心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[番外編Ⅶ]同じ場所で

小倉記念のあと、シェイクユアハートはしばらく、自分のノートを何度も開いた。

 

七月二十日。

小倉記念。

シェイク二着。

メモリーさん十二着。

去年と逆。

でも、一着じゃない。

次また比べよ、と言われた。

 

そのページを読むたび、胸の奥で二つの気持ちがぶつかった。

 

重賞で二着。

 

それは、すごいことのはずだった。

 

古吉トレーナーにも言われた。

 

「持って帰れ。二着は二着や」

 

でも、ノートの一行は、どうしてもそこで止まらない。

 

一着じゃない。

 

そして、メモリーさんは十二着。

 

その二つが、同じページに並んでいる。

 

去年の七月二十日は、メモリーが一着で、シェイクが二着だった。

 

今年の七月二十日は、シェイクが二着で、メモリーが十二着だった。

 

数字だけ見れば、立場は入れ替わったように見えた。

 

でも、シェイクにはそれが少し怖かった。

 

入れ替わった、で終わらせていいのだろうか。

 

メモリーが上で沈んだ。

シェイクは上で二着になった。

 

それは追いついたのか。

追い越したのか。

それとも、ただ同じ沼の違う深さに立っていただけなのか。

 

答えは出なかった。

 

メモリーは、ノートにこう書いていた。

 

小倉記念十二着。

ちゃんと走って、足りなかった。

シェイクが前にいた。

次また比べる。

 

それだけだった。

 

短い。

 

でも、その短さがメモリーらしかった。

 

余計な飾りをつけない。

痛かった場所を、痛いまま書く。

次があるなら、次と書く。

 

だからシェイクも、自分のノートの最後にもう一度書いた。

 

次がありますぅ。

 

八月の終わり。

 

シェイクは新潟記念へ向かった。

 

小倉記念で重賞二着。

 

次こそ。

 

周りがそう言う声を、シェイクは聞いていた。

 

言葉は優しい。

期待もある。

けれど、その期待は時々、足元に重りのように乗る。

 

古吉トレーナーは、いつも通り短く言った。

 

「前回の二着で今回走れるわけやない」

 

「はいぃ」

 

「今回のレースを走れ」

 

「はいぃ」

 

「小倉記念を背負うな」

 

「でも、持って帰れって言いましたぁ」

 

「持って帰るのと背負うのは違う」

 

「難しいですぅ……」

 

「せやから競馬や」

 

新潟記念。

 

シェイクは十一着だった。

 

重賞二着のあとに、十一着。

 

ノートに書く時、シェイクの手は少し止まった。

 

新潟記念十一着。

小倉記念の二着は、今日の一着にならなかった。

前回のページを持っていても、次のページは別。

古吉さんに、背負うなと言われた。

背負っていたかもしれない。

 

シェイクは、そこまで書いてから、机に額をつけた。

 

「ほわ~……」

 

情けない声が出た。

 

そこへメモリーがやってきた。

 

「生きてる?」

 

「たぶん生きてますぅ」

 

「十一着」

 

「言わないでくださいぃ」

 

「ノートに書いてるなら言ってもいいでしょ」

 

「よくないですぅ……」

 

メモリーは隣に座った。

 

「重賞二着の次に十一着。あるよ」

 

「ありますかぁ?」

 

「私なんか小倉記念十二着」

 

「メモリーさん、自分で刺してきますぅ……」

 

「事実だから」

 

「事実が痛いですぅ」

 

「だから書く」

 

シェイクは顔を上げた。

 

「メモリーさんは、次どこですかぁ?」

 

「カシオペア」

 

「京都ですぅ」

 

「うん。リステッド」

 

「勝ちますかぁ?」

 

「勝ちたい」

 

「メモリーさん、最近そういうこと言いますぅ」

 

「前から言ってるでしょ」

 

「前より、ちょっとはっきりですぅ」

 

メモリーは少しだけ考えた。

 

「上で勝てないの、長くなってきたから」

 

シェイクは黙った。

 

メモリーは続けた。

 

「通用しないわけじゃない、って何回も書いた。でも、書きすぎるとだんだん腹立つ」

 

「腹立ったことは」

 

「書いた方がいい」

 

「はいぃ」

 

「だから勝ちたいって書く」

 

メモリーはシェイクのノートを見た。

 

「シェイクも書けば?」

 

「勝ちたい、ですかぁ」

 

「うん」

 

「……勝ちたいですぅ」

 

「じゃあ書く」

 

シェイクは、少し照れながら書いた。

 

勝ちたい。

 

たった四文字だった。

 

でも、書くと少し怖かった。

 

願いに名前をつけるのは、怖い。

 

叶わなかった時に、そこに傷が残るから。

 

でもメモリーは、そういうものほど書いた方がいいと言う。

 

十月。

 

メモリーはカシオペアステークスを走った。

 

京都、芝千八百。

 

結果は九着だった。

 

勝てなかった。

 

小倉記念の十二着よりは前。

でも、勝ちには遠い。

 

メモリーはノートに書いた。

 

カシオペアステークス九着。

少しは前。

でも勝っていない。

通用しないわけじゃない、ではもう足りない。

勝ちたい。

 

そのページを見て、シェイクは何も言えなかった。

 

メモリーの字は乱れていない。

 

でも、短い行の間に、少しずつ焦げた匂いがある気がした。

 

そして十一月。

 

アンドロメダステークス。

 

京都、芝二千。

リステッド。

 

出走表に、また二人の名前が並んだ。

 

シェイクユアハート。

マイネルメモリー。

 

シェイクの隣には、古吉トレーナー。

 

メモリーの隣には、佐田トレーナー。

 

それを見た時、メモリーは小さく息を吐いた。

 

「佐田さん、久しぶりです」

 

「久しぶり言うほどでもないやろ」

 

「レースでは久しぶりです」

 

「せやな」

 

佐田トレーナーは、メモリーを上から下まで見た。

 

「スタート」

 

「確認しすぎない」

 

「先頭立ったら」

 

「終わらない」

 

「ゴール板まで」

 

「走る」

 

「返事は変わらんな」

 

「中身も変わってます」

 

「ほんまか?」

 

「たぶん」

 

「たぶん言うな」

 

いつもの会話。

 

それなのに、少しだけ違う空気があった。

 

佐田トレーナーは、来年から先生になる準備に入ることが決まっていた。

 

メモリーもそれを知っている。

 

トレーナーとして一緒に走れる機会は、もう多くない。

 

でも、二人ともそれを大きく言葉にはしなかった。

 

大きくした途端、いつものリズムが崩れる気がした。

 

「佐田さん」

 

「何や」

 

「来年から先生なんですよね」

 

「せやな」

 

「佐田先生」

 

「まだ呼ぶな。むず痒い」

 

「似合わないです」

 

「お前な」

 

メモリーは少しだけ笑った。

 

「でも、先生になってもトレセンにはいるんですよね」

 

「おるわ」

 

「じゃあ、別にいいです」

 

「何がや」

 

「いなくなるわけじゃないなら」

 

佐田トレーナーは、一瞬だけ黙った。

 

「……まあな」

 

それ以上は言わなかった。

 

いなくなるわけじゃない。

 

だから大丈夫。

 

この時のメモリーは、本当にそう思っていた。

 

パドックで、シェイクとメモリーは並んだ。

 

「メモリーさん」

 

「シェイク」

 

「今日は同じ場所ですぅ」

 

「うん」

 

「小倉記念以来ですぅ」

 

「シェイク二着、私十二着」

 

「すぐ数字で言いますぅ……」

 

「覚えやすいから」

 

「今日は負けませんぅ」

 

「私も負けない」

 

「古吉さんと、佐田さんですぅ」

 

「並びとしては昔っぽいね」

 

「昔ですかぁ?」

 

「テレQ杯の時、私は佐田さんだった。シェイクは秋稔さんだったけど」

 

「今日は古吉さんですぅ」

 

「強いね」

 

「はいぃ」

 

シェイクは少しだけ胸を張った。

 

「でも、古吉さんと一緒でも勝てない日はありますぅ」

 

「知ってる」

 

「メモリーさんも、佐田さんと一緒でも?」

 

「勝てない日はある」

 

メモリーは短く言った。

 

「でも、勝ちたい」

 

その言葉に、シェイクはまっすぐ頷いた。

 

「シェイクもですぅ」

 

ゲートに入る。

 

アンドロメダステークス。

 

扉が開く。

 

メモリーは出た。

 

悪くない。

 

昔のような大きな一拍はない。

少なくとも、ここで全部を失ってはいない。

 

佐田トレーナーの声が届く。

 

「ええ。焦るな」

 

メモリーは後方寄りで脚を溜めた。

 

前を見る。

流れを見る。

京都の芝二千。

 

シェイクは中団。

 

古吉トレーナーの声。

 

「そこでええ」

 

シェイクは息を整える。

 

小倉記念の二着。

新潟記念の十一着。

 

どちらも持っている。

でも背負いすぎない。

 

今日のページは、今日書く。

 

レースは淡々と進んだ。

 

前にいるのは、ウエストナウ。

 

強い。

簡単には止まらない。

 

メモリーは後ろから見る。

 

届くか。

 

シェイクは中団から見る。

 

捕まえられるか。

 

三コーナー。

 

少しずつ空気が変わる。

 

佐田トレーナーが言う。

 

「メモリー、ここからや」

 

メモリーは反応する。

 

脚はある。

でも、前との差もある。

 

焦りすぎると終わる。

待ちすぎても終わる。

 

佐田トレーナーの声が、短く飛ぶ。

 

「ゴール板までや」

 

メモリーは頷くように走った。

 

四コーナー。

 

シェイクの視界が開く。

 

「シェイク」

 

古吉トレーナーの声。

 

「行こか」

 

シェイクが伸びる。

 

直線。

 

ウエストナウが前にいる。

 

シェイクは追う。

メモリーも外から脚を使う。

 

同じ京都の直線で、二人はそれぞれ前を追った。

 

シェイクの脚は鋭かった。

 

前が近づく。

 

ウエストナウの背中が大きくなる。

 

届くかもしれない。

 

そう思った瞬間、ゴール板が来た。

 

ウエストナウ、一着。

 

シェイクユアハート、二着。

 

メモリーは、さらに後ろから伸びて五着。

 

アンドロメダステークス。

 

シェイク、二着。

メモリー、五着。

 

同じ場所で、また前後がついた。

 

シェイクは、ゴール後に息を弾ませたまま前を見た。

 

二着。

 

また二着。

 

小倉記念も二着。

アンドロメダも二着。

 

一着の背中は近かった。

 

でも、届かなかった。

 

古吉トレーナーが来る。

 

「二着や」

 

「はいぃ」

 

「よう走った」

 

「はいぃ」

 

「また勝ってへん」

 

「はいぃ……」

 

「でも、前回の十一着から戻してきた」

 

「はいぃ」

 

「持って帰れ」

 

シェイクは頷いた。

 

「はいぃ」

 

少し離れたところで、メモリーは佐田トレーナーと向き合っていた。

 

「五着」

 

「はい」

 

「最後、脚は使っとる」

 

「はい」

 

「でも、前が遠かったな」

 

「はい」

 

「シェイク、二着や」

 

「見えてました」

 

「追い越されたと思うか?」

 

メモリーは少し考えた。

 

「追いつかれて、少し前に出られた感じです」

 

「細かいな」

 

「大事です」

 

「せやな」

 

佐田トレーナーは笑わなかった。

 

ただ、静かに頷いた。

 

「ちゃんと走った」

 

「はい」

 

「スタートも、昔ほど悪くない」

 

「はい」

 

「先頭立って気ぃ抜いたわけでもない」

 

「はい」

 

「それでも五着や」

 

「はい」

 

「それをちゃんと書いとけ」

 

「書きます」

 

いつもの会話だった。

 

これが、トレーナー佐田としてメモリーと走る最後の会話になるなど、二人とも思っていなかった。

 

レース後の通路で、シェイクとメモリーは並んだ。

 

先に言ったのはメモリーだった。

 

「また二着」

 

「言わないでくださいぃ……」

 

「小倉記念も二着。アンドロメダも二着」

 

「メモリーさん、数字が鋭利ですぅ」

 

「でも、重賞とリステッドで二着。すごいじゃん」

 

「一着じゃないですぅ」

 

「それも知ってる」

 

「メモリーさんは五着ですぅ」

 

「うん」

 

「追いついたじゃなくて、追い越したんでしょうかぁ……」

 

シェイクの声は迷っていた。

 

メモリーは少しだけ首を傾げた。

 

「追いついたじゃなくて、追い越されたかな」

 

「ほわっ」

 

「今日だけ見れば」

 

「そういう言い方、嫌ですぅ」

 

「じゃあどう言う?」

 

「同じ場所で走りましたぁ」

 

シェイクは言った。

 

「今日はシェイクが前でしたぁ。でも、メモリーさんも走ってましたぁ」

 

「優しい言い方」

 

「優しくしたいですぅ」

 

「でも、レースは優しくないよ」

 

「知ってますぅ」

 

「じゃあ、今日だけはシェイクが前」

 

メモリーは静かに言った。

 

「次は分からない」

 

その言葉に、シェイクは少し救われた。

 

次。

 

その単語が、まだある。

 

「次がありますぅ」

 

「うん」

 

「次は、一着になりたいですぅ」

 

「私も」

 

「また比べますぅ」

 

「うん。また比べる」

 

その夜、シェイクはノートを開いた。

 

アンドロメダステークス二着。

古吉トレーナー。

ウエストナウさんに届かなかった。

小倉記念に続いて二着。

メモリーさんは五着。

同じ場所で走った。

今日はシェイクが前。

でも、次は分からない。

次がありますぅ。

 

その一行を書いて、シェイクは少しだけ胸を撫でた。

 

次がありますぅ。

 

それは希望だった。

 

メモリーも、自分の部屋でノートを書いていた。

 

アンドロメダステークス五着。

佐田トレーナー。

スタート、悪くない。

後方から脚を使った。

でも前が遠い。

ウエストナウ一着。

シェイク二着。

私は五着。

追いついたじゃなくて、少し前に出られた。

今日だけは。

次また比べる。

 

少し手が止まる。

 

佐田トレーナー。

 

その名前をもう一度見た。

 

来年から先生になる人。

 

先生になっても、トレセンにはいる人。

 

いなくなるわけじゃない人。

 

だから、このページを特別に最後のページとは思わなかった。

 

メモリーは、いつものように最後へ書いた。

 

佐田さんに、ちゃんと書けと言われた。

書いた。

次も書く。

 

その「次」が、佐田トレーナーと一緒の次ではないことを、メモリーはまだ知らなかった。

 

佐田トレーナーも知らなかった。

 

このあと負傷し、短い復帰のために無理をするより、先生になる準備へ進むことになることを。

トレーナーとしてメモリーの隣に立つ最後が、このアンドロメダステークスだったことを。

 

誰も、知らなかった。

 

だから別れの言葉はなかった。

 

いつものように、

 

「スタート」

 

「まだ課題です」

 

「先頭立ったら」

 

「終わらない」

 

「ゴール板まで」

 

「走ります」

 

そう言って、終わった。

 

それだけだった。

 

年の終わりに、シェイクは中日新聞杯を勝つことになる。

 

さらに先で、金鯱賞も勝つ。

札幌記念も勝つ。

 

メモリーはその間、ディセンバー、アメリカジョッキークラブカップ、小倉日経賞、大阪ーハンブルクカップ、メトロポリタンステークス、そしてまた小倉記念と走っていく。

 

前後は、少しずつ開いていく。

 

でも、この十一月の夜、二人はまだそれを知らない。

 

同じ京都で、同じレースを走った。

シェイクが二着。

メモリーが五着。

 

そして、二人とも同じ言葉を書いた。

 

次がある。

 

それは、この時点では本当に正しい言葉だった。

 

だからこそ、後から読むと少し痛い。

 

でも、消す必要はない。

 

メモリーなら、きっとそう言う。

 

勝ったから、負けたレースがいらなくなるわけではない。

走れなくなったから、走った日がいらなくなるわけでもない。

 

アンドロメダステークス。

 

同じ場所で走った日。

 

次があると、二人とも信じていた日。

 

そのページは、まだただの途中だった。

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