富良野特別の六着から、二週間が過ぎた。
札幌の空は、少しずつ夏の端を折りたたみ始めていた。
朝の風には涼しさが混じり、芝の匂いも、どこか落ち着いている。
遠くの山の輪郭がくっきり見える日には、シェイクユアハートは調教のあと、しばらく空を見上げるようになった。
「ほわ~……北海道の空は、広いですねぇ……」
そう言うと、隣にいた古吉トレーナーは、帽子のつばを少し直した。
「毎回それ言うとるな」
「毎回広いですぅ」
「まあ、狭くはならんやろ」
「ならないんですかぁ……」
「ならんでええ」
古吉トレーナーはそう言って、調教メモを閉じた。
富良野特別のあと、宮田先生は大きく予定を崩さなかった。
休み明けとしては悪くない。
札幌の走り方も見えた。
久しぶりでも、気持ちは重くなっていない。
ならば、もう一度。
三歳以上一勝クラス。
札幌、芝二千。
同じ札幌の芝二千。
同じ古吉トレーナー。
シェイクは、その予定を聞いた時、不思議と嫌な感じがしなかった。
春のあとに抱えていた重さは、少しずつほどけている。
勝てなかった記憶は消えない。
クラシックの扉が閉じたことも、重賞で足りなかったことも、親の期待も、なくなるわけではない。
けれど、古吉トレーナーと走る時、それらは少しだけ横へ置ける。
全部を持っていかなくていい。
速くなるものだけ持っていけばいい。
雑なようで、妙に残る言葉だった。
レース前日、シェイクは宮田先生の部屋に呼ばれた。
「状態はええ」
宮田先生は資料を見ながら言った。
「富良野特別の時より、身体も動いとる。古吉さんとも一回使って、お互いに分かったところがあるやろ」
「はいぃ……」
「どうや、古吉さんは」
シェイクは少し考えた。
古い木の椅子。
商店街の定食屋。
おっさん。
でも、走りやすい。
「……おっさんですぅ」
「そこから離れろ」
「でも、走りやすいですぅ」
宮田先生は、少しだけ口元を緩めた。
「そうか」
「はいぃ。古吉さん、あんまりきれいなこと言わないんですけどぉ……」
「言わんな」
「でも、言葉が軽すぎないですぅ。持って走れるくらいの重さですぅ」
宮田先生は、資料から目を上げた。
「ええ表現するやん」
「ほわ~……詩人ですぅ……」
「調子に乗るな」
シェイクは小さく笑った。
宮田先生は少し黙ったあと、机の上に置いたペンを指で転がした。
「シェイク」
「はいぃ」
「勝ちたいか」
まっすぐな問いだった。
シェイクはすぐに答えられなかった。
勝ちたい。
未勝利を勝った時、一番前の静けさを知った。
一勝クラスで三着になった時、近いのに届かない悔しさを知った。
重賞で六着になった時、怖いまま行く感覚を知った。
大寒桜賞で四着になった時、春の扉が閉じる音を聞いた。
富良野特別で六着になった時、負けても全部背負わなくていいと知った。
それらを並べた時、胸の奥で小さく鳴るものがある。
「……勝ちたいですぅ」
シェイクは答えた。
「でも、勝ちたいって思うと、ちょっと心臓が先に行きますぅ」
「せやろな」
「だから、古吉さんと行きますぅ」
宮田先生は頷いた。
「それでええ。明日は、気楽に勝ちに行け」
「気楽に勝ちに……」
「変な言い方やけどな」
「古吉さんっぽいですぅ」
「せやな」
レース当日の札幌は、晴れていた。
パドックの空気は、富良野特別の時よりも少しだけ馴染んで感じた。
初めて歩く場所ではない。
初めて浴びる風でもない。
けれど、同じ場所でも、同じ気持ちではない。
シェイクはゆっくり歩きながら、耳を動かした。
周囲のウマ娘たちの気配。
観客の声。
芝の匂い。
古吉トレーナーの足音。
古吉トレーナーは、隣でいつも通りだった。
特別に熱い言葉はない。
特別に優しい励ましもない。
ただ、隣にいて、いつも通り資料を持っている。
「調子は」
「悪くないですぅ」
「ええな」
「古吉さんは、緊張してますかぁ?」
「しとるで」
「いつも通りですねぇ」
「緊張しとるのがいつも通りや」
シェイクは、少しだけ笑った。
「今日は、どう走ればいいですかぁ?」
古吉トレーナーは少し考えた。
「前走より、少しだけ早く前を見る」
「前を見る……」
「無理に取りに行かんでええ。でも、置いていかれる前に、自分で動け」
「はいぃ」
「あと、春のことは持ってくるな」
シェイクの耳が揺れた。
「春……」
「今日の札幌には関係ない」
「クラシックも、重賞も、親のこともですかぁ?」
「今日の二千で速くなるなら持っていけ。ならんなら置いていけ」
「ほわ~……」
やっぱり雑だった。
でも、楽だった。
「じゃあ、今日は何を持っていけばいいですかぁ?」
「札幌の風と、前走の六着」
「六着も、持っていくんですかぁ?」
「持っていける負け方やったんやろ」
シェイクは、胸に手を当てた。
富良野特別の六着。
負けたのに、苦しくなかったレース。
次に持っていける負け方。
それは、今日の自分に必要なものだった。
「はいぃ……持っていきますぅ」
「ほな、それでええ」
ゲートへ向かう。
シェイクの心臓は鳴っていた。
勝ちたいと言ったからだろうか。
前より少し、音がはっきりしている。
でも、暴れてはいない。
ゲートに入る。
芝の匂い。
隣の気配。
遠くの声。
扉が開いた。
シェイクは出た。
悪くない。
前走より、身体が反応する。
無理に前へ行きすぎるわけではない。
けれど、下げすぎない。
古吉トレーナーの声が届く。
「そこでええ」
そこでいい。
その言葉は、シェイクの足元に小さな印を置いた。
最初のコーナー。
流れは落ち着きすぎず、速すぎず。
札幌の二千は、ただ待っていればいい場所ではない。
前から中団で、脚を残しながら、勝負どころまで行く。
シェイクは、前走で覚えた札幌の感触を思い出す。
直線だけでは足りない。
三、四角で置いていかれないようにする。
でも、早く動きすぎれば最後が苦しくなる。
向こう正面。
息が入る。
胸の音が少し整う。
「急ぐな」
古吉トレーナーの声。
急がない。
でも、眠らない。
前の列を見る。
外の気配を見る。
自分の脚を確かめる。
春の扉はここにはない。
重賞の熱もここにはない。
親の名前も、観客席にはない。
今日あるのは、札幌の芝二千と、目の前の背中だけ。
三コーナー。
前が少し動く。
シェイクの目が変わった。
「シェイク」
古吉トレーナーの声がした。
「そろそろや」
そろそろ。
それだけだった。
行け、と叫ぶわけではない。
待て、と抑えるわけでもない。
ただ、時刻を知らせるような声。
でもシェイクには、それで十分だった。
「はいぃ」
身体を起こす。
脚を使い始める。
前の背中が近づく。
四コーナー。
置いていかれない。
前走より、少しだけ早く前を見る。
勝負の形を、自分で作る。
外に出す。
視界が開く。
直線。
シェイクは踏んだ。
脚がある。
胸が鳴る。
前にいる子の背中が近い。
一頭。
もう一頭。
未勝利戦で知った、一番前の静けさ。
一勝クラス三着で知った、近くて届かない悔しさ。
きさらぎ賞で知った、怖いまま行く熱。
大寒桜賞で知った、足りない自分。
富良野特別で知った、持っていける負け方。
全部が、重荷ではなく、足場になる。
シェイクは伸びた。
前の子を捕まえる。
並ぶ。
交わす。
まだ、外から来る気配がある。
内で粘る気配もある。
でも今日は、心臓が先に行かない。
足と一緒に鳴っている。
「……ここですぅ」
ゴール板が近づく。
シェイクは最後まで脚を使った。
ゴール。
一番前だった。
音が、少し遅れて戻ってきた。
シェイクはしばらく、自分が何をしたのか分からない顔をしていた。
息が熱い。
脚が震える。
胸が強く鳴っている。
古吉トレーナーが近づいてくる。
「勝ったな」
「……勝ちましたぁ?」
「勝った」
「わたしが?」
「お前が」
「ほわ~……」
シェイクは、ぱちぱちと瞬きをした。
「札幌で、勝ちましたぁ……」
「せやな」
「古吉さんと、勝ちましたぁ……」
「せやな」
古吉トレーナーは、それ以上大げさにはしなかった。
けれど、目元が少しだけ緩んでいた。
シェイクはそれを見て、ふわりと笑った。
「古吉さん」
「何や」
「おっさんですけど……今日はちょっと、かっこよかったですぅ」
「ちょっとかい」
「けっこう、ですぅ」
「そこは言い切れ」
「かっこよかったですぅ」
古吉トレーナーは顔をそらした。
「……そうかい」
宮田先生が戻ってきた。
表情はいつも通りに見えた。
けれど、声には少しだけ熱があった。
「よう勝った」
「はいぃ……勝ちましたぁ」
「前走の負けを、ちゃんと持ってこれたな」
「はいぃ。持ってきましたぁ」
「春の分は?」
「置いてきましたぁ」
「親の分は?」
「置いてきましたぁ」
「今日持ってきたもんは?」
シェイクは胸に手を当てた。
「札幌の風と、富良野特別の六着ですぅ」
宮田先生は、静かに頷いた。
「それでええ」
その日の夜、シェイクはなかなか眠れなかった。
勝った。
一勝クラスを、古吉トレーナーと勝った。
未勝利を勝った時とは違う。
あの時は、自分の場所を初めて取れた喜びだった。
今日は、閉じた春から戻ってきて、もう一度自分の足で前へ出た勝利だった。
机の上には、今日のメモが置いてある。
三歳以上一勝クラス一着。
札幌の風。
前走の六着を持っていけた。
古吉トレーナーは、おっさんだけど走りやすい。
今日は、かっこよかった。
最後の一文を見て、シェイクは少し笑った。
「ほわ~……本人には見せられませんねぇ……」
ベッドに入っても、胸の音はまだ残っていた。
札幌の芝。
四コーナーで開けた視界。
直線で前を捕まえた感触。
ゴール板の向こうに誰もいなかった静けさ。
それらが、眠りの底へ少しずつ沈んでいく。
その夜、シェイクは夢を見た。
札幌だった。
でも、今日とは違う札幌だった。
空はもっと高く、スタンドの声はもっと大きい。
パドックには重い熱があった。
周囲にいるウマ娘たちは、名前を聞いただけで誰もが振り向くような子たちだった。
重賞。
もっと大きなレース。
札幌記念。
夢の中のシェイクは、それをなぜか知っていた。
「ほわ~……ここ、どこですかぁ……?」
そう呟く声は、自分のものなのに、少し大人びていた。
隣に、古吉トレーナーがいる。
今と同じようなおっさんで、今より少しだけ遠くを見ている。
特別に派手なことは言わない。
夢の中でも、やっぱり古吉トレーナーは古吉トレーナーだった。
「気楽に行こか」
そう言った。
でも、その言葉を聞いた夢のシェイクは、笑った。
「はいぃ。勝ちに行きますぅ」
ゲートが開く。
夢の中の札幌の芝は、今日よりずっと速かった。
流れが鋭い。
相手が強い。
なのに、自分の足は軽い。
三、四角で、夢のシェイクは前を見る。
置いていかれない。
早すぎない。
遅すぎない。
札幌の風が、背中を押す。
直線。
前に、強い子たちがいる。
重賞を勝った子。
大きな舞台を知る子。
自分よりずっと先を走ってきた子。
それでも、夢のシェイクは伸びた。
心臓が鳴る。
シェイクユアハート。
自分の名前が、歓声の中で揺れる。
前を捕まえる。
並ぶ。
交わす。
ゴール板が近づく。
一番前。
札幌記念、一着。
夢の中で、シェイクはゴールの向こうへ抜けた。
そこには、未勝利戦で知った静けさとも、今日の一勝クラスで知った静けさとも違うものがあった。
大きな歓声の奥にある、静けさ。
心臓だけが、はっきり鳴っている。
「ほわ~……」
シェイクは目を覚ました。
部屋は暗かった。
寮の夜は静かで、遠くで誰かが寝返りを打つ音がした。
胸に手を当てる。
心臓が鳴っている。
夢だった。
変な夢だった。
札幌記念。
一着。
古吉トレーナー。
大きな歓声。
まだ、自分は一勝クラスを勝ったばかりなのに。
「ほわ~……夢、ですねぇ……」
小さく呟く。
けれど、その夢はなかなか消えなかった。
朝になっても、札幌の空を見た時、夢の歓声が少しだけ耳に残っていた。
朝食の席で、宮田先生に聞かれた。
「眠そうやな」
「夢を見ましたぁ……」
「どんな夢や」
「札幌記念で、わたしが一着でしたぁ……」
宮田先生は箸を止めた。
少し離れた席で麦茶を飲んでいた古吉トレーナーも、こちらを見た。
「えらい大きい夢見たな」
宮田先生が言う。
「はいぃ……大きかったですぅ……」
古吉トレーナーが、ぼそりと言った。
「夢ならタダや」
「ほわ~……古吉さん、雑ですぅ……」
「けど、悪い夢やないやろ」
シェイクは少し考えた。
大きな歓声。
札幌の風。
ゴールの向こうの静けさ。
「はいぃ……悪い夢じゃなかったですぅ」
「ほな、覚えとけ」
「覚えてていいんですかぁ?」
「忘れたらもったいないやろ」
古吉トレーナーはそう言って、味噌汁を飲んだ。
シェイクは、その横顔を見ていた。
夢は夢だ。
今の自分は、まだ一勝クラスを勝っただけ。
重賞では六着。
春の扉にも届かなかった。
それでも。
胸の奥で、夢の心臓がまだ鳴っている。
その日、シェイクはメモに一行だけ書き足した。
いつか、札幌記念。
書いたあとで、自分でも少し笑った。
「ほわ~……大きい夢ですぅ……」
けれど、その紙を捨てることはしなかった。
机の引き出しの奥。
春の扉が閉じたメモの隣。
富良野特別の六着の隣。
今日の一着の隣。
そこに、そっとしまった。
シェイクユアハートは、まだ知らない。
その夢が、ただの夢で終わらないことを。
札幌の風が、いつかもう一度、もっと大きな歓声を連れてくることを。
ただその日、彼女は古吉トレーナーと一勝クラスを掴んだ。
そして、まだ知らない未来の自分が、札幌記念で一番前にいる夢を見た。