心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第四章]上の場所の風

勝つと、世界はどーんとは変わらなかった。

 

朝は来る。

食堂は開く。

宮田先生はいつも通り予定表を見ている。

藤川弟トレーナーはいつも通り少し声がこわい。

廊下では誰かが寝坊して怒られている。

 

けれど、少しだけ違う。

 

シェイクユアハートの名前の横には、もう「未勝利」という言葉がなかった。

 

それは不思議な感覚だった。

 

「ほわ~……勝つと、肩書きが変わるんですねぇ……」

 

掲示板を見上げながらそう言うと、宮田先生が隣で腕を組んだ。

 

「肩書きだけやない。相手も変わる」

 

「相手……」

 

「次は、勝った子らと走る」

 

勝った子ら。

 

シェイクはその言葉を、ゆっくり噛んだ。

 

未勝利戦で一番前に出た。

ゴール板の向こうに誰もいない場所を知った。

胸の奥で鳴った音も、まだ少し残っている。

 

けれど次は、同じように一番前を知っている子たちと走る。

 

「みんな、勝ったことがあるんですねぇ……」

 

「そうや」

 

「それは……」

 

シェイクは少し考えた。

 

「にぎやかそうですぅ……」

 

「感想そこか」

 

宮田先生は呆れた顔をした。

でも、すぐに真面目な声へ戻る。

 

「シェイク。勝った次が大事や」

 

「はいぃ」

 

「一回勝ったからって、全部が楽になるわけやない。むしろ、ここからの方が自分の形を持ってへんとしんどい」

 

「自分の形……」

 

「前に行くんか、待つんか。どこで息を入れるんか。どこで勝負するんか。それを、相手が強くなってもできるかや」

 

シェイクは、掲示板の自分の名前を見た。

 

シェイクユアハート。

二歳未勝利一着。

 

その下に、次の予定が書き込まれていく。

 

三歳一勝クラス。

中京。

芝二千。

 

また中京だった。

 

けれど、前と同じ中京ではない。

 

藤川弟トレーナーは、資料を机に並べていた。

 

シェイクは向かいに座り、いつものようにお茶を持っている。

湯気の向こうで、藤川弟トレーナーの表情は真剣だった。

 

「次は、今までより相手が上がります」

 

「勝った子たちですもんねぇ」

 

「はい。みんな、何かしら勝ち方を持ってます。前で押し切る子もいる。長く脚を使う子もいる。終いだけで差してくる子もいる」

 

「ほわ~……みんな、得意なことがあるんですねぇ……」

 

「シェイクにもあります」

 

「わたしにも?」

 

「あります」

 

藤川弟トレーナーは、即答した。

 

「勝負どころで、ちゃんと反応できる。周りを見てから、自分で道を選べる。前走はそれで勝ちました」

 

「でも、ちょっと遅いんですよねぇ……」

 

「それを直します」

 

「声がこわいですぅ……」

 

「内容だけ聞いてください」

 

「はいぃ」

 

藤川弟トレーナーは、映像を止めた。

前走の四コーナー。シェイクが前を捕らえに行く場面。

 

「ここです。ここで動けたのは良かった。でも、次の相手だと、同じタイミングでは届かないかもしれない」

 

「早く動くんですかぁ?」

 

「早く動く準備をします。全部早くしたら最後に止まります。だから、準備だけ早く」

 

「準備だけ……」

 

「勝負どころで急に走るんじゃなくて、その前から勝負できる形にしておく」

 

シェイクはお茶を飲もうとして、少し止まった。

 

「それ、難しくないですかぁ?」

 

「難しいです」

 

「やっぱり……」

 

「でも、上に行くなら必要です」

 

上。

 

その言葉は、まだ遠い場所のようでいて、すぐ目の前にもあった。

 

未勝利を勝った時、藤川弟トレーナーは言った。

 

次の場所へ行けます。

 

今、シェイクはその次の場所にいる。

 

「藤川弟さん」

 

「はい」

 

「上の場所って、どんな感じですかぁ?」

 

「楽ではないです」

 

「でしょうねぇ……」

 

「でも、シェイクが何もできない場所ではないです」

 

シェイクは瞬きをした。

 

「また、言い切りますねぇ」

 

「言い切ります」

 

「どうしてですかぁ?」

 

「前走、勝ったので」

 

「ほわ~……勝つと信用されるんですねぇ……」

 

「勝つ前から見てました」

 

藤川弟トレーナーは少しだけ視線を逸らした。

 

「だから、勝った後も見ます」

 

シェイクはお茶の湯気を見つめた。

声はこわい。

少し荒い。

でも、この人は走りを見てくれる。

 

顔がいいだけではなかった。

 

「藤川弟さん」

 

「なんですか」

 

「やっぱり、ちょっと少女漫画っぽいですねぇ……」

 

「どこがですか」

 

「顔が……」

 

「レースの話をしてください」

 

中京の空は、年明けらしく澄んでいた。

 

一勝クラス。

前走と同じ芝二千。

同じ距離なのに、パドックの空気は少し違っている。

 

シェイクは歩きながら、周囲を見た。

 

みんな、勝ったことがある。

 

それは見た目だけで分かるものではない。

けれど、どこかに違いがあった。

自分の走り方を知っている子たちの静けさ。

負けたくないという気配の硬さ。

 

未勝利戦の時より、音が太い。

 

「ほわ~……上の場所ですねぇ……」

 

藤川弟トレーナーが隣に来た。

 

「びびってます?」

 

「少しだけですぅ」

 

「それでいいです。何も感じないよりは」

 

「藤川弟さんも、びびりますかぁ?」

 

「びびりますよ」

 

「ほわ?」

 

シェイクは思わず彼を見た。

 

藤川弟トレーナーは、前を見たまま言った。

 

「勝たせたい時ほど、びびります。下手に動かして負けたらどうしようとか、遅れて届かなかったらどうしようとか」

 

「声、いつも強いのに……」

 

「声と中身は別です」

 

「そうなんですねぇ……」

 

「でも、びびってもやるだけです」

 

その言葉は、冷たい水みたいだった。

少しひやっとして、でも目が覚める。

 

「シェイクも、びびっても走ってください」

 

「はいぃ……びびっても走りますぅ」

 

ゲートに入る。

 

胸が鳴る。

前走より、少し強く。

初勝利の記憶と、上の場所の空気が混じっている。

 

扉が開いた。

 

シェイクは出た。

前走ほど楽ではない。

周りが速い。

位置を取ろうとする圧が強い。

 

藤川弟トレーナーの声が飛ぶ。

 

「下げない!」

 

シェイクは足を引かなかった。

 

自分の場所を取る。

けれど、今回はその場所にいるだけで体力を使う。

前の子たちは簡単には止まらない。横の子たちも簡単には退かない。

 

一コーナー。

二コーナー。

 

流れに乗る。

息を入れる。

でも、前走ほど余裕はない。

 

向こう正面。

シェイクは耳を少し伏せた。

 

上の場所は、にぎやかだ。

みんな、自分の音を持っている。

 

「シェイク、準備!」

 

藤川弟トレーナーの声。

 

まだ早い。

でも、遅くない。

 

シェイクは少しずつ、勝負の形を作る。

急に踏むのではなく、その前から身体を起こす。

 

三コーナー。

四コーナー。

 

前が動く。

 

シェイクの目が変わった。

 

ここ。

 

脚は残っている。

けれど、前もまだ止まらない。

未勝利戦の時とは違う。

追えば届くと思えたあの背中より、今日の背中は硬い。

 

「行け!」

 

藤川弟トレーナーの声が飛ぶ。

 

シェイクは踏んだ。

 

直線。

芝が鳴る。

息が熱い。

前との差が詰まる。

一頭、捕まえた。

もう一頭の背中も近い。

 

けれど、外から別の子が伸びてくる。

 

強い。

 

シェイクも止まっていない。

最後までやめていない。

でも、前に二人いる。

 

ゴール板。

 

三着。

 

勝てなかった。

 

シェイクはしばらく、息を弾ませたまま立っていた。

 

初勝利の時と違って、ゴールの向こうに誰もいない場所ではなかった。

前に二人。

自分より先に、次の場所へ届いた子がいた。

 

「ほわ~……」

 

声が漏れる。

 

そこに藤川弟トレーナーが来た。

表情は悔しそうだった。

 

「三着です」

 

「はいぃ……三着でしたぁ」

 

「内容は悪くないです」

 

「でも、勝てませんでしたぁ」

 

「はい」

 

藤川弟トレーナーは、言い訳をしなかった。

 

シェイクは胸に手を当てた。

心臓はまだ強く鳴っている。

けれど、初勝利の時とは違う音だった。

 

悔しい。

 

その言葉が、ようやく形になり始めていた。

 

「藤川弟さん」

 

「はい」

 

「一番前って、毎回行ける場所じゃないんですねぇ……」

 

「そうです」

 

「勝ったら、分かった気がしてたんですけどぉ……」

 

「勝ったから、分かることもあります。でも、勝ったあとに負けて分かることもあります」

 

「それは……」

 

シェイクは少しだけ眉を下げた。

 

「ちょっと、苦いですねぇ……」

 

「苦いです」

 

藤川弟トレーナーは頷いた。

 

「でも、三着です。上の相手に、ちゃんと競馬はできています」

 

「ちゃんと競馬……」

 

「足りないところも見えました。悪くないです」

 

「悪くない、ですかぁ……」

 

シェイクは、前にいた二人の背中を思い出した。

 

届きそうだった。

でも、届かなかった。

 

八着の時は、世界が広かった。

未勝利を勝った時は、世界が少し静かになった。

今日は、世界に段差があることを知った。

 

同じ芝二千。

同じように走っても、相手が変われば届く場所が変わる。

 

宮田先生が戻ってきた。

 

「よう走ったな」

 

「三着でしたぁ……」

 

「せやな」

 

「勝てませんでしたぁ……」

 

「せやな」

 

「でも、上の場所でも、少し走れましたぁ……」

 

宮田先生は頷いた。

 

「それでええ。けど、満足はするなよ」

 

「はいぃ……」

 

「ここからや」

 

ここから。

 

シェイクはその言葉を、胸の奥へ落とした。

 

帰りの車内で、シェイクは窓の外を眺めていた。

冬の景色が流れていく。

勝った時と同じ道なのに、今日は少し色が違って見えた。

 

「藤川弟さん」

 

「はい」

 

「三着って、悔しいですねぇ……」

 

「はい」

 

「でも、八着より近いですぅ」

 

「近いです」

 

「近いのに届かないの、変な感じですぅ……」

 

「その変な感じを、忘れないでください」

 

藤川弟トレーナーは静かに言った。

 

「上で走るなら、そういう日が増えます。勝てそうで勝てない。届きそうで届かない。だから、少しずつ直していくしかないです」

 

「少しずつ……」

 

「はい。一気に全部変えようとしたら、シェイクの良さまで消えます」

 

「わたしの良さ……」

 

「勝負どころで、ふっと力を出せるところです」

 

シェイクは、自分の手を見た。

 

ふっと力を出せる。

でも、今日はそれだけでは足りなかった。

 

「じゃあ、ふっとする前に、準備しますぅ……」

 

「そうしてください」

 

「ふっと準備しますぅ……」

 

「それは伝わりにくいです」

 

「ほわ~……」

 

寮に戻ると、掲示板に結果が書き込まれた。

 

三歳一勝クラス三着。

 

未勝利一着の下に、新しい数字が並ぶ。

勝ち上がった先で、すぐに壁に当たったわけではない。

でも、楽に越えられたわけでもない。

 

シェイクはその数字をしばらく見ていた。

 

通りかかった藤川兄トレーナーが、穏やかに声をかけた。

 

「お疲れさまでした、シェイク」

 

「藤川兄さん……三着でしたぁ」

 

「見てました。良い三着でしたね」

 

「良い三着って、あるんですかぁ?」

 

「ありますよ。次に続く三着です」

 

藤川兄トレーナーは、掲示板を見た。

 

「でも、悔しいでしょう」

 

「はいぃ……ちょっと、悔しいですぅ」

 

「それは、良いことです」

 

「藤川弟さんも同じこと言いそうですぅ……」

 

「兄弟なので」

 

「ほわ~……兄弟ですねぇ……」

 

藤川兄トレーナーは微笑んだ。

 

「次は、もっと大きな場所になるかもしれませんね」

 

「大きな場所……?」

 

シェイクが首を傾げる。

 

その時、少し離れたところで宮田先生が腕を組んでいた。

表情は考え込むようで、けれどどこか決めているようでもあった。

 

藤川弟トレーナーも、その横に立っている。

 

「先生」

 

「おう」

 

「あの子、重賞を見せますか」

 

重賞。

 

その言葉は、シェイクの耳に届いた。

 

まだ意味を全部は分かっていない。

けれど、空気が少し変わったことは分かった。

 

宮田先生はしばらく黙っていた。

そして、掲示板のシェイクユアハートの名前を見た。

 

「早いかもしれん」

 

藤川弟トレーナーは黙っている。

 

「けど、見せておく価値はある」

 

シェイクは、ほわりと瞬きをした。

 

上の場所の、そのまた上。

勝った子たちの中で三着になったばかりの自分が、さらに大きな場所を見に行く。

 

胸の奥で、また心臓が鳴った。

 

それは初勝利の時の静かな音でも、今日の悔しさの音でもなかった。

 

少しだけ怖い。

でも、少しだけ気になる。

 

「ほわ~……」

 

シェイクは小さく呟いた。

 

「次の場所、また大きくなるんですねぇ……」

 

まだ、彼女は知らない。

そこには、勝負の匂いが濃いトレーナーが待っていることを。

初めての重賞が、自分に何を教えるのかを。

 

シェイクユアハートは、上の場所の風を浴びた。

 

その風は冷たく、少し苦く、けれど次の扉の匂いがした。

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