重賞、という言葉は、寮の空気を少しだけ硬くする。
いつもは食堂で味噌汁の具について真剣に語っている先輩ウマ娘も、掲示板の予定欄にその文字を見つけると、ちらりと目を向ける。
廊下を歩くトレーナーたちの声も、少し低くなる。
先生たちの机の上には、普段より分厚い資料が積まれる。
きさらぎ賞。
シェイクユアハートの名前が、その出走予定の中にあった。
「ほわ~……」
掲示板の前で、シェイクはしばらく首を傾げていた。
「大きい文字ですねぇ……」
隣にいた藤川弟トレーナーが、眉を寄せた。
「見るところ、そこですか」
「ほわ?」
「重賞です」
「はいぃ……重賞ですぅ……」
「分かってます?」
「たぶん……上の場所の、さらに上ですよねぇ」
「ざっくりしすぎです」
藤川弟トレーナーはため息をついた。
けれど、怒ってはいなかった。
シェイクは一勝クラスで三着になったばかりだった。
勝ててはいない。
それでも、上の相手に走れるところは見せた。
宮田先生は、その一走で何かを決めたらしい。
早いかもしれない。
けれど、見せておく価値はある。
宮田先生はそう言った。
シェイクには、その意味がまだ半分も分かっていなかった。
けれど、胸の奥がいつもより少し騒がしいことだけは分かる。
「藤川弟さん」
「はい」
「重賞って、怖いですかぁ?」
「怖いです」
即答だった。
「ほわ」
「でも、怖い場所を知らないまま上に行く方が、もっと怖いです」
「なるほどぉ……」
「分かりました?」
「少しだけですぅ」
そこへ、宮田先生がやって来た。
「シェイク。今回、担当は藤川弟やない」
「そうなんですかぁ?」
「ああ。岩橋トレーナーに頼む」
藤川弟トレーナーの表情が、ほんの少し変わった。
驚きではない。
納得と、少しの緊張が混じった顔だった。
「岩橋さんですか」
「重賞の空気、あの人で見せる」
「……分かりました」
シェイクは二人の顔を交互に見た。
「岩橋トレーナーさん……?」
「地方で叩き上げてきた人や」
宮田先生が言う。
「勝負どころで腹をくくれる。馬群を怖がらん。言葉は強いかもしれんが、見る目はある」
「ほわ~……」
シェイクの耳が少し伏せた。
「言葉、強いんですかぁ……」
「お前はそこを気にするやろな」
宮田先生は苦笑した。
「けどな、シェイク。上の場所では、優しい声だけ聞いとったら間に合わん時がある」
「間に合わない……」
「そうや。待っとるだけでは道が開かん時がある」
その言葉は、シェイクの胸に小さく残った。
自分の場所を取る。
藤川弟トレーナーに教わったことだった。
けれど、重賞ではもっと違うのかもしれない。
場所を取るだけではなく、道がないように見えるところへも進まなければならない時があるのかもしれない。
その日の午後、シェイクは初めて岩橋トレーナーと顔を合わせた。
第一印象は、濃かった。
背は特別高いわけではない。
服装も派手ではない。
けれど、立っている場所の空気が違った。
芝や土の匂いが染みついたような人だった。
黙っていても、勝負の中に立ってきた時間がにじむ。
「シェイクユアハートか」
岩橋トレーナーは、短く言った。
「はいぃ……シェイクユアハートですぅ」
「ほわほわしとるな」
「よく言われますぅ……」
「せやろな」
岩橋トレーナーはシェイクを上から下まで見た。
耳。目。肩。腰。脚。
宮田先生や藤川弟トレーナーとも違う見方だった。
褒めるためでも、安心させるためでもない。
この子がどこで動くのか。どこで怖がるのか。どこで踏めるのか。
それだけを探す目だった。
「前走、最後まで脚は使っとった」
「はいぃ……でも、三着でしたぁ」
「勝ち切れてへん。けど、反応はある」
「反応……」
「ぼーっとしとる顔のわりに、勝負どころだけ目ぇ変わるやろ」
シェイクは瞬きをした。
「自分では、よく分からないですぅ」
「分からんでええ。分からんままでも、身体が動くなら使える」
岩橋トレーナーはそう言って、手元の資料を閉じた。
「今回は、きれいに走る場所やない」
「きれいに……?」
「重賞や。みんな勝ちに来る。外を回して、はい届きませんでした、では終わりや」
声が強い。
シェイクの耳がぴくりと動く。
「怖いか」
「……少し、ですぅ」
「怖がるな、とは言わん」
岩橋トレーナーは、少しだけ声を落とした。
「怖いまま行け。勝負どころで怖くなくなる奴は、だいたい何も見えてへん。怖いのに行ける奴が、前に出る」
シェイクは、じっとその顔を見た。
優しい言葉ではない。
でも、不思議と雑には聞こえなかった。
「怖いまま……」
「そうや。道は空くもんやない。見つけるもんや」
その言葉は、春の陽だまりでも、朝の冷たい水でもなかった。
熱い鉄の匂いがした。
翌日からの調整は、今までと少し違った。
岩橋トレーナーは細かく褒めない。
できたことを大げさに持ち上げない。
できていないことは、短く突く。
「そこ、見るのが遅い」
「はいぃ」
「内が空くと思って待つな。空く前に準備しろ」
「はいぃ……」
「耳だけ忙しゅうしても意味ない。足動かせ」
「耳も足も忙しいですぅ……」
「それでええ」
シェイクは毎回、少しだけくたびれた顔になった。
練習後、藤川兄トレーナーが様子を見に来た。
「大丈夫ですか、シェイク」
「ほわ~……勝負の匂いが濃いですぅ……」
「岩橋さんですか」
「はいぃ……」
藤川兄トレーナーは苦笑した。
「岩橋さんは、濃いでしょうね」
「藤川兄さんは、やさしい匂いですぅ……」
「匂いで分類されてるんですね、僕ら」
「藤川弟さんは、朝の水ですぅ」
「なるほど」
「岩橋さんは、鉄板ですぅ……」
「焼かれそうですね」
シェイクはこくこくと頷いた。
そこへ、岩橋トレーナーが通りかかった。
「何を話しとる」
「岩橋さんが鉄板みたいだという話です」
藤川兄トレーナーが、にこやかに答える。
岩橋トレーナーは眉を寄せた。
「何やそれ」
「ほわ~……熱くて、ちょっとこわいですぅ……」
「なら、焦げんように走れ」
「はいぃ……」
藤川兄トレーナーは笑っていたが、シェイクはけっこう本気だった。
岩橋トレーナーは怖い。
声も強い。
近くにいると、勝負の匂いが濃い。
けれど、彼はシェイクのことを雑に扱わなかった。
ほわほわしているからといって、何も考えていない子とは見なさない。
お嬢様だからといって、壊れ物のようにも扱わない。
勝負どころで動けるかどうか。
ただそれだけを見る。
その視線は少し怖くて、少し楽だった。
きさらぎ賞の日。
競馬場の空気は、一勝クラスの時とはまた違っていた。
重賞のパドックは、音が硬い。
人の視線が多い。
周囲のウマ娘たちの気配も鋭い。
ここにいる全員が、ただ走りに来たわけではない。
勝ちに来ている。
シェイクは歩きながら、耳を少し伏せた。
「ほわ~……にぎやかというより、ぎゅっとしてますぅ……」
岩橋トレーナーが隣で言った。
「飲まれるな」
「飲まれたら、どうなりますかぁ?」
「後ろで終わる」
「それは……困りますぅ」
「なら、自分の足で立っとけ」
シェイクは深呼吸した。
胸が鳴っている。
初勝利の時よりも、一勝クラスの三着の時よりも、ずっと忙しい。
怖い。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「岩橋さん」
「何や」
「怖いまま行くんですよねぇ」
「そうや」
「はいぃ……怖いまま行きますぅ」
岩橋トレーナーは、ほんの少しだけ口元を動かした。
「それでええ」
ゲートに入る。
空気が狭くなる。
隣の気配が鋭い。
スタンドの音が遠くなる。
シェイクは目を閉じなかった。
扉が開いた。
重賞の流れは、速かった。
ただ時計が速いというだけではない。
判断が速い。
位置を取る圧が速い。
みんなが、自分の勝負へ入るのが速い。
シェイクも出る。
けれど、すぐに周りの強さを感じた。
自分の場所を取る。
そう思っても、その場所にはもう誰かの脚がある。
下げれば終わる。
押しすぎれば苦しくなる。
「シェイク、怯むな!」
岩橋トレーナーの声が飛ぶ。
強い声。
熱い鉄の音。
シェイクは足を緩めなかった。
一コーナー。
二コーナー。
流れに乗るだけで息が熱い。
未勝利戦とも、一勝クラスとも違う。
ここでは、少しの遅れがすぐに形になる。
向こう正面で、シェイクは周囲を見た。
前の子たちは強い。
横の子も引かない。
後ろからも音が来る。
怖い。
でも、怖いまま行く。
三コーナー手前。
岩橋トレーナーの声が届く。
「準備せえ。待つな」
シェイクは身体を起こした。
まだ道はない。
でも、道が見えるまで待っていたら遅い。
前の列が少し詰まる。
外から一頭が動く。
内に狭い隙間が見えた。
狭い。
怖い。
でも、行けるかもしれない。
「そこや!」
岩橋トレーナーの声。
シェイクの目が変わった。
「……ここ、ですぅ」
踏む。
内へ身体を入れる。
芝の匂いが濃くなる。
前の背中が近い。
横の気配が圧をかける。
それでも、シェイクは引かなかった。
四コーナー。
一瞬、視界が開いた。
行ける。
そう思った。
直線に向いて、シェイクは脚を使った。
胸が強く鳴る。
身体が熱い。
前へ伸びる。
けれど、前の子たちも止まらない。
重賞の前は、簡単には沈まない。
横から伸びる子もいる。
外から来る子もいる。
シェイクの脚は残っているのに、差が思ったほど詰まらない。
「まだやめるな!」
岩橋トレーナーの声。
やめない。
シェイクは最後まで走った。
ゴール板が過ぎる。
六着。
数字は、勝利から遠かった。
けれど、新馬戦の八着とは違う重さだった。
シェイクは肩で息をしながら、しばらく前を見ていた。
「ほわ~……」
声がかすれる。
岩橋トレーナーが来た。
「六着や」
「はいぃ……六着でしたぁ……」
「勝ててへん」
「はいぃ……」
「でも、逃げてへん」
シェイクは顔を上げた。
岩橋トレーナーは、厳しい目をしていた。
けれど、責めてはいなかった。
「三コーナーから、よう入った。怖かったやろ」
「怖かったですぅ……」
「せやろな」
「でも、行けましたぁ……」
「行けた。それは覚えとけ」
シェイクは胸に手を当てた。
心臓はまだ強く鳴っている。
けれど、その音には悔しさだけではないものが混じっていた。
怖い場所へ行けた。
重賞の中で、自分の足を引かなかった。
勝てなかった。
でも、見た。
上の場所の、そのまた上を。
宮田先生が戻ってきた。
「どうやった」
シェイクは少し考えた。
「……みんな、強かったですぅ」
「せやな」
「前の子たち、止まりませんでしたぁ」
「せやな」
「でも、わたし……ちょっとだけ、入れましたぁ」
宮田先生は頷いた。
「それを見せたかった」
「ほわ?」
「重賞はな、きれいに負ける場所やない。勝ちに行って、足りんところを知る場所でもある」
岩橋トレーナーが隣で腕を組んだ。
「この子、ほわほわしとるけど、鈍くはない。勝負どころは分かっとる」
「そうですかぁ……?」
シェイクが首を傾げる。
「分かっとる。せやけど、まだ身体が先に納得しきってへん。もっと場数やな」
宮田先生は、静かに息を吐いた。
「せやな」
帰り道、シェイクは窓の外を見ていた。
初勝利の帰り道とは違う。
一勝クラス三着の帰り道とも違う。
今日は、胸の中に熱い鉄の匂いが残っていた。
怖かった。
苦しかった。
勝てなかった。
でも、少しだけ面白かった。
「岩橋さん」
「何や」
「重賞って、怖いですねぇ」
「そうや」
「でも……ちょっとだけ、また行ってみたいですぅ」
岩橋トレーナーは、横目でシェイクを見た。
「それなら上等や」
「上等……」
「怖い場所に、また行きたいと思えるなら、まだ走れる」
シェイクは、窓に映った自分の顔を見た。
いつも通り、どこかほわほわしている。
けれど、目の奥に少しだけ違うものがあった。
勝負の匂い。
怖いまま行く感覚。
道が空くのを待つのではなく、見つけにいく足。
岩橋トレーナーは、シェイクに優しい夢を見せる人ではなかった。
少女漫画のトレーナーでもない。
声は強く、空気は濃く、近くにいると少し焼けそうになる。
けれど、シェイクは知った。
そういう人でなければ、見せられない景色もある。
寮へ戻ると、藤川弟トレーナーが玄関近くにいた。
結果はもう聞いている顔だった。
「お疲れさまでした」
「藤川弟さん……六着でしたぁ」
「見てました」
「怖かったですぅ……」
「でしょうね」
「でも、行けましたぁ」
藤川弟トレーナーは少しだけ頷いた。
「それなら、意味はありました」
「藤川弟さん、声はこわいですけど、岩橋さんは匂いがこわいですぅ……」
「比較が独特ですね」
「勝負の匂いが濃かったですぅ……」
その時、藤川兄トレーナーも顔を出した。
「お帰りなさい、シェイク」
「藤川兄さん……ただいまですぅ」
「重賞、どうでした?」
シェイクは少し考えてから答えた。
「上の上は、熱かったですぅ」
藤川兄トレーナーは、穏やかに笑った。
「それは、よく見てきましたね」
「はいぃ……ちょっと焦げましたぁ……」
宮田先生が後ろから言った。
「焦げたくらいで済んでよかったな」
「ほわ~……次は焦げないようにしますぅ……」
「次があるつもりなんやな」
シェイクは、少しだけ耳を前へ向けた。
「はいぃ……たぶん」
その夜、シェイクは机に向かい、今日のメモを書いた。
きさらぎ賞六着。
重賞は怖い。
道は空くものじゃなくて、見つけるもの。
怖いまま行けた。
でも、前は止まらなかった。
最後に少し迷って、もう一行足した。
勝負の匂いは、熱い。
書き終えてから、シェイクはペンを置いた。
「ほわ~……」
胸の奥で、心臓がまだ少し鳴っている。
まだ勝てない。
まだ足りない。
けれど、知らないままではなくなった。
シェイクユアハートは、初めての重賞で負けた。
けれどその日、彼女は勝負の匂いを覚えた。
それは、これから先、何度も彼女の胸の奥で熱を持つことになる。