国民的アイドルの彼女を信じられなかった僕の話 作:Notes871(かざり)
八月の終わりは、夏がまだそこにいるふりをしている。
夜になってもアスファルトは熱を吐き、駅前のコンビニには溶けかけたアイスを片手に歩く学生がいて、蝉もまだ意地のように鳴いている。
けれど、お盆を過ぎたあたりから、風の質だけが少し変わった。
湿っているのに、どこか軽い。
熱いのに、どこか空っぽだ。
夏が終わる。
そう思うたびに、俺――篠宮律は、自分の生活の中でも何かが終わりかけているような気がしていた。
最近の憂いは、大きく二つある。
一つは、十月の異動の話。
まだ正式な辞令ではない。あくまで打診だ。上司からも「断れない話ではない」とは言われている。
ただ、社会人になって数年も経てばわかる。
断れない話ではない、という言葉は、断ったあとに何も起きないという意味ではない。
会社からの評価がどうなるかはわからない。
出世に響くのか。
今後の配属に影響するのか。
あるいは、何も変わらないのか。
そのあたりは曖昧だ。
曖昧だからこそ、気が重い。
もう一つは、彼女とのすれ違いだった。
俺の彼女、月城莉央は、大学二年の春にアイドルになった。
最初のころは、今の姿からは想像もできないほど地道だった。小さなライブハウス、少ない観客、手書きの告知、安い弁当、遅い帰宅。
それでも莉央は、弱音を吐かなかった。
彼女は昔から、あまり多くを語る人ではない。
疲れたとも言わない。
つらいとも言わない。
嬉しいことがあっても、大げさにはしゃぐわけではない。
ただ、たまに少しだけ笑う。
その小さな笑顔が、俺は好きだった。
けれど今、月城莉央はもう、俺だけが知っている女の子ではない。
駅の広告にもいる。
雑誌の表紙にもいる。
ドラマにも出る。
街を歩けば、彼女の名前を聞くことだってある。
文字通り、アイドルになった。
人気が出たことは嬉しい。
嬉しいはずだった。
けれど、連絡はまちまちになった。
会える日も減った。
会えても、人目を避ける必要があるから、場所は限られる。
映画館に行くにも、飲食店に入るにも、駅前を歩くにも、少し考えなければならない。
仕方がない。
何度もそう思った。
でも、仕方がないという言葉を使うたびに、自分の中の何かが少しずつ削れていく気がした。
莉央が悪いわけではない。
忙しいのも知っている。
彼女が多くを語らない性格なのも、ずっと前から知っている。
ただ、その多くを語らない性格が、今では少し厄介になっていた。
厄介。
そんな言葉は使いたくなかった。
使いたくないのに、頭の隅にこびりついて離れなかった。
◇
「篠宮、少しいいか」
定時を少し過ぎたころ、課長の三島さんに呼ばれた。
オフィスの端にある小さな打ち合わせ席。ガラス越しに見えるフロアでは、まだ何人かがパソコンに向かっている。
三島さんは缶コーヒーを二本持ってきて、そのうち一本を俺の前に置いた。
「この前少し話した異動の件だ」
「はい」
「仙台の新支店、十月から本格的に動き出す。立ち上げに、任せておける人間を送りたい。上のほうでは、お前の名前がかなり前向きに出ている」
仙台。
その響きに、胸の奥がわずかに動いた。
俺の出身地だ。
高校までを過ごした街。
親もまだいる。
しばらく会えていない友人もいる。
懐かしい場所ではある。
ただ、今の俺には、懐かしさより先に別の感情が来た。
遠い。
東京から、莉央から、さらに遠くなる。
「正式な辞令ではない。打診だ。もちろん事情があるなら相談してくれ」
「……ありがとうございます」
「ただ、悪い話ではないと思う。新支店の立ち上げは大変だが、評価にはつながる。篠宮なら任せられると俺も思っている」
任せられる。
そう言われて、嫌な気はしなかった。
むしろ、少し誇らしい気持ちもあった。
仕事だけを考えるなら、受けるべきなのだろう。
地元に戻れる。
責任ある仕事を任される。
会社から期待されている。
十分すぎるくらい、前向きな理由はある。
けれど、即答はできなかった。
東京には莉央がいる。
正確には、東京にいるはずの莉央がいる。
同じ街にいてもなかなか会えない彼女と、仙台に行ってまで続けていけるのか。
その答えが見つからない。
「少し、考えさせてください」
「ああ。急がなくていい。来週中に返事をくれればいい」
三島さんはそう言って、缶コーヒーを開けた。
俺は自分の前に置かれた缶に手をつけられないまま、ただ銀色の表面に映る蛍光灯を見ていた。
◇
会社を出ると、空はすっかり暗くなっていた。
ネクタイを緩め、駅とは反対方向へ歩く。
家までは徒歩で二十分ほど。
電車に乗るほどではない。
けれど、歩くには少し面倒な距離。
考えごとをするには、ちょうどよかった。
仙台。
十月。
異動。
莉央。
頭の中で単語だけが浮かんでは消える。
どれも別々の話のはずなのに、今の俺には全部が同じ重さで胸に沈んでいた。
気づくと、ビジネスホテルが立ち並ぶ通りに出ていた。
スーツケースを転がす人。
タクシーを待つ観光客。
コンビニ袋を下げた会社員。
夜のホテル街は、光が多いわりにどこか冷たい。
そのとき、向かいのホテルの前に一台の高級車が停まった。
黒い車体。
磨かれた窓。
街灯を受けて、車の輪郭が妙にくっきり見える。
普段なら気にも留めない。
でも、その日はなぜか目が離せなかった。
後部座席のドアが開く。
先に見えたのは、細い足だった。
黒いロングスカート。
低めのヒール。
深くかぶったキャップ。
大きめのマスク。
薄手のカーディガン。
変装としては地味だ。
けれど、俺にはわかった。
見間違えるはずがなかった。
「……莉央」
声は、喉の奥で消えた。
少し離れている。
表情もほとんど見えない。
それでも、歩き方でわかる。
肩の傾け方でわかる。
髪を耳にかける仕草でわかる。
月城莉央だった。
心臓が、嫌な音を立てた。
どうしてここにいる。
そう思った瞬間、車のハザードが点いた。
運転席のドアが開く。
降りてきたのは、知らない男だった。
いや、正確には、知らない男ではない。
テレビで何度も見たことがある顔だった。
久我晴臣。
最近ドラマでよく見る若手俳優。
背が高く、整った顔立ちで、爽やかな笑顔が売りの男。
莉央と同じドラマに出ていることも知っていた。
久我は車を降りると、莉央に何かを言った。
莉央が振り返る。
マスクで口元は見えない。
それでも、目元が少し緩んだように見えた。
笑っている。
そう見えた。
久我も笑っていた。
二人の距離は近かった。
とても自然だった。
まるで、俺の知らない時間を共有しているみたいだった。
気づけば俺は、歩道の端で立ち止まっていた。
通行人が俺を避けて歩いていく。
十秒。
一分。
五分。
時間の感覚が曖昧になった。
莉央はすぐにホテルへ入らなかった。
久我と何か話していた。
久我が軽く身振りを交えて話し、莉央がそれに応じる。
断っているようにも見えた。
愛想笑いをしているようにも見えた。
でも、俺の目には、仲が良さそうに見えてしまった。
十分もしただろうか。
莉央がようやくホテルの中へ入った。
その数秒後。
久我も、彼女を追うようにホテルへ入っていった。
夏の終わりの湿った風が、首筋を撫でた。
俺は、そこからどうやって家まで帰ったのか、よく覚えていない。
◇
玄関の鍵を開けた瞬間、部屋の空気がひどく重く感じた。
電気を点ける。
鞄を床に置く。
ネクタイを外す。
いつもと同じ動作のはずなのに、体のどこかが自分のものではないみたいだった。
ソファに座ると、さっきの光景が勝手に浮かぶ。
黒い車。
高級ホテル。
久しぶりに見た莉央。
笑ったように見えた目元。
人気俳優。
同じホテルに入っていく二人。
浮気。
その言葉が浮かんだ瞬間、俺は反射的に否定した。
違う。
仕事かもしれない。
たまたまかもしれない。
事情があったのかもしれない。
莉央はそんなことをする人じゃない。
そう思った。
思おうとした。
けれど、否定したそばから、別の声が頭の中で囁く。
最近、連絡が遅いのは?
会えないのは?
電話に出ない日が増えたのは?
会えてもどこか急いでいるように見えたのは?
全部、説明がついてしまう。
いや、説明がつくように、俺の脳が勝手に結びつけているだけなのかもしれない。
わかっている。
わかっているのに、解けない。
解こうとすればするほど、結び目は固くなっていく。
スマホを開いた。
莉央とのトーク画面は、上にピン留めしてある。
最後のやり取りは三日前。
『撮影遅くなりそう』
『了解。無理しすぎるなよ』
『ありがと』
それだけ。
大学のころは、もっとくだらない会話をしていた。
学食の味噌汁が薄いとか、講義中に寝そうだったとか、コンビニの新作スイーツが思ったより微妙だったとか。
今は、業務連絡みたいなやり取りばかりだ。
指が勝手に動いた。
『今日はどうだった?』
送信。
直後に、猛烈な違和感が襲ってきた。
普段そんなこと、わざわざ送らない。
疑っているみたいだ。
探っているみたいだ。
女々しい。
俺はすぐにメッセージを長押しして、送信を取り消した。
画面には、無機質な文字だけが残る。
『メッセージの送信を取り消しました』
何をしているんだ、俺は。
風呂に入る気力もなかった。
スーツのままベッドに倒れ込む。
目を閉じても、まぶたの裏にホテルの自動ドアが浮かんだ。
莉央が入っていく。
久我が追いかける。
その光景は、眠りに落ちる直前まで消えなかった。
◇
翌朝、鏡に映った自分の顔はひどかった。
目の下に薄い影ができ、肌の色も悪い。
髭を剃っても、シャツを替えても、疲れた印象は消えなかった。
会社に着くと、三島さんがすぐに眉をひそめた。
「篠宮、大丈夫か。顔色が悪いぞ」
「大丈夫です」
大丈夫じゃない人間ほど、大丈夫と言う。
そんな言葉をどこかで聞いたことがある。
まさに今の俺だと思った。
「昨日の仙台の件なんですが」
「ああ。まだ急がなくていいぞ」
「受けます」
三島さんが少し驚いた顔をした。
「……いいのか? 考える時間はある」
「大丈夫です。お願いします」
言ってしまった。
言ってしまうと、不思議なことに胸の中が少しだけ静かになった。
莉央という、東京に居続ける一番大きな理由が、なくなった。
いや、なくなったと思い込もうとしていた。
その日から、物事は驚くほど早く進んだ。
正式な辞令。
引き継ぎ。
仙台支店との打ち合わせ。
不動産会社とのやり取り。
荷造り。
電気、ガス、水道の解約。
部屋の退去手続き。
忙しさはありがたかった。
余計なことを考えずに済むからだ。
スマホに莉央の名前が表示されることはなかった。
俺からも連絡しなかった。
何度も思った。
ちゃんと話したほうがいい。
でも、どうせ連絡はつかない。
それに、何を聞けばいい?
あの日、ホテルにいたよな。
久我晴臣と一緒だったよな。
俺たち、まだ付き合ってるんだよな。
どの言葉も惨めだった。
有名人同士のカップルというのは、きっと映える。
国民的アイドルと人気俳優。
雑誌の見出しにもなる。
ドラマの宣伝にもなる。
世間も祝福するかもしれない。
じゃあ、俺は何だ。
地味な会社員。
大学時代から隣にいただけの男。
彼女が有名になる前から付き合っていた、というだけの過去。
どうして莉央が俺と付き合っていたのかさえ、わからなくなっていた。
そして、十月を待たずに、俺は東京を出た。
新幹線の窓際の席に座り、荷物棚に鞄を乗せる。
発車ベルが鳴る。
スマホを見る。
莉央とのトーク画面を開く。
何か送るべきだと思った。
けれど、指は動かなかった。
俺はスマホの電源を切った。
窓の外で、東京駅のホームがゆっくりと後ろへ流れていく。
これから向かう場所のことを考えよう。
そう思って目を閉じた。
けれど、浮かんだのはやっぱり、ホテルの前で見た莉央の横顔だった。
◇
月城莉央の最近の悩みは、二つあった。
一つは、律との時間が取れないこと。
もう一つは、久我晴臣という俳優の存在だった。
久我とは、ドラマの撮影で共演していた。
最初は普通の共演者だった。
挨拶をして、台本の話をして、撮影の合間に少し雑談をする。
その程度の関係。
けれど、途中から距離感がおかしくなった。
「莉央ちゃんって、普段何してるの?」
「今度、食事でもどう?」
「相談乗るよ。芸能界、いろいろあるからさ」
こちらが曖昧にかわしても、久我は笑って近づいてくる。
悪意があるのか、単に自分に自信がありすぎるのかはわからない。
ただ、莉央にとっては鬱陶しかった。
事務所にも軽く相談したが、相手は売れっ子俳優で、撮影はまだ続いている。
大きく揉めるのは避けたい。
そんな空気があった。
莉央は空気を読むのが得意だった。
得意だからこそ、疲れる。
撮影も終盤に差しかかったある日、現場で小さな事故が起きた。
セットの一部が、予定外のタイミングで倒れた。
大きな怪我ではなかった。
ただ、避けるときに足をひねった。
歩けはする。
骨に異常もなさそう。
けれど、足首に少し違和感が残った。
現場は慌てた。
責任問題。
撮影スケジュール。
事務所への連絡。
病院へ行くべきかどうか。
その騒ぎの中で、久我が爽やかな顔で言った。
「俺、車なので送りますよ」
その一言で、周囲の空気が変わった。
「久我くん優しい」
「助かるね」
「莉央ちゃん、送ってもらいなよ」
「今日は無理しないほうがいいよ」
断れる雰囲気ではなくなった。
本当はタクシーで帰りたかった。
けれど、ここで強く拒めば、久我の顔を潰すことになる。
面倒な空気になる可能性もある。
莉央は小さく息を吐き、笑顔を作った。
「ありがとうございます。お願いします」
ただし、自宅は絶対に教えなかった。
代わりに、仕事で何度か泊まったことのあるホテルの住所を伝えた。
そのホテルなら支配人とも顔見知りで、事情を話せば少し匿ってもらえる。
車内で久我はよく喋った。
最近の仕事の話。
有名監督に褒められた話。
海外進出を考えている話。
芸能人が使いやすい店の話。
そして、遠回しに聞こえるようで、まったく遠回しになっていない誘い文句。
莉央は適度に相槌を打ちながら、窓の外を見ていた。
早く帰りたい。
律に会いたい。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
律は、こういう話をしない。
自慢話をしない。
無理に踏み込んでこない。
こちらが黙っていても、黙って隣にいてくれる。
少し不器用で、優しくて、時々こちらが不安になるくらい遠慮がちな人。
莉央にとっては、それが一番安心できる場所だった。
ホテルに着く前、莉央は支配人に連絡を入れた。
『すみません。少しだけラウンジ側で匿っていただけませんか。あとで説明します』
すぐに返事が来た。
『承知しました。正面受付に話を通しておきます』
ホテルの前で車が停まる。
莉央は礼を言って降りた。
「今日はありがとうございました」
「足、大丈夫? 部屋まで送るよ」
「いえ、本当に大丈夫です」
「遠慮しなくていいって。今度さ、撮影落ち着いたらどこか行こうよ。莉央ちゃん、忙しいだろうけど」
面倒くさい。
喉元まで出かかった言葉を、莉央は飲み込んだ。
これからも撮影は残っている。
番宣もある。
ここで角を立てるわけにはいかない。
「また現場で相談させてください」
便利な言葉だった。
何も約束していないのに、相手に一応の希望を持たせることができる。
久我は満足そうに笑った。
その顔を見て、莉央はますます疲れた。
ようやくホテルに入る。
ところが、なぜか久我もついてきた。
「ちょっと待って。念のため、ちゃんと入るところまで見届けるから」
見届けなくていい。
心の中でそう言いながら、莉央は受付へ向かった。
受付スタッフは事情を察してくれていた。
「月城様、お待ちしておりました。支配人がラウンジでお待ちです」
「ありがとうございます」
莉央はそのまま奥のラウンジへ通された。
久我は受付で止められた。
「申し訳ございません。こちらはご予約のお客様とのお打ち合わせでして」
「え、いや、俺は――」
何か言いかける久我の声を背中で聞きながら、莉央はラウンジの扉の向こうへ逃げ込んだ。
やっと息ができた。
支配人に事情を説明し、裏口に近い通路からタクシーを呼んでもらう。
帰宅したころには、心身ともにぐったりしていた。
それでも、シャワーを浴びて部屋着に着替えると、真っ先にスマホを開いた。
LINE。
一番上にピン留めされた、律の名前。
トーク画面を開く。
そこには、いつもの淡々とした会話のあとに、一つだけ通知が残っていた。
『メッセージの送信を取り消しました』
「……何送ったんだろ」
少し気になった。
でも、自分もたまに送信を取り消すことがある。
誤字だったり。
言い方が変だったり。
今送るべきではないと思ったり。
それを深く聞くのは野暮だ。
莉央はトーク画面を上へスワイプした。
過去のメッセージが流れていく。
『今日、学食の味噌汁めちゃくちゃ薄かった』
『それ毎週言ってない?』
『今週は特に薄い』
『味噌汁評論家?』
大学時代の会話。
『初ライブお疲れ。俺は一番後ろだったけど、ちゃんと見えた』
『本当に来てたんだ』
『行くって言っただろ』
『ありがとう』
『緊張してた?』
『してない』
『嘘つけ。マイク持つ手震えてた』
『見ないで』
駆け出しのころの会話。
『テレビ出てたな』
『見た?』
『録画した』
『消して』
『家宝にする』
『消して』
売れ始めたころの会話。
莉央は画面を見ながら、少しだけ笑った。
最近は、今さら甘えるのが恥ずかしかった。
売れてから変わったと思われたくない。
忙しいことを言い訳にしたくない。
けれど、疲れている姿を見せるのも嫌だった。
そうしているうちに、距離を感じさせてしまったかもしれない。
「撮影終わったら、会おう」
声に出すと、それは小さな約束みたいになった。
律と会う。
くだらない話をする。
人目の少ない場所でご飯を食べる。
少しだけ、ちゃんと甘える。
それを楽しみに、残りの撮影を乗り切ろう。
莉央はそう決めて、スマホを胸に抱いた。
◇
それから少しして、撮影は無事に終わった。
久我との関わりも、番宣を除けば減っていくはずだった。
久しぶりの休日。
莉央は昼過ぎに目を覚ました。
普段なら絶対にしない寝坊だった。
けれど、その日はアラームをかけずに眠った。
何も予定を入れていなかった。
カーテンの隙間から差し込む光は、もう昼の色をしている。
莉央はベッドの上で大きく伸びをした。
足首の違和感もほとんどない。
仕事の山も越えた。
久我の顔をしばらく見なくていい。
そして何より、今日は律に連絡できる。
そう思うと、胸が少し弾んだ。
スマホを手に取り、トーク画面を開く。
『今日、時間ある? 久しぶりに会いたい』
送信。
莉央はしばらく画面を見つめた。
いつもなら、律は比較的すぐ返してくる。
仕事中でなければ、数分以内。
忙しくても、一時間以内には何かしら返事がある。
しかし、既読はつかなかった。
最初の一時間は、そういうこともあると思った。
昼食代わりにヨーグルトを食べ、洗濯機を回し、ソファに沈む。
二時間が過ぎた。
まだ既読はつかない。
三時間が過ぎた。
莉央は電話をかけた。
呼び出し音は鳴らず、留守番サービスに繋がった。
「……電源、切ってる?」
胸の奥がざわついた。
もう一度かける。
同じ。
もう一度。
同じ。
ソファに座っていられなくなった。
気づけば莉央は、帽子とマスクを手に取り、最低限の変装だけをして部屋を出ていた。
タクシーの中で、何度もスマホを見る。
既読はつかない。
電話も繋がらない。
嫌な想像が、次々に浮かんでくる。
事故。
病気。
スマホの故障。
仕事のトラブル。
そして最後に浮かんだのは、自分が知らないうちに何かをしてしまったのではないかという不安だった。
律のマンションに着いた。
懐かしい空気だった。
何度も来た場所。
何度も帰りたくないと思った場所。
エントランスの観葉植物も、集合玄関機のボタンの硬さも、全部覚えている。
莉央は慣れた手つきで部屋番号を押した。
呼び出し音。
応答なし。
もう一度押す。
応答なし。
数分が過ぎた。
そのとき、奥の管理人室から一人の男性が出てきた。
白髪混じりの管理人、片桐さんだった。
莉央は何度か顔を合わせたことがある。
律の部屋に行くとき、軽く挨拶をした程度だが、片桐さんも莉央のことを覚えているようだった。
「あの、篠宮さんの部屋に用があって」
莉央が言うと、片桐さんは少し不思議そうな顔をした。
「篠宮さん?」
「はい。五〇二号室の」
片桐さんは、さらに不思議そうに眉を寄せた。
そして、何気ない調子で言った。
「その部屋の方なら、もう解約されましたよ」
「……え?」
自分でも驚くほど、間抜けな声が出た。
「解約、ですか」
「ええ。つい先日、退去されました。お急ぎのご様子でしたけどね」
莉央は言葉を失った。
退去。
解約。
つい先日。
それらの単語が、頭の中でうまく意味を結ばない。
「どこに……行ったんですか」
「申し訳ありません。個人情報ですので、そこまでは」
「そう、ですよね」
足元が少し揺れた気がした。
律がいない。
部屋もない。
連絡もつかない。
莉央はスマホを握りしめた。
画面には、まだ既読のつかないメッセージが表示されている。
『今日、時間ある? 久しぶりに会いたい』
その下に、新しく短いメッセージを打つ。
『律、どこにいるの?』
送信。
やはり、既読はつかない。
片桐さんが心配そうに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫、です」
大丈夫じゃない人間ほど、大丈夫と言う。
律が前に、そんなことを言っていた気がする。
莉央は小さく頭を下げ、エントランスを出た。
外はまだ明るかった。
夏の終わりの風が、少しだけ冷たい。
マンションの前で立ち尽くしたまま、莉央はもう一度だけ律に電話をかけた。
しかし、やはり留守番サービスに繋がる。
聞き慣れた無機質な声。
莉央は最後まで聞くことなく、通話を切った。
「……律」
返事があるはずもない名前を、小さく呟く。
もう一度だけトーク画面を開いた。
『今日、時間ある? 久しぶりに会いたい』
『律、どこにいるの?』
どちらにも既読はついていない。
やっぱりスマホの電源そのものが入っていないのかもしれない。
そう思って画面を閉じようとした、そのときだった。
表示が変わった。
莉央の指が止まる。
『律、どこにいるの?』
その横に、小さな二文字がついている。
――既読。
「……え」
心臓が、痛いくらいに跳ねた。
事故じゃない。
少なくとも、今この瞬間、律は自分のメッセージを見た。
莉央はスマホを両手で握りしめる。
一分。
二分。
返事は来ない。
入力中の表示もない。
ただ、画面の中に残った『既読』の二文字だけが、さっきまでよりずっと恐ろしく見えた。