時は少し戻る。
富良野特別を終えたあとの、少し涼しい夕方。
芝の匂いがまだ身体のどこかに残っていて、負けたのに不思議と苦しくない六着を、シェイクは胸の中でころころ転がしていた。
持っていける負け方。
古吉トレーナーがそう言った。
その言葉は、勝利ほど華やかではない。
でも、足元に置ける石みたいにしっかりしていた。
「ほわ~……」
札幌の滞在先の廊下で、シェイクは荷物を持ったまま立ち止まっていた。
どこに置くべきか分からなかったからである。
正確に言うと、置き場所は分かっていた。
でも、右手には着替えの袋、左手には調教用具、肩には小さなバッグ。
さらに古吉トレーナーから渡された資料も抱えていたため、身動きが少し難しくなっていた。
「ほわ~……わたし、荷物に囲まれていますぅ……」
「そこ、通路なんで置いたら危ないですよ」
はきはきした声がした。
シェイクが振り向くと、黒茶色の髪を低めに結んだウマ娘が立っていた。
横に流した前髪。少し眠たげな目元。けれど動きは妙に速い。
手には自分の荷物を持っているのに、すでにシェイクの荷物の位置まで見ていた。
「持ちます?」
「ほわ?」
「それ。崩れそうなので」
「あ、えっと……大丈夫ですぅ。たぶん」
「たぶんは危ないやつですね」
その子は、返事を待つ前にシェイクの左手の袋をひょいと持った。
あまりにも自然な動きだった。
「ほわ~……手際がいいですぅ……」
「実家でぼーっとしてたら怒られるんですよ」
「ご実家……?」
「建設会社です。あと、ウマ娘を育てる施設もやってます」
「ほわ~……建設会社のお嬢様……」
その言葉に、彼女は少し嫌そうではない、でも慣れていない顔をした。
「お嬢様って感じじゃないですよ。現場にいたら、邪魔なものはどかす、危ないものは直す、段取りは先に見る。そういう家です」
「現場……」
「はい。通路に荷物を置かないのも現場の基本です」
「すみませんですぅ……」
「怒ってないです。転んだら危ないので」
その子は、シェイクの荷物を壁際の邪魔にならない場所に置いた。
角度まできちんとしていた。
「ありがとうございますぅ。わたし、シェイクユアハートですぅ」
「知ってます」
「ほわ。知られてますぅ……」
「札幌で走ってましたし。富良野特別」
「六着でしたぁ……」
「見てました。最後まで脚は使ってましたよね」
シェイクは少し驚いた。
「見てくれてたんですかぁ?」
「同じ宮田先生のところなので。あと、わたしも札幌で走ってるので」
彼女は、そこで少しだけ肩をすくめた。
「タガノデュードです」
「たがのでゅーどさん……」
「はい」
「デュードって、あいつとか、兄ちゃんみたいな意味の……」
「それ、よく言われます」
「ほわ~……」
シェイクはまじまじとデュードを見た。
たしかに、ふわふわしたお嬢様という感じではない。
ちゃきちゃきしている。
荷物の置き方も、話し方も、視線の配り方も、どこか現場の人だった。
「デュードさんも、札幌の風を知ってるんですねぇ」
シェイクがそう言うと、デュードは少しだけ目を細めた。
「知ってます。まだ、うまく掴めてないですけど」
「掴む……」
「この前も、届きませんでした。親は大きいところを勝ってほしいって、けっこう前のめりなんですけどね」
「親御さんが……」
「はい。うち、育成施設もやってるので。期待があるのは分かります。でも、わたしは能力上位馬じゃないからな~って」
軽い言い方だった。
けれど、その軽さの下に、何か重いものがあった。
シェイクは胸の奥で、古吉トレーナーの言葉を思い出した。
持っていける負け方。
デュードの札幌には、まだそれがうまく見つかっていないのかもしれない。
「能力上位馬じゃないんですかぁ?」
「ないと思いますよ。上にはもっと強い子がいますし」
「でも、札幌に来てるなら、何かあるんじゃないですかぁ?」
「何か、ですか」
「はいぃ。札幌の風を知ってる子ですぅ」
デュードは少し黙った。
それから、困ったように笑った。
「シェイクさんって、変な励まし方しますね」
「励ましてましたかぁ?」
「たぶん」
「たぶんですぅ」
二人は、そこで少しだけ笑った。
それが最初だった。
その時は、同室になるなんて思っていなかった。
ただ、札幌の廊下で荷物を持ってもらっただけ。
少し話して、名前を覚えただけ。
けれどシェイクは、その子のことをなんとなく覚えていた。
タガノデュード。
札幌の風を知っている、ちゃきちゃきした子。
そして秋、トレセンへ戻ったシェイクは、寮の掲示板の前でその名前をもう一度見つけた。
部屋割り変更。
シェイクユアハート。
タガノデュード。
「ほわ?」
シェイクは、掲示板の前で固まった。
札幌から持ち帰った荷物は、もう部屋に運び込んである。
古吉トレーナーとの一勝クラス勝利のメモも、札幌記念の夢を書いた紙も、机の引き出しにしまった。
秋のトレセンに戻って、またいつもの寮の時間が始まると思っていた。
そこへ、札幌の風を知っている子の名前があった。
「宮田先生」
「何や」
「わたし、同室さんができますぅ」
「せやな」
「デュードさんですぅ」
「せやな」
「札幌で荷物を持ってくれた子ですぅ」
「もう会っとったんか」
「はいぃ。通路に荷物を置いたら危ないって教えてくれましたぁ」
「それはお前が悪い」
「ほわ~……」
宮田先生は、腕を組んで掲示板を見た。
「ちょうどええと思ってな」
「ちょうどいい……」
「お前は一人やと、ほわほわしたまま机にメモを増やすやろ」
「メモは大事ですぅ」
「デュードは段取りを見る。お前とは違う種類の子や。たぶん、お互いにええ」
「違う種類……」
「そうや。お前は名家のほわほわお嬢様。デュードは建設会社のちゃきちゃきお嬢様や」
「お嬢様が二種類……」
「お嬢様にも色々ある」
宮田先生はそう言って、廊下の先へ歩いていった。
その直後、背後から台車の音がした。
ごろごろ、と規則正しい音。
迷いのない足取り。
荷物の揺れを最小限に抑える、妙に安定した運び方。
「すみませーん、通ります」
シェイクは振り向いた。
札幌で見た横流しの前髪。
低く結んだ長い髪。
眠たげなのに、手際のいい目元。
タガノデュードが、荷物を載せた台車を押していた。
「あ」
デュードがシェイクに気づいた。
「札幌の荷物さん」
「ほわ。覚え方が独特ですぅ」
「すみません。シェイクさん」
「はいぃ。札幌のちゃきちゃきさんですぅ」
「そっちも大概ですよ」
二人は少し笑った。
「今日から同室です」
デュードは改めて頭を下げた。
「タガノデュードです。よろしくお願いします」
「シェイクユアハートですぅ。よろしくお願いします」
シェイクもゆっくり頭を下げた。
デュードはすぐに部屋の方を見た。
「荷物、どこに置けばいいですか?」
「えっと……たぶん、こっちですぅ」
「たぶんは危ないやつですね」
「札幌でも言われましたぁ……」
「言いました」
二人は部屋へ入った。
シェイクの部屋は、本人が言うほど散らかってはいなかった。
ただ、机の上に紙が多かった。
新馬戦。
未勝利。
一勝クラス。
きさらぎ賞。
大寒桜賞。
富良野特別。
札幌の一勝クラス。
そして、引き出しから少しだけはみ出した紙。
いつか、札幌記念。
デュードはそれを見て、少し眉を上げた。
「札幌記念?」
「あっ、それは……夢ですぅ」
「夢?」
「札幌で古吉さんと勝った夜に、札幌記念で一着になる夢を見ましたぁ」
「大きい夢ですね」
「大きすぎるので、引き出しにしまいましたぁ」
「現場的には、しまい方が甘いです」
「ほわ~……そこですかぁ……」
デュードは紙を丁寧に引き出しへ戻し、角をそろえた。
「でも、捨ててないのはいいと思います」
「捨てなくていいですかぁ?」
「夢なら、邪魔にならない場所に置けばいいんじゃないですか」
「邪魔にならない場所……」
「机の上だと作業できないので、引き出しの奥です」
「ほわ~……現場監督ですぅ……」
「誰が現場監督ですか」
デュードは荷物を整理し始めた。
服は棚へ。
調教用具は取り出しやすい位置へ。
資料は机の端へ。
細かいものは箱にまとめる。
シェイクは、その動きを見ていた。
「やっぱり手際がいいですぅ……」
「実家で鍛えられました。段取り悪いと、現場ってすぐ詰まるので」
「トレセンも現場ですかぁ?」
「現場です」
「レースも?」
「現場です」
「お茶も?」
デュードは少し考えた。
「お茶は休憩です」
「ほわ~……じゃあ、お茶を淹れますぅ」
「ありがとうございます。休憩は大事です」
シェイクは湯呑みを二つ用意した。
その間に、デュードはシェイクの机の上をちらりと見て、何か言いたそうな顔をした。
でも初日から片づけろと言うのは遠慮したらしく、ぐっと飲み込んでいた。
「デュードさん」
「はい」
「言っていいですよぉ」
「何をですか」
「机、片づけた方がいいって顔してますぅ」
「……してました?」
「してましたぁ」
「じゃあ言います。レースメモは大事だと思いますけど、積み方が危ないです。崩れたら順番が分からなくなります」
「ほわ~……」
「時系列でまとめましょう。あと、札幌関係は札幌でまとめた方がいいです」
「札幌フォルダ……」
「そうです」
「デュードさん、すごいですぅ……」
「普通です」
「普通ではないですぅ」
デュードは少しだけ照れたように視線を逸らした。
「褒められると作業したくなるんですよね」
「照れてますかぁ?」
「たぶん」
「たぶんですぅ」
二人はお茶を飲んだ。
窓の外は秋の色をしていた。
札幌の高い空とは違う。
けれど、風のどこかにまだ夏の名残があった。
デュードは湯呑みを置くと、ぽつりと言った。
「札幌、悔しかったんですよね」
シェイクは顔を上げた。
「コスモス賞ですかぁ?」
「それも、そのあとも。走れないわけじゃない。でも届かない。親は大きいところを見てるのに、わたしはまだ足元でつまずいてる感じで」
「足元……」
「建設会社の子が足元でつまずくの、だいぶ駄目ですよね」
「そんなことないですぅ。足元を見るのは、大事ですぅ」
「そうですかね」
「はいぃ。わたしは、ときどき空とか花壇とか食堂を見てますぅ」
「それはそれで危ないですね」
「宮田先生にも言われますぅ」
デュードは少し笑った。
でも、その笑いはすぐに静かになった。
「シェイクさんは、札幌で勝ちましたよね」
「はいぃ。古吉さんと勝ちましたぁ」
「羨ましいです」
まっすぐな言葉だった。
シェイクは少し驚いた。
デュードは慌てて手を振る。
「あ、嫌な意味じゃないです。すごいなって。札幌で、ちゃんと何か掴んで帰ってきたんだなって」
「デュードさんも、札幌の風を知っていますぅ」
「知ってるだけです。掴めてはないです」
「知ってるなら、掴めますぅ」
「ほわっと言い切りますね」
「言い切りますぅ」
「根拠は?」
シェイクは少し考えた。
「同室なのでぇ」
「それ、根拠になります?」
「たぶん……」
「たぶんか~」
デュードは困ったように笑った。
その笑いを見て、シェイクは思った。
この子は、ちゃきちゃきしている。
荷物を運ぶのも、資料をまとめるのも、現実を見るのも上手い。
でも、自分の夢の置き場所だけ、まだ決められていないのかもしれない。
親の期待。
建設会社。
育成施設。
大きいところを勝ってほしいという願い。
自分は能力上位馬じゃないという口癖。
それらが、デュードの机の上でまだ片づいていない。
「デュードさん」
「はい」
「期待は、ここに置いてもいいですぅ」
シェイクは部屋の隅を指した。
「ここ?」
「はいぃ。同室の間だけ、ちょっと置いておきますぅ」
「いや、期待って置けるものですか?」
「古吉さんは、速くならないものは置いていけって言ってましたぁ」
「古吉さん、雑ですね」
「雑ですぅ。でも、楽ですぅ」
デュードはしばらく部屋の隅を見ていた。
何もない場所。
ただの床。
でも、シェイクが言うと、そこに何かを置ける気がした。
「じゃあ、少しだけ」
デュードは小さく言った。
「親の期待、少しだけここに置きます」
「はいぃ」
「でも、踏まないでくださいね」
「踏まないですぅ」
「掃除の時は動かします」
「現場ですぅ……」
消灯時間が近づいた。
二人はそれぞれ机を整え、寝る準備をした。
シェイクの机には、デュードの助言で札幌のメモがひとまとめにされた。
デュードの机には、明日の調教予定と自分のレース資料が角をそろえて置かれている。
部屋が暗くなる。
シェイクはベッドの中で天井を見た。
「デュードさん」
「はい」
「札幌の風、また一緒に見たいですねぇ」
「一緒に?」
「はいぃ。今度は、デュードさんが何か掴むところも見たいですぅ」
隣のベッドで、デュードが少し黙った。
「……わたしは能力上位馬じゃないからな~」
「また言いましたぁ」
「口癖なので」
「でも、札幌の風を知ってる子ですぅ」
「それも口癖にします?」
「いいですねぇ」
デュードは小さく笑った。
「じゃあ、こうします。わたしは能力上位馬じゃないけど、札幌の風は知ってます」
「ほわ~……かっこいいですぅ」
「そうですか?」
「はいぃ」
秋の夜が、窓の外で静かに深くなっていく。
シェイクは、札幌記念の夢を引き出しの奥にしまっている。
デュードは、親の期待を部屋の隅に少しだけ置いた。
二つの机。
二つのベッド。
二つの心臓。
ひとつは、札幌で勝った心臓。
もうひとつは、札幌でまだ掴めなかった心臓。
でも、どちらも札幌の風を知っていた。
その夜から、シェイクユアハートの部屋には、新しい足音が増えた。
ちゃきちゃきしていて、荷物の置き場所に厳しくて、自分のことを能力上位馬じゃないと言う子。
その名は、タガノデュード。
シェイクはまだ知らない。
この同室の彼女が、これから長い三勝クラスの沼を一番近くで見届けることを。
そしていつか、デュード自身もまた、いくつものトレーナーを巡りながら、自分の足場を組んでいくことを。
今はただ、札幌の風を知る二人が、同じ部屋で秋の夜を迎えていた。