勝つと、世界はどーんとは変わらなかった。
朝は来る。
食堂は開く。
宮田先生はいつも通り予定表を見ている。
藤川弟トレーナーはいつも通り少し声がこわい。
廊下では誰かが寝坊して怒られている。
けれど、少しだけ違う。
シェイクユアハートの名前の横には、もう「未勝利」という言葉がなかった。
それは不思議な感覚だった。
「ほわ~……勝つと、肩書きが変わるんですねぇ……」
掲示板を見上げながらそう言うと、宮田先生が隣で腕を組んだ。
「肩書きだけやない。相手も変わる」
「相手……」
「次は、勝った子らと走る」
勝った子ら。
シェイクはその言葉を、ゆっくり噛んだ。
未勝利戦で一番前に出た。
ゴール板の向こうに誰もいない場所を知った。
胸の奥で鳴った音も、まだ少し残っている。
けれど次は、同じように一番前を知っている子たちと走る。
「みんな、勝ったことがあるんですねぇ……」
「そうや」
「それは……」
シェイクは少し考えた。
「にぎやかそうですぅ……」
「感想そこか」
宮田先生は呆れた顔をした。
でも、すぐに真面目な声へ戻る。
「シェイク。勝った次が大事や」
「はいぃ」
「一回勝ったからって、全部が楽になるわけやない。むしろ、ここからの方が自分の形を持ってへんとしんどい」
「自分の形……」
「前に行くんか、待つんか。どこで息を入れるんか。どこで勝負するんか。それを、相手が強くなってもできるかや」
シェイクは、掲示板の自分の名前を見た。
シェイクユアハート。
二歳未勝利一着。
その下に、次の予定が書き込まれていく。
三歳一勝クラス。
中京。
芝二千。
また中京だった。
けれど、前と同じ中京ではない。
藤川弟トレーナーは、資料を机に並べていた。
シェイクは向かいに座り、いつものようにお茶を持っている。
湯気の向こうで、藤川弟トレーナーの表情は真剣だった。
「次は、今までより相手が上がります」
「勝った子たちですもんねぇ」
「はい。みんな、何かしら勝ち方を持ってます。前で押し切る子もいる。長く脚を使う子もいる。終いだけで差してくる子もいる」
「ほわ~……みんな、得意なことがあるんですねぇ……」
「シェイクにもあります」
「わたしにも?」
「あります」
藤川弟トレーナーは、即答した。
「勝負どころで、ちゃんと反応できる。周りを見てから、自分で道を選べる。前走はそれで勝ちました」
「でも、ちょっと遅いんですよねぇ……」
「それを直します」
「声がこわいですぅ……」
「内容だけ聞いてください」
「はいぃ」
藤川弟トレーナーは、映像を止めた。
前走の四コーナー。シェイクが前を捕らえに行く場面。
「ここです。ここで動けたのは良かった。でも、次の相手だと、同じタイミングでは届かないかもしれない」
「早く動くんですかぁ?」
「早く動く準備をします。全部早くしたら最後に止まります。だから、準備だけ早く」
「準備だけ……」
「勝負どころで急に走るんじゃなくて、その前から勝負できる形にしておく」
シェイクはお茶を飲もうとして、少し止まった。
「それ、難しくないですかぁ?」
「難しいです」
「やっぱり……」
「でも、上に行くなら必要です」
上。
その言葉は、まだ遠い場所のようでいて、すぐ目の前にもあった。
未勝利を勝った時、藤川弟トレーナーは言った。
次の場所へ行けます。
今、シェイクはその次の場所にいる。
「藤川弟さん」
「はい」
「上の場所って、どんな感じですかぁ?」
「楽ではないです」
「でしょうねぇ……」
「でも、シェイクが何もできない場所ではないです」
シェイクは瞬きをした。
「また、言い切りますねぇ」
「言い切ります」
「どうしてですかぁ?」
「前走、勝ったので」
「ほわ~……勝つと信用されるんですねぇ……」
「勝つ前から見てました」
藤川弟トレーナーは少しだけ視線を逸らした。
「だから、勝った後も見ます」
シェイクはお茶の湯気を見つめた。
声はこわい。
少し荒い。
でも、この人は走りを見てくれる。
顔がいいだけではなかった。
「藤川弟さん」
「なんですか」
「やっぱり、ちょっと少女漫画っぽいですねぇ……」
「どこがですか」
「顔が……」
「レースの話をしてください」
中京の空は、年明けらしく澄んでいた。
一勝クラス。
前走と同じ芝二千。
同じ距離なのに、パドックの空気は少し違っている。
シェイクは歩きながら、周囲を見た。
みんな、勝ったことがある。
それは見た目だけで分かるものではない。
けれど、どこかに違いがあった。
自分の走り方を知っている子たちの静けさ。
負けたくないという気配の硬さ。
未勝利戦の時より、音が太い。
「ほわ~……上の場所ですねぇ……」
藤川弟トレーナーが隣に来た。
「びびってます?」
「少しだけですぅ」
「それでいいです。何も感じないよりは」
「藤川弟さんも、びびりますかぁ?」
「びびりますよ」
「ほわ?」
シェイクは思わず彼を見た。
藤川弟トレーナーは、前を見たまま言った。
「勝たせたい時ほど、びびります。下手に動かして負けたらどうしようとか、遅れて届かなかったらどうしようとか」
「声、いつも強いのに……」
「声と中身は別です」
「そうなんですねぇ……」
「でも、びびってもやるだけです」
その言葉は、冷たい水みたいだった。
少しひやっとして、でも目が覚める。
「シェイクも、びびっても走ってください」
「はいぃ……びびっても走りますぅ」
ゲートに入る。
胸が鳴る。
前走より、少し強く。
初勝利の記憶と、上の場所の空気が混じっている。
扉が開いた。
シェイクは出た。
前走ほど楽ではない。
周りが速い。
位置を取ろうとする圧が強い。
藤川弟トレーナーの声が飛ぶ。
「下げない!」
シェイクは足を引かなかった。
自分の場所を取る。
けれど、今回はその場所にいるだけで体力を使う。
前の子たちは簡単には止まらない。横の子たちも簡単には退かない。
一コーナー。
二コーナー。
流れに乗る。
息を入れる。
でも、前走ほど余裕はない。
向こう正面。
シェイクは耳を少し伏せた。
上の場所は、にぎやかだ。
みんな、自分の音を持っている。
「シェイク、準備!」
藤川弟トレーナーの声。
まだ早い。
でも、遅くない。
シェイクは少しずつ、勝負の形を作る。
急に踏むのではなく、その前から身体を起こす。
三コーナー。
四コーナー。
前が動く。
シェイクの目が変わった。
ここ。
脚は残っている。
けれど、前もまだ止まらない。
未勝利戦の時とは違う。
追えば届くと思えたあの背中より、今日の背中は硬い。
「行け!」
藤川弟トレーナーの声が飛ぶ。
シェイクは踏んだ。
直線。
芝が鳴る。
息が熱い。
前との差が詰まる。
一頭、捕まえた。
もう一頭の背中も近い。
けれど、外から別の子が伸びてくる。
強い。
シェイクも止まっていない。
最後までやめていない。
でも、前に二人いる。
ゴール板。
三着。
勝てなかった。
シェイクはしばらく、息を弾ませたまま立っていた。
初勝利の時と違って、ゴールの向こうに誰もいない場所ではなかった。
前に二人。
自分より先に、次の場所へ届いた子がいた。
「ほわ~……」
声が漏れる。
そこに藤川弟トレーナーが来た。
表情は悔しそうだった。
「三着です」
「はいぃ……三着でしたぁ」
「内容は悪くないです」
「でも、勝てませんでしたぁ」
「はい」
藤川弟トレーナーは、言い訳をしなかった。
シェイクは胸に手を当てた。
心臓はまだ強く鳴っている。
けれど、初勝利の時とは違う音だった。
悔しい。
その言葉が、ようやく形になり始めていた。
「藤川弟さん」
「はい」
「一番前って、毎回行ける場所じゃないんですねぇ……」
「そうです」
「勝ったら、分かった気がしてたんですけどぉ……」
「勝ったから、分かることもあります。でも、勝ったあとに負けて分かることもあります」
「それは……」
シェイクは少しだけ眉を下げた。
「ちょっと、苦いですねぇ……」
「苦いです」
藤川弟トレーナーは頷いた。
「でも、三着です。上の相手に、ちゃんと競馬はできています」
「ちゃんと競馬……」
「足りないところも見えました。悪くないです」
「悪くない、ですかぁ……」
シェイクは、前にいた二人の背中を思い出した。
届きそうだった。
でも、届かなかった。
八着の時は、世界が広かった。
未勝利を勝った時は、世界が少し静かになった。
今日は、世界に段差があることを知った。
同じ芝二千。
同じように走っても、相手が変われば届く場所が変わる。
宮田先生が戻ってきた。
「よう走ったな」
「三着でしたぁ……」
「せやな」
「勝てませんでしたぁ……」
「せやな」
「でも、上の場所でも、少し走れましたぁ……」
宮田先生は頷いた。
「それでええ。けど、満足はするなよ」
「はいぃ……」
「ここからや」
ここから。
シェイクはその言葉を、胸の奥へ落とした。
帰りの車内で、シェイクは窓の外を眺めていた。
冬の景色が流れていく。
勝った時と同じ道なのに、今日は少し色が違って見えた。
「藤川弟さん」
「はい」
「三着って、悔しいですねぇ……」
「はい」
「でも、八着より近いですぅ」
「近いです」
「近いのに届かないの、変な感じですぅ……」
「その変な感じを、忘れないでください」
藤川弟トレーナーは静かに言った。
「上で走るなら、そういう日が増えます。勝てそうで勝てない。届きそうで届かない。だから、少しずつ直していくしかないです」
「少しずつ……」
「はい。一気に全部変えようとしたら、シェイクの良さまで消えます」
「わたしの良さ……」
「勝負どころで、ふっと力を出せるところです」
シェイクは、自分の手を見た。
ふっと力を出せる。
でも、今日はそれだけでは足りなかった。
「じゃあ、ふっとする前に、準備しますぅ……」
「そうしてください」
「ふっと準備しますぅ……」
「それは伝わりにくいです」
「ほわ~……」
寮に戻ると、掲示板に結果が書き込まれた。
三歳一勝クラス三着。
未勝利一着の下に、新しい数字が並ぶ。
勝ち上がった先で、すぐに壁に当たったわけではない。
でも、楽に越えられたわけでもない。
シェイクはその数字をしばらく見ていた。
通りかかった藤川兄トレーナーが、穏やかに声をかけた。
「お疲れさまでした、シェイク」
「藤川兄さん……三着でしたぁ」
「見てました。良い三着でしたね」
「良い三着って、あるんですかぁ?」
「ありますよ。次に続く三着です」
藤川兄トレーナーは、掲示板を見た。
「でも、悔しいでしょう」
「はいぃ……ちょっと、悔しいですぅ」
「それは、良いことです」
「藤川弟さんも同じこと言いそうですぅ……」
「兄弟なので」
「ほわ~……兄弟ですねぇ……」
藤川兄トレーナーは微笑んだ。
「次は、もっと大きな場所になるかもしれませんね」
「大きな場所……?」
シェイクが首を傾げる。
その時、少し離れたところで宮田先生が腕を組んでいた。
表情は考え込むようで、けれどどこか決めているようでもあった。
藤川弟トレーナーも、その横に立っている。
「先生」
「おう」
「あの子、重賞を見せますか」
重賞。
その言葉は、シェイクの耳に届いた。
まだ意味を全部は分かっていない。
けれど、空気が少し変わったことは分かった。
宮田先生はしばらく黙っていた。
そして、掲示板のシェイクユアハートの名前を見た。
「早いかもしれん」
藤川弟トレーナーは黙っている。
「けど、見せておく価値はある」
シェイクは、ほわりと瞬きをした。
上の場所の、そのまた上。
勝った子たちの中で三着になったばかりの自分が、さらに大きな場所を見に行く。
胸の奥で、また心臓が鳴った。
それは初勝利の時の静かな音でも、今日の悔しさの音でもなかった。
少しだけ怖い。
でも、少しだけ気になる。
「ほわ~……」
シェイクは小さく呟いた。
「次の場所、また大きくなるんですねぇ……」
まだ、彼女は知らない。
そこには、勝負の匂いが濃いトレーナーが待っていることを。
初めての重賞が、自分に何を教えるのかを。
シェイクユアハートは、上の場所の風を浴びた。
その風は冷たく、少し苦く、けれど次の扉の匂いがした。