心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[番外編Ⅳ]高いところにも、沼はある

テレQ杯を勝った翌日、マイネルメモリーの机には、新しい紙が置かれていた。

 

オープン。

 

その文字は、思っていたより軽く見えた。

 

もっと大きく、もっと硬く、もっと金属の門みたいな字だと思っていた。

けれど紙の上では、ただの四文字だった。

 

オープン。

 

メモリーは、その文字をじっと見た。

 

「門、開いたんですかぁ?」

 

後ろからシェイクユアハートが覗き込む。

 

「開いたらしい」

 

「ほわ~……」

 

「でも、門の先にもたぶん坂がある」

 

「もう怖いこと言いますぅ……」

 

「早めに言った方がいいかなって」

 

シェイクは湯呑みを両手で抱えた。

 

テレQ杯。

 

メモリー一着。

シェイク二着。

 

半馬身。

 

その半馬身の向こうに、メモリーは行った。

 

シェイクはまだ、三勝クラスに残っている。

 

「メモリーさん、先に行っちゃいましたぁ」

 

「うん」

 

「待っててくださいぃ」

 

「待たないって言ったでしょ」

 

「まだ言いますぅ……」

 

「来ると思ってるから」

 

メモリーは、ノートを開いた。

 

テレQ杯のページには、何度も読み返したくなる文字と、読み返すと少し痛い文字が並んでいた。

 

テレQ杯一着。

佐田トレーナー。

シェイク二着。

半馬身。

先頭に立ってから少し緩みかけた。

シェイクが来た。

危ない。

ゴール板まで走る。

三勝クラス卒業。

先にオープンへ行く。

 

先にオープンへ行く。

 

その一行を、メモリーは指先で軽くなぞった。

 

先に行く。

 

その言葉は、勝った直後には少し誇らしかった。

 

でも、実際にその場所へ向かう日が近づくと、別の重さが出てきた。

 

先に行くということは、先に強い子たちと走るということだ。

 

先に見られる。

先に負けるかもしれない。

先に、通用しないことを知るかもしれない。

 

メモリーは、それをノートに書いた。

 

オープン。

上がった。

でも、上がったから強くなるわけではない。

強い子たちのいる場所へ行くだけ。

 

最初のオープンの空気は、静かに冷たかった。

 

ケフェウスステークス。

 

中京、芝二千。

 

三勝クラスの時とは、周りの気配が違った。

 

みんな、簡単に隙を見せない。

前へ行く子は前へ行く理由を持っている。

後ろで待つ子は待つだけの脚を持っている。

 

メモリーはゲートへ向かう前、佐田トレーナーからいつもの言葉を受けた。

 

「スタート」

 

「確認しすぎない」

 

「先頭立ったら」

 

「終わらない」

 

「ゴール板まで」

 

「走る」

 

「オープンやからって、急に別の子になるなよ」

 

「なれません」

 

「ならええ」

 

ゲートが開いた。

 

メモリーは走った。

 

スタートは、昔ほど悪くない。

流れにも乗れている。

 

でも、相手が止まらない。

 

三勝クラスなら、直線で追いかければ少しずつ前が近づいた。

ここでは、前にいる子たちも最後まで走る。

 

追っている。

 

伸びている。

 

それでも、一番前は遠い。

 

ケフェウスステークス、五着。

 

戻ってきたメモリーに、佐田トレーナーは言った。

 

「五着」

 

「はい」

 

「悪くない」

 

「でも、勝ってない」

 

「せやな」

 

「通用しないわけじゃない、くらいですか」

 

「そうやな」

 

メモリーは小さく息を吐いた。

 

通用しないわけじゃない。

 

その言葉は、慰めにもなり、呪いにもなった。

 

全然駄目なら、分かりやすい。

場違いだと思える。

やり直す場所も決めやすい。

 

でも、五着。

 

届いていない。

けれど、完全に遠いわけでもない。

 

ノートに書く。

 

ケフェウスステークス五着。

オープン初戦。

通用しないわけじゃない。

でも勝っていない。

前の子たちも止まらない。

高い場所は、風が強い。

 

その夜、シェイクが部屋へ来た。

 

「メモリーさん、五着でしたぁ」

 

「うん」

 

「オープン五着、すごいですぅ」

 

「すごい?」

 

「すごいですぅ」

 

「勝ってないよ」

 

「でも、上の場所ですぅ」

 

メモリーは、ペンを置いた。

 

「シェイク」

 

「はいぃ」

 

「上の場所で五着は、上の場所で勝ってないってこと」

 

シェイクは、少しだけ黙った。

 

「ほわ……」

 

「下から見ると、上にいるだけですごく見えるかもしれないけど」

 

「はいぃ」

 

「上にいる側は、上で負ける」

 

シェイクは湯呑みを見た。

 

三勝クラスの二着。

三勝クラスの三着。

 

自分はまだそこで苦しんでいる。

 

でも、メモリーはもう上にいる。

上にいるから、きっと少し楽なのだと思っていた。

 

違うらしい。

 

「高いところにも、沼はありますかぁ?」

 

シェイクが聞くと、メモリーは少しだけ笑った。

 

「あると思う」

 

「帰りますぅ……」

 

「まだ来てないでしょ」

 

「来る前から帰りたいですぅ」

 

「来るって言ったじゃん」

 

「言いましたぁ……」

 

「じゃあ、来なよ」

 

メモリーはノートを閉じた。

 

「こっちも沼だけど」

 

「歓迎が怖いですぅ……」

 

秋が深まると、メモリーの予定表には大きな文字が並んだ。

 

アルゼンチン共和国杯。

 

東京、芝二五。

GⅡ。

 

重賞。

 

それは、テレQ杯を勝った時に遠くに見えた場所だった。

 

オープンへ上がったら、重賞へ行く。

 

言葉にすれば簡単だった。

 

けれど、パドックに立った瞬間、メモリーはその簡単さがどれほど薄いものか知った。

 

ここにいる子たちは、みんな何かを持っている。

 

積み上げた勝ち。

重賞の経験。

長い距離を走る力。

見られることへの慣れ。

 

メモリーもノートを持っている。

何度もの二着も、テレQ杯の勝利も、佐田トレーナーの声もある。

 

けれど、それだけで足りるかは分からない。

 

この日の隣は、佐田トレーナーではなかった。

 

別のトレーナー。

初めてに近い大舞台。

広い東京。

 

メモリーは、それでも走った。

 

後ろから。

脚を溜めて。

前を追う。

 

直線で伸びた。

 

一番前には届かない。

 

でも、沈まなかった。

 

アルゼンチン共和国杯、五着。

 

重賞で掲示板。

 

周りは言った。

 

よくやった。

頑張った。

オープン上がりでここまで来たなら十分。

 

メモリーは、その言葉を聞いて、少しだけ困った。

 

よくやった。

 

たぶん、そうなのだろう。

 

でも、勝っていない。

 

ノートには、そう書くしかない。

 

アルゼンチン共和国杯五着。

重賞。

掲示板。

褒められた。

でも勝っていない。

前は遠い。

通用しないわけじゃない、がまた増えた。

 

寮へ戻ると、シェイクが待っていた。

 

「重賞五着ですぅ」

 

「うん」

 

「すごいですぅ」

 

「それ、前も聞いた」

 

「でもすごいですぅ」

 

「勝ってないよ」

 

「でも……」

 

シェイクは言葉に詰まった。

 

すごい。

 

勝っていない。

 

どちらも本当なのだと思う。

 

でも、メモリーは勝っていない方を強く見ている。

 

シェイクは、自分の三勝クラスのメモを思い出した。

 

二着。

三着。

近い。

でも勝っていない。

 

自分も同じことを言っている。

 

「メモリーさん」

 

「何?」

 

「上でも、同じなんですねぇ」

 

「何が?」

 

「近い。でも勝ってない」

 

メモリーは、少しだけ目を伏せた。

 

「そうだね」

 

短く答えた。

 

その後、冬が来た。

 

中日新聞杯。

 

中京、芝二千。

GⅢ。

 

メモリーは十三着だった。

 

今度は近くなかった。

 

直線で、前が遠かった。

追っても、追っても、届く気配が薄かった。

 

掲示板でもない。

惜しいでもない。

ただ、負けた。

 

戻ってきたメモリーは、すぐにノートを開かなかった。

 

しばらく机の前に座ったまま、ペンを持っていた。

 

シェイクは、何も言わずにお茶を置いた。

 

メモリーは湯呑みを見て、ようやく言った。

 

「今日は、書きたくない」

 

「はいぃ」

 

「でも、書かないと駄目」

 

「はいぃ」

 

「嫌だな」

 

「嫌ですねぇ」

 

シェイクは隣に座った。

 

「一緒にいますぅ」

 

「うん」

 

少しして、メモリーはノートを開いた。

 

中日新聞杯十三着。

重賞。

前が遠い。

脚を使えなかったというより、使っても足りなかった。

通用しないわけじゃない、と書いたあとに、こういう日が来る。

高いところは、沼の底も深い。

 

ペンが止まる。

 

メモリーは、最後にもう一行書いた。

 

でも、これも消さない。

 

シェイクは、その文字を見て胸が少し痛くなった。

 

「消したいですかぁ?」

 

「消したい」

 

「でも、消さないんですねぇ」

 

「消したら、次に使えない」

 

「はいぃ」

 

「勝ったから負けたレースがいらなくならないなら、負けたから走ったこともいらなくならない」

 

シェイクは、ゆっくり頷いた。

 

それは、まだ少し難しい言葉だった。

 

でも、覚えておきたいと思った。

 

年が明けて、日経新春杯。

 

中京、芝二二。

GⅡ。

 

メモリーは七着だった。

 

中日新聞杯ほど崩れてはいない。

でも、勝ってはいない。

 

さらに春。

 

大阪ーハンブルクカップ、七着。

 

オープンの一戦でも、勝てない。

 

新潟大賞典、九着。

 

また重賞。

また、勝てない。

 

レース名だけを並べると、立派に見えた。

 

ケフェウスステークス。

アルゼンチン共和国杯。

中日新聞杯。

日経新春杯。

大阪ーハンブルクカップ。

新潟大賞典。

 

シェイクから見れば、メモリーはずっと高いところを走っている。

 

でもメモリーのノートには、別の景色が並んでいた。

 

五着。

五着。

十三着。

七着。

七着。

九着。

 

勝っていない。

 

ある夜、シェイクはメモリーのノートを見ながら言った。

 

「メモリーさん、ずっと上にいますぅ」

 

「いるね」

 

「でも、ずっと勝ってないですぅ」

 

「言うね」

 

「ご、ごめんなさいですぅ」

 

「いいよ。事実だから」

 

メモリーは苦笑した。

 

「シェイクも、ずっと三勝クラスで勝ってないでしょ」

 

「はいぃ……」

 

「私も、上で勝ってない」

 

「同じですかぁ?」

 

「高さが違うだけで、似てると思う」

 

メモリーは、自分のノートとシェイクのノートを並べた。

 

シェイクのノートには、二着や三着が増えていた。

 

古吉トレーナー。

秋稔トレーナー。

三勝クラス。

近い。

でも勝っていない。

 

メモリーのノートには、重賞やオープンの名前が増えていた。

 

高い。

でも勝っていない。

 

「沼って、下にだけあると思ってましたぁ」

 

シェイクが言った。

 

「上にもあるね」

 

「怖いですぅ」

 

「でも、景色は違う」

 

メモリーは窓の外を見た。

 

「上の沼は、見晴らしだけはいい」

 

「ほわ~……嫌な言い方ですぅ」

 

「でも、本当」

 

「見えるんですかぁ?」

 

「見えるよ」

 

「何がですかぁ?」

 

「勝つ子」

 

シェイクは黙った。

 

「自分より前で、ちゃんと勝つ子が見える。届かなかった距離も見える。何が足りないかも、時々見えすぎる」

 

「それ、つらいですぅ」

 

「つらいよ」

 

「でも、走るんですかぁ?」

 

メモリーは少しだけ笑った。

 

「走るよ」

 

「どうしてですかぁ?」

 

「まだ書くことがあるから」

 

その答えは、メモリーらしかった。

 

勝てるから走る。

 

だけではない。

 

勝てない日も、遠い日も、近い日も、全部書く。

書くために走るのではない。

でも走ったことは、書かずにいられない。

 

「シェイクも、まだ書くんでしょ」

 

「はいぃ」

 

「じゃあ走る」

 

「はいぃ」

 

シェイクは、自分のノートを抱えた。

 

三勝クラスの沼は、まだ終わっていない。

 

でも、先に行ったメモリーも、上で別の沼にいる。

 

そのことは、少し怖かった。

 

そして、少しだけ救いでもあった。

 

自分だけが足踏みしているわけではない。

 

先に行った子も、先で止まったり、沈んだり、また歩いたりしている。

 

メモリーは完成した子ではなかった。

 

先に行っただけの、同い年の子だった。

 

春の終わり。

 

新潟大賞典の九着を書き終えたメモリーは、ページの端に小さく書いた。

 

シェイクはまだ三勝クラス。

でも、来ると思う。

来たら、たぶん分かる。

上にも沼があること。

 

それを見たシェイクは、少しだけ口を尖らせた。

 

「歓迎文が怖いですぅ」

 

「まだ見せるつもりなかった」

 

「見えましたぁ」

 

「じゃあ書き足す」

 

メモリーは、下に一行加えた。

 

でも、来てほしい。

 

シェイクは、それを見て黙った。

 

それから、小さく笑った。

 

「行きますぅ」

 

「うん」

 

「でも、もう少しかかるかもしれませんぅ」

 

「知ってる」

 

「またそれですぅ」

 

「知ってるから」

 

メモリーはノートを閉じた。

 

高いところにも、沼はある。

 

先に行った子は、そこで勝てずにもがいていた。

 

残された子は、下の沼で勝てずにもがいていた。

 

違う高さで、同じように。

違うレース名で、同じように。

 

それでも二人は、夜になると同じ寮でお茶を飲んだ。

それぞれのノートを開き、今日の痛かったところを書いた。

 

シェイクはまだ知らない。

 

このあと、自分もようやく三勝クラスを抜けること。

メモリーと同じオープンの地面に立つこと。

そして、一年前と同じ七月二十日に、今度は自分がメモリーより前にいること。

 

メモリーもまだ知らない。

 

その再会が、永遠に続く前後の入れ替えではないことを。

いつか、その「次」が突然なくなることを。

 

まだ知らないまま、二人はノートを書いた。

 

勝てなかった日のことを。

遠かった前のことを。

見えすぎる勝者の背中のことを。

 

そして、次のページのために。

 

メモリーは最後に、小さく書いた。

 

上にも沼はある。

でも、ここまで来たことは消えない。

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