マイネルメモリーは、よく二着になった。
まだトレセンに来たばかりのころ、シェイクユアハートは「二着」という数字を、そこまで重く考えていなかった。
一着ではない。
でも、後ろの子たちよりは前にいる。
掲示板にも載る。
褒められることもある。
だから、最初は思った。
二着は、惜しい数字なのだと。
けれど、メモリーの机の上に二着のメモが増えていくにつれて、シェイクは少しずつ分かっていった。
二着は、惜しいだけではない。
一番前のすぐ後ろにいるのに、そこには届かなかった、という数字なのだ。
それは、とても近くて、とても遠い。
メモリーのレースは、いつも少しだけ遅れて始まった。
ゲートに入る。
集中している。
目は前を向いている。
姿勢も悪くない。
けれど扉が開いた瞬間、ほんの一拍だけ反応が遅れる。
「あ」
小さく、そう言ったように見える。
それから走り出す。
遅れたぶんを取り戻そうとして、ぐっと脚を使う。
前にいる子を見つけると、メモリーの目つきは変わった。
追いかけるのは、うまい。
並びかけるのも、強い。
だからこそ、佐田トレーナーは毎回同じことを言った。
「スタート」
「遅いです」
「先頭立ったら」
「気を抜きます」
「ゴール板まで」
「走ります」
「ほんまか」
「努力はしてます」
「その返事が一番信用ならん」
メモリーは叱られるたびにノートへ書いた。
スタートで確認しすぎない。
扉が開いたら走る。
前の子を抜いても終わりじゃない。
ゴール板まで走る。
その文字は、だんだん濃くなっていった。
ある未勝利戦のあと、メモリーは二着だった。
また、二着だった。
直線で前の子を追いかけた。
並びかけた。
少しだけ前に出たようにも見えた。
でも、最後は届かなかった。
戻ってきたメモリーの顔は、泣いてはいなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、すごく静かだった。
佐田トレーナーが言った。
「二着」
「はい」
「勝てたな」
「はい」
「どこで終わった顔した?」
「……抜いたと思ったところです」
「思っただけや」
「はい」
「ゴール板まで走れ」
「はい」
メモリーは頷いた。
それから、息が整う前にノートを開いた。
手が少し震えていた。
シェイクは、その横に立っていた。
「メモリーさん、今書くんですかぁ?」
「今じゃないと、忘れる」
「忘れますかぁ?」
「痛かったところは、早めに書かないと丸くなる」
「丸く……」
「負けた理由を、あとから都合よく変えちゃう」
メモリーはペンを走らせた。
二着。
スタートやや遅い。
直線、抜いたと思って緩んだ。
差し返された。
ゴール板まで走る。
佐田さんに怒られた。
次は、抜いたあと。
シェイクは、その文字をじっと見つめた。
「痛かったところ、書くんですねぇ」
「書くよ」
「見るの、つらくないですかぁ?」
「つらい」
メモリーは即答した。
「でも、見ないとまたやる」
「ほわ~……」
「シェイクは、つらいこと書かないの?」
シェイクは、自分のノートを思い浮かべた。
まだ白いページが多い。
メモリーに貰った、まっさらだったノート。
「書くの、ちょっと怖いですぅ」
「怖いなら、なおさら書いた方がいいよ」
「なぜですかぁ?」
「怖いものって、名前をつけないとずっと大きいままだから」
メモリーはノートを閉じた。
「二着って書くと、二着になる。怖い、だけよりは小さくなる」
シェイクには、その意味が半分くらいしか分からなかった。
でも、分からないまま、ノートに書いた。
メモリーさん、また二着。
二着は、近くて遠い。
痛いところは、早めに書く。
怖いものは、名前をつける。
その日から、シェイクのノートにも少しずつ文字が増え始めた。
メモリーは、また二着になった。
佐田トレーナーと走って、二着。
また佐田トレーナーと走って、二着。
別のトレーナーと組む日もあった。
丹頂トレーナーと走った時も、やはり二着だった。
トレーナーが替われば、少し景色も替わる。
佐田トレーナーは、癖を知りすぎている。
スタートの一拍も、先頭に立ちかけた瞬間の耳の緩みも、本人より先に気づく。
丹頂トレーナーは、場所を見る人だった。
ローカルの風、馬場、流れ。
今いる場所でどう走るかを教えてくれる。
けれど結果は、二着。
メモリーのノートには、同じ数字が並んでいった。
二着。
二着。
二着。
二着。
シェイクはある日、メモリーの机の上を見て、ぽつりと言った。
「二着がいっぱいですぅ……」
「いっぱいだね」
「嫌になりませんかぁ?」
「なるよ」
メモリーは、いつものようにすぐ答えた。
「でも、嫌だから捨てるってわけにもいかない」
「どうしてですかぁ?」
「捨てたら、何が足りなかったか分からなくなる」
メモリーはノートをめくった。
そこには、同じ言葉が何度も出てきた。
スタート。
先頭。
ゴール板。
「同じことばかり書いてますぅ」
「同じことばかりできてないから」
「ほわ……」
「でも、少しずつ違う」
メモリーは、古いページを指で押さえた。
「最初はスタートで遅れてた。次は出たけど、位置が悪かった。その次は直線で抜いたと思って緩んだ。丹頂さんの時は、場所は見えてた。でも仕掛けが少し遅かった」
「全部二着なのに?」
「全部違う二着」
シェイクは、ゆっくり頷いた。
二着にも種類がある。
それを、メモリーは一つずつ覚えている。
「メモリーさん、やっぱりメモリーですぅ」
「名前負けしたくないからね」
メモリーは小さく笑った。
そして秋。
阪神の未勝利戦。
その日のメモリーの隣にいたのは、佐田トレーナーではなかった。
クリスデムトレーナー。
短期でトレセンへ来ていた、海外帰りの腕利きだった。
言葉は少しだけ独特だったが、見ているところは鋭い。
メモリーの過去の映像を確認すると、すぐに言った。
「この子、前に出るまで強い。出たあと、少し待つ」
佐田トレーナーは、少し離れた場所で腕を組んでいた。
「せやねん。それをずっと言うとるんです」
メモリーは、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「スタートも少し遅い」
クリスデムトレーナーが言う。
「はい」
「でも、出てから強い」
「はい」
「先頭に立つと、気を抜く」
「……はい」
「知ってる。佐田さん、すごく言ってた」
メモリーは、ちらりと佐田トレーナーを見た。
佐田トレーナーは何も言わない。
けれど、言いたいことは分かる。
スタート。
先頭に立ったら。
ゴール板まで。
何度も聞いた言葉。
その全部が、今日も胸にある。
「今日は、前に出ても終わらない」
クリスデムトレーナーは言った。
「ゴールまで、もう一頭いると思って走る」
「いないのに?」
「いる」
「誰ですか」
「ゴール板」
メモリーは少しだけ目を開いた。
佐田トレーナーと同じことを、違う言い方で言われた気がした。
前の子を追うのではない。
ゴール板を追う。
それなら、先頭に立っても目標は消えない。
「分かりました」
メモリーは頷いた。
シェイクは観覧席の端から見ていた。
今日は佐田トレーナーではない。
それが、少し不思議だった。
けれど佐田トレーナーは、ちゃんと見ている。
腕を組んで、少し怖い顔で。
誰よりも、メモリーのスタートと直線を見ている。
ゲートが開いた。
いつもの一拍は、ほんの少し短かった。
完璧ではない。
でも、今までより前にいる。
メモリーは走った。
前を見る。
追いかける。
位置を上げる。
クリスデムトレーナーの声が届く。
「いい。前、見る」
メモリーは前を見た。
直線。
前に一頭。
追う。
並ぶ。
抜く。
いつもなら、そこで少しだけ耳が緩む。
けれど今日は、声が飛んだ。
「ゴール板、前!」
ゴール板が前にいる。
メモリーは、もう一度踏んだ。
終わらない。
抜いても終わらない。
まだ前がある。
ゴール板まで。
最後まで。
そして、一番前でゴールした。
マイネルメモリーは、ようやく勝った。
シェイクは思わず立ち上がった。
「メモリーさん!」
声は歓声に混じって、届いたかどうか分からない。
それでも、シェイクは両手を握りしめていた。
勝った。
メモリーが勝った。
何度も二着になった子が。
何度もノートに「ゴール板まで走る」と書いた子が。
ようやく、一番前でゴールした。
戻ってきたメモリーは、いつもより少しだけ息が荒かった。
クリスデムトレーナーが笑った。
「勝った」
「はい」
「ゴール板、追えた」
「はい」
「いい勝ち」
「ありがとうございます」
短く答えたメモリーの視線は、少し離れた場所にいる佐田トレーナーへ向いていた。
佐田トレーナーは、近づいてきて言った。
「勝ったな」
「はい」
「ようやった」
「……佐田さんじゃなかったですけど」
「そこは気にせんでええ」
「気にしてます?」
佐田トレーナーは少しだけ黙った。
「ちょっとだけな」
メモリーは、目を丸くした。
「正直ですね」
「お前に隠してもノートに書かれるやろ」
「書きますよ」
「書くな」
「書きます」
佐田トレーナーは、ため息をついた。
「勝ったことを書け」
「はい」
「クリスデムさんのことも書け」
「はい」
「あと、今までの二着もな」
メモリーは、少しだけ表情を変えた。
「それもですか」
「それがなかったら、今日勝ててへんやろ」
それは、いつもメモリーが言いそうな言葉だった。
だから、メモリーは少しだけ笑った。
「はい」
その夜、メモリーはノートを開いた。
未勝利一着。
クリスデムトレーナー。
スタート、少し改善。
ゴール板を前に置く。
佐田さんに言われ続けたことを、今日は別の言葉でできた。
前の二着たちのおかげ。
そこまで書いて、少し手を止めた。
そして、その下に書いた。
佐田さん、少し悔しそうだった。
でも、ようやったと言ってくれた。
シェイクはそれを覗き込んで、静かに言った。
「勝った日なのに、二着のことも佐田さんのことも書くんですねぇ」
「書くよ」
「もう勝ったから、前の負けは要らないんじゃないですかぁ?」
メモリーは、ペンを置いた。
シェイクの方を見る。
「要るよ」
「要りますかぁ?」
「今日勝てたの、あれ全部があったからでしょ」
シェイクは黙った。
メモリーは、前のページをめくった。
二着。
二着。
また二着。
スタートが遅い。
抜いたあと緩む。
ゴール板まで走る。
佐田さんに怒られた。
丹頂さんに言われた。
まだ足りない。
同じような文字が、何度も並んでいる。
「これがなかったら、今日もたぶん終わった顔してた」
メモリーは言った。
「勝ったからって、負けたレースはいらなくならない」
その言葉は、シェイクの胸にすとんと落ちた。
勝った日だけを残すのではない。
負けた日も残す。
痛かった日も残す。
恥ずかしかった言葉も、腹が立ったことも、全部残す。
それが、いつか一着の足元になる。
「メモリーさん」
「何?」
「シェイクも、書きますぅ」
「うん」
「今日のことも、前のことも」
「そうしたらいいよ」
「負けたことも?」
「負けたことも」
「怖いことも?」
「怖いことも」
「腹立ったことも?」
「それは絶対書いた方がいい」
シェイクは少し笑った。
「はいぃ」
その夜、シェイクは自分のノートを開いた。
メモリーさん、初勝利。
クリスデムトレーナー。
佐田トレーナーは少し悔しそうだった。
でも、ようやったと言った。
メモリーさんは、前の二着たちのおかげと書いていた。
勝ったからって、負けたレースはいらなくならない。
そこまで書いて、シェイクはペンを止めた。
自分にも、いつかそういう日が来るのだろうか。
勝った日。
その足元に、たくさんの負けた日があると気づく日。
まだ分からない。
でも、ノートには書いておこうと思った。
忘れないために。
翌朝、食堂でメモリーはいつも通りだった。
勝ったからといって、急に派手になるわけでもない。
ただ、少しだけ背筋が軽くなっているように見えた。
佐田トレーナーは廊下でメモリーを見つけると、いつものように言った。
「スタート」
「まだ下手です」
「先頭立ったら」
「気を抜かないようにします」
「ゴール板まで」
「走ります」
「勝ったからって忘れるなよ」
「書いてます」
「ならええ」
メモリーは小さく頷いた。
シェイクはそのやり取りを見ながら、胸の奥で少し笑った。
メモリーは勝った。
でも、ノートは終わらない。
むしろここから、また新しいページが始まる。
この時のシェイクはまだ知らなかった。
自分もやがて、二着を何度も何度も書くことになる。
近いのに届かない数字を、机の上に積み上げることになる。
そして、そのたびに「負けたことも書く」というメモリーの言葉を思い出すことになる。
さらにずっと後。
もう一緒には走れなくなったメモリーのノートを、病室で見る日が来ることも。
そのノートに、今日の初勝利も、何度もの二着も、全部残っていることも。
シェイクはまだ知らなかった。
ただ、その日のノートにはこう書いた。
マイネルメモリーさんは、二着を忘れない。
勝った日にも、負けた日を持っていく。