初勝利のあとも、マイネルメモリーのノートは終わらなかった。
勝った。
その事実は、確かにひとつの区切りだった。
けれど、メモリーにとって勝利は、ノートの最後のページではない。
むしろ、次のページへ進むための印だった。
未勝利を抜けたあと、メモリーはまた新しい数字を書き始めた。
一勝クラス。
二勝クラス。
特別戦。
時々、重賞の名前。
シェイクユアハートもまた、同じ宮田先生の寮で走り続けていた。
同い年。
同じ寮。
でも、進み方は少しずつ違っていく。
メモリーは、時々スタートで後手を踏む。
前を追いかけると強い。
けれど先頭に立つと、ほんの少しだけ耳が緩む。
その癖は、完全には消えなかった。
佐田トレーナーは、会うたびに言った。
「スタート」
「まだ下手です」
「先頭立ったら」
「気を抜かないようにします」
「ゴール板まで」
「走ります」
「だいぶ返事だけは上手くなったな」
「返事も成長です」
「走りで成長せえ」
メモリーはそのたびにノートへ書いた。
返事だけ上手くなっても駄目。
佐田さん、今日も同じことを言った。
ゴール板まで走る。
シェイクは、それを横で見ていた。
最初は不思議だった。
どうして同じことを何度も書くのだろう。
どうして負けた日も、叱られた言葉も、消さずに残すのだろう。
けれど、自分も走るようになって、少しずつ分かってきた。
走るたびに、忘れてしまうものがある。
悔しかったこと。
怖かったこと。
届きそうだったのに届かなかった感覚。
逆に、うまくいったこと。
それを何も書かずにいると、次の日には少し形が変わっている。
痛かった負けが、ただの「惜しかった」になる。
怖かった失敗が、ただの「運が悪かった」になる。
自分に都合のいい記憶になっていく。
メモリーは、それを嫌った。
「忘れたら、同じところでつまずく」
彼女はよくそう言った。
だから、メモリーは書き続けた。
勝った日も。
二着の日も。
スタートで遅れた日も。
先頭に立ってから気を抜いた日も。
そして、シェイクも少しずつ書くようになった。
ほわほわした字で。
ときどき誤字をしながら。
でも、忘れたくないことを、少しずつ。
季節が何度か変わった。
メモリーは、一勝クラスを勝った。
二勝クラスでも惜しいレースを重ねた。
シェイクも、古吉トレーナーと出会い、札幌で一勝クラスを勝ち、二勝クラスへ上がった。
寮の食堂で、二人はよく隣になった。
「メモリーさん、最近どうですかぁ?」
「スタートはまだ下手」
「そこからですかぁ」
「そこから」
「シェイクは、心臓が先に行きますぅ」
「それも困るね」
「困りますぅ」
「じゃあ書けば?」
「書いてますぅ」
シェイクがノートを見せると、メモリーは少しだけ目を細めた。
シェイクのノートには、こう書かれていた。
心臓が先に行く。
足が後ろから追いかける。
古吉さんに「焦るな」と言われる。
焦らないの、難しいですぅ。
「いいじゃん」
メモリーは言った。
「いいですかぁ?」
「うん。ちゃんと困ってる」
「困ってるのが、いいんですかぁ?」
「困ってる場所が分かるから」
シェイクは、少しだけ笑った。
「メモリーさんみたいですぅ」
「名前を貸すほどではないかな」
「厳しいですぅ」
そんな日々の中で、二人はゆっくりと三勝クラスへ近づいていった。
先に壁の前へ立ったのは、メモリーだった。
二勝クラスを勝ち、三勝クラスへ上がる。
同じころ、シェイクもまた上へ上がってきた。
三勝クラス。
その名前を聞いた時、シェイクはまだ、その場所がどれほど長い沼になるのか知らなかった。
メモリーは、少しだけ先にその空気を知っていた。
「三勝クラスって、どうですかぁ?」
ある夜、シェイクが聞いた。
「強い」
「ほわ~……」
「あと、みんな簡単には止まらない」
「止まってほしいですぅ」
「止まらないね」
「困りますぅ」
「困るよ」
メモリーはノートを閉じた。
「でも、ここを抜けたらオープン」
「オープン……」
「上が開く」
「門ですぅ」
「たぶん、門の先にも壁があるけど」
「今それ言いますかぁ……」
「早めに言った方がいいかなって」
シェイクは湯呑みを抱えた。
「メモリーさん、先に行きそうですぅ」
「分からないよ」
「行きそうですぅ」
「シェイクも来るでしょ」
「行きたいですぅ」
「じゃあ、来ればいい」
メモリーの言い方は、いつも少しだけ簡単だった。
でも、その簡単さは冷たさではなかった。
難しいことを、難しいまま言いすぎない。
そういう強さが、メモリーにはあった。
そして、二〇二四年七月二十日。
小倉。
テレQ杯。
三勝クラス、芝二千。
その日の出走表に、二人の名前は並んでいた。
マイネルメモリー。
シェイクユアハート。
同じ宮田先生の寮。
同い年。
何度も同じ食堂でお茶を飲み、同じようにノートを開いてきた二人。
けれど、その日は同じレースの相手だった。
シェイクの隣には、秋稔トレーナーがいた。
古吉トレーナーではない。
それだけで少し不安になる。
けれど、秋稔トレーナーはまっすぐな人だった。
「シェイクさん、今日は最後まで脚を使えます。早く動きすぎないで、でも置いていかれないように」
「難しいですぅ……」
「難しいです。でも、できると思っています」
「秋稔さん、まっすぐですぅ」
「まっすぐ言うしかないので」
シェイクは胸に手を当てた。
心臓が鳴っている。
テレQ杯。
三勝クラス。
相手には、メモリーがいる。
メモリーの隣には、佐田トレーナーが立っていた。
「スタート」
「遅れないようにします」
「先頭立ったら」
「気を抜かないようにします」
「ゴール板まで」
「走ります」
「今日はシェイクおるぞ」
「分かってます」
「後ろから来るぞ」
「分かってます」
「ほんまに分かっとるか?」
「たぶん」
「たぶん言うな」
メモリーは少しだけ笑った。
シェイクが来る。
それは、たぶん本当だった。
あの子は、ほわほわしている。
でも、最後まで追ってくる。
心臓が先に行くと言いながら、それでも最後まで足を伸ばしてくる。
今日、先頭に立ってから気を抜けば、たぶん捕まる。
佐田トレーナーは言った。
「メモリー」
「はい」
「今日は、抜いたあとや」
「はい」
「シェイクを待つな」
「待ちません」
「ゴール板まで」
「走ります」
メモリーは頷いた。
そして、ノートには書かずに胸の中で繰り返した。
ゴール板まで。
パドックで、シェイクとメモリーはすれ違った。
「メモリーさん」
「シェイク」
「今日は、同じレースですぅ」
「うん」
「負けませんぅ」
シェイクがそう言うと、メモリーは少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
「いいね」
「ほわ?」
「そういうの、ちゃんと言えるようになったんだ」
「シェイクも成長しましたぁ」
「じゃあ、私も負けない」
二人は短く笑った。
同じ寮へ帰る。
同じ食堂でご飯を食べる。
でも、レースの中では相手。
それが、少し不思議で、少し嬉しくて、そして少し怖かった。
ゲートに入る。
小倉の芝二千。
空は晴れ。
馬場は少しだけ水分を含んでいる。
扉が開いた。
メモリーは、出た。
完璧ではない。
けれど、昔よりずっといい。
ほんの一拍の遅れは、もう昔ほど大きくない。
佐田トレーナーの声が届く。
「ええぞ。そこでええ」
シェイクも出る。
秋稔トレーナーの声が聞こえる。
「慌てないで。流れに乗って」
前を見る。
メモリーがいる。
シェイクは、その勝負服を視界の端に置いた。
レースは淡々と進むように見えて、内側では熱を持っていた。
小倉の二千。
簡単には待ってくれない。
メモリーは中団で脚を溜める。
シェイクも、その後ろから前を見ている。
三コーナー。
流れが動き始める。
佐田トレーナーの声。
「メモリー、そろそろや」
メモリーは反応する。
追いかける相手がいる。
前にいる子がいる。
そこへ向かう時、メモリーは強い。
四コーナー。
視界が開く。
メモリーが伸びる。
前を追う。
並ぶ。
前へ出る。
その瞬間、耳がほんの少しだけ緩みかけた。
抜いた。
そう思いかけた。
「メモリー!」
佐田トレーナーの声が飛んだ。
「シェイク来とる!」
メモリーの背中に、ぞくりと何かが走る。
後ろから、シェイクが来ていた。
ほわほわした顔ではない。
心臓をまっすぐ前に向けて、最後まで追ってくるシェイクが。
秋稔トレーナーの声。
「シェイクさん、最後まで!」
シェイクは伸びた。
前にいるのがメモリーだと分かる。
同じ寮の子。
ノートをくれた子。
二着を忘れない子。
その子が、一番前にいる。
「メモリーさん……!」
シェイクは踏んだ。
届きたい。
今度こそ。
メモリーは、もう一度踏んだ。
終わっていない。
抜いたあとだ。
ゴール板まで。
シェイクが来る。
メモリーは止まらない。
二人の距離が詰まる。
ゴール板。
マイネルメモリー、一着。
シェイクユアハート、二着。
半馬身。
たった半馬身。
でも、その半馬身の向こう側に、オープンの門があった。
レース後、シェイクはしばらく前を見ていた。
また二着。
そう思いかけて、言葉が止まった。
一番前にいたのが、メモリーだったから。
「……メモリーさん」
シェイクは、小さく呟いた。
秋稔トレーナーが来る。
「二着です」
「はいぃ……」
「よく走りました」
「はいぃ」
「でも、悔しいですね」
「悔しいですぅ」
シェイクは胸に手を当てた。
「でも……メモリーさんが勝ちましたぁ」
「はい」
「嬉しいですぅ」
言いながら、胸が痛かった。
嬉しい。
悔しい。
どちらも本当だった。
少し離れたところで、メモリーは佐田トレーナーと向き合っていた。
「勝ったな」
「はい」
「危なかったな」
「勝ちました」
「その考え方や」
「……はい」
「シェイク来とったやろ」
「来てました」
「気ぃ抜きかけたやろ」
「少し」
「少し?」
「抜きかけました」
「最初からそう言え」
佐田トレーナーは、深く息を吐いた。
でも、その顔にははっきりと安堵があった。
「よう残した」
「はい」
「三勝クラス、卒業や」
その言葉を聞いた瞬間、メモリーは少しだけ黙った。
卒業。
オープンへ行く。
先に。
シェイクより先に。
寮へ戻った夜、メモリーの机の前には、いつものノートがあった。
シェイクは、戸口で少し立ち止まってから声をかけた。
「メモリーさん」
「入っていいよ」
シェイクは部屋に入った。
メモリーはノートを書いていた。
テレQ杯一着。
佐田トレーナー。
スタート、昔より良い。
直線、先頭に立って少し緩みかけた。
シェイクが来た。
半馬身。
危ない。
ゴール板まで走る。
三勝クラス卒業。
先にオープンへ行く。
シェイクは、その最後の一行を見て、胸がぎゅっとなった。
「先に行っちゃいますぅ」
声は、思ったより小さかった。
メモリーはペンを置いた。
「うん」
「シェイク、二着でしたぁ」
「うん」
「悔しいですぅ」
「うん」
「でも、メモリーさんが勝ったの、嬉しいですぅ」
メモリーは少しだけ眉を下げた。
「シェイク」
「はいぃ」
「ごめん」
シェイクは首を振った。
「なんで謝るんですかぁ?」
「いや。その……」
「勝ったんだから、喜んでくださいぃ」
メモリーは黙った。
「シェイクは悔しいですぅ。でも、メモリーさんが勝ったのも嬉しいですぅ」
シェイクは胸に手を当てた。
「両方、本当ですぅ」
メモリーは、しばらくシェイクを見ていた。
それから、小さく笑った。
「そっか」
「はいぃ」
「じゃあ、喜ぶ」
「はいぃ」
「勝った」
「おめでとうございますぅ」
「ありがとう」
短いやり取りだった。
でも、二人の間の空気が少しだけ軽くなった。
シェイクは、ノートの最後の一行をもう一度見た。
先にオープンへ行く。
「待っててくださいぃ」
シェイクが言った。
メモリーは、すぐに答えた。
「待たないよ」
「ほわ!?」
「待たない」
「待ってくださいぃ!」
「来ると思ってるから」
シェイクは、言葉を止めた。
メモリーは静かに続ける。
「待つって、来るか分からない時にすることでしょ」
「ほわ……」
「シェイクは来ると思ってる」
それは、励ましというより、事実みたいな言い方だった。
シェイクは、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
「来ますぅ」
「うん」
「でも、ちょっとかかるかもしれませんぅ」
「知ってる」
「ほわ~……」
「三勝クラス、簡単じゃないから」
メモリーはノートを閉じた。
「でも、来るでしょ」
「行きますぅ」
シェイクは頷いた。
そして自分のノートを開き、その日のことを書いた。
テレQ杯。
メモリーさん一着。
シェイク二着。
半馬身。
メモリーさんが先にオープンへ行く。
悔しい。
でも嬉しい。
両方、本当。
待たないと言われた。
来ると思ってるから、と言われた。
そこまで書いて、シェイクは少しだけペンを止めた。
そして最後に付け足した。
追いかけますぅ。
翌朝、食堂でメモリーはいつも通りだった。
勝った翌日なのに、派手な顔はしていない。
ただ、いつもより少しだけ背筋が伸びていた。
佐田トレーナーは廊下ですれ違いざまに言った。
「スタート」
「まだ課題です」
「先頭立ったら」
「昨日、少し気を抜きかけました」
「ゴール板まで」
「走ります」
「オープン行っても忘れるなよ」
「書いてます」
「ならええ」
シェイクはそのやり取りを見ながら、少し笑った。
メモリーは先に行く。
でも、メモリーのノートは終わらない。
佐田トレーナーの小言も終わらない。
スタートも、ゴール板も、まだ続いていく。
先に行った子も、そこで完成するわけではない。
この時のシェイクは、まだ知らなかった。
オープンの先にも、別の沼があること。
メモリーがそこで、ずっと勝てずにもがくこと。
一年後の同じ七月二十日、今度は自分がメモリーより前でゴールすること。
そして、いつか。
「次また比べよう」と言った相手と、もう二度と同じレースを走れなくなる日が来ることも。
シェイクはまだ知らなかった。
ただ、その日のノートにはこう書いた。
七月二十日。
メモリーさんが先に行った日。