[番外編Ⅰ]マイネルの子
宮田先生の寮に、マイネルの子が来る。
その話を聞いた時、シェイクユアハートは、食堂の椅子に座ったまま首を傾げた。
「マイネル……?」
向かいにいた先輩が、箸を止めて言う。
「知らないの?」
「聞いたことはありますぅ」
「養成所みたいなところ。マイネルの子は、だいたいそこを通ってからトレセンに来るんだよ」
「ほわ~……学校の前に学校ですぅ……」
「まあ、そんな感じ。基礎体力とか、走り方とか、レースのこととか、集団生活とか。あと、トレセンに入ってからも、どの先生のところで走るかとか、どのレースへ行くかとか、けっこう見てくれる」
「ずっと見てくれるんですねぇ」
「うん。親とはまた違うけど、育てた子をちゃんと覚えてる場所、って感じ」
覚えている場所。
シェイクはその言葉を、少し不思議に思った。
自分にも親がいる。
綺麗で、静かで、シェイクが時々少しだけ背筋を伸ばしたくなるような人たち。
でも、マイネルという場所は、それとは違うらしい。
親ではない。
でも、ずっと見ている。
それは、どんな感じなのだろう。
その日の午後、宮田先生に呼ばれて、シェイクは寮の玄関へ向かった。
廊下の向こうに、ひとりのウマ娘が立っていた。
黒鹿毛の髪。
落ち着いた目。
荷物は多くない。
初めて来た場所なのに、そわそわしていない。
けれど、慣れきっているわけでもない。
彼女は、周りを見るというより、記録するような目で寮を見ていた。
玄関の段差。
掲示板の位置。
食堂の方角。
廊下の長さ。
全部、頭の中に書き込んでいるみたいだった。
「紹介する。マイネルメモリーや」
宮田先生が言った。
「今日から、うちの寮で一緒にやっていく」
マイネルメモリーは、軽く頭を下げた。
「マイネルメモリーです。よろしくお願いします」
「シェイクユアハートですぅ。よろしくお願いしますぅ」
シェイクも慌てて頭を下げた。
顔を上げると、メモリーはじっとこちらを見ていた。
「シェイクユアハート」
「はいぃ」
「名前、いいね」
「ほわ?」
「心臓を揺らすってことでしょ」
「たぶん、そうですぅ」
「いい名前」
そう言うと、メモリーは小さなノートを取り出して、何かを書いた。
シェイクは目を丸くした。
「いま、何を書いたんですかぁ?」
「今日会った子の名前」
「書くんですかぁ?」
「忘れたくないから」
「メモリーさんなのに?」
言ってから、シェイクは少ししまったと思った。
けれど、メモリーは怒らなかった。
むしろ少しだけ笑った。
「メモリーだから、書くんだよ」
「ほわ~……」
「覚えてるつもりでも、抜けることはある。だから書く」
メモリーはノートを閉じた。
「忘れたら、同じところでつまずくから」
その言葉は、さらっとしていた。
でも、シェイクの耳に少し残った。
その夕方、メモリーは宮田先生の部屋で面談を受けた。
部屋には宮田先生、マイネルの担当者、それから佐田トレーナーがいた。
佐田トレーナーは、メモリーのことを前から知っているらしかった。
椅子に座るなり、メモリーを見て言った。
「スタート」
「下手です」
「先頭立ったら」
「少し気を抜きます」
「少し?」
「……気を抜きます」
「最初からそう言え」
宮田先生が眉を上げた。
「自覚はあるんやな」
「あります」
「直す気は?」
「あります」
佐田トレーナーが鼻で笑った。
「マイネルでも何回言われた?」
「数えてません」
「ノートに書いてへんのか」
「書いてます」
「なら数えられるやろ」
「数えたくないので」
宮田先生は、少しだけ笑いをこらえた。
マイネルの担当者が穏やかに言う。
「メモリーは記録をよく残します。レース内容、調教の感覚、注意されたこと。細かいです」
「細かいのに、スタートは遅いんか」
宮田先生が言うと、メモリーは真顔で答えた。
「そこが問題です」
「自分で言うな」
佐田トレーナーがすぐに突っ込む。
「ゲート開いてから一瞬、頭で確認する癖がある。『開いた』って確認してから出る」
「確認は大事です」
「ゲートでは遅いねん」
「はい」
「あと前に出たら、仕事終わった顔する」
「完全にはしてません」
「してる」
「少しです」
「少しでもするな」
佐田トレーナーは、資料の端を指で叩いた。
「追いかける時はええ。並びかける時も悪くない。問題は抜いたあとや。ゴール板まで走れ」
メモリーは、少しだけ視線を落とした。
「分かってます」
「分かってて直らんのが一番腹立つねん」
「努力はしてます」
「ならノートに書いとけ」
「もう書いてます」
そう言って、メモリーはノートを開いた。
そこには、何度も同じ言葉が書かれていた。
スタートを確認しすぎない。
出たら走る。
前に出ても終わりじゃない。
ゴール板まで走る。
宮田先生は、それをしばらく見ていた。
「よう書いとるな」
「書かないと忘れます」
「忘れるんか」
「走ってる時は、前の子を追うことしか考えなくなるので」
メモリーは静かに言った。
「前に出るまでは、分かりやすいんです。追えばいいから」
「前に出たら?」
「少し、分からなくなります」
佐田トレーナーが腕を組んだ。
「せやから、ゴール板や」
「はい」
「前の子やなくて、ゴール板を追え」
メモリーは頷いた。
「書いておきます」
「また書くんか」
「忘れたくないので」
その夜、シェイクはメモリーの部屋を訪ねた。
同じ寮とはいえ、まだ荷物をほどいたばかりの部屋は、少しだけよそよそしい匂いがした。
メモリーは机に向かっていた。
机の上には、数冊のノートが並んでいる。
「メモリーさん、何してるんですかぁ?」
「今日のことを書いてる」
「今日、まだレースしてませんぅ」
「レース以外も書くよ」
「ほわ~……」
シェイクは隣に立って、少しだけノートを覗いた。
寮到着。
宮田先生。
佐田トレーナー。
シェイクユアハート。
ほわほわしている。
名前がいい。
食堂までの廊下が長い。
掲示板は玄関左。
「ほわほわしている、って書いてますぅ……」
「事実だから」
「メモリーさんは、しっかりしてますぅ」
「そう見えるだけ」
「そうなんですかぁ?」
「うん」
メモリーはペンを置いた。
「私は、書いておかないと不安なだけ」
シェイクは首を傾げた。
「不安そうに見えませんぅ」
「見えないようにしてる」
「ほわ~……大人ですぅ……」
「同い年でしょ」
「そうでしたぁ」
メモリーは少し笑った。
その笑い方は、すごく小さかった。
でも、冷たくはなかった。
「シェイクは書かないの?」
「何をですかぁ?」
「走ったこととか、言われたこととか」
「ほわ……あまり書いてないですぅ」
「忘れない?」
「忘れますぅ」
「じゃあ書いた方がいいよ」
「でも、何を書けばいいか分かりませんぅ」
メモリーは少し考えて、机の引き出しから小さな予備のノートを出した。
「これ、使う?」
「いいんですかぁ?」
「予備だから」
シェイクは両手で受け取った。
表紙は何も書かれていない。
まっさらなノートだった。
「最初に何を書けばいいですかぁ?」
「今日のこと」
「今日のこと……」
「何を見たか。何を思ったか。誰に何を言われたか。忘れたくないこと」
シェイクはノートを開いた。
白いページ。
少し緊張する。
ペンを握って、ゆっくり書いた。
マイネルメモリーさんが来た。
名前を褒められた。
メモリーさんは、忘れないために書く。
スタートが少し下手。
前に出ると、少し気を抜く。
ゴール板まで走る。
書き終えてから、シェイクは顔を上げた。
「書けましたぁ」
メモリーは覗き込んだ。
「私の悪いところまで書いてる」
「忘れないためですぅ」
「まあ、いいけど」
メモリーは少しだけ肩をすくめた。
「シェイクも、忘れたくないことができたら書くといいよ」
「はいぃ」
「勝ったことも、負けたことも」
「負けたこともですかぁ?」
「負けたことの方が大事な時もある」
シェイクは、まだその意味をよく分かっていなかった。
負けるのは嫌だ。
勝ったら嬉しい。
だったら勝った日の方が大事な気がする。
でも、メモリーは当たり前のように言った。
「負けたことを忘れたら、同じ負け方をする」
「ほわ~……」
「だから書く」
「メモリーさん、名前の通りですぅ」
「名前負けしたくないからね」
その言葉は、少し照れ隠しのようでもあった。
数日後、メモリーは初めて宮田先生の寮の調教に参加した。
スタート練習。
ゲートの中で、メモリーは静かだった。
静かすぎた。
佐田トレーナーが外から声をかける。
「メモリー」
「はい」
「確認しすぎるなよ」
「はい」
「開いたら走れ」
「はい」
「『開いた』って確認してから走るな」
「はい」
ゲートが開いた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、メモリーの反応が遅れた。
「メモリー!」
佐田トレーナーの声が飛ぶ。
メモリーはそこからすぐに動いた。
脚は悪くない。
むしろ、出てからの加速は良い。
けれど、最初の一瞬がある。
走り終わって戻ってきたメモリーに、佐田トレーナーは言った。
「今、確認したやろ」
「しました」
「するな」
「はい」
「分かってるな?」
「分かってます」
「なら書け」
「書きます」
そのやり取りを、シェイクは少し離れた場所で見ていた。
メモリーは叱られても、しょんぼりしすぎない。
言い訳もあまりしない。
ただ、事実を受け取って、ノートに書く。
それは少し不思議だった。
叱られたことを、隠さない。
失敗したことを、消さない。
その日の夜、シェイクは自分のノートに書いた。
メモリーさんは、失敗を隠さない。
佐田トレーナーに怒られた。
でも、ちゃんと書いていた。
負けたことも書く。
忘れたら、同じ負け方をする。
書き終わってから、シェイクはペン先を見つめた。
いつか、自分も負けるのだろうか。
たぶん負ける。
その時、このノートに書けるだろうか。
廊下の向こうから、メモリーと佐田トレーナーの声が聞こえた。
「ゴール板まで走れって、今日も書いたか」
「書きました」
「何回目や」
「数えてません」
「数えろ」
「数えたくないです」
「お前なあ」
シェイクは、少し笑った。
マイネルの子。
忘れないために書く子。
スタートで一瞬遅れる子。
前に出ると、仕事が終わったような顔をしてしまう子。
でも、追いかける時の目は真剣で、叱られた言葉をちゃんとノートに残す子。
マイネルメモリー。
その名前を、シェイクは自分のノートの一番上にもう一度書いた。
この時はまだ知らなかった。
その子が、自分より先にオープンへ行くことも。
一年後、同じ日に立場が入れ替わることも。
何度も前後を入れ替えながら、この先もずっと一緒に走ると思うことも。
そして、いつか。
もう一緒には走れなくなる日が来ることも。
シェイクはまだ知らなかった。
ただ、その日のノートには、こう書いた。
マイネルメモリーさん。
同い年。
同じ寮。
忘れないために書く子。