オジュウチョウサンは、壁の写真を顎で示した。

 

「あの写真の日も、足元を見る。どんなでけぇレースでも、結局それだ」

 

「オジュウさんでも?」

 

「当たり前だ」

 

「伝説なのに?」

 

「伝説も踏み切り位置を間違えたら落ちる」

 

「ほわ~……伝説も落ちるんですかぁ」

 

「落ちる。だから落ちねぇようにする」

 

シェイクは、その言葉をゆっくり飲み込んだ。

 

伝説。

 

頂上。

 

でも、特別な魔法で飛んでいるわけではない。

 

踏み切り位置。

飛越。

着地。

次の一歩。

 

大牧トレーナーが教えたことと、同じだった。

 

「オジュウさん、怖いのに、言うことは大牧さんと同じですぅ」

 

「怖いは余計だ」

 

「すみませんぅ」

 

大牧トレーナーが少し笑った。

 

「障害は、最後は地味な確認の積み重ねです」

 

「派手に飛んでるのに?」

 

「派手に見えるものほど、下は地味です」

 

デュードが聞いたら喜びそうな言葉だった。

 

シェイクはメモを取りたくなった。

 

すると、オジュウチョウサンがカウンターの下から小さな紙とペンを出した。

 

「書くんだろ」

 

「ほわ?」

 

「お前、メモを書く顔してる」

 

「そんな顔ありますかぁ?」

 

「ある」

 

シェイクは紙を受け取った。

 

そこには、店のロゴが印刷されていた。

 

CAFE OJŪ。

 

「カフェのメモですぅ……」

 

「持ってけ。障害組はだいたい何か書いて帰る」

 

「みんなですかぁ?」

 

「飛べた日も、飛べなかった日もな」

 

シェイクはペンを持った。

 

その名はオジュウチョウサン。

引退して、トレセン内でカフェをやっている。

カフェオレを出してくれた。

圧はサービス。

障害のあとに座る場所がいる。

伝説も踏み切り位置を間違えたら落ちる。

横を通らなかったなら、今日は十分。

 

書いていると、扉が開いた。

 

「あれ、シェイクさん」

 

デュードだった。

 

手には資料の束。

顔は真面目。

 

「デュードさん」

 

「ここにいたんですね」

 

「カフェですぅ」

 

「見れば分かります」

 

デュードは店内を見て、壁の写真に気づいた。

 

そして、オジュウチョウサンへ丁寧に頭を下げた。

 

「昨日は、ご指導ありがとうございました」

 

「おう」

 

「障害は逃げ道ではなく、別の頂上。メモに残しました」

 

「お前は現場監督か」

 

「建設会社のお嬢様なので」

 

「知らんが、まあ向いてる顔はしてる」

 

「ありがとうございます」

 

シェイクが驚いた顔をした。

 

「オジュウさん、デュードさんには優しいですぅ」

 

「こいつは横を通るとか言わねぇだろ」

 

「言いません」

 

「ほらな」

 

「シェイク、信用が低いですぅ……」

 

デュードはシェイクの隣に座った。

 

オジュウチョウサンは、何も聞かずにお茶を出した。

 

「ありがとうございます」

 

「お前はコーヒーより茶だろ」

 

「なぜ分かるんですか」

 

「顔」

 

「顔で分かるんですか」

 

「分かる」

 

デュードは少しだけ目を丸くした。

 

シェイクは小さく笑った。

 

怖い。

 

でも、よく見ている。

 

オジュウチョウサンは、そういう人だった。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「オジュウさん、怖いですけど、カフェの人ですぅ」

 

「カフェの人でも怖い人はいます」

 

「そういう分類ですかぁ……」

 

オジュウチョウサンは、カウンターの中で腕を組んだ。

 

「で、オープンのやつが何しに来た」

 

デュードは少しだけ姿勢を正した。

 

「シェイクさんが障害を始めたので、確認に来ました」

 

「保護者か」

 

「同室です」

 

「似たようなもんだ」

 

「あと、御堂筋のあと、わたしだけ先に抜けたので」

 

店内の空気が少し変わった。

 

シェイクはカフェオレのカップを見た。

 

デュードは、まっすぐオジュウチョウサンを見ていた。

 

「シェイクさんが障害へ行くのを、逃げに見られるのが嫌です」

 

オジュウチョウサンは黙って聞いていた。

 

「でも、わたしも少し思ってしまいました。シェイクさんが、痛いものを避けるために障害へ行くのではないかと」

 

「デュードさん……」

 

「だから確認したかったです」

 

デュードは、シェイクを見た。

 

「シェイクさんが横を通るのか、飛ぶのか」

 

シェイクは、カップを両手で包んだ。

 

「今日、横は通りませんでしたぁ」

 

「はい」

 

「少しだけ、飛びましたぁ」

 

「見たかったです」

 

「次は見てくださいぃ」

 

「見ます」

 

オジュウチョウサンが短く笑った。

 

「面倒くせぇ部屋だな」

 

「すみませんぅ……」

 

「謝るな。悪い意味じゃねぇ」

 

オジュウチョウサンは、壁の写真を見た。

 

「障害に来るやつは、だいたい何か持ってる。平地の勝ち負けだけじゃねぇ。怪我、迷い、怖さ、負け癖、期待、変なプライド。いろいろだ」

 

「はいぃ」

 

「でも、障害はそれを全部チャラにする場所じゃねぇ」

 

シェイクは顔を上げた。

 

「チャラには、ならないんですかぁ」

 

「ならねぇ」

 

オジュウチョウサンは、はっきり言った。

 

「持ってきたもんは持ったまま飛ぶ。ただ、飛び方を覚える」

 

シェイクの胸が、少しだけ鳴った。

 

古吉に選ばれなかった日。

デュードが勝った日。

自分が四着だった日。

正しかったから痛かった日。

 

それらは消えない。

 

障害に来ても、なかったことにはならない。

 

でも、持ったまま飛ぶことはできるかもしれない。

 

「オジュウさん」

 

「ああん?」

 

「障害、やっぱりずるいですぅ」

 

「何がだ」

 

「消してくれるんじゃなくて、持ったまま飛ばせるんですねぇ」

 

「それが競走だろ」

 

オジュウチョウサンは、当たり前のように言った。

 

「軽くなってから走るんじゃねぇ。重い日でも、踏み切るんだよ」

 

シェイクは、メモにその言葉を書いた。

 

重い日でも、踏み切る。

 

デュードも、隣で自分のメモ帳に同じ言葉を書いた。

 

大牧トレーナーは、それを見て静かに頷いた。

 

「次から、少しずつ高さを上げます」

 

シェイクは固まった。

 

「高さ、上がるんですかぁ……」

 

「上がります」

 

「横は……」

 

「通れません」

 

即答だった。

 

オジュウチョウサンも同時に言った。

 

「通ったら出禁だ」

 

「カフェもですかぁ!?」

 

「当たり前だ。横通り組に出すカフェオレはねぇ」

 

「ひどいですぅ……」

 

「飛んだら出す」

 

「がんばりますぅ……」

 

デュードが真顔で言った。

 

「カフェオレが報酬なら、動機づけとしては有効です」

 

「デュードさんまでぇ……」

 

夕方のカフェに、少しだけ笑いが落ちた。

 

重いものが、消えたわけではない。

 

けれど、座る場所があると、重いものの形が少し見える。

 

シェイクはカフェオレを飲み干した。

 

「ごちそうさまでしたぁ」

 

「おう」

 

「また来てもいいですかぁ」

 

「飛んだらな」

 

「条件つきですぅ……」

 

「障害カフェだからな」

 

「カフェにも障害がありますぅ……」

 

オジュウチョウサンは、少しだけ口元を上げた。

 

「その名はオジュウチョウサン」

 

デュードがぽつりと呟いた。

 

シェイクが目を瞬かせる。

 

「デュードさん?」

 

「いえ。メモの題名です」

 

デュードは、店の看板を見た。

 

「障害界の伝説で、今はカフェの人。怖いけれど、飛ぶ子に座る場所を作った人」

 

シェイクは、その言葉を聞いて、もう一度メモの一番上に書いた。

 

その名は、オジュウチョウサン。

 

引退しても、障害の前に立つ子たちを見ている人。

カフェオレを出して、圧をサービスして、横を通る子には出禁をちらつかせる人。

でも本当は、飛んだあとに座る場所を用意してくれる人。

 

店を出ると、空は茜色になっていた。

 

シェイクは振り返って、看板を見る。

 

CAFE OJŪ。

 

障害は、逃げ道ではない。

 

別の頂上。

 

そして、その頂上へ向かう途中には、座って息を整えるためのカフェがある。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「明日も、横を通らないようにしますぅ」

 

「はい」

 

「でも、怖いですぅ」

 

「怖いままでいいそうです」

 

「はいぃ」

 

「重い日でも、踏み切るそうです」

 

「はいぃ」

 

シェイクは、胸に手を当てた。

 

心臓はまだ少し痛い。

 

でも、足元にいる。

 

今日のメモには、新しい言葉が増えた。

 

その名はオジュウチョウサン。

 

怖くて、強くて、カフェオレが少し甘い、障害の頂上にいた人。

 

シェイクユアハートは、その名前を胸の中でそっと繰り返しながら、次の障害へ向かう準備を始めた。

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