七月二十日。
その日付を見た時、マイネルメモリーは少しだけペンを止めた。
小倉記念。
GⅢ。
芝二千。
予定表の中にある自分の名前と、シェイクユアハートの名前。
同じ日。
同じ小倉。
同じ芝二千。
去年の七月二十日も、小倉だった。
テレQ杯。
メモリーが一着。
シェイクが二着。
半馬身。
あの日、メモリーは先に三勝クラスを抜けた。
シェイクは、まだ三勝クラスに残った。
レース後、シェイクは言った。
「待っててくださいぃ」
メモリーは答えた。
「待たないよ。来ると思ってるから」
あれから一年。
シェイクは、本当に来た。
垂水ステークスを勝って、オープンウマ娘になって、今度は同じ重賞の出走表に名前が並んでいる。
メモリーはノートに書いた。
七月二十日。
去年はテレQ杯。
今年は小倉記念。
シェイクが来た。
そこまで書いて、少し考える。
そして、もう一行足した。
今度はどっちが前かな。
その日の小倉は、夏だった。
空は高く、日差しは強い。
芝は眩しく、パドックの空気にも熱がある。
重賞の日の小倉は、条件戦の日とは少し違った。
同じ競馬場。
同じ七月二十日。
けれど、あの日とは周りの見え方が違う。
去年、ここは三勝クラスを抜けるための場所だった。
今年、ここは重賞だ。
前にいる子たちは、簡単には止まらない。
後ろから来る子たちも、簡単には諦めない。
上の沼。
メモリーは、前にシェイクへそう言った。
ここは、その沼の中だった。
パドックで、メモリーはシェイクを見つけた。
シェイクは少し緊張した顔をしていた。
けれど、三勝クラスにいた頃とはどこか違う。
ほわほわした空気はそのままなのに、足元に積んできたものがある。
垂水ステークスの一着。
長かった三勝クラスの二着や三着。
古吉トレーナーの言葉。
デュードの待つ声。
そういうものを、ちゃんと持って立っている。
メモリーは声をかけた。
「シェイク」
「メモリーさん」
「一年だね」
「ほわ?」
「去年の今日」
シェイクは少し考えた。
そして、目を丸くする。
「……テレQ杯」
「そう」
「メモリーさんに負けましたぁ」
「私が勝った日」
「シェイクが二着の日ですぅ」
「半馬身」
「覚えてますぅ……」
「私も覚えてる」
メモリーは、小さく笑った。
「メモリーだから」
「ほわ~……ずるいですぅ」
「名前だからね」
シェイクは少しだけ口を尖らせた。
「今日は負けませんぅ」
「私も負けない」
「去年はメモリーさんが先に行きましたぁ」
「うん」
「今年は、シェイクもいますぅ」
「知ってる」
「だから、今日は……」
シェイクは胸に手を当てた。
「ちゃんと、同じところで走りますぅ」
メモリーは、その言葉を聞いて少しだけ目を細めた。
「いいね」
「いいですかぁ?」
「うん。去年よりいい」
「シェイク、成長しましたぁ」
「じゃあ、今年も二着だったりして」
「縁起でもないですぅ!」
シェイクが耳をぴんと立てる。
メモリーは少し笑った。
「冗談」
「ほんとですかぁ?」
「半分」
「半分は本気ですぅ……」
「重賞で二着なら、悪くないでしょ」
「でも、一着がいいですぅ」
「それはそう」
短い会話だった。
でも、それだけで去年からの距離が少し埋まった気がした。
去年は、先に行く子と追いかける子だった。
今日は、同じゲートに入る子同士だった。
シェイクの隣には古吉トレーナーがいた。
「去年のこと、考えとるな」
古吉トレーナーが言うと、シェイクは少しだけ肩を揺らした。
「分かりますかぁ」
「顔に書いてある」
「ほわ~……」
「テレQ杯」
「はいぃ」
「半馬身」
「はいぃ……」
「今日は小倉記念や」
「はいぃ」
「去年の続きやと思うな」
シェイクは顔を上げた。
「続きじゃないんですかぁ?」
「違う。去年と同じ日で、同じ小倉で、同じメモリーがおる。でも、今日は小倉記念や」
古吉トレーナーは芝の方を見た。
「重賞や。相手も違う。お前も違う」
「シェイクも……」
「オープンやろ」
「はいぃ」
「なら、今日のシェイクで走れ」
シェイクは胸に手を当てた。
去年の悔しさはある。
半馬身。
二着。
メモリーが先に行った日。
でも今日は、その続きをなぞる日ではない。
今年の七月二十日。
小倉記念。
自分もオープンウマ娘としてここにいる。
「はいぃ」
シェイクは頷いた。
「今日のシェイクで走りますぅ」
メモリーの隣には、別のトレーナーが立っていた。
佐田トレーナーではない。
佐田トレーナーは、この夏もメモリーの様子を気にかけていた。
けれど、すべてのレースで隣に立つわけではない。
メモリーはそれに慣れていた。
色々なトレーナーと組む。
色々な場所で走る。
佐田トレーナーがいなくても、スタートは自分の課題だ。
先頭に立って気を抜かないことも、自分の課題だ。
それでも、ゲートへ向かう前、メモリーの頭には佐田トレーナーの声が浮かんだ。
スタート。
先頭立ったら。
ゴール板まで。
メモリーは小さく息を吐いた。
「書いてるって」
誰にともなく呟く。
そして、自分の胸の中で繰り返した。
去年は先に行った。
今年は、同じところにシェイクがいる。
じゃあ、また走るだけ。
ゲートに入る。
小倉記念。
芝二千。
扉が開いた。
メモリーは出た。
悪くない。
けれど、特別に良いわけでもない。
周りの子たちが動く。
重賞の流れがすぐに形を作る。
条件戦の時のようにはいかない。
前へ行く子たちは、行く理由を持っている。
中団の子たちは、脚を使う場所を知っている。
後ろの子たちは、直線で何をするか決めている。
メモリーは、自分の位置を探した。
シェイクは、古吉トレーナーの声を聞いていた。
「焦るな」
焦らない。
「去年見るな」
見ない。
「前見とけ」
前を見る。
けれど、視界のどこかにメモリーを探してしまう。
去年、前にいた背中。
半馬身届かなかった背中。
今日は同じ重賞にいる。
それだけで、心臓が少し鳴り方を変える。
レースは進む。
小倉の夏が、足元から熱を上げる。
三コーナー。
流れが動く。
シェイクは反応する。
メモリーも動こうとする。
だが、メモリーの手応えは思ったほど上がってこなかった。
脚がないわけではない。
でも、重賞の前は遠い。
前が止まらない。
自分が動くより先に、他の子たちが場所を取っていく。
メモリーは歯を食いしばった。
去年のテレQ杯なら、ここから前を追えた。
追って、並んで、抜いて、シェイクを半馬身しのいだ。
でも今日は違う。
今日は、前にいる子たちが強い。
四コーナー。
シェイクの視界は開いた。
古吉トレーナーの声。
「行こか」
シェイクは踏んだ。
直線。
前へ。
去年と同じ小倉。
去年と同じ七月二十日。
でも、今日は三勝クラスではない。
今日は重賞。
シェイクは伸びる。
前を追う。
一番前には届きそうで、まだ遠い。
それでも、脚は止まらない。
メモリーはそのさらに後ろで、必死に踏んでいた。
沈みたくない。
終わりたくない。
十二番目の場所で、ただ流れていくわけにはいかない。
でも、前との差は詰まらない。
追っているのに、前が遠い。
上の沼は、底が深い。
ゴール板。
シェイクユアハート、二着。
マイネルメモリー、十二着。
去年とは違う数字だった。
去年は、メモリーが一着。シェイクが二着。
今年は、シェイクが二着。メモリーが十二着。
シェイクは息を弾ませながら、前を見ていた。
二着。
重賞で二着。
すごい数字のはずだった。
でも、一着ではない。
そして、後ろにメモリーがいた。
「ほわ……」
シェイクはすぐには喜べなかった。
古吉トレーナーが来る。
「二着や」
「はいぃ……」
「よう走った」
「はいぃ」
「でも、勝ってへんな」
「はいぃ」
「メモリーのことも考えとるやろ」
「はいぃ……」
古吉トレーナーは短く息を吐いた。
「考えるなとは言わん」
「はいぃ」
「でも、お前の二着はお前の二着や。まず持って帰れ」
「はいぃ」
「それから、メモリーの十二着も見るなら見ろ」
シェイクは顔を上げた。
「はいぃ」
少し離れたところで、メモリーは戻ってきた。
十二着。
シンプルな数字だった。
言い訳しにくい。
近かったとも言いにくい。
重賞の流れの中で、前に届かなかった。
トレーナーが言う。
「今日は苦しかったね」
「はい」
「位置も、流れも、少し噛み合わなかった」
「はい」
「でも、最後まで走ってた」
「はい」
メモリーは頷いた。
最後まで走った。
それは本当だ。
昔のように、先頭に立って気を抜いたわけではない。
スタートで全部を失ったわけでもない。
ちゃんと走った。
そのうえで、十二着だった。
それが苦しかった。
レース後の通路で、シェイクとメモリーは向き合った。
先に口を開いたのは、メモリーだった。
「二着じゃん」
シェイクは顔を上げる。
「すごいじゃん」
「でも……」
「去年と逆になったね」
「逆……」
「去年は私が先に行った。今年はシェイクが先」
メモリーの声は、思ったより穏やかだった。
シェイクは、胸が苦しくなった。
「でも、一着じゃないですぅ」
「知ってる」
「メモリーさんは……」
「十二着」
「そういう比べ方、嫌ですぅ」
メモリーは少しだけ笑った。
「じゃあ、どう比べる?」
「ほわ……」
「去年はテレQ杯。私一着、シェイク二着」
「はいぃ」
「今年は小倉記念。シェイク二着、私十二着」
「はいぃ……」
「どっちも七月二十日」
「はいぃ」
「覚えやすい」
「メモリーさんらしいですぅ……」
「でも、これで終わりじゃないでしょ」
メモリーは、シェイクを見た。
「次また比べよ」
その言葉は、とても普通だった。
あまりにも普通で、シェイクは少しだけ救われた。
「はいぃ」
小さく頷く。
「次また、比べますぅ」
「うん」
「次はシェイクが一着ですぅ」
「私かもしれない」
「負けませんぅ」
「私も負けない」
去年と同じように、二人は少しだけ笑った。
でも、去年とは違う笑いだった。
去年、メモリーは先に行く子だった。
シェイクは追いかける子だった。
今年、シェイクはメモリーより前にいた。
けれど一着ではなかった。
メモリーは大きく負けた。
けれど、次があると言った。
もう二人は、単純な先と後ろではない。
前後を入れ替えながら、また同じ場所で走る同期だった。
その夜、メモリーはノートを開いた。
小倉記念十二着。
七月二十日。
去年はテレQ杯で一着。シェイク二着。
今年は小倉記念でシェイク二着。私十二着。
重賞の前は遠い。
昔みたいに手を抜いて負けたわけではない。
ちゃんと走って、足りなかった。
シェイクが前にいた。
次また比べる。
そこまで書いて、ペンを止めた。
昔みたいに手を抜いて負けたわけではない。
その一行を見て、少しだけ息を吐く。
成長はしている。
スタートも少しずつましになった。
先頭に立って気を抜く癖も、昔ほどひどくはない。
佐田トレーナーに何度も言われた「ゴール板まで走る」は、今ではもう体に入っている。
それでも勝てない。
それでも十二着になる。
それが、重賞だった。
メモリーは最後に一行足した。
上の沼は、ちゃんと走っても沈む。
シェイクも自分の部屋でノートを開いていた。
小倉記念二着。
古吉トレーナー。
重賞で二着。
一着ではない。
メモリーさんは十二着。
去年と逆。
でも、これで終わりじゃない。
次また比べよ、と言われた。
シェイクは、その最後の一文を見つめた。
次また比べよ。
何でもない言葉。
でも、嬉しかった。
同じ場所で走れる。
また前後を入れ替えられる。
今度はどちらが前か、今度はどちらが一着に近いか、また話せる。
それが、当たり前に続くと思っていた。
だから、シェイクは最後にこう書いた。
次がありますぅ。
窓の外では、小倉の夏が夜になってもまだ少し熱を残していた。
七月二十日。
去年、メモリーが先に行った日。
今年、シェイクが追いついた日。
けれど、一着はまだ遠い。
二人はそれぞれの部屋で、同じ日付をノートに書いた。
その日付が、いつか病室で並んで見えることを、二人はまだ知らなかった。
次また比べよう。
その「次」が、いつまでもあるわけではないことも。
まだ知らないまま、二人は次のページへ進もうとしていた。