マイネルメモリーのノートには、白いページが残っていた。
札幌記念。
シェイク一着。
GⅡ。
宝塚記念十四着から戻した。
強い。
遠い。
でも、消えたわけじゃない。
次、丹頂ステークス。
今度は私の番。
そこまで書かれたページの次。
まだ何も書かれていないページ。
そこには本来なら、丹頂ステークスの結果が入るはずだった。
札幌、芝二六。
誰と組むか。
どこで動いたか。
スタートはどうだったか。
最後に脚を使えたか。
勝ったのか。
負けたのか。
十着だった小倉記念のあと、メモリーはそうやって次へ進むつもりだった。
予定表には、ちゃんと次があった。
次。
あまりにも普通の言葉だった。
レースへ向かうウマ娘にとって、それは朝食の湯気や、調教後の汗や、夜のノートと同じくらい当たり前のものだった。
だから、誰も疑わなかった。
次がある。
八月の終わり、朝のトレセンはいつも通りに始まった。
まだ空気には夏の名残がある。
けれど、朝の風だけは少しだけ秋へ傾いていた。
メモリーはいつも通り、体をほぐした。
脚の感覚を確かめる。
呼吸を整える。
今日のメニューを聞く。
宮田先生は少し離れた場所で、他の子たちの様子も見ていた。
「メモリー、無理せんでええぞ」
「はい」
「丹頂まで、整えるだけや」
「分かってます」
「ほんまか?」
「書いてます」
宮田先生は、少しだけ苦笑した。
「書いてるならええ、とは限らんけどな」
「でも、忘れません」
「それは知っとる」
その日は、特別な調教ではなかった。
大きな勝負前の強い負荷ではない。
追い切りというより、状態を確かめるためのもの。
予定通り。
普通の日。
普通の朝。
メモリーは走り出した。
スタートは、悪くない。
昔のような大きな一拍はもうない。
それでも、胸のどこかで佐田先生の声がする。
スタート。
先頭立ったら。
ゴール板まで。
もう佐田トレーナーは隣には立たない。
先生になった人だ。
それでも声は残っている。
声は、ノートと同じだった。
書いたものは、消えない。
メモリーは流れに乗った。
体は動いている。
呼吸も悪くない。
札幌記念のシェイクを見たあと、自分の番だと書いた。
今度は私の番。
その言葉を、少しだけ胸に置く。
焦りではない。
願いでもある。
悔しさでもある。
嬉しい。
少し悔しい。
両方、本当。
シェイクが前に言った言葉を、今度は自分が使った。
その全部を持って、メモリーは走っていた。
その瞬間。
足元で、何かが変わった。
大きな音ではなかった。
世界が割れるような音でもない。
ただ、体の中で、ひとつの線が切れたような感覚。
踏み込もうとした脚が、いつもの場所に戻ってこない。
メモリーの視界が揺れた。
「メモリー!」
誰かの声。
宮田先生の声。
トレーナーの声。
周りの足音。
メモリーは止まろうとした。
止まらなければと思った。
走ってはいけない。
それは分かった。
これ以上、前へ行ってはいけない。
ゴール板まで。
いつもならそう思う。
でも、今は違う。
ここで止まらなければいけない。
それが、走るために必要な判断だった。
メモリーは、止まった。
止まってしまった。
次のページは、その朝から白いままだった。
・・・
・・
・
病院の廊下は、静かだった。
静かすぎて、誰かが書類をめくる音だけがやけに大きく聞こえた。
宮田先生は、椅子に座らず立っていた。
座ると、何かが決まってしまう気がした。
マイネルの担当者も来ていた。
顔は落ち着いている。
けれど、手に持ったファイルの角を、何度も親指で押していた。
医師が説明を終える。
命に別状はない。
日常生活へ戻るための治療はできる。
ただし。
競技復帰は難しい。
その言葉が、廊下に落ちた。
競技復帰不能。
ウマ娘にとって、それは「もう同じゲートには戻れない」という意味だった。
宮田先生は、しばらく何も言わなかった。
ようやく口を開いた時、声は低かった。
「……分かりました」
医師が去ったあと、マイネルの担当者が静かに言った。
「先生」
「すまん」
「今は謝罪より、治療と今後です」
「分かっとる」
「メモリーとの関係は、ここで終わりません」
担当者は、はっきりと言った。
「マイネルの子ですから。走れる時だけ見るわけではありません」
宮田先生は顔を上げた。
「治療を優先します。その後、本人が望む形を探します。養成所へ戻る選択もあります。後輩の記録を見る仕事も、調整を手伝う道もあります」
「メモリーが、受け入れるかどうかやな」
「すぐには無理でしょう」
「そらそうや」
宮田先生は、拳を握った。
「次があったんや」
声が少し揺れた。
「丹頂があった。予定があった。本人も……」
そこまで言って、黙った。
予定があった。
その言葉は、あまりにも軽く、あまりにも重かった。
佐田先生が病院へ来たのは、その日の夕方だった。
もうトレーナーではない。
先生になった人。
けれど、廊下を歩いてくる姿を見た瞬間、宮田先生は少しだけ息を吐いた。
「佐田」
「容体は」
「命は大丈夫や」
「……そうですか」
「ただ、復帰は難しい」
佐田先生は黙った。
長く黙った。
それから、短く言った。
「会えますか?」
「本人が起きて、落ち着いてからや」
「……分かりました」
佐田先生は壁にもたれず、椅子にも座らなかった。
ただ立っていた。
宮田先生と同じように。
「アンドロメダが最後になった」
宮田先生が言うと、佐田先生は目を伏せた。
「トレーナーとしては、ですね」
「お前、最後って分かってたか」
「分かるわけないですよ」
「せやな」
佐田先生は、病室の方を見た。
「最後やと思って走ったレースではないです」
「今もか」
「……今は、まだ分かりません」
それは、佐田先生にしては珍しい言葉だった。
分からない。
そのまま言った。
メモリーが目を覚ましたあと、最初にノートを求めた。
宮田先生は、少しだけ眉を寄せた。
「今は休め」
「書かないと、丸くなります」
「今すぐ書かんでもええ」
「今じゃないと、逃げます」
声は弱かった。
でも、メモリーだった。
宮田先生はしばらく黙ってから、マイネルの担当者に目を向けた。
担当者は静かに頷いた。
ノートが渡される。
メモリーはペンを持った。
手に力が入りきらない。
それでも、書いた。
調教中。
止まった。
病院。
競技復帰不能。
丹頂ステークス、予定のまま。
次のページ、白い。
そこまで書いて、ペンが止まった。
メモリーは、白いページを見た。
何度も見てきた白いページ。
いつもなら、少し怖くて、少し楽しみだった。
何を書くことになるか分からないから。
けれど今、その白さは違って見えた。
次のレース結果を書けない白。
予定が、予定のまま残る白。
メモリーは小さく息を吐いた。
「……嫌だな」
その言葉を、誰も遮らなかった。
マイネルの担当者も、宮田先生も、佐田先生も、誰も。
「嫌です」
メモリーはもう一度言った。
「書きたくないです」
佐田先生が、やっと口を開いた。
「でも書いたな」
「書きました」
「えらいとは言わんぞ」
「言われたくないです」
「せやろな」
佐田先生はベッドの横に立った。
メモリーは、彼を見た。
「佐田さん」
「先生や」
「まだ慣れません」
「俺もや」
「もう、ゴール板まで走れって言わなくていいですね」
その言葉に、病室の空気が少し止まった。
宮田先生が目を伏せる。
マイネルの担当者も、何も言わない。
佐田先生は、少しだけ顔をしかめた。
「アホ」
「ひどいです」
「今のはアホや」
「だって、もうレースでは走りません」
「せやな」
「だから、言わなくていいです」
「言うぞ」
メモリーは目を開いた。
「何をですか」
「ゴール板まで走れ」
「もうゴール板、ないです」
「あるやろ」
「どこに」
「これから探すんや」
佐田先生の声は、いつもより低かった。
「俺も走る側から降りた。理由は違う。お前は望んで降りたわけやない。そこは同じにしたらあかん」
「はい」
「でも、降りたあとに何をするかは、これからや」
メモリーは黙った。
「最後まで走ったやろ、お前は」
佐田先生は言った。
「少なくとも、俺が見てきたメモリーは、何回も止まりかけて、何回も書いて、何回も走り直した」
「でも、最後のレースは小倉記念十着です」
「十着でも走った」
「出遅れました」
「知っとる」
「前は遠かったです」
「知っとる」
「丹頂、走れません」
「それも知っとる」
「じゃあ、何が残るんですか」
佐田先生は、ノートを見た。
分厚くなったノート。
未勝利の二着。
初勝利。
テレQ杯。
ケフェウス。
アルゼンチン共和国杯。
中日新聞杯の十三着。
小倉記念の十二着。
アンドロメダの五着。
最後になった小倉記念の十着。
全部、そこにある。
「それや」
佐田先生は短く言った。
「残るんは、それや」
メモリーは、ノートを見た。
泣きはしなかった。
まだ、泣けなかった。
・・・
・・
・
シェイクユアハートが病室へ来たのは、翌日だった。
宮田先生から話を聞いた時、シェイクは最初、意味が分からなかった。
競技復帰不能。
その言葉を聞いても、すぐにはメモリーと結びつかなかった。
だって、メモリーさんには次がある。
丹頂ステークスがある。
今度は私の番、と言っていた。
シェイクは、札幌記念を勝ったあと、電話でそう聞いた。
「応援しますぅ」
そう言った。
「今度はメモリーさんの番ですぅ」
そう言った。
メモリーは答えた。
「今度は私の番」
その会話が、まだ耳に残っている。
なのに。
病室の前で、シェイクは足が止まった。
手に持った小さな紙袋が、かさりと鳴る。
中には、メモリーが好きそうな、甘すぎない焼き菓子が入っていた。
何を持っていけばいいか分からなくて、何か持っていないと手が震える気がして、選んだものだった。
ドアをノックする。
「どうぞ」
メモリーの声。
いつもより少し弱い。
でも、ちゃんとメモリーの声だった。
シェイクはドアを開けた。
「メモリーさん……」
「札幌記念ウマ娘」
メモリーが言った。
いつものように。
シェイクは、その一言で胸が詰まった。
「今、それ言いますかぁ……」
「言うよ。おめでとう、まだちゃんと言ってないし」
「電話で言ってくれましたぁ」
「直接はまだ」
「……ありがとうございますぅ」
シェイクは病室へ入った。
ベッドの横の机には、ノートがあった。
見慣れたノート。
でも、そこに置かれているだけで、いつもと違って見えた。
「座って」
メモリーが言う。
シェイクは椅子に座った。
紙袋を差し出す。
「お菓子ですぅ」
「ありがとう」
「甘すぎないやつですぅ」
「分かってるね」
「メモリーさんのこと、覚えてますからぁ」
「メモリーじゃん」
「今日はシェイクもメモリーですぅ」
少しだけ笑いが生まれた。
けれど、すぐに沈んだ。
シェイクの視線は、どうしてもノートへ向かった。
「見てもいいよ」
メモリーが言った。
「いいんですかぁ?」
「シェイク、けっこう出てくるし」
シェイクは、そっとノートを開いた。
最初の方には、未勝利の二着が並んでいた。
二着。
二着。
二着。
スタートが遅い。
先頭に立つと緩む。
佐田さんに怒られた。
ゴール板まで走る。
次のページ。
未勝利一着。
クリスデムトレーナー。
前の二着たちのおかげ。
佐田さん、少し悔しそうだった。
でも、ようやったと言ってくれた。
シェイクの指が止まる。
まためくる。
テレQ杯一着。
佐田トレーナー。
シェイク二着。
半馬身。
先頭に立って少し緩みかけた。
シェイクが来た。
危ない。
ゴール板まで走る。
三勝クラス卒業。
先にオープンへ行く。
シェイクは、そのページを長く見た。
「ここ……覚えてますぅ」
「私も」
「半馬身でしたぁ」
「うん」
「悔しかったですぅ」
「知ってる」
「でも、嬉しかったですぅ」
「それも言ってた」
シェイクはページをめくった。
小倉記念十二着。
七月二十日。
去年はテレQ杯で一着。シェイク二着。
今年は小倉記念でシェイク二着。私十二着。
ちゃんと走って、足りなかった。
シェイクが前にいた。
次また比べる。
次また比べる。
シェイクの指が震えた。
さらにめくる。
アンドロメダステークス五着。
佐田トレーナー。
シェイク二着。
私は五着。
今日だけは前に出られた。
次また比べる。
佐田さんに、ちゃんと書けと言われた。
書いた。
次も書く。
次も書く。
シェイクは唇を噛んだ。
次。
次。
次。
どのページにも、次があった。
レースは終わっても、ページは終わらない。
負けても、次がある。
沈んでも、次を書く。
それがメモリーだった。
シェイクはさらにめくった。
小倉記念十着。
菱田トレーナー。
出遅れ。
十七、十六、十四、十三。
上がりは使った。
でも前が遠い。
去年はシェイクがいた。
今年はいない。
次、もう少し早く。
丹頂ステークスの予定。
そして、その次のページ。
札幌記念。
シェイク一着。
GⅡ。
宝塚記念十四着から戻した。
強い。
遠い。
でも、消えたわけじゃない。
次、丹頂ステークス。
今度は私の番。
シェイクの視界が滲んだ。
今度は私の番。
自分が言った言葉だった。
電話で、何の疑いもなく言った。
応援しますぅ。
今度はメモリーさんの番ですぅ。
メモリーは、それをノートに書いていた。
嬉しかったのだろうか。
悔しかったのだろうか。
その両方だったのだろう。
シェイクは、次のページを見た。
調教中。
止まった。
病院。
競技復帰不能。
丹頂ステークス、予定のまま。
次のページ、白い。
そこで、とうとう涙が落ちた。
ぽた、と紙の端に落ちそうになって、シェイクは慌てて手で拭った。
「ご、ごめんなさい……」
「いいよ」
「よくないですぅ……ノートが……」
「少しくらい」
「だめですぅ……メモリーさんのノートですぅ……」
シェイクはノートを閉じた。
両手で抱えたまま、顔を伏せる。
「……嫌ですぅ」
小さな声だった。
メモリーは何も言わなかった。
「嫌ですぅ……」
もう一度。
今度は、少し大きく。
「次があるって言いましたぁ」
シェイクの声が震えた。
「メモリーさんが、次また比べるって言いましたぁ。小倉記念のあとも、アンドロメダのあとも、言いましたぁ」
「うん」
「シェイク、札幌記念勝って、次はメモリーさんの番って言いましたぁ」
「うん」
「メモリーさんも、今度は私の番って言いましたぁ」
「うん」
「なのに……」
シェイクは顔を上げた。
涙で目が赤くなっていた。
「なのに、なんで予定のままなんですかぁ……!」
病室の空気が震えた。
シェイクは、普段のほわほわした声ではなかった。
泣きながら、怒っていた。
誰に怒っているのか、自分でも分からなかった。
メモリーにではない。
宮田先生にでもない。
佐田先生にでもない。
たぶん、次があると思っていた世界そのものに怒っていた。
「メモリーさん、ずっと書いてたじゃないですかぁ……!」
シェイクは言葉を止められなかった。
「二着も、負けたことも、痛かったところも、全部書いてたじゃないですかぁ。消さないって、次に使うって、言ってたじゃないですかぁ……!」
「うん」
「じゃあ、これも次に使ってくださいよぉ……!」
涙が頬を落ちた。
「丹頂ステークス、走ってくださいよぉ……!また比べましょうよぉ……!次がありますぅって、シェイク書いたんですぅ……書いたのに……!」
メモリーは、泣いていなかった。
ただ、シェイクを見ていた。
シェイクは肩を震わせた。
「ごめんなさい……」
「なんで謝るの」
「分かんないですぅ……」
「じゃあ謝らなくていいよ」
「でも……シェイク、札幌記念勝って……メモリーさんに遠いって書かせましたぁ……」
「それは私が勝手に書いた」
「でも……」
「シェイクが勝ったことは、悪いことじゃない」
メモリーの声は静かだった。
「シェイクの札幌記念は、シェイクが走って勝ったレースでしょ」
「はいぃ……」
「それを悪いものにしないで」
シェイクは言葉を失った。
メモリーは、ゆっくり手を伸ばした。
シェイクが抱えているノートに触れる。
「シェイク」
「はいぃ……」
「走れなくなったからって、走ったことまでなくなるわけじゃないでしょ」
その言葉は、静かに病室へ落ちた。
シェイクは息を止めた。
「テレQ杯もある。小倉記念もある。アンドロメダもある。最後の小倉記念もある。シェイクの札幌記念を見たこともある」
「でも……」
「丹頂ステークスは、予定のまま残る」
メモリーは言った。
「それは嫌だよ」
初めて、声が少し揺れた。
「すごく嫌」
シェイクは目を見開いた。
「でも、予定のまま残ったからって、前のページが消えるわけじゃない」
メモリーは、ノートを見た。
「私は走った」
「……はいぃ」
「何回も出遅れた」
「はいぃ」
「何回も二着だった」
「はいぃ」
「先頭立って気を抜きかけた」
「はいぃ」
「シェイクを二着にして、先にオープンへ行った」
「はいぃ……」
「シェイクに追いつかれて、前に出られた」
「はいぃ」
「札幌記念を勝つところも見た」
「はいぃ……」
「それで、ここで止まった」
メモリーは、少しだけ息を吐いた。
「止まったことは、消せない。でも、走ったことも消えない」
シェイクは、もう言い返せなかった。
ただ、泣いた。
静かにではなく、子どもみたいに。
肩を震わせて、息を詰まらせて、何度も涙を拭いながら。
「嫌ですぅ……」
「うん」
「でも……消えないですぅ……」
「うん」
「メモリーさん、消えないですぅ……」
「私はまだ生きてるけどね」
「そういうことじゃないですぅ……!」
「ごめん」
メモリーは少しだけ笑った。
「でも、泣いたことも書いた方がいいよ」
「今それ言いますかぁ……」
「今じゃないと丸くなる」
シェイクは泣きながら笑った。
「メモリーさん、ほんとにメモリーさんですぅ……」
「名前負けしたくないからね」
メモリーは、ノートをシェイクの方へ少し押した。
「書いて」
「ここにですかぁ?」
「いや、自分のノートに」
「はいぃ……」
「今日のこと」
「はいぃ」
「嫌だったことも」
「はいぃ」
「泣いたことも」
「はいぃ……」
「怒ったことも」
「はいぃ」
「私が嫌だって言ったことも」
シェイクは顔を上げた。
メモリーは、少しだけ目を逸らした。
「それも、書いておいて」
シェイクは、ぎゅっと頷いた。
「書きますぅ」
その後、佐田先生が病室へ入った。
シェイクは目を赤くしたまま、少し慌てて立ち上がった。
「佐田先生……」
「泣いた顔やな」
「言わないでくださいぃ……」
「メモリーに泣かされたか」
「違いますぅ……」
「泣かせたのは、たぶん競馬ですぅ……」
シェイクがそう言うと、佐田先生は少しだけ目を細めた。
「せやな」
メモリーがベッドの上で言った。
「佐田さん」
「先生や」
「シェイクがノートに書くそうです」
「ええことや」
「泣いたことも」
「それは書いとけ」
佐田先生はベッドの横に立った。
そして、メモリーを見る。
「メモリー」
「はい」
「ゴール板まで走れ」
「まだ言いますか」
「言う」
「レースじゃないです」
「レースやないから、どこがゴール板か自分で決めるんや」
メモリーは黙った。
「マイネルの担当さんから聞いた。治療のあと、養成所へ戻る道もある。後輩のノートを見る仕事もある」
「まだ決めてません」
「今決めんでええ」
「はい」
「でも、お前は忘れん子やろ」
「はい」
「なら、覚えとけ。走る側を降りても、競馬から消えるわけやない」
シェイクは、その言葉を聞いていた。
佐田先生は、自分にも言っているように聞こえた。
トレーナーから先生になった人。
走る側から降りた人。
理由は違う。
痛みも違う。
それでも、言葉には重さがあった。
「最後まで走ったやろ、お前は」
佐田先生は、もう一度言った。
メモリーは、今度は少しだけ目を伏せた。
「……はい」
「なら、その先や」
病室の窓から、午後の光が入っていた。
白いベッド。
ノート。
紙袋の焼き菓子。
泣き腫らしたシェイク。
立っている佐田先生。
静かに見守る宮田先生と、マイネルの担当者。
何も元には戻っていない。
でも、何もかもが終わったわけでもなかった。
その夜、シェイクは自分の部屋でノートを開いた。
手はまだ少し震えていた。
でも、書かなければいけないと思った。
メモリーに言われたからではない。
書かないと、自分の中で今日のことが変な形に丸くなってしまう気がしたから。
シェイクは、ゆっくり書いた。
メモリーさん。
調教中に止まった。
競技復帰不能。
丹頂ステークスは予定のまま。
病室へ行った。
ノートを見た。
テレQ杯。小倉記念。アンドロメダ。最後の小倉記念。札幌記念。
今度は私の番、と書いてあった。
シェイクは泣いた。
怒った。
嫌だと言った。
次があるって言ったじゃないですかぁ、と言った。
ペンが止まった。
涙がまた出そうになる。
でも、書く。
メモリーさんは、嫌だと言った。
でも、走れなくなったからって、走ったことまでなくなるわけじゃないでしょ、と言った。
止まったことは消せない。
でも、走ったことも消えない。
シェイクは、深く息を吸った。
そして、最後のページに向かうように、ゆっくり書いた。
マイネルメモリー。
同い年。
同じ寮。
ノートをくれた子。
二着を忘れない子。
先にオープンへ行った子。
テレQ杯でシェイクを二着にした子。
小倉記念で追いついた子。
アンドロメダで同じ場所を走った子。
札幌記念を見て、強いと書いてくれた子。
もう一緒には走れない。
でも、走ったことはなくならない。
だから、覚えている。
そこまで書いて、シェイクはしばらくノートを見つめた。
覚えている。
メモリー。
その名前の意味が、今までで一番重く感じた。
数週間後、メモリーの病室にはまたノートが増えていた。
治療の記録。
リハビリの予定。
痛い日。
少しましな日。
腹が立った日。
眠れなかった日。
レース結果ではない。
でも、メモリーは書いた。
走るためのノートではなくなっても、忘れないためのノートであることは変わらなかった。
マイネルの担当者は、時々養成所の話をした。
「急がなくていいです」
「はい」
「戻るなら、場所はあります」
「はい」
「後輩たちの記録を見てやってください。あなた、そういうの向いています」
「スタートが遅い子には厳しくします」
「自分のことですね」
「だから分かります」
宮田先生は、たびたび病室へ来た。
最初のころは、顔に責任を背負いすぎていた。
メモリーはそれを見て言った。
「先生」
「何や」
「その顔、書きますよ」
「何をや」
「宮田先生、責任を全部背負った顔。重い。見てる側が疲れる」
「お前な……」
「少し置いてください」
宮田先生は、怒らなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「ほんま、よう見とるな」
「メモリーなので」
「知っとるわ」
佐田先生も来た。
来るたびに、同じようなことを言った。
「書いとるか」
「書いてます」
「ならええ」
「先生っぽいですね」
「先生やからな」
「まだ似合いません」
「お前、それずっと言う気か」
「書いてます」
「書くな」
「書きます」
変わらない会話。
でも、関係の形は変わっていた。
トレーナーとウマ娘ではない。
先生と、もう競走へ戻らないウマ娘。
それでも、会話は続いた。
形が変わっても、消えないものがある。
シェイクは、重賞ウマ娘として走り続けた。
勝った日も、負けた日も、ノートを書いた。
そのたびに、時々メモリーのページを思い出す。
テレQ杯。
半馬身。
先にオープンへ行く。
小倉記念。
次また比べる。
アンドロメダ。
次も書く。
札幌記念。
今度は私の番。
予定のまま残った丹頂ステークス。
シェイクは、それらを忘れなかった。
忘れないことは、痛い。
でも、痛いからといって捨ててしまえば、メモリーが何度も書いてきた二着たちまで薄くなってしまう気がした。
だから、覚えている。
ある日、シェイクが見舞いに行くと、メモリーは新しいノートを開いていた。
「何を書いてるんですかぁ?」
「後輩の走り方」
「ほわ」
「スタートで一拍遅れる子がいる」
「メモリーさんですぅ」
「違う。後輩」
「でもメモリーさんですぅ」
「だから分かる」
メモリーはペンでページを軽く叩いた。
「この子、追いかける時はいい。でも抜いたあと、少し顔が終わる」
「メモリーさんですぅ」
「だから分かるって」
シェイクは、少し笑った。
「なんて書くんですかぁ?」
「ゴール板まで走る」
メモリーは迷わず言った。
シェイクは、少しだけ目を潤ませた。
でも、今度は泣かなかった。
「それ、残るんですねぇ」
「残るよ」
「佐田先生の言葉ですぅ」
「うん」
「メモリーさんの言葉にもなりましたぁ」
「そうだね」
メモリーはノートに書いた。
ゴール板まで走る。
その文字は、昔のメモリーのノートに何度もあった文字と同じだった。
でも、少し違って見えた。
もう自分がレースで使うためだけの言葉ではない。
誰かに渡す言葉になっていた。
シェイクは、それを見て静かに言った。
「メモリーさん」
「何?」
「やっぱり、消えないですぅ」
「何が?」
「走ったこと」
メモリーは、少しだけ笑った。
「でしょ」
「はいぃ」
窓の外では、秋の光が揺れていた。
レース場では今日も誰かが走っている。
ゲートが開き、誰かが出遅れ、誰かが前を追い、誰かが二着になり、誰かが勝つ。
その中に、もうメモリーはいない。
でも、メモリーのノートはある。
メモリーを覚えているシェイクがいる。
メモリーの言葉を受け取る後輩がいる。
佐田先生がいる。
宮田先生がいる。
マイネルの場所がある。
走る側から降りても、走ったことはなくならない。
最後のレースが最後だと知らなかったとしても、そのレースは消えない。
次があると信じていたページが、白いまま残ったとしても、その前のページまで白くなるわけではない。
シェイクは、自分のノートを開いた。
今日の見舞い。
メモリーさん、後輩のノートを見ていた。
スタートが遅い子。
抜いたあと顔が終わる子。
ゴール板まで走る、と書いていた。
メモリーさんの言葉が、次の子へ行く。
そこまで書いて、最後に一行。
メモリーさんは、もう一緒には走れない。
でも、まだ一緒に競馬の中にいる。
ペンを置く。
ページの上で、文字が静かに乾いていく。
メモリーは窓の外を見ていた。
シェイクはその横顔を見た。
もう同じゲートには入れない。
同じ直線で、どちらが前かを比べることもない。
けれど、覚えている。
テレQ杯の半馬身。
小倉記念の七月二十日。
アンドロメダの京都。
札幌記念の電話。
病室で泣いた日。
全部、消えない。
だから、これは終わりではなく、記録だった。
マイネルメモリー。
忘れないために書く子。
忘れられない走りを、ちゃんと残した子。
シェイクは小さく言った。
「覚えてますぅ」
メモリーは振り返った。
「何を?」
「全部ですぅ」
メモリーは、少しだけ笑った。
「じゃあ、書いておいて」
「はいぃ」
シェイクは頷いた。
そして、もう一度ノートを開いた。
最後の行に、ゆっくり書いた。
メモリー。
それは名前で、記録で、約束だった。
その夜、シェイクはもう一度ノートを開いた。
レースの記録ではなかった。
反省でも、予定でもなかった。
メモリーへ宛てた、手紙のようなものだった。
けれど、それはシェイクひとりの言葉ではなかった。
佐田先生が何度も言った言葉。
宮田先生が飲み込んだ言葉。
マイネルの人たちが、それでも残してくれた場所。
同じ寮で、同じ朝を見ていた子たちの気持ち。
その全部を、シェイクは「私たち」と書いた。
そして、最後に題をつけた。
「好きなだけソラを見ていい」
坂路を駆けて いつもの朝を行くように
今日のつづきが 明日にもある顔をして
真面目に走れと笑われて
それでも君は 直線の途中で空を見た
誰かを待つみたいに 何かを見つけたみたいに
もう誰も急かさないから
合図もゴール板も もう忘れていい
ずっと先頭を走らなくていい
差さなくていい 抜かれてもいい
好きなだけソラを見ていい
負けても 最後に横を向いても
君が帰ってくれば それでよかったことを
走れなくなってから知った
君がソラを見るたび またやった、と笑った
次こそちゃんと走れよと 何度も何度も言った
次があると思っていたから
甘いものを食べてもいい
制服のリボンをほどいて
誰もいない芝生で寝転んでもいい
君が見ていたソラの向こうに
何があったのか とうとう教えてくれなかったね
私たちが泣いていることも知らずに
レースじゃない場所で
笑っていてくれたらいい
もう次のゲートは開かないけれど
君を待っていた時間まで
なくなるわけじゃない
メモリー
よく頑張ったね
ありがとう
シェイクはペンを置いた。
ページの上で、「メモリー」という名前だけが、いつまでも静かに残っていた。