長い夏休みは、思っていたよりも静かだった。
クラシックの春が遠ざかり、寮の中の空気も少しずつ季節を変えていった。
食堂の献立に冷たいものが増え、洗濯物の乾きが早くなり、朝の調教へ向かう時間の空がだんだん明るくなる。
シェイクユアハートは、走ることから完全に離れたわけではなかった。
身体を緩めすぎないように。
食べすぎないように。
自分の走りを忘れないように。
宮田先生から出された夏休みの宿題は、思ったより難しかった。
「ほわ~……休むのも仕事って、けっこう大変ですねぇ……」
シェイクは、朝の軽い運動を終えたあと、日陰のベンチで麦茶を飲みながら呟いた。
宮田先生は隣で予定表を見ている。
「何もしない休みやないからな」
「何もしない休みも、してみたいですぅ……」
「お前の場合、それやると食堂と花壇だけで一日終わるやろ」
「幸せそうですねぇ……」
「戻ってこい」
宮田先生は軽くため息をついた。
けれど、その声に焦りはなかった。
春の扉は閉じた。
それは確かだった。
だが、閉じた扉の前で立ち尽くす時間は終わりつつある。
身体は少しずつ厚みを増し、走り方にも前より芯が出てきた。
重賞で熱を浴び、大寒桜賞で距離を測り、休むことでようやく、自分の足音を聞き直せるようになってきた。
夏の終わり、宮田先生はシェイクを呼んだ。
「札幌へ行く」
「札幌……」
「富良野特別や。一勝クラス。芝二千」
「ほわ~……北海道ですぅ……」
「旅行ちゃうぞ」
「分かってますぅ……たぶん」
「たぶんか」
宮田先生は資料を閉じ、シェイクを見た。
「それでな、今回の担当やけど」
「藤川弟さんですかぁ?」
「いや」
「岩橋さんですかぁ?」
「いや」
シェイクは首を傾げた。
「藤川兄さん……?」
「違う。古吉トレーナーに頼む」
その名前を聞いた時、シェイクはすぐには反応できなかった。
古吉トレーナー。
寮の中で何度か名前は聞いたことがある。
フリーのトレーナー。
宮田先生が昔から時々頼む人。
藤川兄トレーナーがなぜか「古ちゃん」と呼ぶ人。
ただ、シェイクにとってはまだ遠い人だった。
「古吉さん……」
「知っとるか?」
「お名前だけですぅ」
「昔からの縁がある人や」
宮田先生の声が、少しだけ低くなった。
「俺が初めて大きいところを取った時にな、担当してくれたのが古吉さんや」
シェイクの耳がぴんと立った。
「大きいところ……?」
「アインブライド。あの子の時や」
その名前は、寮の古い写真の中で見たことがあった。
宮田先生の部屋の棚に、少し色あせた一枚が飾られている。
若い頃の宮田先生。
晴れやかな顔のウマ娘。
そして、その横で少し照れくさそうに立っている若いトレーナー。
あれが、古吉トレーナーだったのだろうか。
「ほわ~……昔のすごい方なんですねぇ……」
「すごいかどうかは知らん」
「知らないんですかぁ?」
「派手な人やない。でも、うちの子には合う時がある」
「合う……」
「お前にも、一回合わせてみる」
宮田先生はそう言った。
期待ではなく、実験でもなく、確認するような言い方だった。
シェイクは自分の胸に手を当てた。
藤川兄トレーナーのやさしい声。
藤川弟トレーナーのまっすぐで少しこわい声。
岩橋トレーナーの勝負の匂い。
そこに、古吉トレーナーはどんな音を足すのだろう。
「古吉さんは、どんな方ですかぁ?」
シェイクが聞くと、宮田先生は少し考えた。
「おっさんや」
「ほわ」
「いや、悪口やないぞ。地味で、口もそんなに上手くない。今どきの華やかさはない」
「おっさん……」
「けど、変に気負わせん」
宮田先生は、そこで少しだけ目を細めた。
「お前、最近ちょっと考えすぎる時があるやろ」
「わたしがですかぁ?」
「せや。ほわほわしながら、奥で考えとる。春が閉じたことも、重賞で足りんかったことも、親のことも、全部どっかに置いたまま走っとる」
シェイクは黙った。
言われてみれば、そうかもしれなかった。
休んでいる間も、胸の奥にはいくつものメモが貼られていた。
春の扉は閉じた。
重賞は怖かった。
2200は長かった。
親はきっと、大きな場所を見たかった。
自分はまだ足りない。
それを全部、ほわほわした顔の下にしまっていた。
「古吉さんはな」
宮田先生は続けた。
「そういう荷物を、一回横へ置かせるのが上手い」
「荷物を……」
「本人はたぶん、そんなつもりないけどな」
札幌へ向かう日、シェイクは少し浮かれていた。
北海道の空気は、寮とは違った。
夏なのに、どこか涼しい。
芝の匂いも、風の触り方も違う。
遠くが広く見える。
「ほわ~……空が大きいですぅ……」
競馬場に着いて、シェイクはまず空を見上げた。
「そこからか」
低い声がした。
振り向くと、一人の男が立っていた。
特別に背が高いわけではない。
特別に華やかなわけでもない。
服装も、表情も、どこか普通だった。
ただ、目だけが妙に落ち着いている。
岩橋トレーナーのような熱い鉄の匂いではない。
藤川兄トレーナーのような陽だまりでもない。
藤川弟トレーナーのような冷たい水でもない。
なんというか。
古い木の椅子みたいな人だった。
「古吉トレーナーや」
宮田先生が紹介した。
「今日、頼む」
「古吉です」
古吉トレーナーは短く頭を下げた。
シェイクも慌てて頭を下げる。
「シェイクユアハートですぅ。よろしくお願いします」
「おう」
会話が、そこで一度止まった。
シェイクは古吉トレーナーを見た。
古吉トレーナーもシェイクを見た。
沈黙。
風が吹く。
シェイクの耳が揺れる。
「ほわ~……」
「何や」
「おっさんですねぇ……」
宮田先生が咳き込んだ。
古吉トレーナーは眉を上げた。
「初対面でそれ言うか」
「すみません、宮田先生がそう言ってたのでぇ……」
「宮田先生?」
古吉トレーナーが宮田先生を見る。
宮田先生は視線を逸らした。
「悪口やないです」
「言うとるやろ絶対」
そこへ、藤川兄トレーナーが現れた。
今回の担当ではないが、別件で札幌へ来ていたらしい。
「古ちゃん、久しぶりですね」
「古ちゃん言うな」
「すみません、古ちゃん」
「謝る気ないやろ」
藤川兄トレーナーはにこにこしている。
言葉は敬語なのに、呼び方だけ妙に近い。
シェイクはそれを見て、少し目を丸くした。
「藤川兄さん、古吉さんと仲良しなんですかぁ?」
「はい。古ちゃんには昔からお世話になってます」
「世話した覚えはあんまりない」
「そういうところですよ、古ちゃん」
「何がや」
古吉トレーナーは面倒くさそうに言った。
けれど、本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
その空気が、シェイクには少し不思議だった。
この人は、周囲から派手に持ち上げられるタイプではない。
でも、宮田先生は信頼している。
藤川兄トレーナーは懐いている。
古ちゃんと呼ばれて、文句を言いながらもその場にいる。
おっさん。
でも、ただのおっさんではないらしい。
レース前の打ち合わせは、思っていたより短かった。
古吉トレーナーは資料を見ながら、ぽつぽつと言う。
「無理に前取りに行かんでええ」
「はいぃ」
「下げすぎもせんでええ」
「はいぃ……」
「札幌は直線だけで何とかする場所やない。三、四角で置いていかれんようにする」
「はいぃ」
「でも、考えすぎんでええ」
シェイクは首を傾げた。
「考えなくていいんですかぁ?」
「考えすぎんでええ、や」
古吉トレーナーは映像を止めた。
「お前、考えてへん顔して、わりと考えとるやろ」
「ほわ」
今日二回目だった。
宮田先生にも同じようなことを言われた。
「春のことも、重賞のことも、距離のことも、親のことも、まあ色々あるんやろうけど」
古吉トレーナーは、そこで一度言葉を切った。
「走る時に全部持っていかんでええ」
シェイクは、湯呑みを持つ手を止めた。
「持っていかない……」
「持っていったら速くなるもんだけ持っていけ」
「どれですかぁ?」
「知らん」
「ほわ」
「それを探すんがレースやろ」
ずいぶん雑な答えだった。
藤川兄トレーナーなら、もう少しやさしく言ってくれる。
藤川弟トレーナーなら、もっと明確に指示を出してくれる。
岩橋トレーナーなら、勝負どころの腹のくくり方を教えてくれる。
古吉トレーナーの言葉は、そのどれとも違った。
雑で、短くて、少し突き放している。
でも、不思議と胸の奥が軽くなった。
「古吉さん」
「何や」
「わたしの親のこと、気にならないんですかぁ?」
古吉トレーナーは、資料から顔を上げた。
「気にしたら速くなるんか?」
シェイクは瞬きをした。
「……ならないですぅ」
「ほな、いらんやろ」
「ほわ~……」
雑だった。
でも、とても楽だった。
親の名前。
名家の期待。
春の扉。
重賞の熱。
それらが全部、古吉トレーナーの一言で消えたわけではない。
ただ、レースへ持っていかなくていい荷物なのだと思えた。
富良野特別の日。
札幌のパドックは、シェイクが知っている競馬場とは少し違っていた。
空が広い。
風がやわらかい。
けれど、芝は簡単ではなさそうだった。
シェイクは歩きながら、周囲を見た。
久しぶりのレース。
春以来の実戦。
長い夏休みを経て、身体は少し変わった。
けれど、レースの音を忘れてはいない。
古吉トレーナーが隣に来た。
「緊張しとるか」
「たぶん……」
「たぶんか」
「少し、ですぅ」
「それでええ」
「古吉さんは、緊張しますかぁ?」
「するで」
「ほわ。するんですかぁ?」
「するやろ。せん奴は信用ならん」
「岩橋さんも、怖いまま行けって言ってましたぁ」
「あの人は言いそうやな」
「古吉さんは、怖いまま行けって言わないんですかぁ?」
古吉トレーナーは少し考えた。
「怖かったら、怖いなりに行ったらええ」
「同じでは?」
「知らん。似とるだけや」
シェイクは少し笑った。
不思議だった。
古吉トレーナーの言葉は、格好よくない。
胸が熱くなるような響きもない。
なのに、足元が少し安定する。
ゲートへ向かう前、古吉トレーナーは短く言った。
「気楽に行こか」
シェイクは耳を動かした。
「気楽でいいんですかぁ?」
「気ぃ張って勝てるなら、みんな勝っとるわ」
「ほわ~……」
それは、シェイクの中にすっと入ってきた。
気を張って勝てるなら、みんな勝っている。
確かにそうだ。
扉が開く。
シェイクは久しぶりのレースの流れに入った。
札幌の芝二千。
中京とも、阪神とも違う。
直線だけでは足りない。
前から中団で、脚を残しながら、三、四角で置いていかれないようにしなければならない。
古吉トレーナーの声は、思ったより静かだった。
「急がんでええ」
焦らない。
「そこでええ」
無理に動かない。
「置いていかれるな」
でも、離されない。
シェイクは走りながら、少し驚いていた。
声が強くない。
優しく包むわけでもない。
ただ、そこにある。
背中を押すというより、横に置かれる石みたいだった。
足を引っかけるわけではない。
でも、目印になる。
三コーナー。
前が動く。
胸が鳴る。
ここか。
まだか。
春の記憶が一瞬だけよぎる。
大寒桜賞。
きさらぎ賞。
足りなかった直線。
「シェイク」
古吉トレーナーの声。
「今は前だけ見とけ」
シェイクの耳が前を向いた。
そうだ。
春は終わった。
親はここにはいない。
重賞の熱も、今は持ってこなくていい。
今は、前だけ。
「はいぃ」
四コーナー。
シェイクは動いた。
脚はある。
でも、久しぶりのぶん、反応がほんの少し鈍い。
前との差が思ったより詰まらない。
外から伸びる子もいる。
直線に向く。
シェイクは最後まで走った。
前を追う。
脚を使う。
胸が鳴る。
それでも、勝ち負けには届かない。
ゴール板が過ぎた。
六着。
結果だけ見れば、きさらぎ賞と同じ数字だった。
シェイクは息を整えながら、芝の上でしばらく立っていた。
「ほわ~……」
古吉トレーナーが来た。
「六着やな」
「はいぃ……六着でしたぁ」
「久々やし、こんなもんやろ」
「こんなもん……」
「悪い意味やない」
古吉トレーナーは、シェイクの方を見た。
「最後まで走っとった。位置も悪すぎへん。ただ、勝ち切るにはまだ足りん」
「はいぃ……」
「次やな」
短い。
それだけだった。
もっと言われると思っていた。
春の後の大事な復帰戦。
長い休み明け。
古吉トレーナーとの初めてのレース。
六着。
悔しくないわけではない。
でも、不思議と胸が潰れるような感じはなかった。
「古吉さん」
「何や」
「負けたのに、あんまり苦しくないですぅ……」
古吉トレーナーは、少しだけ眉を上げた。
「ええことや」
「いいんですかぁ?」
「苦しむために走っとるわけやないやろ」
「ほわ~……」
「負けても、次に持っていける負け方ならええ。全部背負って沈む負け方が一番あかん」
シェイクは黙って、その言葉を聞いた。
全部背負って沈む負け方。
春のあと、自分が少しそうなりかけていたことに気づく。
親の期待。
クラシックを諦めたこと。
重賞の壁。
自分に足りないもの。
それを全部抱えて走ったら、きっと脚より先に心が重くなる。
「次に持っていく負け方……」
「せや」
「じゃあ、今日は持っていけますかぁ?」
「持っていけるやろ」
「何をですかぁ?」
「札幌の走り方と、久々でもレースは嫌になってへんってこと」
シェイクは、少しだけ笑った。
「レース、嫌ではなかったですぅ」
「ならええ」
宮田先生が戻ってきた。
「どうやった」
古吉トレーナーが答える。
「休み明けとしては悪くないです。まだ緩いところはあるけど、気持ちは重くなってへん」
宮田先生は頷いた。
「そうか」
「この子、考えてへん顔して考えすぎるタイプですね」
「せやろ」
「でも、走る時に少し置けるなら、良くなると思います」
シェイクは二人を見た。
自分の話をしている。
けれど、値踏みされている感じはしなかった。
先生とトレーナーが、次の道を探している。
それだけだった。
帰り道、札幌の空は夕方の色になっていた。
シェイクは窓の外を見ながら、古吉トレーナーの言葉を思い返した。
気楽に行こか。
気ぃ張って勝てるなら、みんな勝っとるわ。
気にしたら速くなるんか。
ほな、いらんやろ。
どれも格好いい言葉ではない。
けれど、胸の奥で小石みたいに残っている。
軽くはない。
でも、重すぎもしない。
握って走れるくらいの言葉。
「古吉さん」
「何や」
「古吉さんは、少女漫画には出なさそうですねぇ」
「何の話や」
「藤川兄さんは出そうですぅ」
「せやろな」
「藤川弟さんも、顔は出そうですぅ」
「顔は、て」
「岩橋さんは、劇画ですぅ」
「分かるような分からんような」
シェイクは、少し考えた。
「古吉さんは……」
「おう」
「商店街の定食屋さんですぅ」
「なんでや」
「なんか、落ち着きますぅ」
古吉トレーナーはしばらく黙った。
それから、窓の外を見たまま言った。
「褒めとるんか、それ」
「たぶん……」
「そこは言い切れ」
「褒めてますぅ」
「ならええ」
宮田先生が前の席で笑いをこらえていた。
寮に戻った夜、シェイクは机に向かった。
大寒桜賞のメモの下に、新しい紙を置く。
富良野特別六着。
古吉トレーナー。
おっさん。
でも、負けたのに苦しくなかった。
持っていける負け方。
少し迷って、さらに書き足す。
気楽に行くのは、手を抜くことじゃない。
書き終えて、シェイクはペンを置いた。
胸の奥で、心臓が静かに鳴っている。
春の扉は閉じた。
夏休みは終わった。
札幌の復帰戦は六着だった。
何かを成し遂げたわけではない。
大きな結果を出したわけでもない。
けれど、シェイクユアハートは知った。
走る時に、全部を背負わなくてもいい。
期待も、悔しさも、閉じた扉も、親の名前も。
速くなるものだけ持っていけばいい。
古吉トレーナーとの出会いは、華やかではなかった。
少女漫画でもない。
勝負の匂いが濃い劇画でもない。
ただ、商店街の定食屋みたいに、そこにある。
でもたぶん、今のシェイクには、それくらいがちょうどよかった。
「ほわ~……」
ベッドに転がりながら、シェイクは小さく呟いた。
「おっさんですけど……走りやすいかもですぅ……」
その時はまだ、誰にも言わなかった。
けれどその言葉は、シェイクの胸の奥で、次の鼓動に少しだけ混ざった。