財団で死んだら転生しったた(冷笑) 作:冷笑ニキ
目の前に広がっていたのは、巨大なコンクリートの塊だった。
それは現世で見られるような、ありふれた廃ビルや廃工場ではない。軍事要塞か、あるいは最先端の秘密研究施設か。幾何学的な直線で構成された灰色の建造物が、押し寄せる巨木や蔦を拒絶するように、厳然とそこに鎮座していた。
壁面には無数のひび割れが走り、苔やツタが絡みついているものの、その圧倒的な存在感は微塵も損なわれていない。
「これが……君の言っていた場所か?」
「そう。この『異形の森』にある、巨大廃墟。いつ、誰が何のために作ったのかは、誰も知らないわ。先住民の伝承でも、気がついた時にはここにあったって言われているの」
翠は僕を先導しながら、廃墟の正面にある巨大な鉄扉へと歩みを進めた。
驚くべきことに、その鉄扉の周囲数メートルには、あのおぞましい森の植物が一切侵入していなかった。まるで、目に見えない透明な壁に阻まれているかのように、這う植物の触手がピタリと止まっているのだ。
「気づいた? ここ、空気が違うでしょう」
翠が鉄扉の前に立ち、その表面にそっと手を触れた。
刹那、微かな鈴の音のような響きと共に、青白い光の波紋が鉄扉から周囲へと広がった。その光が僕の体を通り抜けた瞬間、全身を包んでいたあの悍ましい異形の気配や、肌を刺すような瘴気が、嘘のように綺麗さっぱり消え去った。
「これは……」
「『天然の結界』よ。このアザーサイドには、時々こういう独自の法則がバグを起こしたような場所があるの。この廃墟そのものが、異形や穢れた魂を絶対に寄せ付けない、強力な拒絶の結界を放っているのよ。だから、森のバケモノたちも、ここには絶対に近づけない」
僕は深く息を吸い込んだ。
胸を焦がしていた疲労感が、結界の清浄な空気によって和らいでいく。現世の最新のクリーンルームよりもなお澄んだ、完璧な静寂。大口径の銃の硝煙の匂いさえも、この空気の中ではすっと消えていくようだった。
「ここなら、どんなに強力な異形が攻めてきても安全よ。人里を追われたあなたにとっては、ここ以上の『家』はないと思わない?」
「……確かに、完璧な要塞だな」
僕はコンクリートの壁に手を当てた。冷たく、強固な感触。現世で組織のセーフハウスをいくつも渡り歩いてきた僕だが、これほど強固な「安心」を感じられる場所は初めてだった。
僕たちは錆びついた鉄扉を押し開け、内部へと入った。
中は広大なロビーのようになっており、天井は高く、どこか大聖堂のような厳かさすら漂っている。窓からはアザーサイドの紫色の光が差し込み、埃のダンスを踊らせていた。
家具の類は一切なく、ただ灰色の空間が広がっているだけだが、雨風をしのぐには十分すぎる。
「よし! それじゃあ、ここを今日からあなたの家にするってことで決定ね!」
翠はパン、と両手を叩いて嬉しそうに笑った。
「ああ。文句のつけようがない。……手伝ってくれて感謝する、翠。君がいなければ、ここまで辿り着けなかった」
「お礼なんていいわよ。私も、あなたの戦い方に興味があるしね。あの大口径の銃とダガーのコンビネーション……本当に凄かったわ。これなら、この世界でも十分にやっていけそうね」
「やっていける、か。そんなものは求めていない。ただ、生き延びるための腕があるだけだ」
僕は銃とダガーの重みを感じながら床に腰を下ろし、ようやく深く息を吐き出した。
張り詰めていた緊張が解け、心地よい脱力感が全身を支配していく。この廃墟の結界は、外の世界の狂気から僕を完全に切り離してくれている。これなら、夜中に異形に襲われる恐怖に怯えることなく、泥のように眠ることができるだろう。
「さて、住処も決まったことだし、私は一度爺さんのところに戻るわね。必要な物資とか、生活用品をいくつか見繕って持ってきてあげる」
「悪いですね。何から何まで頼り切ってしまって」
「いいのよ、困ったときはお互い様。それじゃ、また明日ね、刹那」
翠は元気に手を振ると、結界の外へと歩き出し、森の霧の中へと消えていった。
一人残された巨大なコンクリート廃墟。
静寂が心地よい。僕は仰向けに寝転がり、高い天井を見上げた。
アザーサイドに来てから、激動の連続だった。化け物との戦闘、田村との出会い、そしてこの要塞のような家。
「家、か……」
組織の道具として銃を握らされていた頃には、決して持ち得なかった自分だけの空間。しかも、どんなバケモノも入れない絶対安全の結界付きだ。これ以上の贅沢はない。
僕は満足感に包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。これで、現世での過酷な戦いの日々からも、この世界の狂気からも解放され、安らかな眠りにつける――。
――グゥゥゥゥゥ……。
静寂を破り、重低音の響きが廃墟内にこだました。
僕は弾かれたように目を開け、瞬時に大口径の銃を抜き放つ。ダガーを逆手に構え、周囲を鋭く見回した。
「……何の音だ? 結界を破って、異形が侵入したのか!?」
しかし、どれだけ気配を探っても、殺気も瘴気も一切感じられない。結界は正常に機能している。
では、今の地鳴りのような音はどこから――。
――グルルルル、ゴロゴロ……。
また音がした。今度ははっきりと出所がわかった。
音の震源地は、他でもない――僕自身の『腹』だった。
「……あ」
思い返せば、このアザーサイドに迷い込んでからというもの、激しい戦闘をこなし、森を駆け抜け、全エネルギーを振り絞って銃をぶっ放したというのに、僕は水一杯すら口にしていなかった。
完璧な安全を確保し、精神的にリラックスした途端、忘れていた極限の空腹感が、津波のように押し寄せてきたのだ。
ぐう、と情けない音を立て続ける僕のお腹。
周囲を見渡す。そこにあるのは、強固で、清浄で、異形を一切寄せ付けない、完璧なコンクリートの壁だけだ。
当然、冷蔵庫もなければ、備蓄された食料もない。
「……翠」
僕は銃を握ったまま頭を抱えた。
「生活用品より先に、何か食べるものを持ってきてくれと……言っておくべきだった」
どんなに強力な銃とダガーを持とうとも、どんなに絶対無敵の結界に守られようとも、人間は飯を食べなければ死ぬ。
最強のエージェント魂刀刹那の、アザーサイドでの新生活は、異形の恐怖ではなく、凄まじい空腹による「お腹の地鳴り」と共に、なんとも締まらない形で幕を開けるのだった。