きさらぎ賞の六着は、シェイクユアハートの中にしばらく残った。
負けた。
けれど、ただ負けたわけではない。
重賞の空気。
前の子たちが止まらない直線。
狭いところへ入っていく怖さ。
それでも足を引かなかった感触。
岩橋トレーナーの声は、今でも耳の奥に残っている。
怖いまま行け。
その言葉は、春の陽だまりのような藤川兄トレーナーの声とも、朝の冷たい水のような藤川弟トレーナーの声とも違っていた。
熱くて、少し焦げそうで、でも必要な熱だった。
寮に戻ってからも、シェイクは時々、調教の前に自分の胸に手を当てた。
「怖いまま……」
そう呟いてから走り出す。
すると不思議と、耳だけが忙しくなる時間が減った。
全部の音を拾おうとするのではなく、自分が踏むべき音を探すようになった。
宮田先生は、それを黙って見ていた。
「きさらぎ賞、効いとるな」
ある朝、宮田先生が言った。
「効いてますかぁ?」
「ええ意味でな。ちょっとだけ、勝負の方へ身体が向いとる」
「ほわ~……身体に方角があるんですねぇ……」
「ある。お前は今まで、花壇とか食堂の方を向きがちやった」
「食堂は大事ですぅ……」
「それは否定せん」
宮田先生は笑った。
けれど、すぐにいつもの見る目に戻った。
「次、大寒桜賞を使う」
「大寒桜……」
「中京の二二や」
「二二……長くなりますねぇ」
「クラシックへ行くなら、距離も、相手も、形も見ておかなあかん」
クラシック。
その言葉が出た瞬間、シェイクの耳が少し動いた。
寮の中でも、何度か聞いたことがある。
同世代のウマ娘たちが目指す、大きな春の扉。
みんなが簡単には口にしないけれど、心のどこかでは見上げている場所。
親からの手紙にも、それに似た言葉はあった。
大きなところで走れたらいいですね。
あなたらしく、でも胸を張って。
丁寧な字。
やさしい文面。
それでも、紙の向こう側には期待があった。
シェイクは手紙を読むたび、少しだけ不思議な気持ちになった。
大きなところ。
胸を張る場所。
そこに行く自分。
「ほわ~……」
「どうした」
「クラシックって、春のお茶会みたいな名前ですねぇ……」
「たぶん全然違う」
「そうですかぁ……」
宮田先生は腕を組んだ。
「行けるかどうかは、走ってみな分からん」
「はいぃ」
「けど、行く気がない子を連れていく場所でもない」
「行く気……」
シェイクは自分の胸に手を当てた。
行きたいのか。
自分はそこへ行きたいのか。
すぐには答えが出なかった。
でも、きさらぎ賞の直線を思い出す。
前の子たちが止まらなかった。
自分の脚は残っていたのに、届かなかった。
あの背中を、もう一度見たいか。
見たい気がした。
「わたし、まだ分からないですけどぉ……」
「おう」
「大きい場所の風は、もう少し知りたいですぅ」
宮田先生は、少しだけ目を細めた。
「なら、走ってこい」
大寒桜賞の日、担当は岩橋トレーナーだった。
きさらぎ賞で重賞の熱を見せた人。
勝負の匂いが濃い人。
シェイクの中では、鉄板みたいな人。
パドックで顔を合わせるなり、岩橋トレーナーは短く言った。
「今日は、きれいにまとめに行くな」
「ほわ~……まとめるの、だめですかぁ?」
「だめやない。けど、まとめに行って四着五着なら、何も残らん」
「何も……」
「クラシック見たいんやろ」
シェイクの耳がぴんと立った。
「……見たいですぅ」
「なら、脚を測れ。距離を測れ。相手を測れ。勝てるかどうかだけやなくて、上で何が足りんか持って帰れ」
「持って帰るもの、多いですねぇ……」
「鞄大きくしとけ」
「はいぃ……」
岩橋トレーナーは、相変わらず優しく夢を見せる人ではなかった。
けれど、その言葉の中には、シェイクを重賞で見た人の確かさがあった。
中京の芝二二。
未勝利を勝った中京。
一勝クラスで三着だった中京。
それでも今回は、また違っていた。
距離が延びる。
流れが変わる。
息の入れ方も、勝負の始まりも、少しずつ違う。
ゲートに入る前、シェイクは空を見た。
春の空は、淡かった。
大寒桜という名前に反して、競馬場に桜はまだ遠かった。
けれど、どこかに春の匂いはある。
春の扉。
クラシック。
そこへ続く道が、今日の先にあるのかもしれない。
「シェイク」
岩橋トレーナーの声。
「怖いか」
「少しですぅ」
「ならええ。怖くない顔して行くな。怖いまま、測ってこい」
「はいぃ」
ゲートが開いた。
シェイクは出た。
前走ほどの重賞の圧ではない。
けれど、楽ではなかった。
二二の流れは、シェイクが知っている二千とは少し違う。
前へ行きすぎれば最後が苦しくなる。
待ちすぎれば、勝負どころで置かれる。
岩橋トレーナーの声が時々飛ぶ。
「急ぐな」
息を入れる。
「見るな、感じろ」
耳が動く。
足が芝を拾う。
「準備しとけ」
三コーナーの前で、胸の奥が鳴った。
ここからだ。
シェイクは身体を起こした。
前を見る。
外の子が動く。
内の流れは少し重い。
自分の脚はまだある。
けれど、距離のぶんだけ、踏むのが怖い。
早すぎたら止まる。
遅すぎたら届かない。
「シェイク、行くぞ」
岩橋トレーナーの声が、熱く響いた。
シェイクは踏んだ。
四コーナー。
前が見える。
勝てるかもしれない、というところまでは行けなかった。
けれど、まったく届かない場所でもない。
直線に向く。
脚を使う。
胸が鳴る。
前を追う。
一頭、交わせそうで交わせない。
外から伸びる子がいる。
内で粘る子がいる。
シェイクも止まってはいない。
最後まで走っている。
でも、前にいる子たちは今日も簡単には止まらない。
ゴール板が過ぎた。
四着。
シェイクは息を整えながら、しばらく前を見ていた。
「ほわ~……」
勝てなかった。
馬券のように、きれいな三着以内にも入れなかった。
けれど、八着とも六着とも違う。
上へ届きそうで、届かなかった四着。
岩橋トレーナーが来た。
「四着や」
「はいぃ……四着でしたぁ」
「どうやった」
シェイクは少し考えた。
距離。
息。
仕掛け。
前の強さ。
最後の自分の脚。
「……2200は、長いですぅ」
「せやな」
「でも、走れない長さじゃなかったですぅ」
「せやな」
「でも、上へ行くには……足りないですぅ」
岩橋トレーナーは黙ってシェイクを見た。
そして、短く頷いた。
「分かったならええ」
「ええんですかぁ?」
「勝てばもっとよかった。でも、今日は分かることも仕事や」
仕事。
その言葉に、シェイクは少しだけ顔を上げた。
必殺仕事人、などと周囲が冗談めかして言うことがある。
ほわほわしているのに、勝負どころだけ妙に仕事をする子。
けれど今日は、勝つ仕事を終えられなかった。
代わりに、足りないものを持って帰る仕事をした。
宮田先生が戻ってきた。
「どうや」
岩橋トレーナーが答える。
「走れてはいます。ただ、春の大きいところで勝負するには、まだ薄いです」
薄い。
その言葉は少し痛かった。
シェイクは耳を伏せかけた。
けれど、岩橋トレーナーは続けた。
「悪い薄さやない。まだ身体も、勝負の形も、これから厚くできる。ただ、今すぐ大きい春へ押し込むのは違う」
宮田先生は、静かに頷いた。
「……せやな」
その声で、シェイクにも分かった。
春の扉は、閉じるのだ。
クラシック。
その言葉は、少しのあいだシェイクの胸にあった。
行きたいと強く叫ぶほどではなかった。
けれど、見てみたいとは思っていた。
あの大きな場所の風を。
強い子たちが集まる春を。
自分の心臓が、そこでも鳴るのかを。
でも、今ではない。
「宮田先生」
「おう」
「わたし、クラシックには……行かないんですねぇ」
宮田先生は、まっすぐシェイクを見た。
「今のままでは、行かせへん」
言葉ははっきりしていた。
けれど、冷たくはなかった。
「無理に行って、何も残らん負け方をさせるより、ちゃんと作り直す方がええ」
「作り直す……」
「春は一回しかない。けど、お前の競走生活は春だけやない」
シェイクはその言葉を、ゆっくり受け取った。
春だけではない。
それは慰めのようで、同時にとても現実的な言葉だった。
クラシックの扉は大きい。
でも、その扉だけが競馬ではない。
岩橋トレーナーが言った。
「悔しいか」
シェイクは考えた。
「……悔しい、ですぅ」
「なら忘れるな」
「はいぃ」
「でも、引きずるな。悔しさは持つもんや。背負いすぎるもんやない」
「難しいですねぇ……」
「走るんは大体難しい」
「ほわ~……」
帰り道、車内は静かだった。
シェイクは窓の外を見ていた。
春の光が流れていく。
遠くに、桜らしい色が少しだけ見えた気がした。
大寒桜。
名前だけなら、春へ連れていってくれそうだった。
けれど実際には、春の扉の前で足を止めるレースになった。
親へ、どう伝わるのだろう。
宮田先生はどう説明するのだろう。
期待してくれていたのなら、がっかりするのだろうか。
シェイクは、自分の手を見た。
一番前を知っている手。
重賞で怖いまま行けた手。
今日、春へは届かなかった手。
「ほわ~……」
小さく息を吐いた。
隣に座っていた藤川弟トレーナーが、声をかけた。
今日の担当ではなかったが、映像確認のために同行していた。
「落ち込んでます?」
「たぶん……」
「たぶんですか」
「春の扉が、閉まりましたぁ……」
藤川弟トレーナーは少し黙った。
それから、静かに言った。
「扉は一つじゃないです」
「宮田先生も、似たこと言ってましたぁ……」
「先生が言うなら、そうなんでしょう」
「藤川弟さんは、クラシック行きたかったですかぁ?」
「行けるなら、行きたかったです」
正直な答えだった。
「でも、行けばいいってものでもないです。シェイクはまだ良くなります」
「また言い切りますねぇ……」
「言い切ります」
シェイクは少しだけ笑った。
「藤川弟さんは、やっぱり声がこわいですけど、言葉はまっすぐですねぇ……」
「褒めてます?」
「たぶん……」
「そこは言い切ってください」
寮に戻ると、宮田先生はシェイクを呼んだ。
先生の部屋は、いつも資料の匂いがした。
机の上にはレース映像のメモ、予定表、親への連絡文らしき紙が置かれている。
「シェイク」
「はいぃ」
「少し休ませる」
「休むんですかぁ?」
「ああ。長めに間を取る。身体も気持ちも、いったん作り直す」
シェイクは耳を動かした。
「夏休み、ですかぁ?」
「まあ、そんなとこや」
「宿題はありますかぁ?」
「ある」
「ほわ」
「身体を緩めすぎんこと。食べすぎんこと。自分の走りを忘れんこと」
「食べすぎ……」
「そこが一番不安そうな顔するな」
宮田先生は苦笑した。
「クラシックは諦める。でも、お前を諦めるわけやない」
シェイクは顔を上げた。
「わたしを……」
「そうや。春に間に合わんかったから終わり、やない。秋でも、来年でも、お前が走れる場所を探す」
胸の奥が、少しだけ鳴った。
それは勝利の音でも、重賞の熱でもなかった。
閉じた扉の前で、それでもまだ道があると知った音だった。
「宮田先生」
「何や」
「わたし、休んでもいいんですねぇ……」
「休むのも仕事や」
「仕事……」
「せや。ちゃんと休んで、ちゃんと戻ってこい」
シェイクはゆっくり頷いた。
「はいぃ……戻ってきますぅ」
その夜、シェイクは机に向かった。
これまでのメモを並べる。
新馬戦八着。
外の風を知った。
未勝利一着。
自分の場所を取れた。
一勝クラス三着。
上の場所の風を知った。
きさらぎ賞六着。
勝負の匂いを知った。
大寒桜賞四着。
春の扉は閉じた。
そう書いて、少し手が止まった。
閉じた。
その文字は寂しかった。
でも、そこで終わらせたくなかった。
シェイクはもう一行、ゆっくり書き足した。
夏休み。
心臓を、置いていかない。
「ほわ~……」
自分で書いた文字を見て、シェイクは少し笑った。
春は終わる。
扉は閉じる。
けれど、心臓まで止まるわけではない。
長い夏休みが始まる。
それは、華やかなクラシックの道ではなかった。
誰かの歓声に包まれる時間でもなかった。
寮の朝。
静かな調整。
身体を作る日々。
焦らず、腐らず、でも忘れずにいるための時間。
窓の外には、まだ春の夜があった。
けれどシェイクは、その向こうに来る長い夏を思った。
春の扉は閉じた。
でも、どこか別の場所で、まだ開いていない扉がある。
シェイクユアハートは、それを探すために、しばらく走ることから少しだけ離れる。
心臓の音を、なくさないまま。