橋姫巻と椎本巻の間のお話。
月の隠れた今夜も、やはり暑い。
都は連日、宇治が恋しくなるほどに、季節外れの暑さを帯びている。
内裏から数日ぶりに帰った三条の宮は、それでも変わりない有様だった。
私は息を殺して門をくぐり、邸へ足を運んでいく。
すると、甲高い声がいくつも聞こえてきた。
母上にお仕えする、女房達の声だ。
目立たぬよう、あえて夜を選んだというのに。
「……まったく」
衣の袖で頬を擦りつつ、私は思わず呟いた。
この煩わしい薫りのせいで、いつどこへ行っても忍びきれない。
何をやっても勘付かれ、注目され、寄ってくる者もいれば離れていく者もいる。
どうしてこのようなものが、生来備わってしまったのか。
評判の良い僧都や僧正に問えば、皆口を揃えて言った。
『前世の功徳によるものだ。尊く有り難い生まれの証だ』
大げさな物言いに上辺だけの笑みを返すのも、いつしか飽きた。
前世の功徳だと。
尊い生まれだと。
何も知らずに説法すれば、確かにそういう物言いにもなるだろう。
いっそ、胸の全てを宇治の宮に打ち明けてしまおうか。
俗聖ながらも親しみやすく、仏道の形よりも道理をご存知のお方だ。
私の悩みを真摯に受け止め、こう告げてくださるかもしれない。
『母の犯した、罪の証だ』
と。
廊下を歩き、火の灯りでじんわり輝く御簾の前へ座る。
「……失礼いたします、母上」
頭を下げると読経が止まり、紙が擦れる音がした。
「っ、どうぞ」
少し恥じらうような、いかにも若々しいお声。
宇治の宮の若君達と変わらない、透明な高音。
人の親としてもう四十を過ぎたお方のものとは、到底思えない。
母上だけは、違っていた。
私の生まれ持ったこの薫りに、まるでお気づきにならない。
声をかければようやく慌てて、居住まいを正されるばかり。
誰も彼もが、陰で母上を評した。
『いくつになっても、幼い人だ』
『齢に相応しくない言動のままだ』
『気まぐれに仏門へ逃げ入り、子を抱くことすらしなかった母だ』
母上を、嗤った。
「……中将? どうなさいましたか?」
「いいえ。俄かに生じた暑さのせいでしょうか、この時期にまだ庭で鈴虫が鳴いていたようで、少し耳を傾けておりました」
食いしばっていた歯をこじ開け、心にも無い言葉を吐き出す。
傍仕えの若い女房が、御簾を上げた。
いつもの大仰な眼差しが心地悪く、会釈のみして中に入る。
「しかし私達の声に驚いて、草の陰でじっとしてしまったようですね」
「かつて大殿が、西の渡殿の前を野原になさいました。あの時の鈴虫が、増えたのでしょう」
母上は特段の感慨もなさそうにおっしゃった。
知っている。
父上が、いや、父上と呼ぶべき尊いお方が、尼になられた母上を慰めようとなさった、と。
この上なく風流を解するが故のお心配りだったと、何度も周囲に聞かされた。
もっとも、この母にどれほど響いたかを思えば、虚しい行いでしかないが。
「今は亡き大殿は」
私は開いた口を、すぐさま閉じた。
几帳の向こうで母上が身をよじり、背をお向けになったからだ。
この暑さのためか、絹は夏のように薄いままである。
法体にしては随分長い黒髪が透けて見え、やめてほしいと話を遮ってくる。
齢を考えなければ、可愛らしく見えるいじけた振る舞いかもしれない。
それこそ、宇治の姫君達ほどならば。
「……中将は、内裏のお勤めが多くありましょう。あまり夜更かしをなさってはいけません」
「おっしゃる通りです。今宵はただ……」
ただ数日ぶりに帰ったので、ご様子を窺いに参っただけ。
母上こそ奇妙な暑さの中で、ご無理をなさらないように。
そう言えば終わるのに、終わらせられなかった。
宇治で弁の君から譲られた文が、この懐に忍ばせた文が、それを許さない。
母の、罪の証が。
前回は、聞けなかった。
今日こそ、今日こそは暑さに任せるようにでもして、聞いてしまおう。
聞かねばならない。
聞けば──いや、聞けばどうなる。
前に進めるのか。
人並みに安い恋でもして、やがては心穏やかに過ごせるようになるのか。
あるいは母上のように、この罪の肉体を清算するために世を捨てるか。
いずれにせよ、何かが大きく変わってしまう。
私と母上の、何かが。
「中将?」
俯いていた私に、声がかけられる。
近くなった音に顔を上げると、母上が几帳の際まで寄り、こちらの様子をご覧になっていた。
法衣ではない、墨染めの衣と黒髪の中で、ご容貌だけが白く浮き立っている。
薄絹越しでは具に分からないが、齢にそぐわない顔立ちでいらっしゃることは察せられる。
二十年ばかりの思い出の中に、母上のお顔は無かった。
浮かぶのは、読経の声。墨染めの衣。黒髪。
「……く、っ」
握り拳を隠した袖で、目元を擦る。
私は今さら、どうしたいと言うのだろう。
母上が苦しんだであろうことは、この懐の文が充分物語っている。
盛りの頃に世を捨てるほどの、大変な絶望であったはずだ。
問い質せば次はきっと、髪を削ぎ捨てるだけでは済まないだろう。
やはりそれは、それだけは出来ない。
「いえ、何ということはございません。……母上の読経で宇治の宮の楽を思い出し、つい浸ってしまいました」
「宇治の……聞いております。聖の宮は、たいそう琴がお上手だとか」
「ええ。合奏をと誘われましたが、どうにも畏れ多く、断ってしまいました。一曲のみ、お聞かせいただきまして」
「まあ。宮は山荘でお暮らしだそうですね。時間がおありですから、常日頃から弾き続けて、世の人ではとても敵わない音色であったことでしょう」
時間がおありなのは、あなたもではないか。
大殿から、他の誰も教わらなかった琴の琴を、特別に教わったはずではないか。
その話を私が今まで、どれほど周りに聞かされてきたと思っていらっしゃる。
羨ましそうに、恨めしそうに。
だが、母上に言葉以上の想いがないことは、几帳越しにも伝わってくる。
遠回しな皮肉や卑下を、巧みになさるお方ではないのだから。
それが分かっているからこそ、拳はより硬くなった。
肩が震え、目元の潤みが鬱陶しい。
だというのに、誰もぶつける相手がいない。
勤行に励もうとも、悩みは増し続ける。
この母の面倒見のために出家の想いも燻り、俗世に縛りつけられている。
この母のせいで。
「…………」
ふと、拳が緩んだ。
そうだ。
このような有様でも、私達は母と子なのだ。
少しだけ、少しだけならば、憂さも晴らしてしまえ。
この身の生来の咎をいかばかりか、噛みしめさせてしまえ。
父が誰だろうと、今は関係ない。
母と子であることだけは確かなのだから、それくらいは。
都の異様な暑さが、私にそう仕向けるのだ。
「琴の琴を。……二つ」
女房に声をかける。
しばらくして、望んだものがやってくる。
私と母の前に、一つずつ。
女房達には、それとなく西の対へ下がるよう命じた。
「中将、これは?」
「宇治の宮との合奏は憚られましたが、今思えば、大変もったいないお誘いを断ったものです。宇治の山河に響き渡る曲は趣深く、今でも耳をくすぐっているように感じられます」
「…………」
「本来は、二人で弾くべき曲だったとか。宮の格別のお手並を再現しようなどと、決して思っておりません。ただ、この口惜しさを少しでも和らげたく思うのです」
「……宮は、琴の琴を?」
「はい。流石に、至上の高貴なお方であらせられました」
嘘だった。
宇治でお聞きしたのは、筝の琴。
しかし、世間ずれした母上がそこまで詳しいことを聞き及んでいるはずもない。
いいではないか。
今は亡き栄華の極みたるお方から、琴の琴を伝授されたというのだから。
「……琴の弾き方など、忘れてしまいました。今はもう、法体の身ですので」
「私も、深くは存じ上げません。ですが、内裏で帝のお近くに侍っておりますと、少なからず勝手に覚えてしまいました」
几帳の反対で、母上が再び身をよじった。
「鈴虫の 声も響かぬ 墨衣 今は音なき ことぞむなしき」
「むら雲の あつく覆はん 西の月 誰ぞ知らんや 一夜の羽音」
児戯にも等しい、稚拙な応酬。
しかし母上はそれで観念したように、琴の琴に向かわれた。
私の方から、弾き始める。
少し遅れて、もう一つの音が寄りかかってきた。
「…………」
琴の琴は、人の心を写す。
他のどの楽器よりも深く、深く。
そう教えてくれたのは、誰だっただろうか。
しかし母上の音には、何も写っていなかった。
私が思うままに弾いているだけの、曲とも呼べない曲に、ただ合わせているだけ。
ある意味では、この人らしいのかもしれない。
いつまでも幼く、思慮も無く、誰かに頼って生きてきた。
初めは父に、次は夫に。
そして今は、我が子に。
だからこんな、虚しいだけの音色になるのだろう。
私が演奏を止めれば、独りではそれ以上弾けまい。
それは分かっている。
では、これならばどうだ。
「……っ」
私は調子を上げた。
母上の琴が慌て、それでも何とかついてくる。
どこまでついてこれるだろうか。
もう一段、上げてしまえ。
「……!」
几帳の方をじっと見ていると、母上がしきりに顔を上げ下げし始めた。
私の手を見て、その場で手本にしようとでもいうのだろうか。
無駄なことだ。夜の薄絹越しでは。
そもそも、それほど器用なわけもない。
邪な笑みがこぼれる。
これが、子が母にする仕打ちか。
やはり私は、最低の人間だ。
過ちの結果なのだから、当然のことだ。
生まれたのが間違いだった命。
琴がその想いを、音にしてくれる。
母にぶつけてくれる。
察するほどの賢さも持たぬ、血の繋がりだけの母に。
もういい。もうやめよう。
虚しすぎる。何もかも。
無礼を謝り、いや、いっそ母子二人でこの世から──
「!!」
几帳が寄せられた。
短く切り揃えられた前髪。
その下で火に照らされたあどけない容貌が、こちらの琴を見つめてくる。
少し困ったように寄せられた眉。
灯りに輝く、澄んだ瞳。
今が盛りというほどに、白く透き通った肌。
なんという女だ。
実の母子とはいえ、法体の身と立場ある身であるのに。
私の手元をじっと眺めていた女はやがて、可愛らしく微笑んだ。
そして口元を緩めたまま自身の琴を見下ろし、調子を乱した私へ従順に合わせてくる。
時折、こちらを窺うような上目遣いをした。
無邪気で、しかし気品があり、優しくて。
あなたは、あなたがそんな人だから。
そんな人だから、私などが。
「……中将? もうお疲れでしょうか?」
こちらを見つめる、あまりにも若やかな顔立ち。
軽く首をかしげた拍子に、前髪が揺れた。
繊細な糸のような、黒々として照り輝く髪。
言葉も音も発せられなくなった私は、固まり続け。
やがて。
適当なことを言って、三条の宮を出た。
………
……
…
夢を見た。
風流な邸の庭で、蹴鞠をする夢。
周囲に、同じ年頃の男達がいる。
うるさく、騒いでいる。
私は蹴鞠をひたすら、独りで上げ続ける。
周りがうるさい。
うるさい。
静かにしてくれ。
私に構うな。
私などに、まとわりつくな。
「ねう、ねう」
不意に、足元を猫が走り去った。
唐猫、だったろうか。
どこから来た。
蹴鞠が落ちる。
視線が横を向く。
まくれ上がった御簾の奥。
几帳の側に、小柄な少女が立っていた。
桜色の襲。
身の丈に余る、豊かな黒髪。
目が合った。
そして少女は無造作に、首をかしげた。
前髪が、揺れた。
「ねうねう。ねうねう」
喧噪は遠のき、猫の鳴き声ばかりが、何度も聞こえた。
私がその女と見つめ合う中で、何度も。
何度も、何度も──
………
……
…
飛び起きた。
「はぁっ、はぁっ……!」
胸が高鳴っている。
汗が止まらない。
全身が熱い。
「っ、っ……ぅぁぁっ!!」
脇息を引き寄せ、額をぶち当てた。
生きねばならない。
何があっても。
最初に思ったのは、それだった。
夢の中の少女の顔立ちが、思い出される。
思い出したくもないのに、浮かび上がってくる。
「消えろ、消えろ消えろっ……!」
何度も額をぶつける私を心配したのか、人が集まってくる。
誤魔化しながら、私は心に決めた。
宇治の宮のお話を、しかと受けよう。
姫君達の後見をしよう。
そして。
あの女へは当分、近づくまい。