マイネルメモリーは、春の終わりにまたノートを閉じた。
オープンへ上がってから、ページの端に書く言葉は少し変わった。
未勝利のころは、よく同じ言葉を書いていた。
スタート。
先頭。
ゴール板。
佐田トレーナーに言われ続けたこと。
自分でも分かっているのに、なかなか直せなかったこと。
条件戦のころは、二着が増えた。
近い。
でも届かない。
そしてオープンへ上がってからは、違う言葉が増えた。
通用しないわけじゃない。
でも勝っていない。
その言葉は、メモリーにとって少し厄介だった。
まったく届かないなら、諦める理由になる。
まったく通用しないなら、戻る場所を探す理由になる。
でも、時々掲示板に載る。
時々、前が見える。
時々、あと少し何かが噛み合えばと思ってしまう。
だから、やめられない。
そして、勝てない。
メモリーは、ノートの新しいページに書いた。
春。
また勝てなかった。
でも、まだ書くことはある。
そのころ、シェイクユアハートはまだ三勝クラスにいた。
長かった。
メモリーから見ても、長かった。
テレQ杯でメモリーが先にオープンへ上がった時、シェイクは二着だった。
半馬身。
あの日、シェイクは言った。
「待っててくださいぃ」
メモリーは答えた。
「待たないよ。来ると思ってるから」
あれから、何度も季節が変わった。
シェイクは二着を書いた。
三着を書いた。
四着も書いた。
古吉トレーナーと走って、秋稔トレーナーと走って、また古吉トレーナーと走って。
デュードという同室の子が三勝クラスへ上がってきても、まだそこで走っていた。
メモリーは、時々シェイクのノートを見た。
そこには、ほわほわした文字でたくさんの数字が並んでいた。
比叡ステークス四着。
サンタクロースステークス二着。
八坂ステークス六着。
関門橋ステークス三着。
ダイワスカーレットカップ二着。
下鴨ステークス三着。
テレQ杯二着。
ムーンライトハンデキャップ二着。
修学院ステークス二着。
オリオンステークス三着。
寿ステークス二着。
飛鳥ステークス三着。
御堂筋ステークス四着。
烏丸ステークス三着。
よく書いたな、とメモリーは思った。
自分がノートを渡したころ、シェイクはまだ何を書けばいいか分からない顔をしていた。
それが今では、負けたことも、怖かったことも、悔しかったことも、ちゃんと書いている。
字は相変わらず少し丸い。
時々、感情が文字の端からこぼれている。
でも、消していない。
それが、メモリーには少し嬉しかった。
六月。
シェイクの次走は、垂水ステークスに決まった。
阪神、芝二千。
三勝クラス。
メモリーは掲示板でその名前を見て、少しだけ立ち止まった。
シェイクユアハート。
古吉トレーナー。
「そろそろかな」
ぽつりと呟いた。
隣にいた佐田トレーナーが振り向く。
「何が」
「シェイク」
「ああ」
佐田トレーナーは掲示板を見た。
「長いな」
「長いです」
「よう腐らんな」
「腐ってはいますよ。たぶん」
「そう見えんけどな」
「ほわほわしてるから」
メモリーは小さく笑った。
「でも、ノートはだいぶ重いです」
「お前が教えたんやろ」
「そうです」
「責任取れ」
「どうやって」
「来たら迎えたれ」
メモリーは、少し黙った。
迎える。
待たないと言った。
来ると思っているから、と。
でも、実際に来たら。
何と言えばいいのだろう。
「遅い、かな」
メモリーが呟くと、佐田トレーナーは苦笑した。
「第一声それか」
「たぶん」
「お前らしいわ」
垂水ステークスの日、メモリーは直接レース場にはいなかった。
別の調整があり、寮で中継を見ることになった。
シェイクがパドックに出てくる。
画面の向こうのシェイクは、いつもより少し静かだった。
ほわほわしているのに、心臓だけはちゃんと前を向いているように見える。
隣には古吉トレーナー。
何か短く言っている。
シェイクが頷く。
メモリーは、画面を見ながらノートを開いた。
まだ何も書かない。
ただ、ペンを持っていた。
ゲート。
阪神芝二千。
扉が開く。
シェイクは出た。
悪くない。
メモリーは、少しだけ息を止めた。
シェイクは中団あたりで流れに乗っている。
いつものように、心臓が先に行きすぎてはいない。
古吉トレーナーの声が届いているのだろう。
前を見る。
でも、焦らない。
三コーナー。
レースが動く。
シェイクが準備する。
メモリーは小さく言った。
「まだ」
画面の中で、シェイクはまだ待っている。
四コーナー。
視界が開く。
「ここ」
メモリーの声と、たぶん古吉トレーナーの声が重なった気がした。
シェイクが動く。
直線。
伸びる。
前にはバッデレイト。
シェイクは追う。
テレQ杯の日、シェイクはメモリーを追ってきた。
半馬身届かなかった。
あの日のシェイクと、今日のシェイクは少し違う。
同じように追っている。
でも、今日の脚はどこか静かだった。
心臓だけが先に走っていない。
足元に、これまでの二着や三着がある。
メモリーは、思った。
来る。
シェイクが来る。
前を捕まえる。
抜ける。
ゴール板。
シェイクユアハート、一着。
その瞬間、メモリーは何も言わなかった。
画面の中で、シェイクがしばらく自分の勝利を分かっていないような顔をしている。
それから、古吉トレーナーが来て、何かを言った。
たぶん、
「勝ったな」
だろう。
メモリーは、そこでようやく息を吐いた。
「やっと」
ペンを取る。
ノートに書いた。
垂水ステークス。
シェイク一着。
三勝クラス卒業。
やっと来る。
そこまで書いて、少し考えた。
そして、下にもう一行。
長かったね。
レース後、シェイクはなかなか部屋へ戻ってこなかった。
勝った日のあとには、やることが多い。
関係者への挨拶。
先生との話。
古吉トレーナーとの確認。
次へ向けた予定。
オープンへ上がるというのは、ただ「勝った」で終わらない。
でも、メモリーはその夜、シェイクの部屋へ向かった。
ノックすると、中から少し慌てた声がした。
「は、はいぃ」
扉を開けると、シェイクは机の前に座っていた。
目の前にはノートがある。
まだ何も書けていないページ。
その上で、ペン先が止まっている。
「メモリーさん」
「来たね」
メモリーは言った。
シェイクは、ぽかんとしたあと、少しだけ笑った。
「来ましたぁ」
「遅い」
「第一声それですかぁ……」
「一年近くかかった」
「長かったですぅ……」
「知ってる」
メモリーは部屋に入った。
「ずっと見てたから」
シェイクは、胸に手を当てた。
「三勝クラス、長かったですぅ」
「うん」
「近いのに、ずっと勝てませんでしたぁ」
「うん」
「二着も三着も、いっぱい書きましたぁ」
「うん」
「メモリーさん、先に行っちゃったのに」
「待たないって言ったでしょ」
「はいぃ」
「でも、来ると思ってた」
シェイクは、少しだけ目を潤ませた。
「来ましたぁ」
「うん」
「メモリーさんと同じところですかぁ?」
「同じオープン」
メモリーは椅子に座った。
「でも、ここからもっと大変」
「帰りますぅ」
「帰るな」
「ほわ~……」
「言ったでしょ。上にも沼はある」
「歓迎が怖いですぅ……」
「でも、景色は違う」
シェイクは顔を上げた。
「景色……」
「三勝クラスの沼からは見えなかったものが見える」
「勝つ子ですかぁ?」
「それも」
「怖いですぅ」
「怖いよ」
メモリーは、自分のノートを膝の上に置いた。
「でも、シェイクは来た」
「はいぃ」
「来たからには、こっちのページを書けばいい」
シェイクは、自分のまっさらなページを見た。
垂水ステークス。
何を書けばいいのか、分からなくなっていた。
長かった。
勝った。
終わった。
でも、それだけでは足りない気がする。
メモリーは言った。
「まず、勝ったって書けば?」
「はいぃ」
シェイクはペンを握った。
垂水ステークス一着。
文字を書いた瞬間、胸の奥がふわっと震えた。
一着。
長い間、書けなかった数字。
それをようやく書いた。
続けて書く。
古吉トレーナー。
三勝クラス、終わった。
長かった。
メモリーさんのところへ来た。
そこでメモリーが言った。
「私のところじゃない」
「ほわ?」
「オープンのところ」
「でも、メモリーさんが先にいましたぁ」
「いたけど、私の場所じゃないよ」
メモリーは少し笑った。
「ここは、来た子みんながそれぞれ走る場所」
「それぞれ……」
「シェイクが来たのは、シェイクのオープン」
シェイクは、しばらく黙った。
それから、ノートに書き足した。
メモリーさんのところじゃなくて、シェイクのオープン。
「いいじゃん」
メモリーが言う。
「いいですかぁ?」
「うん」
「でも、やっぱりメモリーさんがいたから来られましたぁ」
「そう?」
「はいぃ。先に行って、待たないって言って、来ると思ってるって言ってくれましたぁ」
「待ってないけどね」
「でも、見ててくれましたぁ」
「それは見てた」
「じゃあ、半分待ってましたぁ」
「待ってない」
「半分ですぅ」
「じゃあ半分」
メモリーは少しだけ折れた。
シェイクは、嬉しそうにノートへ書いた。
メモリーさん、半分待ってた。
「書くな」
「書きますぅ」
「それ、嘘っぽい」
「半分本当ですぅ」
メモリーはため息をついた。
「シェイク、ノートの使い方が雑になってきた」
「メモリーさんに似ましたぁ」
「私そんな雑じゃない」
「腹立ったことも書くって言ってましたぁ」
「それは大事」
二人は少し笑った。
久しぶりに、同じ高さで笑った気がした。
テレQ杯の日から、二人は少し離れていた。
メモリーはオープンへ。
シェイクは三勝クラスへ。
同じ寮にいても、走る場所が違うと、見える景色が違っていく。
けれど、今日。
シェイクはようやく同じクラスへ来た。
もう、完全に先と後ろではない。
また同じレースで会う可能性がある。
同じゲートに入るかもしれない。
同じ直線で、今度はどちらが前かを比べるかもしれない。
その未来が、当たり前のように見えた。
メモリーも、シェイクも、それを疑っていなかった。
「次、同じレースになることありますかぁ?」
シェイクが聞いた。
「あるでしょ」
メモリーは答えた。
「オープンだし」
「その時は、負けませんぅ」
「私も負けない」
「また半馬身ですかぁ?」
「今度はもっと離す」
「ほわ~……強気ですぅ」
「シェイクも離せば?」
「離しますぅ」
「じゃあ、どっちが離すかだね」
二人は向かい合って笑った。
その会話は、あまりにも普通だった。
これからもレースがある。
次がある。
また比べられる。
そう信じている子たちの会話だった。
夜が深くなって、メモリーが部屋を出る前、シェイクはもう一度呼び止めた。
「メモリーさん」
「何?」
「来ましたぁ」
「うん」
「ちゃんと、来ましたぁ」
メモリーは、少しだけ表情を柔らかくした。
「うん。やっと来た」
「遅かったですかぁ?」
「遅かった」
「でも、来ましたぁ」
「だからいいよ」
短い言葉だった。
でも、シェイクには十分だった。
メモリーが出て行ったあと、シェイクはノートを見た。
垂水ステークス一着。
古吉トレーナー。
三勝クラス、終わった。
長かった。
メモリーさんのところじゃなくて、シェイクのオープン。
メモリーさん、半分待ってた。
やっと来た。
シェイクは、最後にもう一行書いた。
次は、同じところで走りますぅ。
そのころ、メモリーも自分の部屋でノートを開いていた。
垂水ステークス。
シェイク一着。
やっと来た。
遅い。
でも来た。
次、同じレースで会うかもしれない。
ペン先が止まる。
メモリーは、少し考えてから書いた。
テレQの半馬身、まだ覚えてる。
今度はどうなるかな。
その一文を書いて、メモリーはノートを閉じた。
この時、二人はまだ知らなかった。
次の七月二十日。
一年前と同じ日、同じ小倉で、今度はシェイクがメモリーより前にいることを。
そして、そのさらに先。
何度でも前後を入れ替えられると思っていた関係に、突然終わりが来ることを。
まだ知らないまま、二人はそれぞれの部屋で眠った。
同じ寮。
同じオープン。
同じ年に生まれた二つの心臓。
片方は先に行き、上の沼でもがいた。
片方は長く下の沼でもがき、ようやく追いついた。
やっと来た。
その言葉は、その夜だけは、ただ温かかった。