心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第六章]春の扉は閉じて

きさらぎ賞の六着は、シェイクユアハートの中にしばらく残った。

 

負けた。

けれど、ただ負けたわけではない。

 

重賞の空気。

前の子たちが止まらない直線。

狭いところへ入っていく怖さ。

それでも足を引かなかった感触。

 

岩橋トレーナーの声は、今でも耳の奥に残っている。

 

怖いまま行け。

 

その言葉は、春の陽だまりのような藤川兄トレーナーの声とも、朝の冷たい水のような藤川弟トレーナーの声とも違っていた。

熱くて、少し焦げそうで、でも必要な熱だった。

 

寮に戻ってからも、シェイクは時々、調教の前に自分の胸に手を当てた。

 

「怖いまま……」

 

そう呟いてから走り出す。

すると不思議と、耳だけが忙しくなる時間が減った。

全部の音を拾おうとするのではなく、自分が踏むべき音を探すようになった。

 

宮田先生は、それを黙って見ていた。

 

「きさらぎ賞、効いとるな」

 

ある朝、宮田先生が言った。

 

「効いてますかぁ?」

 

「ええ意味でな。ちょっとだけ、勝負の方へ身体が向いとる」

 

「ほわ~……身体に方角があるんですねぇ……」

 

「ある。お前は今まで、花壇とか食堂の方を向きがちやった」

 

「食堂は大事ですぅ……」

 

「それは否定せん」

 

宮田先生は笑った。

けれど、すぐにいつもの見る目に戻った。

 

「次、大寒桜賞を使う」

 

「大寒桜……」

 

「中京の二二や」

 

「二二……長くなりますねぇ」

 

「クラシックへ行くなら、距離も、相手も、形も見ておかなあかん」

 

クラシック。

 

その言葉が出た瞬間、シェイクの耳が少し動いた。

 

寮の中でも、何度か聞いたことがある。

同世代のウマ娘たちが目指す、大きな春の扉。

みんなが簡単には口にしないけれど、心のどこかでは見上げている場所。

 

親からの手紙にも、それに似た言葉はあった。

 

大きなところで走れたらいいですね。

あなたらしく、でも胸を張って。

 

丁寧な字。

やさしい文面。

それでも、紙の向こう側には期待があった。

 

シェイクは手紙を読むたび、少しだけ不思議な気持ちになった。

 

大きなところ。

胸を張る場所。

そこに行く自分。

 

「ほわ~……」

 

「どうした」

 

「クラシックって、春のお茶会みたいな名前ですねぇ……」

 

「たぶん全然違う」

 

「そうですかぁ……」

 

宮田先生は腕を組んだ。

 

「行けるかどうかは、走ってみな分からん」

 

「はいぃ」

 

「けど、行く気がない子を連れていく場所でもない」

 

「行く気……」

 

シェイクは自分の胸に手を当てた。

 

行きたいのか。

自分はそこへ行きたいのか。

 

すぐには答えが出なかった。

 

でも、きさらぎ賞の直線を思い出す。

前の子たちが止まらなかった。

自分の脚は残っていたのに、届かなかった。

あの背中を、もう一度見たいか。

 

見たい気がした。

 

「わたし、まだ分からないですけどぉ……」

 

「おう」

 

「大きい場所の風は、もう少し知りたいですぅ」

 

宮田先生は、少しだけ目を細めた。

 

「なら、走ってこい」

 

大寒桜賞の日、担当は岩橋トレーナーだった。

 

きさらぎ賞で重賞の熱を見せた人。

勝負の匂いが濃い人。

シェイクの中では、鉄板みたいな人。

 

パドックで顔を合わせるなり、岩橋トレーナーは短く言った。

 

「今日は、きれいにまとめに行くな」

 

「ほわ~……まとめるの、だめですかぁ?」

 

「だめやない。けど、まとめに行って四着五着なら、何も残らん」

 

「何も……」

 

「クラシック見たいんやろ」

 

シェイクの耳がぴんと立った。

 

「……見たいですぅ」

 

「なら、脚を測れ。距離を測れ。相手を測れ。勝てるかどうかだけやなくて、上で何が足りんか持って帰れ」

 

「持って帰るもの、多いですねぇ……」

 

「鞄大きくしとけ」

 

「はいぃ……」

 

岩橋トレーナーは、相変わらず優しく夢を見せる人ではなかった。

けれど、その言葉の中には、シェイクを重賞で見た人の確かさがあった。

 

中京の芝二二。

 

未勝利を勝った中京。

一勝クラスで三着だった中京。

それでも今回は、また違っていた。

 

距離が延びる。

流れが変わる。

息の入れ方も、勝負の始まりも、少しずつ違う。

 

ゲートに入る前、シェイクは空を見た。

 

春の空は、淡かった。

大寒桜という名前に反して、競馬場に桜はまだ遠かった。

けれど、どこかに春の匂いはある。

 

春の扉。

 

クラシック。

 

そこへ続く道が、今日の先にあるのかもしれない。

 

「シェイク」

 

岩橋トレーナーの声。

 

「怖いか」

 

「少しですぅ」

 

「ならええ。怖くない顔して行くな。怖いまま、測ってこい」

 

「はいぃ」

 

ゲートが開いた。

 

シェイクは出た。

 

前走ほどの重賞の圧ではない。

けれど、楽ではなかった。

 

二二の流れは、シェイクが知っている二千とは少し違う。

前へ行きすぎれば最後が苦しくなる。

待ちすぎれば、勝負どころで置かれる。

岩橋トレーナーの声が時々飛ぶ。

 

「急ぐな」

 

息を入れる。

 

「見るな、感じろ」

 

耳が動く。

足が芝を拾う。

 

「準備しとけ」

 

三コーナーの前で、胸の奥が鳴った。

 

ここからだ。

 

シェイクは身体を起こした。

前を見る。

外の子が動く。

内の流れは少し重い。

自分の脚はまだある。

 

けれど、距離のぶんだけ、踏むのが怖い。

 

早すぎたら止まる。

遅すぎたら届かない。

 

「シェイク、行くぞ」

 

岩橋トレーナーの声が、熱く響いた。

 

シェイクは踏んだ。

 

四コーナー。

前が見える。

勝てるかもしれない、というところまでは行けなかった。

けれど、まったく届かない場所でもない。

 

直線に向く。

 

脚を使う。

胸が鳴る。

前を追う。

一頭、交わせそうで交わせない。

外から伸びる子がいる。

内で粘る子がいる。

 

シェイクも止まってはいない。

最後まで走っている。

でも、前にいる子たちは今日も簡単には止まらない。

 

ゴール板が過ぎた。

 

四着。

 

シェイクは息を整えながら、しばらく前を見ていた。

 

「ほわ~……」

 

勝てなかった。

馬券のように、きれいな三着以内にも入れなかった。

けれど、八着とも六着とも違う。

上へ届きそうで、届かなかった四着。

 

岩橋トレーナーが来た。

 

「四着や」

 

「はいぃ……四着でしたぁ」

 

「どうやった」

 

シェイクは少し考えた。

 

距離。

息。

仕掛け。

前の強さ。

最後の自分の脚。

 

「……2200は、長いですぅ」

 

「せやな」

 

「でも、走れない長さじゃなかったですぅ」

 

「せやな」

 

「でも、上へ行くには……足りないですぅ」

 

岩橋トレーナーは黙ってシェイクを見た。

そして、短く頷いた。

 

「分かったならええ」

 

「ええんですかぁ?」

 

「勝てばもっとよかった。でも、今日は分かることも仕事や」

 

仕事。

 

その言葉に、シェイクは少しだけ顔を上げた。

 

必殺仕事人、などと周囲が冗談めかして言うことがある。

ほわほわしているのに、勝負どころだけ妙に仕事をする子。

けれど今日は、勝つ仕事を終えられなかった。

 

代わりに、足りないものを持って帰る仕事をした。

 

宮田先生が戻ってきた。

 

「どうや」

 

岩橋トレーナーが答える。

 

「走れてはいます。ただ、春の大きいところで勝負するには、まだ薄いです」

 

薄い。

 

その言葉は少し痛かった。

 

シェイクは耳を伏せかけた。

けれど、岩橋トレーナーは続けた。

 

「悪い薄さやない。まだ身体も、勝負の形も、これから厚くできる。ただ、今すぐ大きい春へ押し込むのは違う」

 

宮田先生は、静かに頷いた。

 

「……せやな」

 

その声で、シェイクにも分かった。

 

春の扉は、閉じるのだ。

 

クラシック。

 

その言葉は、少しのあいだシェイクの胸にあった。

行きたいと強く叫ぶほどではなかった。

けれど、見てみたいとは思っていた。

 

あの大きな場所の風を。

強い子たちが集まる春を。

自分の心臓が、そこでも鳴るのかを。

 

でも、今ではない。

 

「宮田先生」

 

「おう」

 

「わたし、クラシックには……行かないんですねぇ」

 

宮田先生は、まっすぐシェイクを見た。

 

「今のままでは、行かせへん」

 

言葉ははっきりしていた。

けれど、冷たくはなかった。

 

「無理に行って、何も残らん負け方をさせるより、ちゃんと作り直す方がええ」

 

「作り直す……」

 

「春は一回しかない。けど、お前の競走生活は春だけやない」

 

シェイクはその言葉を、ゆっくり受け取った。

 

春だけではない。

 

それは慰めのようで、同時にとても現実的な言葉だった。

クラシックの扉は大きい。

でも、その扉だけが競馬ではない。

 

岩橋トレーナーが言った。

 

「悔しいか」

 

シェイクは考えた。

 

「……悔しい、ですぅ」

 

「なら忘れるな」

 

「はいぃ」

 

「でも、引きずるな。悔しさは持つもんや。背負いすぎるもんやない」

 

「難しいですねぇ……」

 

「走るんは大体難しい」

 

「ほわ~……」

 

帰り道、車内は静かだった。

 

シェイクは窓の外を見ていた。

春の光が流れていく。

遠くに、桜らしい色が少しだけ見えた気がした。

 

大寒桜。

名前だけなら、春へ連れていってくれそうだった。

けれど実際には、春の扉の前で足を止めるレースになった。

 

親へ、どう伝わるのだろう。

宮田先生はどう説明するのだろう。

期待してくれていたのなら、がっかりするのだろうか。

 

シェイクは、自分の手を見た。

 

一番前を知っている手。

重賞で怖いまま行けた手。

今日、春へは届かなかった手。

 

「ほわ~……」

 

小さく息を吐いた。

 

隣に座っていた藤川弟トレーナーが、声をかけた。

今日の担当ではなかったが、映像確認のために同行していた。

 

「落ち込んでます?」

 

「たぶん……」

 

「たぶんですか」

 

「春の扉が、閉まりましたぁ……」

 

藤川弟トレーナーは少し黙った。

それから、静かに言った。

 

「扉は一つじゃないです」

 

「宮田先生も、似たこと言ってましたぁ……」

 

「先生が言うなら、そうなんでしょう」

 

「藤川弟さんは、クラシック行きたかったですかぁ?」

 

「行けるなら、行きたかったです」

 

正直な答えだった。

 

「でも、行けばいいってものでもないです。シェイクはまだ良くなります」

 

「また言い切りますねぇ……」

 

「言い切ります」

 

シェイクは少しだけ笑った。

 

「藤川弟さんは、やっぱり声がこわいですけど、言葉はまっすぐですねぇ……」

 

「褒めてます?」

 

「たぶん……」

 

「そこは言い切ってください」

 

寮に戻ると、宮田先生はシェイクを呼んだ。

 

先生の部屋は、いつも資料の匂いがした。

机の上にはレース映像のメモ、予定表、親への連絡文らしき紙が置かれている。

 

「シェイク」

 

「はいぃ」

 

「少し休ませる」

 

「休むんですかぁ?」

 

「ああ。長めに間を取る。身体も気持ちも、いったん作り直す」

 

シェイクは耳を動かした。

 

「夏休み、ですかぁ?」

 

「まあ、そんなとこや」

 

「宿題はありますかぁ?」

 

「ある」

 

「ほわ」

 

「身体を緩めすぎんこと。食べすぎんこと。自分の走りを忘れんこと」

 

「食べすぎ……」

 

「そこが一番不安そうな顔するな」

 

宮田先生は苦笑した。

 

「クラシックは諦める。でも、お前を諦めるわけやない」

 

シェイクは顔を上げた。

 

「わたしを……」

 

「そうや。春に間に合わんかったから終わり、やない。秋でも、来年でも、お前が走れる場所を探す」

 

胸の奥が、少しだけ鳴った。

 

それは勝利の音でも、重賞の熱でもなかった。

閉じた扉の前で、それでもまだ道があると知った音だった。

 

「宮田先生」

 

「何や」

 

「わたし、休んでもいいんですねぇ……」

 

「休むのも仕事や」

 

「仕事……」

 

「せや。ちゃんと休んで、ちゃんと戻ってこい」

 

シェイクはゆっくり頷いた。

 

「はいぃ……戻ってきますぅ」

 

その夜、シェイクは机に向かった。

 

これまでのメモを並べる。

 

新馬戦八着。

外の風を知った。

 

未勝利一着。

自分の場所を取れた。

 

一勝クラス三着。

上の場所の風を知った。

 

きさらぎ賞六着。

勝負の匂いを知った。

 

大寒桜賞四着。

春の扉は閉じた。

 

そう書いて、少し手が止まった。

 

閉じた。

 

その文字は寂しかった。

でも、そこで終わらせたくなかった。

 

シェイクはもう一行、ゆっくり書き足した。

 

夏休み。

心臓を、置いていかない。

 

「ほわ~……」

 

自分で書いた文字を見て、シェイクは少し笑った。

 

春は終わる。

扉は閉じる。

けれど、心臓まで止まるわけではない。

 

長い夏休みが始まる。

 

それは、華やかなクラシックの道ではなかった。

誰かの歓声に包まれる時間でもなかった。

寮の朝。

静かな調整。

身体を作る日々。

焦らず、腐らず、でも忘れずにいるための時間。

 

窓の外には、まだ春の夜があった。

けれどシェイクは、その向こうに来る長い夏を思った。

 

春の扉は閉じた。

でも、どこか別の場所で、まだ開いていない扉がある。

 

シェイクユアハートは、それを探すために、しばらく走ることから少しだけ離れる。

 

心臓の音を、なくさないまま。

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