テレQ杯を勝った翌日、マイネルメモリーの机には、新しい紙が置かれていた。
オープン。
その文字は、思っていたより軽く見えた。
もっと大きく、もっと硬く、もっと金属の門みたいな字だと思っていた。
けれど紙の上では、ただの四文字だった。
オープン。
メモリーは、その文字をじっと見た。
「門、開いたんですかぁ?」
後ろからシェイクユアハートが覗き込む。
「開いたらしい」
「ほわ~……」
「でも、門の先にもたぶん坂がある」
「もう怖いこと言いますぅ……」
「早めに言った方がいいかなって」
シェイクは湯呑みを両手で抱えた。
テレQ杯。
メモリー一着。
シェイク二着。
半馬身。
その半馬身の向こうに、メモリーは行った。
シェイクはまだ、三勝クラスに残っている。
「メモリーさん、先に行っちゃいましたぁ」
「うん」
「待っててくださいぃ」
「待たないって言ったでしょ」
「まだ言いますぅ……」
「来ると思ってるから」
メモリーは、ノートを開いた。
テレQ杯のページには、何度も読み返したくなる文字と、読み返すと少し痛い文字が並んでいた。
テレQ杯一着。
佐田トレーナー。
シェイク二着。
半馬身。
先頭に立ってから少し緩みかけた。
シェイクが来た。
危ない。
ゴール板まで走る。
三勝クラス卒業。
先にオープンへ行く。
先にオープンへ行く。
その一行を、メモリーは指先で軽くなぞった。
先に行く。
その言葉は、勝った直後には少し誇らしかった。
でも、実際にその場所へ向かう日が近づくと、別の重さが出てきた。
先に行くということは、先に強い子たちと走るということだ。
先に見られる。
先に負けるかもしれない。
先に、通用しないことを知るかもしれない。
メモリーは、それをノートに書いた。
オープン。
上がった。
でも、上がったから強くなるわけではない。
強い子たちのいる場所へ行くだけ。
最初のオープンの空気は、静かに冷たかった。
ケフェウスステークス。
中京、芝二千。
三勝クラスの時とは、周りの気配が違った。
みんな、簡単に隙を見せない。
前へ行く子は前へ行く理由を持っている。
後ろで待つ子は待つだけの脚を持っている。
メモリーはゲートへ向かう前、佐田トレーナーからいつもの言葉を受けた。
「スタート」
「確認しすぎない」
「先頭立ったら」
「終わらない」
「ゴール板まで」
「走る」
「オープンやからって、急に別の子になるなよ」
「なれません」
「ならええ」
ゲートが開いた。
メモリーは走った。
スタートは、昔ほど悪くない。
流れにも乗れている。
でも、相手が止まらない。
三勝クラスなら、直線で追いかければ少しずつ前が近づいた。
ここでは、前にいる子たちも最後まで走る。
追っている。
伸びている。
それでも、一番前は遠い。
ケフェウスステークス、五着。
戻ってきたメモリーに、佐田トレーナーは言った。
「五着」
「はい」
「悪くない」
「でも、勝ってない」
「せやな」
「通用しないわけじゃない、くらいですか」
「そうやな」
メモリーは小さく息を吐いた。
通用しないわけじゃない。
その言葉は、慰めにもなり、呪いにもなった。
全然駄目なら、分かりやすい。
場違いだと思える。
やり直す場所も決めやすい。
でも、五着。
届いていない。
けれど、完全に遠いわけでもない。
ノートに書く。
ケフェウスステークス五着。
オープン初戦。
通用しないわけじゃない。
でも勝っていない。
前の子たちも止まらない。
高い場所は、風が強い。
その夜、シェイクが部屋へ来た。
「メモリーさん、五着でしたぁ」
「うん」
「オープン五着、すごいですぅ」
「すごい?」
「すごいですぅ」
「勝ってないよ」
「でも、上の場所ですぅ」
メモリーは、ペンを置いた。
「シェイク」
「はいぃ」
「上の場所で五着は、上の場所で勝ってないってこと」
シェイクは、少しだけ黙った。
「ほわ……」
「下から見ると、上にいるだけですごく見えるかもしれないけど」
「はいぃ」
「上にいる側は、上で負ける」
シェイクは湯呑みを見た。
三勝クラスの二着。
三勝クラスの三着。
自分はまだそこで苦しんでいる。
でも、メモリーはもう上にいる。
上にいるから、きっと少し楽なのだと思っていた。
違うらしい。
「高いところにも、沼はありますかぁ?」
シェイクが聞くと、メモリーは少しだけ笑った。
「あると思う」
「帰りますぅ……」
「まだ来てないでしょ」
「来る前から帰りたいですぅ」
「来るって言ったじゃん」
「言いましたぁ……」
「じゃあ、来なよ」
メモリーはノートを閉じた。
「こっちも沼だけど」
「歓迎が怖いですぅ……」
秋が深まると、メモリーの予定表には大きな文字が並んだ。
アルゼンチン共和国杯。
東京、芝二五。
GⅡ。
重賞。
それは、テレQ杯を勝った時に遠くに見えた場所だった。
オープンへ上がったら、重賞へ行く。
言葉にすれば簡単だった。
けれど、パドックに立った瞬間、メモリーはその簡単さがどれほど薄いものか知った。
ここにいる子たちは、みんな何かを持っている。
積み上げた勝ち。
重賞の経験。
長い距離を走る力。
見られることへの慣れ。
メモリーもノートを持っている。
何度もの二着も、テレQ杯の勝利も、佐田トレーナーの声もある。
けれど、それだけで足りるかは分からない。
この日の隣は、佐田トレーナーではなかった。
別のトレーナー。
初めてに近い大舞台。
広い東京。
メモリーは、それでも走った。
後ろから。
脚を溜めて。
前を追う。
直線で伸びた。
一番前には届かない。
でも、沈まなかった。
アルゼンチン共和国杯、五着。
重賞で掲示板。
周りは言った。
よくやった。
頑張った。
オープン上がりでここまで来たなら十分。
メモリーは、その言葉を聞いて、少しだけ困った。
よくやった。
たぶん、そうなのだろう。
でも、勝っていない。
ノートには、そう書くしかない。
アルゼンチン共和国杯五着。
重賞。
掲示板。
褒められた。
でも勝っていない。
前は遠い。
通用しないわけじゃない、がまた増えた。
寮へ戻ると、シェイクが待っていた。
「重賞五着ですぅ」
「うん」
「すごいですぅ」
「それ、前も聞いた」
「でもすごいですぅ」
「勝ってないよ」
「でも……」
シェイクは言葉に詰まった。
すごい。
勝っていない。
どちらも本当なのだと思う。
でも、メモリーは勝っていない方を強く見ている。
シェイクは、自分の三勝クラスのメモを思い出した。
二着。
三着。
近い。
でも勝っていない。
自分も同じことを言っている。
「メモリーさん」
「何?」
「上でも、同じなんですねぇ」
「何が?」
「近い。でも勝ってない」
メモリーは、少しだけ目を伏せた。
「そうだね」
短く答えた。
その後、冬が来た。
中日新聞杯。
中京、芝二千。
GⅢ。
メモリーは十三着だった。
今度は近くなかった。
直線で、前が遠かった。
追っても、追っても、届く気配が薄かった。
掲示板でもない。
惜しいでもない。
ただ、負けた。
戻ってきたメモリーは、すぐにノートを開かなかった。
しばらく机の前に座ったまま、ペンを持っていた。
シェイクは、何も言わずにお茶を置いた。
メモリーは湯呑みを見て、ようやく言った。
「今日は、書きたくない」
「はいぃ」
「でも、書かないと駄目」
「はいぃ」
「嫌だな」
「嫌ですねぇ」
シェイクは隣に座った。
「一緒にいますぅ」
「うん」
少しして、メモリーはノートを開いた。
中日新聞杯十三着。
重賞。
前が遠い。
脚を使えなかったというより、使っても足りなかった。
通用しないわけじゃない、と書いたあとに、こういう日が来る。
高いところは、沼の底も深い。
ペンが止まる。
メモリーは、最後にもう一行書いた。
でも、これも消さない。
シェイクは、その文字を見て胸が少し痛くなった。
「消したいですかぁ?」
「消したい」
「でも、消さないんですねぇ」
「消したら、次に使えない」
「はいぃ」
「勝ったから負けたレースがいらなくならないなら、負けたから走ったこともいらなくならない」
シェイクは、ゆっくり頷いた。
それは、まだ少し難しい言葉だった。
でも、覚えておきたいと思った。
年が明けて、日経新春杯。
中京、芝二二。
GⅡ。
メモリーは七着だった。
中日新聞杯ほど崩れてはいない。
でも、勝ってはいない。
さらに春。
大阪ーハンブルクカップ、七着。
オープンの一戦でも、勝てない。
新潟大賞典、九着。
また重賞。
また、勝てない。
レース名だけを並べると、立派に見えた。
ケフェウスステークス。
アルゼンチン共和国杯。
中日新聞杯。
日経新春杯。
大阪ーハンブルクカップ。
新潟大賞典。
シェイクから見れば、メモリーはずっと高いところを走っている。
でもメモリーのノートには、別の景色が並んでいた。
五着。
五着。
十三着。
七着。
七着。
九着。
勝っていない。
ある夜、シェイクはメモリーのノートを見ながら言った。
「メモリーさん、ずっと上にいますぅ」
「いるね」
「でも、ずっと勝ってないですぅ」
「言うね」
「ご、ごめんなさいですぅ」
「いいよ。事実だから」
メモリーは苦笑した。
「シェイクも、ずっと三勝クラスで勝ってないでしょ」
「はいぃ……」
「私も、上で勝ってない」
「同じですかぁ?」
「高さが違うだけで、似てると思う」
メモリーは、自分のノートとシェイクのノートを並べた。
シェイクのノートには、二着や三着が増えていた。
古吉トレーナー。
秋稔トレーナー。
三勝クラス。
近い。
でも勝っていない。
メモリーのノートには、重賞やオープンの名前が増えていた。
高い。
でも勝っていない。
「沼って、下にだけあると思ってましたぁ」
シェイクが言った。
「上にもあるね」
「怖いですぅ」
「でも、景色は違う」
メモリーは窓の外を見た。
「上の沼は、見晴らしだけはいい」
「ほわ~……嫌な言い方ですぅ」
「でも、本当」
「見えるんですかぁ?」
「見えるよ」
「何がですかぁ?」
「勝つ子」
シェイクは黙った。
「自分より前で、ちゃんと勝つ子が見える。届かなかった距離も見える。何が足りないかも、時々見えすぎる」
「それ、つらいですぅ」
「つらいよ」
「でも、走るんですかぁ?」
メモリーは少しだけ笑った。
「走るよ」
「どうしてですかぁ?」
「まだ書くことがあるから」
その答えは、メモリーらしかった。
勝てるから走る。
だけではない。
勝てない日も、遠い日も、近い日も、全部書く。
書くために走るのではない。
でも走ったことは、書かずにいられない。
「シェイクも、まだ書くんでしょ」
「はいぃ」
「じゃあ走る」
「はいぃ」
シェイクは、自分のノートを抱えた。
三勝クラスの沼は、まだ終わっていない。
でも、先に行ったメモリーも、上で別の沼にいる。
そのことは、少し怖かった。
そして、少しだけ救いでもあった。
自分だけが足踏みしているわけではない。
先に行った子も、先で止まったり、沈んだり、また歩いたりしている。
メモリーは完成した子ではなかった。
先に行っただけの、同い年の子だった。
春の終わり。
新潟大賞典の九着を書き終えたメモリーは、ページの端に小さく書いた。
シェイクはまだ三勝クラス。
でも、来ると思う。
来たら、たぶん分かる。
上にも沼があること。
それを見たシェイクは、少しだけ口を尖らせた。
「歓迎文が怖いですぅ」
「まだ見せるつもりなかった」
「見えましたぁ」
「じゃあ書き足す」
メモリーは、下に一行加えた。
でも、来てほしい。
シェイクは、それを見て黙った。
それから、小さく笑った。
「行きますぅ」
「うん」
「でも、もう少しかかるかもしれませんぅ」
「知ってる」
「またそれですぅ」
「知ってるから」
メモリーはノートを閉じた。
高いところにも、沼はある。
先に行った子は、そこで勝てずにもがいていた。
残された子は、下の沼で勝てずにもがいていた。
違う高さで、同じように。
違うレース名で、同じように。
それでも二人は、夜になると同じ寮でお茶を飲んだ。
それぞれのノートを開き、今日の痛かったところを書いた。
シェイクはまだ知らない。
このあと、自分もようやく三勝クラスを抜けること。
メモリーと同じオープンの地面に立つこと。
そして、一年前と同じ七月二十日に、今度は自分がメモリーより前にいること。
メモリーもまだ知らない。
その再会が、永遠に続く前後の入れ替えではないことを。
いつか、その「次」が突然なくなることを。
まだ知らないまま、二人はノートを書いた。
勝てなかった日のことを。
遠かった前のことを。
見えすぎる勝者の背中のことを。
そして、次のページのために。
メモリーは最後に、小さく書いた。
上にも沼はある。
でも、ここまで来たことは消えない。