国民的アイドルの彼女を信じられなかった僕の話 作:Notes871(かざり)
仙台へ移ってから、ひと月近くが経った。
東京を出たころには、まだ夏の名残がそこかしこに残っていたはずなのに、今ではもう、暑い日より涼しい日のほうが多い。
朝、社宅を出るときに半袖を選ぶことはなくなった。
薄手のジャケットを羽織って、それでも日によっては少し肌寒い。
そんな気候の変化と同じように、篠宮律の生活も少しずつ変わっていた。
「篠宮さん、これ昨日の修正版です」
「ああ、ありがとう。午後の打ち合わせまでに確認しておく」
「お願いします」
渡された資料を受け取り、机の端に置く。
最初の一週間は、何をするにも周囲へ確認していた。
新しくできた支店ということもあり、全員が手探りだったのは同じだが、東京から来た人間というだけで妙に頼られることも多かった。
そんな空気にも、ようやく慣れた。
誰がコーヒーをブラックで飲むのか。
誰が昼休みになるとすぐ外へ出るのか。
誰に聞けば社内システムのことが一番早くわかるのか。
そんな、仕事そのものとは関係のないことまで自然と覚えた。
「篠宮さん、昼どうします?」
「今日は外?」
「駅前の牛タン」
「また?」
「仙台なんだからいいじゃないですか」
「住んでる人間はそんな毎日食べないだろ」
そんな会話をしながら笑えるくらいには、新しい人間関係にも馴染んでいた。
東京を離れた直後は、何をしていてもどこか現実味がなかった。
新しい部屋。
新しい机。
新しい通勤路。
知らない人間に囲まれて仕事をして、夜になればまだ段ボールの残る部屋へ帰る。
自分だけが、生活から切り離されたような感覚があった。
けれど、それも長くは続かなかった。
人間というのは思ったより順応するものらしい。
朝起きる。
仕事へ行く。
昼を食べる。
帰宅する。
風呂に入る。
眠る。
それを繰り返していれば、その繰り返しがいつの間にか日常になる。
考えない時間も、少しずつ増えた。
東京のことを。
そして、莉央のことを。
忘れたわけではない。
ただ、四六時中思い出すことはなくなった。
それでいい。
そう思うことにしていた。
◇
三連休の二日目。
律は久しぶりに実家のある地域まで足を伸ばしていた。
母親から、
『仙台戻ってきたのに一回も顔出さないってどういうこと?』
と半分冗談、半分本気のメッセージが来たのがきっかけだった。
別に仲が悪いわけではない。
ただ、社宅から実家まではそれなりに距離があり、仕事が始まったばかりということもあって後回しになっていた。
駅を出たところで、律は思わず周囲を見回した。
「……変わったな」
昔は、本当に何もなかった。
駅の利点を聞かれたら、始発電車があるから朝は座りやすい。
真面目にそれくらいしか思いつかなかった。
駅から少し歩けば田んぼ。
さらに歩けば、また田んぼ。
夜になれば蛙の声がうるさいくらいに聞こえていた。
それが今では、住宅街が広がっている。
新しい一戸建てが並び、その先には大きな看板が見えた。
スーパーを中心に、ドラッグストアや衣料品店、飲食店が並ぶタウン型の商業施設。
駐車場には車が何列も並び、休日ということもあって家族連れが行き交っている。
子供が走り回り、それを親が追いかけていた。
律の記憶にある景色とは、ずいぶん違う。
東京にいる間にも、ここでは当たり前に時間が進んでいたらしい。
自分がいなくても。
誰かがいなくても。
街というものは勝手に変わっていく。
少し妙な気分になった。
◇
「もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「昨日も仕事だったんだから、明日は家で休みたいんだよ」
「明日も休みでしょう?」
「休みだから休むんだよ」
母親は納得していない顔をしながら、玄関まで見送りに来た。
昼を食べ、近況を聞かれ、それだけで数時間が過ぎていた。
「仕事はどうなの?」
「普通」
「人間関係は?」
「普通」
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「普通」
「さっきから普通しか言ってないじゃない」
「じゃあ順調」
「最初からそう言いなさいよ」
昔から変わらない。
安心するような、少し面倒なような会話だった。
靴を履いていると、不意に母親が言った。
「そういえば」
律の手が一瞬止まった。
「東京の彼女は?」
「……何が?」
「何がって。莉央ちゃん」
久しぶりに、家族の口からその名前を聞いた。
胸の奥が少しだけざらついた。
「忙しいんじゃない」
「何、その答え」
「芸能人なんだから忙しいだろ」
「そうじゃなくて。あんたが仙台戻るってちゃんと言ったの?」
「……」
律は靴紐を結ぶふりをした。
「律?」
「まあ、その辺は」
「その辺って何よ」
「じゃあ、また来るから」
「ちょっと」
逃げるように玄関を開けた。
外の涼しい風が、妙に気持ちよかった。
言っていない。
正確には、何も言っていない。
仙台へ行くことも。
東京の部屋を引き払うことも。
別れることすら。
考えてみれば、おかしな話だった。
あの日。
ホテルへ入っていく莉央を見て。
次の日には異動を受け入れて。
そのまま東京から消えた。
喧嘩もしていない。
別れ話もしていない。
ただ、自分の中だけで終わったことにした。
「……何やってんだろうな」
小さく呟く。
答える人はいない。
だから、そのことも考えないことにした。
◇
駅へ向かうには少し早かった。
せっかくなので、新しくできた商業施設を覗いてから帰ることにした。
休日の店内は予想以上に混んでいた。
昔なら考えられない光景だ。
スーパーの前には焼き鳥の屋台。
子供向けの小さなイベントスペース。
ベンチには買い物に疲れたらしい父親たちが並んでいる。
特に欲しいものもなく、律は適当に店を眺めながら歩いた。
そのときだった。
「……篠宮?」
背後から名前を呼ばれた。
足を止める。
振り返ると、一人の女性がこちらを見ていた。
同年代くらい。
肩より少し下まで伸びた髪。
ベージュのカーディガンに、細身のデニム。
顔を見ても、一瞬わからなかった。
向こうもそんな律の反応に気づいたのだろう。
少し眉を寄せる。
「え、嘘。忘れてる?」
「いや」
「その間は忘れてる人の間なんだけど」
そう言われて、声と表情が記憶の中の誰かに重なった。
「……高瀬?」
「遅い」
高瀬紗季。
中学から高校まで同じだった同級生だ。
「久しぶり」
「久しぶりっていうか、何年ぶり?」
「……十年はいってないだろ」
「その言い方、年齢感じるからやめて」
紗季は昔と同じように笑った。
その笑い方を見て、ようやく記憶がはっきりする。
特別、いつから仲が良くなったのかは覚えていない。
中学一年のころから知っていた。
同じクラスだった年もある。
違うクラスだった年もある。
高校もたまたま同じだった。
何がきっかけだったのか。
委員会だったか。
席が近かったのか。
共通の友達がいたのか。
もう覚えていない。
ただ、気づけばよく話すようになっていた。
廊下で会えば立ち話をする。
テスト前にはノートを見せてもらう。
帰り道が途中まで同じだから、一緒に帰ったこともあった。
恋愛というほどのものではない。
ただ、近くにいるのが当たり前だった友人。
そんな関係だった。
「東京行ったって聞いてたけど」
「ああ」
「帰省?」
「いや。戻ってきた」
「え?」
紗季が目を丸くする。
「完全に?」
「仕事の異動。仙台に新しい支店ができたから」
「へえ。じゃあこっち住んでるんだ」
「一応」
「なんか不思議」
「何が?」
「篠宮、絶対そのまま東京の人になると思ってた」
「どういうイメージだよ」
「地元に未練なさそうだったから」
「まあ……それは否定しづらい」
互いに笑った。
最初は数分話して別れるつもりだった。
けれど、話し始めると意外なくらい話題が続いた。
「あそこのコンビニなくなったの知ってる?」
「駅前の?」
「そう」
「マジか。高校のとき毎日寄ってたのに」
「今、歯医者」
「コンビニから歯医者?」
「しかも三年前くらいから」
「時間経ちすぎだろ」
「そりゃそうでしょ。何年前だと思ってるの」
同級生の話。
昔の店の話。
学校の話。
先生の話。
「山岸、結婚したよ」
「誰?」
「酷っ。サッカー部の山岸」
「ああ、いたな」
「いたなじゃないでしょ。一年のとき同じクラスじゃん」
「全然覚えてない」
「相変わらずだね」
紗季が呆れたように笑う。
気づけば三十分近く話していた。
律自身、それに驚いた。
こんなふうに、何も考えず人と話したのは久しぶりだった。
東京でのことを聞かれない。
仕事の責任について考える必要もない。
莉央のことも思い出さない。
ただ昔の話をして、くだらないことで笑う。
それだけだった。
「じゃあ私、買い物途中だから」
「ああ。引き止めて悪かったな」
「篠宮も話してたでしょうが」
紗季がスマートフォンを取り出した。
「あ、そうだ。連絡先変わった?」
「大学入ったころに一回」
「じゃあ交換しとこ」
「今さら?」
「今さら会ったんだからいいでしょ」
言われるまま、スマートフォンを取り出す。
連絡先を交換すると、すぐに紗季からスタンプが届いた。
「はい。これで大丈夫」
「確認方法雑だな」
「今度さ、暇だったらご飯でも行こうよ。何人かこっち残ってるし」
「ああ。いいな」
「じゃ、また連絡する」
「おう」
紗季は片手を上げ、そのまま人混みの中へ消えていった。
律はスマートフォンに表示された新しい名前をしばらく眺める。
『高瀬紗季』
懐かしい人間関係が、一つだけ戻ってきた。
それだけのことだった。
けれど、少し悪くないと思った。
◇
社宅へ戻ったころには、外はすっかり暗くなっていた。
まだ完成して間もない建物は、どこも新しい。
エントランスも。
廊下も。
部屋の扉も。
律の部屋も、当然ながら生活感が薄い。
白い壁。
新しいフローリング。
最低限の家具。
テレビ台の横には、まだ開けていない段ボールが二箱残っていた。
「腹減ったな」
帰りに買った弁当をテーブルへ置く。
電子レンジで温めている間にスーツではない部屋着へ着替え、そのままテレビをつけた。
見たい番組があったわけではない。
一人の部屋が静かすぎるから、なんとなく音が欲しかっただけだ。
ニュース番組。
天気予報。
CM。
地域のイベント情報。
律はほとんど画面を見ず、弁当の蓋を開けた。
箸を割る。
唐揚げを一つ口に運ぼうとしたところで、テレビから聞き覚えのある名前が聞こえた。
『続いては芸能ニュースです』
箸が止まる。
『人気俳優の久我晴臣さんと、アイドルグループで活躍する月城莉央さんに、熱愛報道です』
律はゆっくりと顔を上げた。
画面いっぱいに、二人の写真が映っている。
久我晴臣。
そして。
月城莉央。
つい数週間前まで、自分の彼女だった人。
いや。
別れたと言葉にしたことは、一度もない。
『二人は現在放送中のドラマで共演しており――』
アナウンサーの声が続く。
共演をきっかけに親交を深めた。
撮影現場でも親しげに話していた。
関係者からも仲の良さを指摘する声があった。
そんな言葉が並んでいく。
律は何も言わず画面を見ていた。
そして、写真が切り替わった。
「……」
見覚えのある建物。
夜。
ホテルの入口。
黒い車。
画質は荒い。
けれど、間違えるはずがなかった。
「……あの時のか」
自然と声が漏れた。
律が見た、あの日。
仕事帰り。
異動の話を聞かされた夜。
莉央が久我の車から降りて。
二人でホテルへ入っていった。
まったく同じ場所だった。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
けれど、不思議と驚きはなかった。
むしろ。
「ああ」
そうだったのか。
そんな妙な納得があった。
最近会えなかった理由。
連絡が遅かった理由。
自分より仕事を優先しているように見えた理由。
あのホテル。
そして、この報道。
一つずつ別々だったものが、今度こそ一本の線になったように思えた。
『双方の所属事務所は、プライベートについては本人に任せているとして――』
律はリモコンを手に取った。
テレビを消す。
急に部屋が静かになる。
「……やっぱり、そうだったんだな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
怒りはなかった。
少なくとも、自分ではそう思った。
今さら責める気もない。
自分はもう仙台にいる。
莉央は東京にいる。
向こうには、向こうの生活がある。
人気俳優と人気アイドル。
並んでいる写真を見れば、お似合いだった。
自分なんかより、ずっと。
律は立ち上がった。
弁当にはほとんど手をつけていない。
それでも食欲は消えていた。
しばらく部屋の中を意味もなく歩き、やがてテレビ台の横に置かれた段ボールへ目を向けた。
東京から持ってきた荷物。
その中の一つを開ける。
充電ケーブル。
昔使っていた財布。
書類。
そして。
一台のスマートフォン。
東京にいたころ使っていたものだった。
仙台へ来る少し前に新しい端末へ替えてから、一度も触っていない。
理由は自分でもわかっていた。
新しいスマートフォンにも連絡先は移してある。
必要なデータも移してある。
困ることは何もない。
ただ。
あの端末には、莉央との時間があまりにも多く残っていた。
写真。
メッセージ。
通話履歴。
消すほどの覚悟もなく。
見るほどの勇気もなく。
だから段ボールへ放り込んだ。
律は充電ケーブルを挿した。
しばらくすると、黒かった画面に電池のマークが浮かぶ。
数分待つ。
電源ボタンを長押しした。
起動音。
久しぶりに見るホーム画面。
通知がいくつも溜まっていた。
律はそれを無視し、LINEを開いた。
上に固定された名前。
『月城莉央』
少し指が止まった。
それから、トーク画面を開く。
『今日、時間ある? 久しぶりに会いたい』
その下。
『律、どこにいるの?』
二つとも、既読になっている。
あの日。
新幹線を降りてから。
社宅へ向かう途中で、一度だけスマートフォンの電源を入れた。
通知が溢れた。
その中に莉央の名前を見つけた。
迷った末に開いてしまった。
だから、既読がついた。
すぐに返事を書いた。
送らなかっただけだ。
律はメッセージ入力欄をタップした。
まだ残っていた。
『仙台にいる。何も言わないで出てきたのは悪かったと思ってる。落ち着いたらちゃんと話す』
送信されなかった文章。
何週間も、そのまま残っていた。
「……」
律はしばらく、その文字を見つめた。
なぜ消さなかったのか。
いつか送るつもりだったのか。
それとも。
送れないままでも、そこに残しておきたかったのか。
自分でもわからない。
ただ一つだけわかる。
まだ、残っていた。
莉央への気持ちも。
この文章も。
全部終わったつもりで仙台へ来たのに、どこかに置き去りにしたままだった。
律の頭に、さっきテレビで見た写真が浮かんだ。
久我晴臣。
莉央。
あの日のホテル。
律は入力欄を長押しした。
全文を選択する。
削除。
一瞬で、文字が消えた。
真っ白な入力欄だけが残る。
何週間も消せなかった言葉は、驚くほど簡単になくなった。
律はしばらく画面を見ていた。
そして、トーク画面を閉じた。
スマートフォンの電源も落とす。
黒くなった画面に、自分の顔がぼんやり映った。
さっきまであったはずの言葉は、もうどこにもない。
それでいい。
律は古いスマートフォンを段ボールの中へ戻した。
テレビを消したままの部屋は、静かだった。
窓の外で、秋の風が新しい社宅のベランダを抜けていく。
その夜。
律はようやく、自分の中に残っていた最後の言葉を消した。