心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第八章]札幌の風と、まだ知らない夢

富良野特別の六着から、二週間が過ぎた。

 

札幌の空は、少しずつ夏の端を折りたたみ始めていた。

朝の風には涼しさが混じり、芝の匂いも、どこか落ち着いている。

遠くの山の輪郭がくっきり見える日には、シェイクユアハートは調教のあと、しばらく空を見上げるようになった。

 

「ほわ~……北海道の空は、広いですねぇ……」

 

そう言うと、隣にいた古吉トレーナーは、帽子のつばを少し直した。

 

「毎回それ言うとるな」

 

「毎回広いですぅ」

 

「まあ、狭くはならんやろ」

 

「ならないんですかぁ……」

 

「ならんでええ」

 

古吉トレーナーはそう言って、調教メモを閉じた。

 

富良野特別のあと、宮田先生は大きく予定を崩さなかった。

休み明けとしては悪くない。

札幌の走り方も見えた。

久しぶりでも、気持ちは重くなっていない。

 

ならば、もう一度。

 

三歳以上一勝クラス。

札幌、芝二千。

 

同じ札幌の芝二千。

同じ古吉トレーナー。

 

シェイクは、その予定を聞いた時、不思議と嫌な感じがしなかった。

春のあとに抱えていた重さは、少しずつほどけている。

勝てなかった記憶は消えない。

クラシックの扉が閉じたことも、重賞で足りなかったことも、親の期待も、なくなるわけではない。

 

けれど、古吉トレーナーと走る時、それらは少しだけ横へ置ける。

 

全部を持っていかなくていい。

速くなるものだけ持っていけばいい。

 

雑なようで、妙に残る言葉だった。

 

レース前日、シェイクは宮田先生の部屋に呼ばれた。

 

「状態はええ」

 

宮田先生は資料を見ながら言った。

 

「富良野特別の時より、身体も動いとる。古吉さんとも一回使って、お互いに分かったところがあるやろ」

 

「はいぃ……」

 

「どうや、古吉さんは」

 

シェイクは少し考えた。

 

古い木の椅子。

商店街の定食屋。

おっさん。

でも、走りやすい。

 

「……おっさんですぅ」

 

「そこから離れろ」

 

「でも、走りやすいですぅ」

 

宮田先生は、少しだけ口元を緩めた。

 

「そうか」

 

「はいぃ。古吉さん、あんまりきれいなこと言わないんですけどぉ……」

 

「言わんな」

 

「でも、言葉が軽すぎないですぅ。持って走れるくらいの重さですぅ」

 

宮田先生は、資料から目を上げた。

 

「ええ表現するやん」

 

「ほわ~……詩人ですぅ……」

 

「調子に乗るな」

 

シェイクは小さく笑った。

 

宮田先生は少し黙ったあと、机の上に置いたペンを指で転がした。

 

「シェイク」

 

「はいぃ」

 

「勝ちたいか」

 

まっすぐな問いだった。

 

シェイクはすぐに答えられなかった。

 

勝ちたい。

 

未勝利を勝った時、一番前の静けさを知った。

一勝クラスで三着になった時、近いのに届かない悔しさを知った。

重賞で六着になった時、怖いまま行く感覚を知った。

大寒桜賞で四着になった時、春の扉が閉じる音を聞いた。

富良野特別で六着になった時、負けても全部背負わなくていいと知った。

 

それらを並べた時、胸の奥で小さく鳴るものがある。

 

「……勝ちたいですぅ」

 

シェイクは答えた。

 

「でも、勝ちたいって思うと、ちょっと心臓が先に行きますぅ」

 

「せやろな」

 

「だから、古吉さんと行きますぅ」

 

宮田先生は頷いた。

 

「それでええ。明日は、気楽に勝ちに行け」

 

「気楽に勝ちに……」

 

「変な言い方やけどな」

 

「古吉さんっぽいですぅ」

 

「せやな」

 

レース当日の札幌は、晴れていた。

 

パドックの空気は、富良野特別の時よりも少しだけ馴染んで感じた。

初めて歩く場所ではない。

初めて浴びる風でもない。

 

けれど、同じ場所でも、同じ気持ちではない。

 

シェイクはゆっくり歩きながら、耳を動かした。

 

周囲のウマ娘たちの気配。

観客の声。

芝の匂い。

古吉トレーナーの足音。

 

古吉トレーナーは、隣でいつも通りだった。

 

特別に熱い言葉はない。

特別に優しい励ましもない。

ただ、隣にいて、いつも通り資料を持っている。

 

「調子は」

 

「悪くないですぅ」

 

「ええな」

 

「古吉さんは、緊張してますかぁ?」

 

「しとるで」

 

「いつも通りですねぇ」

 

「緊張しとるのがいつも通りや」

 

シェイクは、少しだけ笑った。

 

「今日は、どう走ればいいですかぁ?」

 

古吉トレーナーは少し考えた。

 

「前走より、少しだけ早く前を見る」

 

「前を見る……」

 

「無理に取りに行かんでええ。でも、置いていかれる前に、自分で動け」

 

「はいぃ」

 

「あと、春のことは持ってくるな」

 

シェイクの耳が揺れた。

 

「春……」

 

「今日の札幌には関係ない」

 

「クラシックも、重賞も、親のこともですかぁ?」

 

「今日の二千で速くなるなら持っていけ。ならんなら置いていけ」

 

「ほわ~……」

 

やっぱり雑だった。

 

でも、楽だった。

 

「じゃあ、今日は何を持っていけばいいですかぁ?」

 

「札幌の風と、前走の六着」

 

「六着も、持っていくんですかぁ?」

 

「持っていける負け方やったんやろ」

 

シェイクは、胸に手を当てた。

 

富良野特別の六着。

負けたのに、苦しくなかったレース。

次に持っていける負け方。

 

それは、今日の自分に必要なものだった。

 

「はいぃ……持っていきますぅ」

 

「ほな、それでええ」

 

ゲートへ向かう。

 

シェイクの心臓は鳴っていた。

勝ちたいと言ったからだろうか。

前より少し、音がはっきりしている。

 

でも、暴れてはいない。

 

ゲートに入る。

芝の匂い。

隣の気配。

遠くの声。

 

扉が開いた。

 

シェイクは出た。

 

悪くない。

前走より、身体が反応する。

無理に前へ行きすぎるわけではない。

けれど、下げすぎない。

 

古吉トレーナーの声が届く。

 

「そこでええ」

 

そこでいい。

 

その言葉は、シェイクの足元に小さな印を置いた。

 

最初のコーナー。

流れは落ち着きすぎず、速すぎず。

札幌の二千は、ただ待っていればいい場所ではない。

前から中団で、脚を残しながら、勝負どころまで行く。

 

シェイクは、前走で覚えた札幌の感触を思い出す。

 

直線だけでは足りない。

三、四角で置いていかれないようにする。

でも、早く動きすぎれば最後が苦しくなる。

 

向こう正面。

 

息が入る。

胸の音が少し整う。

 

「急ぐな」

 

古吉トレーナーの声。

 

急がない。

でも、眠らない。

 

前の列を見る。

外の気配を見る。

自分の脚を確かめる。

 

春の扉はここにはない。

重賞の熱もここにはない。

親の名前も、観客席にはない。

 

今日あるのは、札幌の芝二千と、目の前の背中だけ。

 

三コーナー。

 

前が少し動く。

 

シェイクの目が変わった。

 

「シェイク」

 

古吉トレーナーの声がした。

 

「そろそろや」

 

そろそろ。

 

それだけだった。

 

行け、と叫ぶわけではない。

待て、と抑えるわけでもない。

ただ、時刻を知らせるような声。

 

でもシェイクには、それで十分だった。

 

「はいぃ」

 

身体を起こす。

脚を使い始める。

前の背中が近づく。

 

四コーナー。

 

置いていかれない。

前走より、少しだけ早く前を見る。

勝負の形を、自分で作る。

 

外に出す。

視界が開く。

 

直線。

 

シェイクは踏んだ。

 

脚がある。

 

胸が鳴る。

 

前にいる子の背中が近い。

一頭。

もう一頭。

 

未勝利戦で知った、一番前の静けさ。

一勝クラス三着で知った、近くて届かない悔しさ。

きさらぎ賞で知った、怖いまま行く熱。

大寒桜賞で知った、足りない自分。

富良野特別で知った、持っていける負け方。

 

全部が、重荷ではなく、足場になる。

 

シェイクは伸びた。

 

前の子を捕まえる。

 

並ぶ。

 

交わす。

 

まだ、外から来る気配がある。

内で粘る気配もある。

 

でも今日は、心臓が先に行かない。

足と一緒に鳴っている。

 

「……ここですぅ」

 

ゴール板が近づく。

 

シェイクは最後まで脚を使った。

 

ゴール。

 

一番前だった。

 

音が、少し遅れて戻ってきた。

 

シェイクはしばらく、自分が何をしたのか分からない顔をしていた。

 

息が熱い。

脚が震える。

胸が強く鳴っている。

 

古吉トレーナーが近づいてくる。

 

「勝ったな」

 

「……勝ちましたぁ?」

 

「勝った」

 

「わたしが?」

 

「お前が」

 

「ほわ~……」

 

シェイクは、ぱちぱちと瞬きをした。

 

「札幌で、勝ちましたぁ……」

 

「せやな」

 

「古吉さんと、勝ちましたぁ……」

 

「せやな」

 

古吉トレーナーは、それ以上大げさにはしなかった。

けれど、目元が少しだけ緩んでいた。

 

シェイクはそれを見て、ふわりと笑った。

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「おっさんですけど……今日はちょっと、かっこよかったですぅ」

 

「ちょっとかい」

 

「けっこう、ですぅ」

 

「そこは言い切れ」

 

「かっこよかったですぅ」

 

古吉トレーナーは顔をそらした。

 

「……そうかい」

 

宮田先生が戻ってきた。

 

表情はいつも通りに見えた。

けれど、声には少しだけ熱があった。

 

「よう勝った」

 

「はいぃ……勝ちましたぁ」

 

「前走の負けを、ちゃんと持ってこれたな」

 

「はいぃ。持ってきましたぁ」

 

「春の分は?」

 

「置いてきましたぁ」

 

「親の分は?」

 

「置いてきましたぁ」

 

「今日持ってきたもんは?」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「札幌の風と、富良野特別の六着ですぅ」

 

宮田先生は、静かに頷いた。

 

「それでええ」

 

その日の夜、シェイクはなかなか眠れなかった。

 

勝った。

一勝クラスを、古吉トレーナーと勝った。

 

未勝利を勝った時とは違う。

あの時は、自分の場所を初めて取れた喜びだった。

今日は、閉じた春から戻ってきて、もう一度自分の足で前へ出た勝利だった。

 

机の上には、今日のメモが置いてある。

 

三歳以上一勝クラス一着。

札幌の風。

前走の六着を持っていけた。

古吉トレーナーは、おっさんだけど走りやすい。

今日は、かっこよかった。

 

最後の一文を見て、シェイクは少し笑った。

 

「ほわ~……本人には見せられませんねぇ……」

 

ベッドに入っても、胸の音はまだ残っていた。

札幌の芝。

四コーナーで開けた視界。

直線で前を捕まえた感触。

ゴール板の向こうに誰もいなかった静けさ。

 

それらが、眠りの底へ少しずつ沈んでいく。

 

その夜、シェイクは夢を見た。

 

札幌だった。

 

でも、今日とは違う札幌だった。

 

空はもっと高く、スタンドの声はもっと大きい。

パドックには重い熱があった。

周囲にいるウマ娘たちは、名前を聞いただけで誰もが振り向くような子たちだった。

 

重賞。

もっと大きなレース。

 

札幌記念。

 

夢の中のシェイクは、それをなぜか知っていた。

 

「ほわ~……ここ、どこですかぁ……?」

 

そう呟く声は、自分のものなのに、少し大人びていた。

 

隣に、古吉トレーナーがいる。

 

今と同じようなおっさんで、今より少しだけ遠くを見ている。

特別に派手なことは言わない。

夢の中でも、やっぱり古吉トレーナーは古吉トレーナーだった。

 

「気楽に行こか」

 

そう言った。

 

でも、その言葉を聞いた夢のシェイクは、笑った。

 

「はいぃ。勝ちに行きますぅ」

 

ゲートが開く。

 

夢の中の札幌の芝は、今日よりずっと速かった。

流れが鋭い。

相手が強い。

なのに、自分の足は軽い。

 

三、四角で、夢のシェイクは前を見る。

 

置いていかれない。

早すぎない。

遅すぎない。

 

札幌の風が、背中を押す。

 

直線。

 

前に、強い子たちがいる。

重賞を勝った子。

大きな舞台を知る子。

自分よりずっと先を走ってきた子。

 

それでも、夢のシェイクは伸びた。

 

心臓が鳴る。

 

シェイクユアハート。

 

自分の名前が、歓声の中で揺れる。

 

前を捕まえる。

並ぶ。

交わす。

 

ゴール板が近づく。

 

一番前。

 

札幌記念、一着。

 

夢の中で、シェイクはゴールの向こうへ抜けた。

 

そこには、未勝利戦で知った静けさとも、今日の一勝クラスで知った静けさとも違うものがあった。

 

大きな歓声の奥にある、静けさ。

 

心臓だけが、はっきり鳴っている。

 

「ほわ~……」

 

シェイクは目を覚ました。

 

部屋は暗かった。

寮の夜は静かで、遠くで誰かが寝返りを打つ音がした。

 

胸に手を当てる。

 

心臓が鳴っている。

 

夢だった。

変な夢だった。

札幌記念。

一着。

古吉トレーナー。

大きな歓声。

 

まだ、自分は一勝クラスを勝ったばかりなのに。

 

「ほわ~……夢、ですねぇ……」

 

小さく呟く。

 

けれど、その夢はなかなか消えなかった。

朝になっても、札幌の空を見た時、夢の歓声が少しだけ耳に残っていた。

 

朝食の席で、宮田先生に聞かれた。

 

「眠そうやな」

 

「夢を見ましたぁ……」

 

「どんな夢や」

 

「札幌記念で、わたしが一着でしたぁ……」

 

宮田先生は箸を止めた。

 

少し離れた席で麦茶を飲んでいた古吉トレーナーも、こちらを見た。

 

「えらい大きい夢見たな」

 

宮田先生が言う。

 

「はいぃ……大きかったですぅ……」

 

古吉トレーナーが、ぼそりと言った。

 

「夢ならタダや」

 

「ほわ~……古吉さん、雑ですぅ……」

 

「けど、悪い夢やないやろ」

 

シェイクは少し考えた。

 

大きな歓声。

札幌の風。

ゴールの向こうの静けさ。

 

「はいぃ……悪い夢じゃなかったですぅ」

 

「ほな、覚えとけ」

 

「覚えてていいんですかぁ?」

 

「忘れたらもったいないやろ」

 

古吉トレーナーはそう言って、味噌汁を飲んだ。

 

シェイクは、その横顔を見ていた。

 

夢は夢だ。

今の自分は、まだ一勝クラスを勝っただけ。

重賞では六着。

春の扉にも届かなかった。

 

それでも。

 

胸の奥で、夢の心臓がまだ鳴っている。

 

その日、シェイクはメモに一行だけ書き足した。

 

いつか、札幌記念。

 

書いたあとで、自分でも少し笑った。

 

「ほわ~……大きい夢ですぅ……」

 

けれど、その紙を捨てることはしなかった。

 

机の引き出しの奥。

春の扉が閉じたメモの隣。

富良野特別の六着の隣。

今日の一着の隣。

 

そこに、そっとしまった。

 

シェイクユアハートは、まだ知らない。

 

その夢が、ただの夢で終わらないことを。

札幌の風が、いつかもう一度、もっと大きな歓声を連れてくることを。

 

ただその日、彼女は古吉トレーナーと一勝クラスを掴んだ。

 

そして、まだ知らない未来の自分が、札幌記念で一番前にいる夢を見た。

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