心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第九章]その名はタガノデュード

時は少し戻る。

富良野特別を終えたあとの、少し涼しい夕方。

芝の匂いがまだ身体のどこかに残っていて、負けたのに不思議と苦しくない六着を、シェイクは胸の中でころころ転がしていた。

 

持っていける負け方。

 

古吉トレーナーがそう言った。

 

その言葉は、勝利ほど華やかではない。

でも、足元に置ける石みたいにしっかりしていた。

 

「ほわ~……」

 

札幌の滞在先の廊下で、シェイクは荷物を持ったまま立ち止まっていた。

 

どこに置くべきか分からなかったからである。

 

正確に言うと、置き場所は分かっていた。

でも、右手には着替えの袋、左手には調教用具、肩には小さなバッグ。

さらに古吉トレーナーから渡された資料も抱えていたため、身動きが少し難しくなっていた。

 

「ほわ~……わたし、荷物に囲まれていますぅ……」

 

「そこ、通路なんで置いたら危ないですよ」

 

はきはきした声がした。

 

シェイクが振り向くと、黒茶色の髪を低めに結んだウマ娘が立っていた。

横に流した前髪。少し眠たげな目元。けれど動きは妙に速い。

手には自分の荷物を持っているのに、すでにシェイクの荷物の位置まで見ていた。

 

「持ちます?」

 

「ほわ?」

 

「それ。崩れそうなので」

 

「あ、えっと……大丈夫ですぅ。たぶん」

 

「たぶんは危ないやつですね」

 

その子は、返事を待つ前にシェイクの左手の袋をひょいと持った。

 

あまりにも自然な動きだった。

 

「ほわ~……手際がいいですぅ……」

 

「実家でぼーっとしてたら怒られるんですよ」

 

「ご実家……?」

 

「建設会社です。あと、ウマ娘を育てる施設もやってます」

 

「ほわ~……建設会社のお嬢様……」

 

その言葉に、彼女は少し嫌そうではない、でも慣れていない顔をした。

 

「お嬢様って感じじゃないですよ。現場にいたら、邪魔なものはどかす、危ないものは直す、段取りは先に見る。そういう家です」

 

「現場……」

 

「はい。通路に荷物を置かないのも現場の基本です」

 

「すみませんですぅ……」

 

「怒ってないです。転んだら危ないので」

 

その子は、シェイクの荷物を壁際の邪魔にならない場所に置いた。

角度まできちんとしていた。

 

「ありがとうございますぅ。わたし、シェイクユアハートですぅ」

 

「知ってます」

 

「ほわ。知られてますぅ……」

 

「札幌で走ってましたし。富良野特別」

 

「六着でしたぁ……」

 

「見てました。最後まで脚は使ってましたよね」

 

シェイクは少し驚いた。

 

「見てくれてたんですかぁ?」

 

「同じ宮田先生のところなので。あと、わたしも札幌で走ってるので」

 

彼女は、そこで少しだけ肩をすくめた。

 

「タガノデュードです」

 

「たがのでゅーどさん……」

 

「はい」

 

「デュードって、あいつとか、兄ちゃんみたいな意味の……」

 

「それ、よく言われます」

 

「ほわ~……」

 

シェイクはまじまじとデュードを見た。

 

たしかに、ふわふわしたお嬢様という感じではない。

ちゃきちゃきしている。

荷物の置き方も、話し方も、視線の配り方も、どこか現場の人だった。

 

「デュードさんも、札幌の風を知ってるんですねぇ」

 

シェイクがそう言うと、デュードは少しだけ目を細めた。

 

「知ってます。まだ、うまく掴めてないですけど」

 

「掴む……」

 

「この前も、届きませんでした。親は大きいところを勝ってほしいって、けっこう前のめりなんですけどね」

 

「親御さんが……」

 

「はい。うち、育成施設もやってるので。期待があるのは分かります。でも、わたしは能力上位馬じゃないからな~って」

 

軽い言い方だった。

 

けれど、その軽さの下に、何か重いものがあった。

 

シェイクは胸の奥で、古吉トレーナーの言葉を思い出した。

 

持っていける負け方。

 

デュードの札幌には、まだそれがうまく見つかっていないのかもしれない。

 

「能力上位馬じゃないんですかぁ?」

 

「ないと思いますよ。上にはもっと強い子がいますし」

 

「でも、札幌に来てるなら、何かあるんじゃないですかぁ?」

 

「何か、ですか」

 

「はいぃ。札幌の風を知ってる子ですぅ」

 

デュードは少し黙った。

 

それから、困ったように笑った。

 

「シェイクさんって、変な励まし方しますね」

 

「励ましてましたかぁ?」

 

「たぶん」

 

「たぶんですぅ」

 

二人は、そこで少しだけ笑った。

 

それが最初だった。

 

その時は、同室になるなんて思っていなかった。

ただ、札幌の廊下で荷物を持ってもらっただけ。

少し話して、名前を覚えただけ。

 

けれどシェイクは、その子のことをなんとなく覚えていた。

 

タガノデュード。

 

札幌の風を知っている、ちゃきちゃきした子。

 

そして秋、トレセンへ戻ったシェイクは、寮の掲示板の前でその名前をもう一度見つけた。

 

部屋割り変更。

 

シェイクユアハート。

タガノデュード。

 

「ほわ?」

 

シェイクは、掲示板の前で固まった。

 

札幌から持ち帰った荷物は、もう部屋に運び込んである。

古吉トレーナーとの一勝クラス勝利のメモも、札幌記念の夢を書いた紙も、机の引き出しにしまった。

秋のトレセンに戻って、またいつもの寮の時間が始まると思っていた。

 

そこへ、札幌の風を知っている子の名前があった。

 

「宮田先生」

 

「何や」

 

「わたし、同室さんができますぅ」

 

「せやな」

 

「デュードさんですぅ」

 

「せやな」

 

「札幌で荷物を持ってくれた子ですぅ」

 

「もう会っとったんか」

 

「はいぃ。通路に荷物を置いたら危ないって教えてくれましたぁ」

 

「それはお前が悪い」

 

「ほわ~……」

 

宮田先生は、腕を組んで掲示板を見た。

 

「ちょうどええと思ってな」

 

「ちょうどいい……」

 

「お前は一人やと、ほわほわしたまま机にメモを増やすやろ」

 

「メモは大事ですぅ」

 

「デュードは段取りを見る。お前とは違う種類の子や。たぶん、お互いにええ」

 

「違う種類……」

 

「そうや。お前は名家のほわほわお嬢様。デュードは建設会社のちゃきちゃきお嬢様や」

 

「お嬢様が二種類……」

 

「お嬢様にも色々ある」

 

宮田先生はそう言って、廊下の先へ歩いていった。

 

その直後、背後から台車の音がした。

 

ごろごろ、と規則正しい音。

迷いのない足取り。

荷物の揺れを最小限に抑える、妙に安定した運び方。

 

「すみませーん、通ります」

 

シェイクは振り向いた。

 

札幌で見た横流しの前髪。

低く結んだ長い髪。

眠たげなのに、手際のいい目元。

 

タガノデュードが、荷物を載せた台車を押していた。

 

「あ」

 

デュードがシェイクに気づいた。

 

「札幌の荷物さん」

 

「ほわ。覚え方が独特ですぅ」

 

「すみません。シェイクさん」

 

「はいぃ。札幌のちゃきちゃきさんですぅ」

 

「そっちも大概ですよ」

 

二人は少し笑った。

 

「今日から同室です」

 

デュードは改めて頭を下げた。

 

「タガノデュードです。よろしくお願いします」

 

「シェイクユアハートですぅ。よろしくお願いします」

 

シェイクもゆっくり頭を下げた。

 

デュードはすぐに部屋の方を見た。

 

「荷物、どこに置けばいいですか?」

 

「えっと……たぶん、こっちですぅ」

 

「たぶんは危ないやつですね」

 

「札幌でも言われましたぁ……」

 

「言いました」

 

二人は部屋へ入った。

 

シェイクの部屋は、本人が言うほど散らかってはいなかった。

ただ、机の上に紙が多かった。

 

新馬戦。

未勝利。

一勝クラス。

きさらぎ賞。

大寒桜賞。

富良野特別。

札幌の一勝クラス。

 

そして、引き出しから少しだけはみ出した紙。

 

いつか、札幌記念。

 

デュードはそれを見て、少し眉を上げた。

 

「札幌記念?」

 

「あっ、それは……夢ですぅ」

 

「夢?」

 

「札幌で古吉さんと勝った夜に、札幌記念で一着になる夢を見ましたぁ」

 

「大きい夢ですね」

 

「大きすぎるので、引き出しにしまいましたぁ」

 

「現場的には、しまい方が甘いです」

 

「ほわ~……そこですかぁ……」

 

デュードは紙を丁寧に引き出しへ戻し、角をそろえた。

 

「でも、捨ててないのはいいと思います」

 

「捨てなくていいですかぁ?」

 

「夢なら、邪魔にならない場所に置けばいいんじゃないですか」

 

「邪魔にならない場所……」

 

「机の上だと作業できないので、引き出しの奥です」

 

「ほわ~……現場監督ですぅ……」

 

「誰が現場監督ですか」

 

デュードは荷物を整理し始めた。

 

服は棚へ。

調教用具は取り出しやすい位置へ。

資料は机の端へ。

細かいものは箱にまとめる。

 

シェイクは、その動きを見ていた。

 

「やっぱり手際がいいですぅ……」

 

「実家で鍛えられました。段取り悪いと、現場ってすぐ詰まるので」

 

「トレセンも現場ですかぁ?」

 

「現場です」

 

「レースも?」

 

「現場です」

 

「お茶も?」

 

デュードは少し考えた。

 

「お茶は休憩です」

 

「ほわ~……じゃあ、お茶を淹れますぅ」

 

「ありがとうございます。休憩は大事です」

 

シェイクは湯呑みを二つ用意した。

 

その間に、デュードはシェイクの机の上をちらりと見て、何か言いたそうな顔をした。

でも初日から片づけろと言うのは遠慮したらしく、ぐっと飲み込んでいた。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「言っていいですよぉ」

 

「何をですか」

 

「机、片づけた方がいいって顔してますぅ」

 

「……してました?」

 

「してましたぁ」

 

「じゃあ言います。レースメモは大事だと思いますけど、積み方が危ないです。崩れたら順番が分からなくなります」

 

「ほわ~……」

 

「時系列でまとめましょう。あと、札幌関係は札幌でまとめた方がいいです」

 

「札幌フォルダ……」

 

「そうです」

 

「デュードさん、すごいですぅ……」

 

「普通です」

 

「普通ではないですぅ」

 

デュードは少しだけ照れたように視線を逸らした。

 

「褒められると作業したくなるんですよね」

 

「照れてますかぁ?」

 

「たぶん」

 

「たぶんですぅ」

 

二人はお茶を飲んだ。

 

窓の外は秋の色をしていた。

札幌の高い空とは違う。

けれど、風のどこかにまだ夏の名残があった。

 

デュードは湯呑みを置くと、ぽつりと言った。

 

「札幌、悔しかったんですよね」

 

シェイクは顔を上げた。

 

「コスモス賞ですかぁ?」

 

「それも、そのあとも。走れないわけじゃない。でも届かない。親は大きいところを見てるのに、わたしはまだ足元でつまずいてる感じで」

 

「足元……」

 

「建設会社の子が足元でつまずくの、だいぶ駄目ですよね」

 

「そんなことないですぅ。足元を見るのは、大事ですぅ」

 

「そうですかね」

 

「はいぃ。わたしは、ときどき空とか花壇とか食堂を見てますぅ」

 

「それはそれで危ないですね」

 

「宮田先生にも言われますぅ」

 

デュードは少し笑った。

 

でも、その笑いはすぐに静かになった。

 

「シェイクさんは、札幌で勝ちましたよね」

 

「はいぃ。古吉さんと勝ちましたぁ」

 

「羨ましいです」

 

まっすぐな言葉だった。

 

シェイクは少し驚いた。

 

デュードは慌てて手を振る。

 

「あ、嫌な意味じゃないです。すごいなって。札幌で、ちゃんと何か掴んで帰ってきたんだなって」

 

「デュードさんも、札幌の風を知っていますぅ」

 

「知ってるだけです。掴めてはないです」

 

「知ってるなら、掴めますぅ」

 

「ほわっと言い切りますね」

 

「言い切りますぅ」

 

「根拠は?」

 

シェイクは少し考えた。

 

「同室なのでぇ」

 

「それ、根拠になります?」

 

「たぶん……」

 

「たぶんか~」

 

デュードは困ったように笑った。

 

その笑いを見て、シェイクは思った。

 

この子は、ちゃきちゃきしている。

荷物を運ぶのも、資料をまとめるのも、現実を見るのも上手い。

 

でも、自分の夢の置き場所だけ、まだ決められていないのかもしれない。

 

親の期待。

建設会社。

育成施設。

大きいところを勝ってほしいという願い。

自分は能力上位馬じゃないという口癖。

 

それらが、デュードの机の上でまだ片づいていない。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「期待は、ここに置いてもいいですぅ」

 

シェイクは部屋の隅を指した。

 

「ここ?」

 

「はいぃ。同室の間だけ、ちょっと置いておきますぅ」

 

「いや、期待って置けるものですか?」

 

「古吉さんは、速くならないものは置いていけって言ってましたぁ」

 

「古吉さん、雑ですね」

 

「雑ですぅ。でも、楽ですぅ」

 

デュードはしばらく部屋の隅を見ていた。

 

何もない場所。

ただの床。

でも、シェイクが言うと、そこに何かを置ける気がした。

 

「じゃあ、少しだけ」

 

デュードは小さく言った。

 

「親の期待、少しだけここに置きます」

 

「はいぃ」

 

「でも、踏まないでくださいね」

 

「踏まないですぅ」

 

「掃除の時は動かします」

 

「現場ですぅ……」

 

消灯時間が近づいた。

 

二人はそれぞれ机を整え、寝る準備をした。

シェイクの机には、デュードの助言で札幌のメモがひとまとめにされた。

デュードの机には、明日の調教予定と自分のレース資料が角をそろえて置かれている。

 

部屋が暗くなる。

 

シェイクはベッドの中で天井を見た。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「札幌の風、また一緒に見たいですねぇ」

 

「一緒に?」

 

「はいぃ。今度は、デュードさんが何か掴むところも見たいですぅ」

 

隣のベッドで、デュードが少し黙った。

 

「……わたしは能力上位馬じゃないからな~」

 

「また言いましたぁ」

 

「口癖なので」

 

「でも、札幌の風を知ってる子ですぅ」

 

「それも口癖にします?」

 

「いいですねぇ」

 

デュードは小さく笑った。

 

「じゃあ、こうします。わたしは能力上位馬じゃないけど、札幌の風は知ってます」

 

「ほわ~……かっこいいですぅ」

 

「そうですか?」

 

「はいぃ」

 

秋の夜が、窓の外で静かに深くなっていく。

 

シェイクは、札幌記念の夢を引き出しの奥にしまっている。

デュードは、親の期待を部屋の隅に少しだけ置いた。

 

二つの机。

二つのベッド。

二つの心臓。

 

ひとつは、札幌で勝った心臓。

もうひとつは、札幌でまだ掴めなかった心臓。

 

でも、どちらも札幌の風を知っていた。

 

その夜から、シェイクユアハートの部屋には、新しい足音が増えた。

 

ちゃきちゃきしていて、荷物の置き場所に厳しくて、自分のことを能力上位馬じゃないと言う子。

 

その名は、タガノデュード。

 

シェイクはまだ知らない。

 

この同室の彼女が、これから長い三勝クラスの沼を一番近くで見届けることを。

そしていつか、デュード自身もまた、いくつものトレーナーを巡りながら、自分の足場を組んでいくことを。

 

今はただ、札幌の風を知る二人が、同じ部屋で秋の夜を迎えていた。

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