心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[番外編Ⅱ]二着を忘れない

マイネルメモリーは、よく二着になった。

 

まだトレセンに来たばかりのころ、シェイクユアハートは「二着」という数字を、そこまで重く考えていなかった。

 

一着ではない。

でも、後ろの子たちよりは前にいる。

掲示板にも載る。

褒められることもある。

 

だから、最初は思った。

 

二着は、惜しい数字なのだと。

 

けれど、メモリーの机の上に二着のメモが増えていくにつれて、シェイクは少しずつ分かっていった。

 

二着は、惜しいだけではない。

 

一番前のすぐ後ろにいるのに、そこには届かなかった、という数字なのだ。

 

それは、とても近くて、とても遠い。

 

メモリーのレースは、いつも少しだけ遅れて始まった。

 

ゲートに入る。

 

集中している。

目は前を向いている。

姿勢も悪くない。

 

けれど扉が開いた瞬間、ほんの一拍だけ反応が遅れる。

 

「あ」

 

小さく、そう言ったように見える。

 

それから走り出す。

 

遅れたぶんを取り戻そうとして、ぐっと脚を使う。

前にいる子を見つけると、メモリーの目つきは変わった。

 

追いかけるのは、うまい。

 

並びかけるのも、強い。

 

だからこそ、佐田トレーナーは毎回同じことを言った。

 

「スタート」

 

「遅いです」

 

「先頭立ったら」

 

「気を抜きます」

 

「ゴール板まで」

 

「走ります」

 

「ほんまか」

 

「努力はしてます」

 

「その返事が一番信用ならん」

 

メモリーは叱られるたびにノートへ書いた。

 

スタートで確認しすぎない。

扉が開いたら走る。

前の子を抜いても終わりじゃない。

ゴール板まで走る。

 

その文字は、だんだん濃くなっていった。

 

ある未勝利戦のあと、メモリーは二着だった。

 

また、二着だった。

 

直線で前の子を追いかけた。

並びかけた。

少しだけ前に出たようにも見えた。

 

でも、最後は届かなかった。

 

戻ってきたメモリーの顔は、泣いてはいなかった。

怒ってもいなかった。

 

ただ、すごく静かだった。

 

佐田トレーナーが言った。

 

「二着」

 

「はい」

 

「勝てたな」

 

「はい」

 

「どこで終わった顔した?」

 

「……抜いたと思ったところです」

 

「思っただけや」

 

「はい」

 

「ゴール板まで走れ」

 

「はい」

 

メモリーは頷いた。

 

それから、息が整う前にノートを開いた。

 

手が少し震えていた。

 

シェイクは、その横に立っていた。

 

「メモリーさん、今書くんですかぁ?」

 

「今じゃないと、忘れる」

 

「忘れますかぁ?」

 

「痛かったところは、早めに書かないと丸くなる」

 

「丸く……」

 

「負けた理由を、あとから都合よく変えちゃう」

 

メモリーはペンを走らせた。

 

二着。

スタートやや遅い。

直線、抜いたと思って緩んだ。

差し返された。

ゴール板まで走る。

佐田さんに怒られた。

次は、抜いたあと。

 

シェイクは、その文字をじっと見つめた。

 

「痛かったところ、書くんですねぇ」

 

「書くよ」

 

「見るの、つらくないですかぁ?」

 

「つらい」

 

メモリーは即答した。

 

「でも、見ないとまたやる」

 

「ほわ~……」

 

「シェイクは、つらいこと書かないの?」

 

シェイクは、自分のノートを思い浮かべた。

 

まだ白いページが多い。

メモリーに貰った、まっさらだったノート。

 

「書くの、ちょっと怖いですぅ」

 

「怖いなら、なおさら書いた方がいいよ」

 

「なぜですかぁ?」

 

「怖いものって、名前をつけないとずっと大きいままだから」

 

メモリーはノートを閉じた。

 

「二着って書くと、二着になる。怖い、だけよりは小さくなる」

 

シェイクには、その意味が半分くらいしか分からなかった。

 

でも、分からないまま、ノートに書いた。

 

メモリーさん、また二着。

二着は、近くて遠い。

痛いところは、早めに書く。

怖いものは、名前をつける。

 

その日から、シェイクのノートにも少しずつ文字が増え始めた。

 

メモリーは、また二着になった。

 

佐田トレーナーと走って、二着。

また佐田トレーナーと走って、二着。

 

別のトレーナーと組む日もあった。

丹頂トレーナーと走った時も、やはり二着だった。

 

トレーナーが替われば、少し景色も替わる。

 

佐田トレーナーは、癖を知りすぎている。

スタートの一拍も、先頭に立ちかけた瞬間の耳の緩みも、本人より先に気づく。

 

丹頂トレーナーは、場所を見る人だった。

ローカルの風、馬場、流れ。

今いる場所でどう走るかを教えてくれる。

 

けれど結果は、二着。

 

メモリーのノートには、同じ数字が並んでいった。

 

二着。

二着。

二着。

二着。

 

シェイクはある日、メモリーの机の上を見て、ぽつりと言った。

 

「二着がいっぱいですぅ……」

 

「いっぱいだね」

 

「嫌になりませんかぁ?」

 

「なるよ」

 

メモリーは、いつものようにすぐ答えた。

 

「でも、嫌だから捨てるってわけにもいかない」

 

「どうしてですかぁ?」

 

「捨てたら、何が足りなかったか分からなくなる」

 

メモリーはノートをめくった。

 

そこには、同じ言葉が何度も出てきた。

 

スタート。

先頭。

ゴール板。

 

「同じことばかり書いてますぅ」

 

「同じことばかりできてないから」

 

「ほわ……」

 

「でも、少しずつ違う」

 

メモリーは、古いページを指で押さえた。

 

「最初はスタートで遅れてた。次は出たけど、位置が悪かった。その次は直線で抜いたと思って緩んだ。丹頂さんの時は、場所は見えてた。でも仕掛けが少し遅かった」

 

「全部二着なのに?」

 

「全部違う二着」

 

シェイクは、ゆっくり頷いた。

 

二着にも種類がある。

 

それを、メモリーは一つずつ覚えている。

 

「メモリーさん、やっぱりメモリーですぅ」

 

「名前負けしたくないからね」

 

メモリーは小さく笑った。

 

そして秋。

 

阪神の未勝利戦。

 

その日のメモリーの隣にいたのは、佐田トレーナーではなかった。

 

クリスデムトレーナー。

 

短期でトレセンへ来ていた、海外帰りの腕利きだった。

 

言葉は少しだけ独特だったが、見ているところは鋭い。

メモリーの過去の映像を確認すると、すぐに言った。

 

「この子、前に出るまで強い。出たあと、少し待つ」

 

佐田トレーナーは、少し離れた場所で腕を組んでいた。

 

「せやねん。それをずっと言うとるんです」

 

メモリーは、少しだけ気まずそうに目を逸らした。

 

「スタートも少し遅い」

 

クリスデムトレーナーが言う。

 

「はい」

 

「でも、出てから強い」

 

「はい」

 

「先頭に立つと、気を抜く」

 

「……はい」

 

「知ってる。佐田さん、すごく言ってた」

 

メモリーは、ちらりと佐田トレーナーを見た。

 

佐田トレーナーは何も言わない。

 

けれど、言いたいことは分かる。

 

スタート。

先頭に立ったら。

ゴール板まで。

 

何度も聞いた言葉。

 

その全部が、今日も胸にある。

 

「今日は、前に出ても終わらない」

 

クリスデムトレーナーは言った。

 

「ゴールまで、もう一頭いると思って走る」

 

「いないのに?」

 

「いる」

 

「誰ですか」

 

「ゴール板」

 

メモリーは少しだけ目を開いた。

 

佐田トレーナーと同じことを、違う言い方で言われた気がした。

 

前の子を追うのではない。

ゴール板を追う。

 

それなら、先頭に立っても目標は消えない。

 

「分かりました」

 

メモリーは頷いた。

 

シェイクは観覧席の端から見ていた。

 

今日は佐田トレーナーではない。

 

それが、少し不思議だった。

 

けれど佐田トレーナーは、ちゃんと見ている。

 

腕を組んで、少し怖い顔で。

誰よりも、メモリーのスタートと直線を見ている。

 

ゲートが開いた。

 

いつもの一拍は、ほんの少し短かった。

 

完璧ではない。

でも、今までより前にいる。

 

メモリーは走った。

 

前を見る。

追いかける。

位置を上げる。

 

クリスデムトレーナーの声が届く。

 

「いい。前、見る」

 

メモリーは前を見た。

 

直線。

 

前に一頭。

 

追う。

並ぶ。

抜く。

 

いつもなら、そこで少しだけ耳が緩む。

 

けれど今日は、声が飛んだ。

 

「ゴール板、前!」

 

ゴール板が前にいる。

 

メモリーは、もう一度踏んだ。

 

終わらない。

抜いても終わらない。

まだ前がある。

 

ゴール板まで。

 

最後まで。

 

そして、一番前でゴールした。

 

マイネルメモリーは、ようやく勝った。

 

シェイクは思わず立ち上がった。

 

「メモリーさん!」

 

声は歓声に混じって、届いたかどうか分からない。

 

それでも、シェイクは両手を握りしめていた。

 

勝った。

 

メモリーが勝った。

 

何度も二着になった子が。

何度もノートに「ゴール板まで走る」と書いた子が。

 

ようやく、一番前でゴールした。

 

戻ってきたメモリーは、いつもより少しだけ息が荒かった。

 

クリスデムトレーナーが笑った。

 

「勝った」

 

「はい」

 

「ゴール板、追えた」

 

「はい」

 

「いい勝ち」

 

「ありがとうございます」

 

短く答えたメモリーの視線は、少し離れた場所にいる佐田トレーナーへ向いていた。

 

佐田トレーナーは、近づいてきて言った。

 

「勝ったな」

 

「はい」

 

「ようやった」

 

「……佐田さんじゃなかったですけど」

 

「そこは気にせんでええ」

 

「気にしてます?」

 

佐田トレーナーは少しだけ黙った。

 

「ちょっとだけな」

 

メモリーは、目を丸くした。

 

「正直ですね」

 

「お前に隠してもノートに書かれるやろ」

 

「書きますよ」

 

「書くな」

 

「書きます」

 

佐田トレーナーは、ため息をついた。

 

「勝ったことを書け」

 

「はい」

 

「クリスデムさんのことも書け」

 

「はい」

 

「あと、今までの二着もな」

 

メモリーは、少しだけ表情を変えた。

 

「それもですか」

 

「それがなかったら、今日勝ててへんやろ」

 

それは、いつもメモリーが言いそうな言葉だった。

 

だから、メモリーは少しだけ笑った。

 

「はい」

 

その夜、メモリーはノートを開いた。

 

未勝利一着。

クリスデムトレーナー。

スタート、少し改善。

ゴール板を前に置く。

佐田さんに言われ続けたことを、今日は別の言葉でできた。

前の二着たちのおかげ。

 

そこまで書いて、少し手を止めた。

 

そして、その下に書いた。

 

佐田さん、少し悔しそうだった。

でも、ようやったと言ってくれた。

 

シェイクはそれを覗き込んで、静かに言った。

 

「勝った日なのに、二着のことも佐田さんのことも書くんですねぇ」

 

「書くよ」

 

「もう勝ったから、前の負けは要らないんじゃないですかぁ?」

 

メモリーは、ペンを置いた。

 

シェイクの方を見る。

 

「要るよ」

 

「要りますかぁ?」

 

「今日勝てたの、あれ全部があったからでしょ」

 

シェイクは黙った。

 

メモリーは、前のページをめくった。

 

二着。

二着。

また二着。

 

スタートが遅い。

抜いたあと緩む。

ゴール板まで走る。

佐田さんに怒られた。

丹頂さんに言われた。

まだ足りない。

 

同じような文字が、何度も並んでいる。

 

「これがなかったら、今日もたぶん終わった顔してた」

 

メモリーは言った。

 

「勝ったからって、負けたレースはいらなくならない」

 

その言葉は、シェイクの胸にすとんと落ちた。

 

勝った日だけを残すのではない。

 

負けた日も残す。

痛かった日も残す。

恥ずかしかった言葉も、腹が立ったことも、全部残す。

 

それが、いつか一着の足元になる。

 

「メモリーさん」

 

「何?」

 

「シェイクも、書きますぅ」

 

「うん」

 

「今日のことも、前のことも」

 

「そうしたらいいよ」

 

「負けたことも?」

 

「負けたことも」

 

「怖いことも?」

 

「怖いことも」

 

「腹立ったことも?」

 

「それは絶対書いた方がいい」

 

シェイクは少し笑った。

 

「はいぃ」

 

その夜、シェイクは自分のノートを開いた。

 

メモリーさん、初勝利。

クリスデムトレーナー。

佐田トレーナーは少し悔しそうだった。

でも、ようやったと言った。

メモリーさんは、前の二着たちのおかげと書いていた。

勝ったからって、負けたレースはいらなくならない。

 

そこまで書いて、シェイクはペンを止めた。

 

自分にも、いつかそういう日が来るのだろうか。

 

勝った日。

その足元に、たくさんの負けた日があると気づく日。

 

まだ分からない。

 

でも、ノートには書いておこうと思った。

 

忘れないために。

 

翌朝、食堂でメモリーはいつも通りだった。

 

勝ったからといって、急に派手になるわけでもない。

ただ、少しだけ背筋が軽くなっているように見えた。

 

佐田トレーナーは廊下でメモリーを見つけると、いつものように言った。

 

「スタート」

 

「まだ下手です」

 

「先頭立ったら」

 

「気を抜かないようにします」

 

「ゴール板まで」

 

「走ります」

 

「勝ったからって忘れるなよ」

 

「書いてます」

 

「ならええ」

 

メモリーは小さく頷いた。

 

シェイクはそのやり取りを見ながら、胸の奥で少し笑った。

 

メモリーは勝った。

 

でも、ノートは終わらない。

 

むしろここから、また新しいページが始まる。

 

この時のシェイクはまだ知らなかった。

 

自分もやがて、二着を何度も何度も書くことになる。

近いのに届かない数字を、机の上に積み上げることになる。

そして、そのたびに「負けたことも書く」というメモリーの言葉を思い出すことになる。

 

さらにずっと後。

 

もう一緒には走れなくなったメモリーのノートを、病室で見る日が来ることも。

 

そのノートに、今日の初勝利も、何度もの二着も、全部残っていることも。

 

シェイクはまだ知らなかった。

 

ただ、その日のノートにはこう書いた。

 

マイネルメモリーさんは、二着を忘れない。

勝った日にも、負けた日を持っていく。

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