アンドロメダステークスの夜、二冊のノートには同じ言葉が書かれていた。
次がある。
シェイクユアハートのノートには、丸い字で。
アンドロメダステークス二着。
古吉トレーナー。
ウエストナウさんに届かなかった。
メモリーさんは五着。
同じ場所で走った。
今日はシェイクが前。
でも、次は分からない。
次がありますぅ。
マイネルメモリーのノートには、少し硬い字で。
アンドロメダステークス五着。
佐田トレーナー。
スタート、悪くない。
脚は使った。
でも前が遠い。
シェイク二着。
私は五着。
今日だけは前に出られた。
次また比べる。
その「次」は、二人にとって、とても自然な言葉だった。
次のレース。
次の季節。
次の同じ場所。
次にどちらが前にいるか。
それがいつか消えるかもしれないなど、まだ誰も思っていなかった。
冬が来た。
シェイクは中日新聞杯へ向かった。
中京、芝二千。
GⅢ。
メモリーはその日、寮のテレビでレースを見ていた。
画面の中のシェイクは、もう三勝クラスで何度も二着を書いていた頃のシェイクではなかった。
ほわほわしている。
それは変わらない。
でも、直線に向いた時の足元には、いままでのページがぜんぶ敷かれているように見えた。
テレQ杯の二着。
垂水ステークスの一着。
小倉記念の二着。
新潟記念の十一着。
アンドロメダの二着。
勝った日も、負けた日も、届かなかった日も、崩れた日も。
シェイクはそれらを持ったまま、直線で伸びた。
前を捕まえる。
ゴール板。
シェイクユアハート、一着。
中日新聞杯。
重賞初勝利。
メモリーは、テレビの前でしばらく黙っていた。
歓声の中で、シェイクが自分の勝利を少し遅れて理解したように見える。
古吉トレーナーが隣へ来て、何か短く言った。
たぶん、
「勝ったな」
だと思った。
メモリーはノートを開いた。
中日新聞杯。
シェイク一着。
GⅢ。
重賞勝ち。
やっと、ではない。
もう、ここまで来た。
そこまで書いて、ペンが止まった。
やっと来た。
垂水ステークスの日、自分はそう言った。
でも、今のシェイクは、もう「来た」だけではなかった。
勝った。
重賞を。
メモリーは一行、書き足した。
前に出られた、ではなく、前へ行った。
その日の夜、シェイクはメモリーの部屋へ来た。
頬が少し赤い。
目も少し潤んでいる。
それでも、手にはノートを持っていた。
「メモリーさん」
「重賞ウマ娘」
「ほわっ」
「中日新聞杯、勝ったじゃん」
「勝ちましたぁ……」
「おめでとう」
シェイクは、両手でノートをぎゅっと抱えた。
「ありがとうございますぅ」
「書いた?」
「まだ途中ですぅ」
「勝った日もちゃんと書かないと」
「はいぃ」
シェイクは椅子に座った。
ノートを開く。
中日新聞杯一着。
古吉トレーナー。
重賞、勝った。
シェイク、重賞ウマ娘になった。
メモリーさんに、おめでとうと言われた。
そこまで書いて、シェイクはふと顔を上げた。
「メモリーさん」
「何?」
「先にオープンへ行ったのは、メモリーさんですぅ」
「うん」
「シェイク、追いかけてましたぁ」
「うん」
「でも今日、重賞を勝ちましたぁ」
「そうだね」
「これ、追い越したんでしょうかぁ……」
メモリーは、少しだけ黙った。
それから静かに言った。
「今日だけ見れば、そうかもね」
「ほわ……」
「でも、私のテレQ杯も消えない」
「はいぃ」
「シェイクの垂水も、中日新聞杯も消えない」
「はいぃ」
「前後が入れ替わった日が増えただけ」
シェイクは、その言葉をじっと聞いていた。
「じゃあ、まだ比べられますかぁ?」
「比べるでしょ」
「はいぃ」
「次また」
「はいぃ」
その言葉は、まだ温かかった。
次また。
何度も使ってきた言葉。
まだ疑う必要のなかった言葉。
けれど、冬の終わりから春にかけて、二人のページは少しずつ違う色になっていった。
シェイクは京都記念で四着になった。
重賞を勝ったあとでも、簡単には続かない。
ノートにはこう書いた。
京都記念四着。
重賞を勝っても、次の重賞を勝てるわけではない。
前はまだある。
でも、崩れてはいない。
古吉さんに、持って帰れと言われた。
そして金鯱賞。
中京、芝二千。
GⅡ。
シェイクはまた勝った。
GⅡ勝ち。
画面の中で、シェイクの末脚が伸びる。
前を捕まえる。
ゴール板を越える。
メモリーは、そのレースも見ていた。
シェイクユアハート、一着。
今度はGⅡ。
ノートに書く。
金鯱賞。
シェイク一着。
GⅡ。
中日新聞杯から、また勝った。
これはもう、たまたまじゃない。
たまたまじゃない。
その一行を書いた時、メモリーは少しだけ胸の奥が重くなるのを感じた。
嬉しい。
それは本当だった。
同じ寮の子。
同い年の子。
テレQ杯で二着にした子。
ノートを渡した子。
その子が、重賞を勝っている。
嬉しい。
でも、胸の奥で別の声もした。
私は?
その声は小さかった。
けれど、書かないと丸くなる。
メモリーは、少し迷ってから書いた。
嬉しい。
少し悔しい。
両方、本当。
シェイクが前に言った言葉を、今度は自分が使った。
そのころ、メモリー自身のページには、勝利の文字は増えなかった。
ディセンバーステークス、十着。
中山の芝千八百。
後ろから進めて、前は遠かった。
ノートに書く。
ディセンバーステークス十着。
後ろすぎた。
脚は使ったけれど届かない。
勝てない期間が長い。
年が明けて、アメリカジョッキークラブカップ。
GⅡ。
十五着。
大きく負けた。
ノートを書く手が、少し止まった。
アメリカジョッキークラブカップ十五着。
重賞。
前が遠い、というより、レースの外にいた感じ。
通用しないわけじゃない、とは今日は書けない。
そこまで書いて、メモリーはペンを置いた。
机の向こうには、佐田トレーナーから届いた短いメッセージがあった。
ちゃんと書け。
それだけ。
佐田トレーナーは、もう佐田先生になる準備へ入っていた。
少し前に負傷もあった。
無理に短い復帰を目指すより、先生として次へ進む。
そういう流れになっていると、メモリーは聞いていた。
だから、アンドロメダステークスが最後だったのだと、少し遅れて気づいた。
トレーナー佐田と、一緒にレースを走った最後。
最後だとは、知らなかった。
メモリーは、佐田に会った時に言った。
「結局、アンドロメダが最後でしたね」
佐田先生は、少しだけ眉を動かした。
「せやな」
「最後って分かってたら、もう少し何か言いました?」
「言わんやろ」
「言わないですね」
「お前も言わん」
「言いません」
「なら同じや」
佐田先生は、いつものように言った。
「最後やと思って走ったレースやない。それでええんちゃうか」
メモリーは、その言葉をノートに書いた。
アンドロメダは、最後だと思って走ったレースじゃない。
でも最後になった。
そういうこともある。
春。
メモリーは小倉日経賞で六着。
大阪ーハンブルクカップで十着。
メトロポリタンステークスで八着。
勝てない。
大きく崩れる日もあれば、少しだけ形になる日もある。
でも、一着の文字は戻ってこない。
シェイクのノートには、勝利と敗戦が強い色で並んでいった。
金鯱賞一着。
宝塚記念十四着。
宝塚記念の十四着を書いた夜、シェイクはメモリーの部屋へ来た。
「沈みましたぁ……」
「十四着」
「数字が重いですぅ」
「GⅠだからね」
「GⅠ、怖いですぅ……」
「上の沼、深かった?」
「深すぎましたぁ……」
シェイクは机に額をつけた。
「でも、シェイクは金鯱賞勝ってる」
「それでも十四着は十四着ですぅ」
「そうだね」
「メモリーさんは、こういう時どう書きますかぁ?」
「そのまま」
「そのまま……」
「宝塚記念十四着。GⅠ。深かった。足りなかった。次」
「次、書いていいですかぁ?」
「次があるなら」
シェイクは、顔を上げた。
「次は札幌記念ですぅ」
「じゃあ書く」
シェイクは頷いて、自分のノートに書いた。
宝塚記念十四着。
GⅠ。
深かった。
足りなかった。
でも、次は札幌記念。
メモリーはそれを見て、少しだけ笑った。
「札幌、合いそう」
「そうですかぁ?」
「シェイク、北海道っぽい」
「ほわ?それはどういう意味ですかぁ」
「なんとなく」
「雑ですぅ」
「でも勝つかも」
シェイクは耳をぴんと立てた。
「勝ちたいですぅ」
「書いた方がいい」
「はいぃ」
シェイクは最後に書いた。
札幌記念、勝ちたいですぅ。
七月。
メモリーは小倉記念へ向かった。
二〇二六年七月十九日。
小倉、芝二千。
GⅢ。
去年の小倉記念には、シェイクがいた。
シェイク二着。
メモリー十二着。
今年、シェイクはいない。
シェイクはもう、別のローテで札幌記念を見ている。
それが寂しいとは、メモリーは書かなかった。
でも、パドックで少しだけ思った。
去年は同じ場所にいた。
今年は、いない。
隣には菱田トレーナーがいた。
「メモリー、今日は後ろからになります」
「はい」
「出負けしないのが理想です」
「努力します」
「努力、好きですね」
「結果に出したいです」
「なら、ゴール板まで」
その言葉に、メモリーは少しだけ目を伏せた。
佐田先生の声が胸の奥で重なる。
スタート。
先頭立ったら。
ゴール板まで。
メモリーは小さく頷いた。
「走ります」
ゲートが開いた。
少し、遅れた。
出遅れ。
昔から何度も書いてきた言葉が、また戻ってくる。
けれど、そこで終わりではない。
後ろから。
十七番手、十六番手、十四番手、十三番手。
メモリーは前を追った。
小倉の芝二千。
夏の熱。
前は簡単には止まらない。
直線で脚は使った。
上がりは悪くない。
でも、前は遠い。
ゴール板。
十着。
小倉記念、十着。
戻ってきたメモリーは、息を整えながら前を見ていた。
菱田トレーナーが言った。
「出遅れましたね」
「はい」
「でも、最後は伸びています」
「はい」
「十着」
「はい」
「次、もう少し早く動ければ」
「はい」
次。
また、その言葉が出た。
自然に。
当たり前のように。
その夜、メモリーはノートを開いた。
小倉記念十着。
菱田トレーナー。
出遅れ。
十七、十六、十四、十三。
上がりは使った。
でも前が遠い。
去年はシェイクがいた。
今年はいない。
次、もう少し早く。
そこまで書いて、最後に一行足した。
丹頂ステークスの予定。
予定。
その文字は、あまりにも普通だった。
八月十六日。
札幌記念。
シェイクユアハートは、札幌の芝二千に立っていた。
GⅡ。
古吉トレーナー。
宝塚記念十四着のあと。
ここで戻せるか。
ここで、また走れるか。
シェイクはゲートへ入る前、胸に手を当てた。
宝塚記念の十四着も持っている。
金鯱賞の一着も持っている。
中日新聞杯の一着も、アンドロメダの二着も、小倉記念の二着も。
全部ある。
でも、今日は札幌記念。
古吉トレーナーが言った。
「今日のレースを走れ」
「はいぃ」
「札幌や」
「はいぃ」
「合うやろ」
「メモリーさんにも言われましたぁ」
「なら、ええやん」
「雑ですぅ」
「競馬は雑に見えて細かいんや」
「難しいですぅ……」
「走れ」
「はいぃ」
扉が開く。
シェイクは、後ろから進めた。
焦らない。
でも置いていかれない。
札幌の空気が、肺に入る。
四コーナー。
前を見る。
サクラファレルがいる。
シェイクは外へ出す。
古吉トレーナーの声。
「行こか」
シェイクは伸びた。
宝塚記念で沈んだ脚ではない。
金鯱賞で勝った脚だけでもない。
全部を持った、今日の脚。
前を捕まえる。
抜ける。
ゴール板。
シェイクユアハート、一着。
札幌記念、勝利。
GⅡ、二勝目。
シェイクはゴール後、しばらく息を弾ませた。
古吉トレーナーが隣に来る。
「勝ったな」
「はいぃ……」
「札幌記念や」
「はいぃ……」
「宝塚の十四着も持ってきたな」
「持ってきましたぁ……」
「ほな、持って帰れ」
「はいぃ」
その夜、メモリーはテレビの前でそのレースを見ていた。
シェイクが勝った。
札幌記念を。
メモリーはノートを開いた。
札幌記念。
シェイク一着。
GⅡ。
宝塚記念十四着から戻した。
強い。
強い。
その一言を書いたあと、メモリーはしばらくペンを持ったまま止まっていた。
シェイクは、もう「追いついた子」ではない。
追い越された、という言葉も少し違う。
シェイクは、シェイクの道を走っている。
その道が、メモリーから少し遠くなっただけ。
メモリーは、下にもう一行書いた。
遠い。
でも、消えたわけじゃない。
電話が鳴った。
シェイクからだった。
「メモリーさん」
「札幌記念ウマ娘」
「ほわっ」
「おめでとう」
「ありがとうございますぅ……」
「強かった」
「メモリーさんに強いって言われると、照れますぅ」
「ノートにも書いた」
「ほわ~……記録されましたぁ」
「メモリーだから」
少しだけ笑い合う。
それから、シェイクが聞いた。
「メモリーさんは、次いつですかぁ?」
「九月」
「九月……」
「丹頂ステークスの予定」
「札幌ですかぁ?」
「うん」
「応援しますぅ」
「ありがとう」
「今度はメモリーさんの番ですぅ」
メモリーは、少しだけ目を閉じた。
その言葉は優しかった。
優しくて、少し痛かった。
でも、痛かったところは書く。
名前をつける。
「うん」
メモリーは言った。
「今度は私の番」
シェイクは嬉しそうに言った。
「はいぃ。次がありますぅ」
「うん」
「次がありますぅ」
「うん。次がある」
電話を切ったあと、メモリーはノートを開いたまま、しばらく机に向かっていた。
札幌記念。
シェイク一着。
次、丹頂ステークス。
今度は私の番。
最後の一行を、ゆっくり書く。
今度は私の番。
そのページは、まだ途中だった。
次のページは白かった。
白いページは、いつも少し怖くて、少し楽しみだった。
何を書くことになるか分からないから。
メモリーはペンを置いた。
明日の調教の予定を確認する。
体をほぐす。
眠る。
また朝が来る。
レースへ向かう子の、いつもの夜。
最後だとは、知らなかった。
小倉記念が最後のレースになることも。
丹頂ステークスのページが、予定のまま残ることも。
「今度は私の番」と書いたその下に、レース結果を書けない日が来ることも。
まだ、誰も知らなかった。
だからその夜、メモリーのノートには、ただこう書かれていた。
次がある。