心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[番外編Ⅲ]七月二十日、先に行く

初勝利のあとも、マイネルメモリーのノートは終わらなかった。

 

勝った。

 

その事実は、確かにひとつの区切りだった。

 

けれど、メモリーにとって勝利は、ノートの最後のページではない。

むしろ、次のページへ進むための印だった。

 

未勝利を抜けたあと、メモリーはまた新しい数字を書き始めた。

 

一勝クラス。

二勝クラス。

特別戦。

時々、重賞の名前。

 

シェイクユアハートもまた、同じ宮田先生の寮で走り続けていた。

 

同い年。

同じ寮。

でも、進み方は少しずつ違っていく。

 

メモリーは、時々スタートで後手を踏む。

前を追いかけると強い。

けれど先頭に立つと、ほんの少しだけ耳が緩む。

 

その癖は、完全には消えなかった。

 

佐田トレーナーは、会うたびに言った。

 

「スタート」

 

「まだ下手です」

 

「先頭立ったら」

 

「気を抜かないようにします」

 

「ゴール板まで」

 

「走ります」

 

「だいぶ返事だけは上手くなったな」

 

「返事も成長です」

 

「走りで成長せえ」

 

メモリーはそのたびにノートへ書いた。

 

返事だけ上手くなっても駄目。

佐田さん、今日も同じことを言った。

ゴール板まで走る。

 

シェイクは、それを横で見ていた。

 

最初は不思議だった。

どうして同じことを何度も書くのだろう。

どうして負けた日も、叱られた言葉も、消さずに残すのだろう。

 

けれど、自分も走るようになって、少しずつ分かってきた。

 

走るたびに、忘れてしまうものがある。

 

悔しかったこと。

怖かったこと。

届きそうだったのに届かなかった感覚。

逆に、うまくいったこと。

 

それを何も書かずにいると、次の日には少し形が変わっている。

 

痛かった負けが、ただの「惜しかった」になる。

怖かった失敗が、ただの「運が悪かった」になる。

自分に都合のいい記憶になっていく。

 

メモリーは、それを嫌った。

 

「忘れたら、同じところでつまずく」

 

彼女はよくそう言った。

 

だから、メモリーは書き続けた。

 

勝った日も。

二着の日も。

スタートで遅れた日も。

先頭に立ってから気を抜いた日も。

 

そして、シェイクも少しずつ書くようになった。

 

ほわほわした字で。

ときどき誤字をしながら。

でも、忘れたくないことを、少しずつ。

 

季節が何度か変わった。

 

メモリーは、一勝クラスを勝った。

二勝クラスでも惜しいレースを重ねた。

 

シェイクも、古吉トレーナーと出会い、札幌で一勝クラスを勝ち、二勝クラスへ上がった。

 

寮の食堂で、二人はよく隣になった。

 

「メモリーさん、最近どうですかぁ?」

 

「スタートはまだ下手」

 

「そこからですかぁ」

 

「そこから」

 

「シェイクは、心臓が先に行きますぅ」

 

「それも困るね」

 

「困りますぅ」

 

「じゃあ書けば?」

 

「書いてますぅ」

 

シェイクがノートを見せると、メモリーは少しだけ目を細めた。

 

シェイクのノートには、こう書かれていた。

 

心臓が先に行く。

足が後ろから追いかける。

古吉さんに「焦るな」と言われる。

焦らないの、難しいですぅ。

 

「いいじゃん」

 

メモリーは言った。

 

「いいですかぁ?」

 

「うん。ちゃんと困ってる」

 

「困ってるのが、いいんですかぁ?」

 

「困ってる場所が分かるから」

 

シェイクは、少しだけ笑った。

 

「メモリーさんみたいですぅ」

 

「名前を貸すほどではないかな」

 

「厳しいですぅ」

 

そんな日々の中で、二人はゆっくりと三勝クラスへ近づいていった。

 

先に壁の前へ立ったのは、メモリーだった。

 

二勝クラスを勝ち、三勝クラスへ上がる。

 

同じころ、シェイクもまた上へ上がってきた。

 

三勝クラス。

 

その名前を聞いた時、シェイクはまだ、その場所がどれほど長い沼になるのか知らなかった。

 

メモリーは、少しだけ先にその空気を知っていた。

 

「三勝クラスって、どうですかぁ?」

 

ある夜、シェイクが聞いた。

 

「強い」

 

「ほわ~……」

 

「あと、みんな簡単には止まらない」

 

「止まってほしいですぅ」

 

「止まらないね」

 

「困りますぅ」

 

「困るよ」

 

メモリーはノートを閉じた。

 

「でも、ここを抜けたらオープン」

 

「オープン……」

 

「上が開く」

 

「門ですぅ」

 

「たぶん、門の先にも壁があるけど」

 

「今それ言いますかぁ……」

 

「早めに言った方がいいかなって」

 

シェイクは湯呑みを抱えた。

 

「メモリーさん、先に行きそうですぅ」

 

「分からないよ」

 

「行きそうですぅ」

 

「シェイクも来るでしょ」

 

「行きたいですぅ」

 

「じゃあ、来ればいい」

 

メモリーの言い方は、いつも少しだけ簡単だった。

 

でも、その簡単さは冷たさではなかった。

 

難しいことを、難しいまま言いすぎない。

 

そういう強さが、メモリーにはあった。

 

そして、二〇二四年七月二十日。

 

小倉。

 

テレQ杯。

 

三勝クラス、芝二千。

 

その日の出走表に、二人の名前は並んでいた。

 

マイネルメモリー。

シェイクユアハート。

 

同じ宮田先生の寮。

同い年。

何度も同じ食堂でお茶を飲み、同じようにノートを開いてきた二人。

 

けれど、その日は同じレースの相手だった。

 

シェイクの隣には、秋稔トレーナーがいた。

 

古吉トレーナーではない。

それだけで少し不安になる。

 

けれど、秋稔トレーナーはまっすぐな人だった。

 

「シェイクさん、今日は最後まで脚を使えます。早く動きすぎないで、でも置いていかれないように」

 

「難しいですぅ……」

 

「難しいです。でも、できると思っています」

 

「秋稔さん、まっすぐですぅ」

 

「まっすぐ言うしかないので」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

心臓が鳴っている。

 

テレQ杯。

三勝クラス。

相手には、メモリーがいる。

 

メモリーの隣には、佐田トレーナーが立っていた。

 

「スタート」

 

「遅れないようにします」

 

「先頭立ったら」

 

「気を抜かないようにします」

 

「ゴール板まで」

 

「走ります」

 

「今日はシェイクおるぞ」

 

「分かってます」

 

「後ろから来るぞ」

 

「分かってます」

 

「ほんまに分かっとるか?」

 

「たぶん」

 

「たぶん言うな」

 

メモリーは少しだけ笑った。

 

シェイクが来る。

 

それは、たぶん本当だった。

 

あの子は、ほわほわしている。

でも、最後まで追ってくる。

 

心臓が先に行くと言いながら、それでも最後まで足を伸ばしてくる。

 

今日、先頭に立ってから気を抜けば、たぶん捕まる。

 

佐田トレーナーは言った。

 

「メモリー」

 

「はい」

 

「今日は、抜いたあとや」

 

「はい」

 

「シェイクを待つな」

 

「待ちません」

 

「ゴール板まで」

 

「走ります」

 

メモリーは頷いた。

 

そして、ノートには書かずに胸の中で繰り返した。

 

ゴール板まで。

 

パドックで、シェイクとメモリーはすれ違った。

 

「メモリーさん」

 

「シェイク」

 

「今日は、同じレースですぅ」

 

「うん」

 

「負けませんぅ」

 

シェイクがそう言うと、メモリーは少しだけ目を丸くした。

 

それから、笑った。

 

「いいね」

 

「ほわ?」

 

「そういうの、ちゃんと言えるようになったんだ」

 

「シェイクも成長しましたぁ」

 

「じゃあ、私も負けない」

 

二人は短く笑った。

 

同じ寮へ帰る。

同じ食堂でご飯を食べる。

でも、レースの中では相手。

 

それが、少し不思議で、少し嬉しくて、そして少し怖かった。

 

ゲートに入る。

 

小倉の芝二千。

空は晴れ。

馬場は少しだけ水分を含んでいる。

 

扉が開いた。

 

メモリーは、出た。

 

完璧ではない。

けれど、昔よりずっといい。

 

ほんの一拍の遅れは、もう昔ほど大きくない。

 

佐田トレーナーの声が届く。

 

「ええぞ。そこでええ」

 

シェイクも出る。

 

秋稔トレーナーの声が聞こえる。

 

「慌てないで。流れに乗って」

 

前を見る。

 

メモリーがいる。

 

シェイクは、その勝負服を視界の端に置いた。

 

レースは淡々と進むように見えて、内側では熱を持っていた。

 

小倉の二千。

簡単には待ってくれない。

 

メモリーは中団で脚を溜める。

シェイクも、その後ろから前を見ている。

 

三コーナー。

 

流れが動き始める。

 

佐田トレーナーの声。

 

「メモリー、そろそろや」

 

メモリーは反応する。

 

追いかける相手がいる。

前にいる子がいる。

 

そこへ向かう時、メモリーは強い。

 

四コーナー。

 

視界が開く。

 

メモリーが伸びる。

 

前を追う。

並ぶ。

前へ出る。

 

その瞬間、耳がほんの少しだけ緩みかけた。

 

抜いた。

 

そう思いかけた。

 

「メモリー!」

 

佐田トレーナーの声が飛んだ。

 

「シェイク来とる!」

 

メモリーの背中に、ぞくりと何かが走る。

 

後ろから、シェイクが来ていた。

 

ほわほわした顔ではない。

心臓をまっすぐ前に向けて、最後まで追ってくるシェイクが。

 

秋稔トレーナーの声。

 

「シェイクさん、最後まで!」

 

シェイクは伸びた。

 

前にいるのがメモリーだと分かる。

 

同じ寮の子。

ノートをくれた子。

二着を忘れない子。

 

その子が、一番前にいる。

 

「メモリーさん……!」

 

シェイクは踏んだ。

 

届きたい。

 

今度こそ。

 

メモリーは、もう一度踏んだ。

 

終わっていない。

抜いたあとだ。

ゴール板まで。

 

シェイクが来る。

 

メモリーは止まらない。

 

二人の距離が詰まる。

 

ゴール板。

 

マイネルメモリー、一着。

 

シェイクユアハート、二着。

 

半馬身。

 

たった半馬身。

 

でも、その半馬身の向こう側に、オープンの門があった。

 

レース後、シェイクはしばらく前を見ていた。

 

また二着。

 

そう思いかけて、言葉が止まった。

 

一番前にいたのが、メモリーだったから。

 

「……メモリーさん」

 

シェイクは、小さく呟いた。

 

秋稔トレーナーが来る。

 

「二着です」

 

「はいぃ……」

 

「よく走りました」

 

「はいぃ」

 

「でも、悔しいですね」

 

「悔しいですぅ」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「でも……メモリーさんが勝ちましたぁ」

 

「はい」

 

「嬉しいですぅ」

 

言いながら、胸が痛かった。

 

嬉しい。

悔しい。

 

どちらも本当だった。

 

少し離れたところで、メモリーは佐田トレーナーと向き合っていた。

 

「勝ったな」

 

「はい」

 

「危なかったな」

 

「勝ちました」

 

「その考え方や」

 

「……はい」

 

「シェイク来とったやろ」

 

「来てました」

 

「気ぃ抜きかけたやろ」

 

「少し」

 

「少し?」

 

「抜きかけました」

 

「最初からそう言え」

 

佐田トレーナーは、深く息を吐いた。

 

でも、その顔にははっきりと安堵があった。

 

「よう残した」

 

「はい」

 

「三勝クラス、卒業や」

 

その言葉を聞いた瞬間、メモリーは少しだけ黙った。

 

卒業。

 

オープンへ行く。

 

先に。

 

シェイクより先に。

 

寮へ戻った夜、メモリーの机の前には、いつものノートがあった。

 

シェイクは、戸口で少し立ち止まってから声をかけた。

 

「メモリーさん」

 

「入っていいよ」

 

シェイクは部屋に入った。

 

メモリーはノートを書いていた。

 

テレQ杯一着。

佐田トレーナー。

スタート、昔より良い。

直線、先頭に立って少し緩みかけた。

シェイクが来た。

半馬身。

危ない。

ゴール板まで走る。

三勝クラス卒業。

先にオープンへ行く。

 

シェイクは、その最後の一行を見て、胸がぎゅっとなった。

 

「先に行っちゃいますぅ」

 

声は、思ったより小さかった。

 

メモリーはペンを置いた。

 

「うん」

 

「シェイク、二着でしたぁ」

 

「うん」

 

「悔しいですぅ」

 

「うん」

 

「でも、メモリーさんが勝ったの、嬉しいですぅ」

 

メモリーは少しだけ眉を下げた。

 

「シェイク」

 

「はいぃ」

 

「ごめん」

 

シェイクは首を振った。

 

「なんで謝るんですかぁ?」

 

「いや。その……」

 

「勝ったんだから、喜んでくださいぃ」

 

メモリーは黙った。

 

「シェイクは悔しいですぅ。でも、メモリーさんが勝ったのも嬉しいですぅ」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「両方、本当ですぅ」

 

メモリーは、しばらくシェイクを見ていた。

 

それから、小さく笑った。

 

「そっか」

 

「はいぃ」

 

「じゃあ、喜ぶ」

 

「はいぃ」

 

「勝った」

 

「おめでとうございますぅ」

 

「ありがとう」

 

短いやり取りだった。

 

でも、二人の間の空気が少しだけ軽くなった。

 

シェイクは、ノートの最後の一行をもう一度見た。

 

先にオープンへ行く。

 

「待っててくださいぃ」

 

シェイクが言った。

 

メモリーは、すぐに答えた。

 

「待たないよ」

 

「ほわ!?」

 

「待たない」

 

「待ってくださいぃ!」

 

「来ると思ってるから」

 

シェイクは、言葉を止めた。

 

メモリーは静かに続ける。

 

「待つって、来るか分からない時にすることでしょ」

 

「ほわ……」

 

「シェイクは来ると思ってる」

 

それは、励ましというより、事実みたいな言い方だった。

 

シェイクは、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。

 

「来ますぅ」

 

「うん」

 

「でも、ちょっとかかるかもしれませんぅ」

 

「知ってる」

 

「ほわ~……」

 

「三勝クラス、簡単じゃないから」

 

メモリーはノートを閉じた。

 

「でも、来るでしょ」

 

「行きますぅ」

 

シェイクは頷いた。

 

そして自分のノートを開き、その日のことを書いた。

 

テレQ杯。

メモリーさん一着。

シェイク二着。

半馬身。

メモリーさんが先にオープンへ行く。

悔しい。

でも嬉しい。

両方、本当。

待たないと言われた。

来ると思ってるから、と言われた。

 

そこまで書いて、シェイクは少しだけペンを止めた。

 

そして最後に付け足した。

 

追いかけますぅ。

 

翌朝、食堂でメモリーはいつも通りだった。

 

勝った翌日なのに、派手な顔はしていない。

ただ、いつもより少しだけ背筋が伸びていた。

 

佐田トレーナーは廊下ですれ違いざまに言った。

 

「スタート」

 

「まだ課題です」

 

「先頭立ったら」

 

「昨日、少し気を抜きかけました」

 

「ゴール板まで」

 

「走ります」

 

「オープン行っても忘れるなよ」

 

「書いてます」

 

「ならええ」

 

シェイクはそのやり取りを見ながら、少し笑った。

 

メモリーは先に行く。

 

でも、メモリーのノートは終わらない。

佐田トレーナーの小言も終わらない。

スタートも、ゴール板も、まだ続いていく。

 

先に行った子も、そこで完成するわけではない。

 

この時のシェイクは、まだ知らなかった。

 

オープンの先にも、別の沼があること。

メモリーがそこで、ずっと勝てずにもがくこと。

一年後の同じ七月二十日、今度は自分がメモリーより前でゴールすること。

 

そして、いつか。

 

「次また比べよう」と言った相手と、もう二度と同じレースを走れなくなる日が来ることも。

 

シェイクはまだ知らなかった。

 

ただ、その日のノートにはこう書いた。

 

七月二十日。

メモリーさんが先に行った日。

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