井伊月重吾の物語   作:名無しの執筆者

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3度目の修正です。せめて完結させたいです。学校行事も自分の予定も治まっているので、なるべくサクサクと投稿していきます。


二度目の恋人

 瞼を持ち上げ『世界』を視る。するとそこは異世界であった。

 いや、それは少し誤解があるか。知ってはいるのだ。ただ見覚えが無い。ーーーだから、異世界。

 海と太陽と、そして地上。三つ巴というよりも、知らないこの世界の"それら"は敵である。四面楚歌だ。孤立無援で如何する事もできはしない。

 青年は痛む頭に眉を寄せつつ、視界に映るものが他にも無いかと変化を探した。すると、横を向いた矢先に白い建物が目に映った。近くではなく遠くの彼方にあるが、その建物は確かに存在している。太陽の光と重なり、その建物は神々しい神殿に見えた。色も白色で、壁には黄金の刺繍のようなものが施されているから、尚更である。

 行ってみるか。そう考え、青年は足を動かした。何も知らない世界ではあるが、行動さえすれば「知る世界」へと変貌する。そう、人間とは昔から己の意思で世界の視野を広げてきた生き物だ。長い年月が経ったとしても、それはきっと変わらないことで、臆病になってはいけない。あの建物へ足を運び、自分以外の誰かを求めよう。ーーーだから青年は、より強く大地を踏み鳴らし、前へと歩んだ。

 

 ◆◆◆

 

 スイッチを押せば、あとは自動で機械がしてくれる。不具合が起こることは考えない。何故か? それは『天才』と、皆から讃えられている自分が設計したものだからだ。故障も、機能が停止することもない。ーーー……決して。

 

「……少しのお別れ。もう五歳になったんだ、お母さんがそばに居なくても我慢出来るよね?」

 

 目の前の硝子。筒状を形造る硝子。

 その硝子に手を触れ、呟いた。

 

「おやすみーーーーー」

 

 ーーーチュ。

 口付けだ。少しの間、別れるから、我が子へ最後に。

 硝子の筒は冷たく、唇にもそれが伝わる。中を満たしているものは温かい緑色の液体だが、外の硝子は温かさを持ってはいない。当然だろう。これは囲いなのだから。我が子を閉じ込める冷たい囲いなのだから、"温かさ"など有している訳がない。

 途端、自分が悪魔に思えた。……いや、悪魔だろう。現に息子を硝子の牢獄に閉じ込めている。『理由』があるとはいえ、本来母親が自らの子どもに対してする行いじゃない。心が残忍で無ければ決してーーー。

 そっと唇を離し、女性は軽く俯いた。触れさしていた手を硝子から退かし、傍にあったタッチパネルの画面に視線を流す。そしてそこに表示されているコマンドをタッチし、また視線を目の前の硝子の筒に戻した。

 ガコンーーー音が鳴り、硝子の筒の表面がシャッターのようなもので隠される。このシャッターは、硝子の筒の中に詰まっている液体を外に零さぬ為の蓋から、下に向かって降ろされた防護壁である。"もしもの時"を考え、予め硝子の筒に組み込んでおいたものだ。……これで、母親らしいことが出来ただろうか?

 

「……」

 

 いや、こんなことで母親とはーーー言えない。防護壁を降ろされた硝子の筒の中で眠る息子と過ごしていると、ついつい忘れがちになってしまうが、自分は世界を塗り替えた罪人なのだ。様々な人間を不幸に陥れ、たかがの好奇心で沢山のものを手に入れてきた罪人なのだ。それを忘れてはいけない。穢れは、最後まで自分の中に仕舞い込まなくてはならない。たとえ今はひとりの人間の親であっても、元を辿ればただの疫病神だ。いくら一生懸命、自分を正そうと努力しても、過去はどうしたって変わらない。そう出来ているから、仕方がないのだ。

 女性は振り返り、部屋の出入り口である扉へ歩いた。部屋の明かりを消して暗くし、扉のノブを捻って前に押す。すると扉を開けてすぐにある廊下の照明が、明かりを消したばかりの部屋の中を明るく照らし上げ、"中のもの"を浮き彫りにした。

 振り返り、視線を流す。防護壁が降ろされた、沈黙の硝子の筒に視線を流し、女性は黙り込む。

 目頭が熱くなったのだ。息子を閉じ込めたという現実をいまさら思い知ってしまったから、否応なく泣きそうになる。

 

「ーーーーー……ごめんね」

 

 頰に何かが伝った。手を触れさし、掬うと、それは一滴の雫であった。宝石のようなーーー『涙』であった。

 だめだ。これ以上ここにいるとおかしくなる。ここにいてはいけない。壊れてしまう。

 女性は部屋を出て、扉を強く閉めた。背後で扉の閉まる音が鳴る。背中を、閉じた扉に預け、女性は床に座り込んだ。

 

「……ごめんね、私が馬鹿だからいけないの」

 

 両手で頭を抱え込み、謝る。ーーー誰に対しての謝罪か? 息子か? それとも奪ってきた世界に対してか?それともーーー自分が産まれてきたことに対してか?……わからない。謝罪も、その意味すらも、なにも判明しない。天才だというのに、情けない。

 

「ごめんね、ごめんね……駄目な母親で、ごめんね」

 

 静かな廊下に、その震えた声が染み込んでいく。何度も何度も泣き謝る声が、冷たい空気を伝って伝播していく。

 こんな呟きをしたところで、何も変わらない。これは子どもの我が儘のようなもの。泣くだけで、変化は起こらない。

 

 ーーーーーそんなことはないよ。

 

 突然聞こえたもの。それはおぼろで、しかし確かな『声』だった。小さくも力強さを感じさせる、勇気のある声。女性がいつも耳にしていた声だ。そう、

 

「ーーーーーじゅう、ご?……重吾?」

 

 息子の声だったーーー。

 

 ◆◆◆

 

 ようやくた辿り着いた白色の建物を見上げていると、不意に誰かに名前を呼ばれた気がした。自分の名前。井伊月重吾という名前を誰かに呼ばれた気がして、振り返った。

 振り返った眼下には草原があった。重吾が目覚めた場所だ。隣には海があり、遠く離れたここにも潮騒が届いてきている。

 建物へと続いていている坂の上から俯瞰してみると、より強く実感したが、やはりここは自分の知らない世界だ。海の音も風の流れも、感じたことがない。空の景色も、新鮮なものばかりで真新しい。重吾は思った。いまの自分はまるで、産まれたばかりの赤子のようだとーーー。

 

「ーーーーーでも、歩き方は知っている。言葉も話せる。……それなのに赤子っていうのは、てんで可笑しい話しだよね」

 

 笑い、肩をすくめる。

 さてーーー坂の上からの見下ろしをやめ、井伊月重吾は前に向き直った。当初の予定である、自分以外の誰かを見つけ、そして世界を知るために、建物の中へと向かった。

 目の前に雄々しく建つ建物は、やはりどこか神々しい。白塗りの壁は近くで見ると本当に美しくて、見惚れてしまいそうだ。きっとこの建物を建造した人物は、よっぽど腕のたつ職人だったのだろう。でなければこんなにも美しく仕上げることなんて不可能だ。知識の無い自分が偉そうに言えることではないが、そうに違いない。

 そんな風に感想を心の中で呟きながら、見飽きない建物の観察をしていると、ふと在るものを見つけた。それは建物の壁の上部にあった。

 

「……紋章かな?」

 

 天使の両翼をイメージしたような羽に、中心には人間。まるで絵本の中の「妖精」のようなそれは、妙にこの建物とお似合いであった。

 

「ーーーーー綺麗だろう?」

 

 突然、背中に声がぶつかった。驚いて振り返った。人間の本能である反射によって、井伊月重吾は勢いよく後ろを向いた。

 

「……誰、ですか?」

 

 後ろに立っていたのは女性であった。髪が艶かな黒色をしている女性。それを肩の辺りでひとつに結っている女性。切れ目の双眸を持ち、黒色のスーツと短いスカートを履いているーーーどこかで見覚えのある女性。それが後ろに立っていた。

 

「綺麗だろう?」

 

 口元に微かな笑みを浮かべ、女性がこちらに向かって歩く。

 

「あの妖精みたいなのがーーーですか?」

「そうだ」

 

 井伊月重吾のすぐ隣で立ち止まり、女性が頷く。井伊月重吾は確かにと思い、続けて頷いた。

 

「あれはな、私の親友がデザインしたものなのだ」

「へー、メルヘンチックな人なんですね」

「ああ、メルヘンな奴なんだ。昔からな……。そいつは、小さな頃からおとぎ話が大好きだったんだよ」

 

 ちらり、と横を見た。女性の顔が、どこか憂いを帯びている。井伊月重吾はそれを不思議に思い、視線をそのままにした。

 

「不思議の国のアリスを知っているだろう?ーーーそいつ、おとぎ話の中でそれが一番好きでな? 好き過ぎて服装まで真似てしまったほどなんだ。私はそれを馬鹿だと思っていたが、そいつは全く気にする様子もなく、いつも自慢気に笑顔を浮かべていた……。楽しそうだったよ」

「……その人、きっと僕と気が合います」

 

 呟くと、女性が急にこちらを向いた。その勢いといい、速さといい、女性はどうやら無意識にこちらを向いたようだった。目は見開いて眉尻も上がり、表情は驚きで染まっている。

 何かおかしなことを言っただろうか? 井伊月重吾は心の中で考えてみたが、答えは出て来ず、そうして分からずじまいに終わった。なのでもう深くは思考しなかった。

 

「気が合うとは思えんが……。ううむ、どうだろう」

「……気難しい人なのです?」

「いや、気難しいというよりも、あいつは奇天烈だから、私にも偶によくわからない時があるのだ。ーーーだからきっと、そんなあいつとお前は気が合うことはない」

「でも僕はアリスだ」

「……は?」

 

 隣の女性が素っ頓狂な声を発する。

 井伊月重吾は話しを続けた。

 

「僕はアリスなんです。不思議の国に迷い込んでしまった、ひとりぼっちの可哀想なアリス……。ーーーこの世界のことを憶えていない、知りもしない僕は、貴方の言う『あいつ』が大好きなアリスなんですよ」

「この世界を知らない?……貴様、なんだ?」

 

 どこか険しさを感じさせる声で、女性が問いかけてくる。

 

「僕は井伊月重吾です。十一月十五日に産まれた。この名前は大好きな母からもらいました」

「……それで」

「……それだけです。他にはもう、何も思い出せない」

 

 本当のことだ。女性は険しい顔をして疑っているようだが、これは紛れも無い、自身でも認めている事実である。嘘を言って得するわけでもない。

 何かを思ったのか、女性が井伊月重吾を見るのをやめ、顎に手を当てて俯いた。唸り、どうやら思考しているようだった。

 邪魔するのもいけないので、井伊月重吾は暇を潰そうと視線を彷徨わせた。すると、建物の壁ーーー取り付けてある窓枠のひとつが目に留まった。

 その窓枠は、別段特別でもなんでない、ただの窓である。華美な装飾もされていないし、細微に作り込まれているわけでもない。ただーーー気になったのだ。本当に些細な気持ちだ。それを目にした時、妙に鼓動のリズムが乱れたから、視線を定めてしまった。

 

「ーーーーーあ」

 

 その時だ。見ていた窓に、人の影が映ったのは。

「なんだ……?」遠目だからよく見えなかったが、そのシルエットからして女性だった。胸の膨らみがあり、髪も長かった。

 ドクンーーー心臓が跳ねる。それに井伊月重吾は無意識に足を動かして、前に進もうとした。が、「おい、貴様」隣に立つ女性に話しかけられたことにより意識が削がれ、一歩踏み出そうとしていた足で空を蹴ってしまう。

 

「何を見ていた?」

「あ、ああ……いえ、なんでもないです。ーーーそれより、どうかしましたか?」

「着いて来いと言った。聞こえなかったか」

 

 着いて来いと言った? 頭を傾げた井伊月重吾は、ふと視線を下に下げ、女性が微妙に先ほどまでより前進していることに気が付いた。どうやら女性は本当に一度、井伊月重吾に着いて来いと言ったらしい。これはいけないことをしてしまった。

 

「すみません、着いてきます」

 

 駆け出し、すぐに女性に追いついた。

 女性が頷き、前を向いて歩き出す。もう立ち止まらせていけないと、井伊月重吾もそれに合わせて歩き始めた。しかし少しだけ、ほんの少しだけさっき見た窓枠が気になり、立ち止まる。

 見上げ、目を凝らしたが、窓枠にはもう誰もいない。影は映っていない。あれはいったい誰だったのだろうか? どんな顔をした人だったのだろうか?ーーーこの建物の中に入れば、もしかすると会えたりするのだろうか?

 様々な思いを込み上げさせたところで、井伊月重吾はそれらを全て一蹴した。いらない考えだと頭の隅に追い遣って、目の前の女性の背中に視線を戻した。

 窓に映り込んだ影の正体は気になるが、それは今、自分が考えるべきものではない。そして答えを得るべき問題でもない。もっとも最優先にすべき問題は、この世界を知らないということだ。得るべき答えは、この世界のことだ。だから、邪魔になる考えは切り捨てる。特に私情は、己の優先順位を乱してしまう恐れがあるから、注意しなければならないものだ。気を許してはいけないーーー。

 そうして井伊月重吾は顔を引き締め、歩く速度を速めた。雰囲気を感じ取ったのか、女性もそれに合わせて歩く速度を上げ、建物の中に入り、そして中を闊歩した。

 

 ◆◆◆

 

「ーーーーー行ったかな」

 

 二人の男女が学園の中に入るのを確認し、更識楯無は隠れていた壁から背中を離して、窓の外を見下ろした。

 

「あれは、誰だったのかしら。織斑先生の知り合い?」

 

 眉を寄せて考えてみる。様々な考察を、時折可笑しなものも交えたりしながら、楯無は考えてみる。

 友人? 家族? もしかすると恋人? 口角が緩み、楯無は思わず笑みを溢した。あの人に限ってそれはないと、口元に手を当てて嘲笑する。

 男性を引き連れて学園の中に入った織斑千冬という女性は、それはもう鬼のようなお方である。心が鉄で出来るているのかと疑ってしまう人間だ。人に対して冷徹に、歯向かう者には容赦なく鉄槌を振る。まあ鉄槌を振るといっても、些細なものではあるのだが、それでも鬼である。そう、楯無は思っている。

 

「だから恋人じゃ、ないわねぇ〜」

 

 楯無は生徒。生徒が先生を馬鹿にするなんて、至極失礼なことだが、この胸の高鳴りは抑えることが出来ない。年頃の乙女だからだろう? それとも、人をからかうことを好む、この性格故だからだろうか?……まあ、どちらでもよいか。

「ふふっ、面白いもの見つけちゃった♪」そう言って舌を出した楯無は、足取り軽く、廊下を歩いた。陽気に鼻歌も歌いながらである。頭の中ではいろいろな考えが浮かんでいたが、その殆どが言葉にするのも無駄な馬鹿げているものばかりなのは、どうか許してほしい。だってあんなにも面白いものを見てしまったのだ、考えるなと言うほうが無理だ。

 

「ああっ、なんだか楽しいことが起こりそう」

 

 そうして楯無は廊下の角を曲がり、千冬達を見下ろしていた窓枠の前を後にしたーーー。

 

 ◆◆◆

 

「ーーーーー入れ」

 

 立ち止まった女性にそう言われ、促されて入った部屋には、本や紙の束を無造作に積み重ねた机がいくつも並べられていた。それにコーヒーの香りも充満している。

 思わず立ち尽くした井伊月重吾は、片手を持ち上げて頭に乗せた。すると背中を、トンと女性が押してきた。それに部屋の中への入室を邪魔していることに気が付き、すぐさま場所を開けて道を譲る。

 

「こっちだ」

 

 井伊月重吾と同じく、この散らかり放題の机の世界に踏み入った女性が、頭をクイっと動かしてこちらを見る。

 

「はい」

 

 井伊月重吾はそれに従い、また歩き始めた女性に着いた。

 

「座れ」

 

 部屋に入ってからの女性との旅は、以外にもすぐに終了した。辿り着いた行き先は、沢山のものが上に散らかっている机のひとつだった。そこに辿り着いた矢先に、女性がそんなことを言ってきたのだ。

 

「……はい」

 

 小さく頷き、井伊月重吾は恐る恐る腰を下ろし、女性が座れてと指示した椅子に座った。女性はそれを見て黙っている。かと思いきや、急にこちらに背を向けて、部屋の隅っこに歩いて行ってしまった。

 なんだろうか?ーーー遠目に女性を観察してみると、何やら手元で作業をしているようだった。しかしなんの作業だろう? 少しだけ前屈みになりながら、井伊月重吾は観察を続ける。しかし、「何をジロジロと見ている」こちらを据えずに女性がそう言ってきた為、すぐにやめて下を向いた。

 ーーーカツ、カツ、カツ。女性が戻ってきたらしい。靴底で床を踏む音が、段々とこちらに向かってきている。

 顔を持ち上げてみると、やはり女性が戻ってきているのが確認出来た。手元には何やら盆を持っている。その上には二つのカップが乗っている。……成る程、どうやら女性が隅でしていた作業というのは、あのカップの中から湯気を立てている飲み物を作るというものだったらしい。これはありがたい。

 

「ほれよ、ココアだ」

 

 一旦、盆を机に置き、女性が上に乗せていたカップを手渡してくる。

 

「ココア大好きです」

「それはよかったな」

 

 淡白な返事に少しだけ残念な気持ちになるが、それは一口飲んだココアの甘さによって払拭された。

 

「……ふう、落ち着く」

 

 言い、椅子の背もたれに体を預ける。両手に持つカップを口元で傾け、まだ少しだけ熱いココアをゆっくりと流し込む。向かいに座った女性も、同じようにココアを飲んでいる。チビチビと子どものようにココアを飲むその様は何故だが可笑しくて、井伊月重吾は心の中でひっそりと苦笑してしまった。

「なんだ」吊り目を更に細くした女性が、そう言う。声に少し怒りが混じっているように思えたから、なんだか怖い。まさか心の中で苦笑したことがばれたのではなかろうか?

 

「顔に出ている。ーーー弟もそうだから解るのだ」

 

 藪から棒とはこのことを言うのだろう。井伊月重吾は唐突にそんなことを言われたので、唖然としてしまった。

 

「……顔に出ている、ですか」

 

 ふと片手を持ち上げて、頰を触ってみる。しかし、触ってみたところで思う事は何も無い。

 

「そういうところも似ているんだよ」

「……ああ! 馬鹿ってことですね」

 

 なるほど、そういうことかーーー。なんて心の中で勝手に納得した井伊月重吾だが、呆れた表情する女性を見る限り、どうやら正解ではなかったようだ。井伊月重吾は途端に恥ずかしく思えてきて、カップの中のココアに視線を落とした。

 

「まったく……」

 

 溜息をひとつ零す女性。それにさらに気が沈む。

 

「……だが、私はお前のような人間は嫌いではない。人間には大抵、他者との壁を無意識的に作ってしまう習性があるが、お前にはそれが無い。ありのままなのだ。ーーーだから良いと思うぞ、そういう馬鹿なところは。欠点では無い。保証する」

「あ、ありがとうございます……!」

「……うむ」

 

 頷き、女性がココアの入ったカップを大きく傾ける。それはどこか不自然で、わざとらしかった。だから井伊月重吾はすぐに理解した。ーーーあれは照れ隠しだと。

 

「……良い人だなあ」

「何か言ったか?」

「ココアが美味しいな、って」

「そうか、良かったな」

「はい。とっても良かったです」

 

 あなたみたいな人に出会えてーーー。そう心の中で漏らし、井伊月はカップの中に残るココアを一気に飲み干した。芽生えた幸運の喜びと掻き混ぜて、一緒に。

 はあーーー息を吐き、井伊月重吾はカップを隣の机に置いた。鼻を掠めた自分の息は、ココアの香りが染み付いていた。

 目の前の女性はまだココアを飲んでいる。味を楽しんでいるのか、飲む速度が遅い。それとも猫舌だから、こんなにもチビチビ飲みなのだろうか?

 ふと浮かんだ疑問に口角が緩むのを感じ、問いかけようと口を開く。そして、「妙に遅いですね。猫舌ですか?」そう問いかけようとしたその時ーーー

 

「……揺れてる。揺れてるっ!?」

 

 この建物が激しく揺れ始め、井伊月重吾とその目の前の女性を勢いよく立ち上がらせたーーー。

 

 ◆◆◆

 

 同時刻。青髪の少女、更識楯無も揺れに気がついた。

 立ち止まって虚空を見上げ、楯無は中腰の姿勢をとって周囲を警戒した。建物の震えが足に伝播して、体の内側が振動しているのが分かる。この揺れはかなり大きい。廊下の角に置いてある植木鉢が倒れ、中身の土と植えていた観葉植物を外に放り投ている。廊下に敷かれたカーペットの上に、土をばら撒いている。

 揺れはいつ収まるのだ。普通ならば警報などが、事前に予報を伝えていた筈だ。しかしそれが無かったというのは、一体どういうことだ? 普通ではない。

 歳に似合わない表情し、こうやって冷静に物事を判断するのは慣れていた。楯無は小さな頃から、こういった異常事態と隣り合わせの世界に居たから。だから驚くことはすれど、それで取り乱すことはしない。まずは解決への手がかりを探し、それから一歩踏み出していく、それが常だった。

 

(……取り敢えず、織斑先生のところに)

 

 慣れてきた揺れに腰を上げた楯無は、服の懐に忍ばせていた青色の扇子を取り出し、そして弾けたような音と共にそれを広げた。見慣れたその青色の扇子は、今日も輝かしい美しさを放っている。

「さて」とそう短く呟き、扇子の扇面を前になぞる。するとそれに反応した扇子が、トーンーーー高い音を上げた。まるでピアノの鍵盤を押し込んだような音を、虚空に響かせた。

 

「ーーーーーミステリアス・レイディ」

 

 その名は、何度も紡いだ聞きな慣れた名前。水の鎧を生成し、ベールを引く淑女。闘いを共にしてくれる相棒。そして人類の歴史の中で最も歪んだ人工物。そう、

 

 ーーーーー『インフィニット・ストラトス』

 

 楯無の体に、白色の光が纏わり付いた。その発光現象を生み出したものは、手に持つ扇子だ。驚きはしない。言ったが、慣れているのだ。この異常事態も、この光の発生にも。

 瞼を閉じて意識を集中させると、光はより一層眩い光で辺りを照らし上げた。まるで自身が星になったかのようである。

 楯無は自分の感覚で光の発光が最高潮に達したのを感じ、そしてその瞬間に衣服を脱ぎ捨てた。廊下で服を脱衣するなど女性としてあるまじき行為だが、この事態の中で、ましてやこの学園の中ではあまり特別視する行動ではない。むしろ正解とも言える行いだ。服の下には肩と足の付け根を剥き出しにした水着のようなスーツを着ているから、裸体を晒したというわけでもない。

 よしーーーそうして楯無は、その場で軽く跳躍した。準備が整ったから、飛び跳ねた。すると不思議なことに、それをした途端に光の発生が収まり、発光現象が止んだ。よって楯無の体は露わになりーーー水の鎧を纏ったその体を曝け出した。

 

「うむ……うむ、うむ。調子は良好」

 

 青色の籠手に包まれた掌を数回握り締め、感触を確かめた限りでは、このインフィニット・ストラトスーーー〈ミステリアス・レイディ〉のどこにもおかしな不具合は無かった。何故手を握り締めただけでそれがわかるのか。それは長年の経験から推測している、そう説明するしか出来ない。それか、〈ミステリアス・レイディ〉が楯無の専用機だからと言うしかーーー。

 その時、ふと背後に気配を感じた。反射的に力んだ楯無は、青色の被膜装甲に固められた片足を上げ、後ろに向かって蹴り込んだ。すると足先に何かが当たった。硬い何かが。

 

「貴様、なんだっ!?」

 

 足に当たったものを確認しようと目を動かした楯無の視界に、謎の生き物が映った。しかしそれは生き物と呼べるのか、どこか歪なものであり、眉を寄せてしまう。

 その生き物の全体は異常であった。目は六つあり、赤いビー玉のようで蜘蛛の眼を連想した。身体は四肢があるが黒色で、大きさは人間の二倍以上はあると判る。息遣いや、体温らしきものは感じず、その生き物のような何かからは氷のような冷たい印象を受けた。

 いけない。こいつは敵だーーー。そう直感で感じ取った楯無は、勢いよく体を捻って回転し、振り上げていた方の片足とは別の足を放った。しかしその蹴りは、六つの眼を光信号のように点滅させた目の前の生き物に足を掴まれたことにより、不覚にも失敗に終わった。

 

「こいつーーー」

 

 掴まれている片足を忌々しげに見つめた楯無は、手のひらに水の球を出現させ、それを敵に目掛けて放った。〈ミステリアス・レイディ〉のアクアクリスタルから生成したアクア・ナノマシンの球が、目の前の敵に直撃し、飛沫を散らす。それを見て間髪入れずに指を鳴らした楯無は、これからくる"衝撃"に備えて顔を腕で覆った。

 刹那ーーー。散らばったアクア・ナノマシンの飛沫が、激しい音を立てて破裂した。いやーーー爆発した。さながら本物の爆弾のように、周囲に衝撃波を放った。

 アクア・ナノマシンの水を頭から被っていた敵が、その爆発をもろに受け、後ろに倒れる。楯無は足を掴まれていた為、敵の背後倒れに持っていかれそうになったが、寸でのところで敵の腕から逃れたことにより何とか脱することが出来た。

 掴まれていた片足の無事を確認し、息を吐いた楯無は、頭を灰色の煙で包む敵を見下ろす。あの直撃の仕方から考えると、目の前の敵は暫く起きないだろう。あの爆発は高威力だし、身に与える衝撃も強い。何度も使用し、そして直撃した相手を何回も見下ろしたから分かる。だからこれも言える。この敵は絶対に死んではいない。そもそも機械のスーツで体を守っているんだから、致命傷にはならない。それにもし敵が自分と同じインフィニット・ストラトスーーー通称〈IS〉の操縦者であるならば、システムの中に組み込んである操縦者保護機能のよって体が守られているから、絶対に死んだりはしていない筈だ。

 

「……とは言っても、直撃したのよね。大丈夫かしら」

 

 なんて気にかけの言葉を言うが、本心ではまったく心配していないのは秘密だ。敵を心配するなんて、楯無は絶対にしたくなかった。

 敵の頭部から上がっていた煙が晴れている。アクア・ナノマシンの爆発が直撃した頭部の損傷が、露わになる。見た楯無は思わず眉を寄せ、不快感を顔に浮かばせた。

 敵の頭部は外装が剥がれたのか、中身が剥き出しとなり、機械の内蔵を曝け出していた。錯綜したコードが血管に見え、気分が少し悪くなる。爆発を受けたのは頭部だけなので、首から下には何もダメージは見受けられなかった。だが、そんなことよりもひとつーーー気になることがある。それは、

 

「……これ、人じゃない。機械? 中身が機械じゃない!?」

 

 そう、人間が身に纏っていたと思っていたものは、その実ーーー人間では無かったのだ。人間の形を模した機械の人形であったのだ。中身が機械の内臓で作られている、人工物の紛い物であったのだ。

 それを知った楯無は、目の前の機械から離れた。だって人間では無いのだから、気絶なんてものはない。だから、この機械はまた動いて自分を襲う。その可能性がある。

 口を固く結んで身構えた楯無。手のひらに出現させた槍を握り締め、半透明の水色の刀身部分を傾ける。

 ギシーーーそう音がし、倒れていた機械の骸が蘇った。鈍い動作で膝を立て、剥き出しになった頭部の中身から破片を落としつつ、恐ろしいほどの威圧感をもって立ち上がる。

 

「……死んだ屍。いや、生も死も無い歪みか」

 

 再びその巨漢を見せつける敵に対し、楯無は舌舐めずりした。高揚感に似た衝動を感じて、血肉が湧き踊るのがわかった。

 槍を突き付けて腰を屈めた楯無は、爆発的な加速と共に跳躍した。その跳躍は人間のものでは無く、獣の類の勢いである。勢いを産み出しているのは楯無の身体能力もあるが、しかし主な力を発生させているのは身に纏っている〈ミステリアス・レイディ〉のおかげだ。忘れてはいけない。そして驕ってもいけない。

 

「はぁぁあ!」

 

 咆哮を上げ、槍をしなるほどの勢いで振るった楯無は、その一撃を内蔵機器が剥き出しとなった敵の頭部に叩きつけた。

 凄まじい衝撃音が鳴り、一撃を受けた敵が、廊下の向こう側へ吹き飛んでいく。廊下の端に存在する置物などを巻き添いにしながら、突き当たりの壁をブチ抜いて、学園の外に放り出される。

 〈ミステリアス・レイディ〉のスラスターに炎を灯し、廊下を空中滑走した楯無は、穴の空いた壁から外へ躍り出た。そして外に出ると、今度は視線を下に向け、大の字で地上に倒れている敵の姿を捉える。

 両手で持っている槍を振るい、その矛先を敵に向けて構えた。スラスターとブースターの両方を稼働させ、地上目掛けて降下した。

 頰に冷たい冷気が当たり、表情が固まる。笑みのまま固まる。

 寒いーーーそう感じた直後、身体が震えた。目の前には、敵の顔がある。手に持つ槍が相手の胸を貫き通し、地面にまで行き届いている。

 ーーーーー戦いが、終わった。

 

「……」

 

 少しの無言の後、楯無は敵の上から身体を退かした。そして敵の胸を貫いている槍を引き抜き、傷跡を見下ろす。

 ぽっかりと胸に空いた穴は暗く、その生命の命が絶たれたことを静かに告げていた。怖くなるほどの黒色。その機械で出来た人形には、命などというものはそもそも存在していない。が、しかしそうだとしても、今まで動いていたものを、動かなくするということは、それは即ち『その存在』の命を奪ったことになる。たとえそれが人形だったとしても、正しく善の行いだとは断言出来ない。況してやこれが、もし本当の人間であったならば、もはやただの殺人である。相手が自分を襲ってきたという事実があっても、それを正当化出来るのは法律であって、人間の判断ではなし得ない。

 ーーーそんなことを黙って考えてしまうのは、やはり育った環境の所為なのだろうな……。楯無は、貫いた際に矛先に付着したオイルを槍を振るって飛ばし、そしたパスロットの中へ送り返した。停止した敵の身体から漂う異臭も意に介さず、太陽が雲で隠れた空を静かに見上げ、吐息を漏らした。

 

「……いきましょう」

 

 呟くと、青い髪の少女は、その場から立ち去る。

 残された機械人形の残骸は静かに沈黙している。

 ーーーが。

 "その骸を見下ろす存在"。

 その存在が在ることに、少女は依然ーーー気がつかなかった。いや、気がつけなかった。なぜならーーー

 

 ◆◆◆

 

 突然、こめかみに刺激を感じた。刺されたような痛みだ。あまり感じたことのない痛みだったから、思わず動かしていた足を止め、立ち止まってしまった。少し前を走っていた女性が、不思議そうにこちらを見ている。

 

「すみません、少し頭痛が……」

「突然か? 偏頭痛か?」

 

 痛みを訴えると、女性が心配そうに駆け寄って来た。やはり優しい人なのだな。頭が痛みで締め付けられる中、井伊月重吾はそう改めて感じた。

 

「……行けます。歩けますよ」

「……そうか。無理だけはするな」

「…………了解です」

 

 頷くと、女性が背を向け、再び走り出す。井伊月重吾はそれに離されぬよう足を動かし、伴走した。不意に視界に入った窓の外の空は、いつの間にか暗雲が漂い始めてきていた。

 

「嫌な気分だな……」

 

 吐き気なのだろうかこれは? 喉の奥、更に奥の奥が、非常に高い熱を帯びている。しかし焼かれたような痛みは感じない。どちらかと言えば身体の芯は鉄のように冷たく、しんしんとしている。吐き気? いや違う。これは『怯え』だ。

 そう己の中で認識した途端、より一層身体の奥の熱が高ぶり、芯が凍てついた冷たさに変わった。いったい自分は何に恐れを感じているのだ? 原因が解らないぞ?

 良くない心地に疑問を解決しようとしたその時、再び突発的な痛みが頭部を駆け抜けた。そしてその痛みが頭の中を刺激した瞬間、井伊月重吾の身体は目の前の女性を抱き抱え、反射的にバックステップを踏んでいた。

 

「うわあああああ!?」

 

 叫び。だが、何の叫びなのかは不明だった。

 顔の表面に石のようなものが飛んできている。まんべんなく直撃しているからとても痛い。目を開けようにも言う事が効かず、身体はバックステップを何度も繰り返して大きく後退しているようだった。

 

(なんだ? 僕の身体、なにやってんだ?)

 

 意識はあるが、身体は無意識なのだろう。本人の意志とは関係無しに稼働している。どこかそれは、人間の生存本能のようだと井伊月重吾は思った。

 

「井伊月! 井伊月重吾! 下ろしてくれ」

「ーーーーーえ?」

 

 女性の声が耳に届いたその時、井伊月重吾は"それ"を見た。今まで井伊月重吾達が走っていた廊下。そこに謎の生き物が立っていて、こちらを見ていることに気が付いてしまった。

 ーーーゾク。

 直感で理解した。あの生き物は危険だと。全長2メートルはありそうな巨体を誇る、あの謎の生き物は不穏だと。そう井伊月重吾は感じ、女性の意思を無視して後ろに走った。

 

「おい、何をしている!」

「あんなのがいるんだ。行けるわけないでしょ!」

「あの先に監理室があるのだ。原因を突き止めなければならない。ええい、下ろせ! この歳になって抱きかかえられたくはないっ!」

「わがままを言わないで!……って、うわぁ!?」

 

 何か激しい音がすると、後ろを向いた井伊月重吾の目に、こちらに向かって突進してくる先ほどの生き物が映った。身体が大き過ぎる所為でその生き物は、周りの置き物や廊下の壁などを崩壊させながら突進してきている。

 凄まじい光景だ。衝撃的だ。俄然、足を速めた井伊月重吾は、背後から聞こえてくる轟音には一切振り向かず、ただひたすらに前を向いて走った。

 

「遅い!」

「黙ってて!」

「男の脚力をもっと使えんのか!?」

「使ってますよ! けど重いからーーー」

「なっ!? 貴様、女に向かってほざいたな!」

「うわあ! ちょっと暴れないでくださいよ」

 

 怒った女性が腕の中で暴れた為、思わず手を離してしまう。

 

「あっ、ごめんなさい!」

 

 落としてしまったことへの謝罪をした井伊月重吾だが、女性が猫のように身体を反転させ、床に両手足で着地するという人間離れした動きを見て唖然としてしまい、暫く腰を曲げた姿勢のまま静止した。女性はそんな自分を見て、怪訝な表情を浮かべていた。

 

「しゃんとせんか」

「痛い!」

 

 女性に尻を叩かれる。

 叩かれた際の音は、背後から近付いてくる謎の生き物の地響きによって掻き消された。

 

「こっちだ。遅れるなよ」

「ま、待ってください……!」

 

 痛む臀部を摩りつつ、井伊月重吾は女性の背中を追いかけた。女性は先ほど向こうの監理室に行きたいと言っていた筈だが、今自分達が走っている方向はその逆である。これでは目的の場所に辿り着けないと思うのだが、いいのだろうか?

 

「馬鹿か。あんな奴がいる方向に向かえるか!」

 

 まるでこちらの考えが解っているかのような言葉であった。井伊月重吾は「まさかぁ」と軽く笑って見せたが、内心では少し女性のことを恐ろしく感じた。

「そこを曲がれ」思考の最中、女性の張った声が頭に響き、反射的に身体を動かした。言われた通り、井伊月重吾は廊下の別れ道を指示通りに曲がった。

 謎の生き物の失速と共にある破壊音は、だんだんと距離を詰めてきている。全力で走っているつもりだが、いかんせん撒くことが出来ない。確かに敵の身体は巨大で、その分歩幅も大きなことは承知しているが、それでもあの生き物には廊下の狭さという制限がある。それなのに一向に振り切れないのは、井伊月重吾の足が遅いか、それとも「逃げ切れやしない」と心の何処かで諦めているか所為かーーー。

 

「こっちだろうがっ!」

「うわぁ!?」

 

 突然、女性に服の襟を引っ掴まれ、真っ暗な部屋の中に入れられる。入った部屋の中は様々な物が押し込まれていて、たくさんのスペースをとっているからお世辞にも広いとは言えなかった。

 

「マズイですよ! こんな場所に入っちゃったら、すぐにあいつに捕まっちゃいます!早く出なきゃーーーむぐっ」

 

 言葉を全て言い切る前に、井伊月重吾は女性に口全体を手で覆われてしまった。女性の表情は何故か険しい。至極真面目な見解を述べたつもりだったのだが、どうやら気分を害させてしまったようだ。

 

(でも、ここにいたら二人ともーーー)

 

 ーーー捕まってしまう。

 そう思い、井伊月重吾は部屋の扉に向かって手を伸ばした。幸い部屋の大きさはそこまで広くないので、頑張って手を伸ばせば届く距離にある。井伊月重吾は女性には悪いと思いつつも、二人が犠牲にならないための行動に躊躇いは無かった。

 

(まだあいつは来ていない……。今からでもすぐに部屋を出れば間に合う。……この人を無理矢理にでも連れてかなきゃ)

 

 と、そこまで考えたその時、目の前の扉が突然閉じた。口中で「え?」と言葉を漏らした井伊月重吾は、伸ばしていた手を止め、呆然とした。

 

(僕は何もしてない……なのに閉まった。ーーーまさか)

 

 至った考えに視線を下ろすと、そこにはストッキングを履いた女性の足が在った。爪先はピンと前に突き出されていて、まるで"何かを蹴った後"のようである。

 女性の手を口元から剥がし、後ろを振り返った井伊月重吾は、"なんで扉を蹴って閉めたのか"を聞こうとした。が、開いた口を女性に人差し指で制されたことで、吐き出そうとしていた言葉が喉元でつっかえてしまう。井伊月重吾は、女性に疑問の目を向けた。

 

「……し〜…」

 

 だが、女性は疑問に対する言葉を述べてはくれず、人差し指を口元に持っていって「静かにしろ」とのジェスチャーを送ってくるだけであった。これでは納得出来ない気持ちが募るばかりだと、井伊月重吾は眉を寄せた。

 

(なにがしたいんだよ……)

 

 敵がそこまで近付いて来ている。音が段々と激しくなっているから判る。なのに此処に居ては、ただ捕まるのを待つだけだ。

 女性は何を考えているのだろう? 隠れているつもりなのかもしれないが、これは部屋の中に入っているだけで隠れているという訳ではない。目の前の扉を開けられてしまえば、すぐに見つかってしまう。声を殺したって駄目だ。きっと奴は、手当たり次第に物を破壊し、最終的にはこの部屋に目標を定める。

 ーーー誰かが囮になれば……。

 そうだ、誰かがひとり囮になれば、逃げられる可能性があるかもしれない。井伊月重吾は口元を引き締めた。可能性ではあるが、今は縋りつくしかない。あの生き物に捕まったら、何をされるか分からない。最悪殺されてしまうかもしれないし、もっと酷いことをされる蓋然性も高い。だとしたらやはり、誰かがあの生き物の注意を引き、犠牲になるしかないのだ。今この部屋の中に居る、自分か女性かの"どちらか"が。

 喉を鳴らした井伊月重吾は、横目で女性を見た。女性は口元を固く結んでいて、身動ぎひとつとっていない。それは井伊月重吾に何かを待っているのではないかという、不安定な予想を立てさせた。

 

(……僕が、やるしかないんだ!)

 

 もう一度だけ喉を鳴らし、決意を固める。

 違うかもしれないが、井伊月重吾には女性が怯えているように見えた。身動ぎひとつとっていないその姿に、神に祈りを捧げているのではないかと思ってしまった。

 この女性は毅然だが、それでもやはり女性だ。男が守らなければいけない。互いの吐息を感じ合う距離にいる、自分が守らなければ、きっと彼女はーーー。

 

「ーーーーー……ごめんなさいっ」

 

 想いが確固たる意志に変わった瞬間、井伊月重吾は動いた。垂らしていた腕に力を込め、伸ばしていた脚に力を込め、悠然と立ち上がって見せる。

 

「貴様っ、何を!?」

「邪魔です! そこに居てて!」

 

 自分を止めようと手を伸ばしてきた女性を押し飛ばし、井伊月重吾は扉を開けて部屋を出た。そして振り返って部屋に向き合い、目を見開いた女性の顔を最後まで直視しながら、解放されている扉を蹴り閉める。

 と、それと同時に廊下の向こう側。井伊月重吾からして右方向の壁が爆散し、強い風圧が吹き込んできた。赤茶色の髪の毛が揺れ動く。身体を打ち付けてくるその風圧に、井伊月重吾は思わず倒れてしまいそうになった。

 爆散した壁の砂塵が収まり、むせ返る埃も静けさを取り戻す。廊下に散らばっている窓硝子の破片が、宝石の輝きを灯して散らばっている。

 顰めていた表情を戻した井伊月重吾は、晴れた砂塵の中にそびえ立つ"シルエット"を視認した。巨大な図体に六つの赤い瞳を持つ生き物を捉え、そして床を蹴って走り出した。

 

「こっちだよっ!」

 

 叫ぶと、その生き物は動いた。まだ周囲に微かに立ち込めていた砂塵を巻き上げて、再び周囲の物体を破壊しながら走り始めた。

 なんという迫力だろう。井伊月重吾は脳裏にサイの突進を浮かばせ、苦笑いした。あんな猛進を身体に受けてしまえば、どんな結末を迎えるのかは容易に想像出来る。

 動かす脚に力を込めた井伊月重吾は、そうはなりたくないとただ走った。肺がズキズキと痛んでも、呼吸をするのが難しなっても、女性からこの生き物を出来るだけ遠ざける為に廊下を駆け抜けた。

 ーーーしかし。

 

「え? 行き止まり!?」

 

 懸命に走り、辿り着いた先は壁だった。絶望を突き付ける壁。先など存在しないと言わんばかりにそびえ立つ、無言の存在。

 歯噛みした井伊月重吾は、声にならない叫びと憤りに呼吸を乱し、目の前の壁へ縋り付いた。どこかに隠れられる場所が無いか、秘密の抜け道が無いかと必死に手を這わせて、間近な距離で壁に身体を擦り付けた。

 だが結果は「絶望」。壁は隙間も何も無い断絶だった。

 嘆いた井伊月重吾は這わせていた手を握り締め、音高く壁を叩いた。何度も何度も、痛みで手の感覚がぼやけてくるほど、感情に身を任せて殴りつけた。

「くそ」歯を食い縛り、呟いたその一言は、行き止まりだったことに対してのものではない。不思議なことだが、井伊月重吾は今の状況に絶望はしていなかった。死ぬかもしれないのに微塵も。

 おかしいとは自分でも自負している。この感じ方は悪い言い方ーーー「狂人」の思考だ。死よりも前に、女性を助けてあげられなかった。あの生き物をどうにもできなかった。そんな後悔ばかりが浮かんでいる。だから井伊月重吾は狂人の類。己の死よりも他者を心配してしまう愚者。それが自分にとって得の無いことだと理解していても、手を差し出してしまうふざけた狂言師であり、死に急ぐ自殺願望者である。たとえ自覚が無くとも、そうではないと思っていても、井伊月重吾はーーー

 

「けど、助けられなかったら"また"後悔するだろ!」

 

 顔を顰めて呟く。

 背後から激しい崩壊音が聞こえた。振り返ると、廊下の突き当たりで瓦礫の山が出来ていた。そして井伊月重吾の視界に、崩壊した廊下の瓦礫を足場に、悠然とこちらを見据えている生き物の姿が飛び込んだ。

 ーーーこっちに来てくれた。間違いの思いに苦笑しつつ、井伊月重吾は身体を反転した。

 瓦礫を踏み砕き、その生き物が一歩を踏み出す。頭部にある蜘蛛の眼に似た六つの硝子玉が赤色の光で点滅している。

 喉を鳴らし、顔を仰け反らせる井伊月重吾。後ろに後退したいのは山々だが、生憎もう逃げ場所は存在しない。すぐ後ろの壁が障害となっているから絶対絶命のピンチである。

 

「殺さないでくれるかなぁ……」

 

 なんて言い、口元を結んだ井伊月重吾は、足元に散らばる瓦礫の欠片のひとつを拾い上げた。

 大きさは小石程度。人間に投げ、そして強くぶつければたんこぶを作ることができる。だがこれをあの生き物に投げても、きっと意味がないんだろうな。強くぶつけても、逆に小石の方が砕けてしまうんだろうな。などといった、とうとう貧しくなってきた自分の知恵に泣きたくなってきた井伊月重吾は、苦し紛れに小石を握り締めた。

 しかしその時、井伊月重吾は何かの「音」を捉えた。遠くから伝わってくるような微かな音を。

 その音は甲高く、空気を切り裂くような音だった。例えるならばそうーーー飛行機が地上を飛び立ち、そのまま空を飛翔していく際のエンジン音だ。その飛行機のエンジン音に似た音が、段々と大きさを増してこちらに近付いてきているのだ。

 井伊月重吾は窓の外を見遣った。そして広大に広がっている空の景色に目を凝らした。

 雲で太陽の顔が隠れている空は、少しばかり暗がりを有している。真っ黒でなく、灰色のような空色。だから分かった。その灰色がかった空の中に、一筋の流星が在ることを。そしてその流星が、飛行機のエンジン音に似た音を発しながら徐々に接近してきていることを。

 

「流れ星ィ!?」

 

 そう叫んだ次の瞬間、目の前の生き物が真横に吹き飛んだ。その巨体で宙を舞い、廊下の壁を突き抜けて井伊月重吾の視界から消えた。

 唖然とした井伊月重吾は、力の抜けた身体で歩き、大きな穴の空いた廊下の壁を覗き込んだ。明かりは窓からの日差ししか無いので、穴の中はとても薄暗い。しかしそんな暗闇の中でも、あの生き物の六つの眼は赤い光を放っていた。闇の中で灯火となっているその瞳は、なんとおぞましいものなのだろう。

 

「な、なにが……」

 

 穴の中を覗き込むのをやめ、ヨロヨロと後退りする。背中を壁に辿り着かせ、床に座り込む。

 吹き飛ばされた生き物は、もうピクリとも動かないようだった。死んだのか、それとも死んだフリをしているのか、井伊月重吾には判断出来ない。「突然」が一気にこの身に降りかかってきたから、上手く思考が定まらないのだ。

 

「もーう! 痛ーいッ!!」

 

 それはただの声。そうただの声だった。

 しかし、

 

「うわあああっ!?」

 

 井伊月重吾はそんな些細なことにすら飛び上がってしまうほど敏感になっていた。今までの出来事のお陰だ。きっと今なら相手が小さな子どもで、愛くるしい表情で近付いてきても、驚いてしまえる自信がある。

 ドクドクと脈打つ心臓に胸を押さえ、井伊月重吾は視線を横に流した。何故か廊下の窓側の壁が崩れていた。そしてその周辺で砂煙が立っている。視界は悪いが然程ではない。巻き上がっている煙の中のシルエットは、井伊月重吾に学園の外から見上げた「窓」をふと思い出させた。

 

「あっ、あのっ……大丈夫、ですか?」

 

 先ほど何やら叫んでいたので、一応声をかけてみる。

 

「もうだめ……死んじゃうわ……」

「えっ!?ちょっ、いけないじゃないか!!」

 

 どうやら砂塵の中の人間は、想像以上の深手を負っているようだった。状態を聞き、血の気が引いた井伊月重吾は、力の抜けた身体に喝を入れて、すぐさまその人間の介抱に向かう。咳き込んでしまう煙の中を掻き分けて、微かに視認出来るシルエットを頼りに身体を動かした。

 

「大丈夫ですか!? まだ死なないでください!」

 

 手を伸ばして抱き寄せたその人間は女性であった。手の感触で分かる。柔らかく、そして小さい。

 

「だめだよ……っ!」

 

 死なないでと語りかけ、井伊月重吾は女性と共に煙の中を脱した。そして晴れた視界で下を見ると、露わになった女性の全身が目の前に飛び込んできた。

 

「え? 無傷じゃないか……。いや、でも発作か何かかもしれないから、とにかくあの人のところに……!」

 

 そうして行き先を決め、走り出そうとしたその時、井伊月重吾の見る景色は逆さまになった。そして背中に硬い感触を感じ、身体の全部が振動したのがわかった。

 

「ーーーーーは?」

 

 呟いた次の瞬間、今度は腹部に衝撃を感じる。だが、先ほどのような硬い感触ではなかった。暖かく、そして柔らかいものであることが、井伊月重吾には見なくても理解出来た。

 

「やーん、エッチな男の人♪」

 

 また感触を感じる。今度も柔らかい感触だ。しかも腹部に感じたものよりもさらに柔らかい。これはなんだ?

 身体を襲った衝撃で顰めていた顔を戻し、瞼をゆっくりと開けてみると、そこには飛び出した二つの布があった。もっと正確に言えば、布に包まれた、自己主張の激しい女性の胸が目の前に存在した。

 

「なっ!ど、えっ、えぇっ!?」

 

 突然の"来訪者"に頭が真っ白になった井伊月重吾は、思わずその胸を鷲掴み、押し退けようと力を込めた。すると頭のすぐ上から熱っぽい吐息が顔に吹きかかってきて、さらにパニックになってしまう。

 

「あんっ、やぁ……そこ、敏感で……んんっ!」

「女だぁ!? うわぁ!」

 

 ようやく我に返った井伊月重吾は、何故か身体の上にのしかかっている女性の胸から手を離し、後頭部を床に擦り付けた。

 蒸気した頰の女性が、艶っぽい双眸を向けてきている。

 喉を鳴らした井伊月重吾は、責められても反論が出来ない真実の所有に、ただ泣きたくなるばかりだった。

 

「……僕、井伊月重吾」

 

 なにを言っている。なんで自己紹介だ。

 冷静なつもりだが、どうやら精神は動揺しきってしまっているらしい。証拠に、先ほどから汗が止まらない。背中が水に濡れたように湿っている。気持ちが悪い。

 

「おにーさん。私のおっぱい触ったわよね?」

「さ、触ってない……よ?」

「…………叫ぼっかなぁ〜」

「触った! 掴みました!」

「いやぁぁぁ! 誰かぁぁぁ! 織斑先生ーーーッ!!」

「待ってよっ、待って!? 待ってって!」

 

 反射的に女性の口元を押さえた井伊月重吾は、そのまま後ろに押し倒してしまった。

 不味い状況だとは思う。目の前の少女は自分よりも明らかに歳下だ。誰かに見られでもしたら、胸を鷲掴みにしたことよりも酷い結末を迎えてしまう。

 なんとかしなくては。そう考えたその時、不意な違和感を感じた。誰かに見られているような気分を味わっているのだ。なんだ?

 恐る恐る視線を動かすと、井伊月重吾と押し倒された女性から少し離れたところに、先刻まで行動を共にしていた黒スーツの女性がこちらを見下ろしていた。冷たい眼で。家畜を見るような瞳でこちらを。

 

「あっ! 織斑先生♪」

 

 少女が明るい声を出し、井伊月重吾を跳ね飛ばして女性の元に歩み寄って行く。

 井伊月重吾は跳ね飛ばされた時にぶつけた後頭部を摩りながら、悪戯っぽい笑みを浮かべる少女と未だ冷たい眼をしている女性の両方を見つめ、口元を引きつらせた。

 

「先生、私ーーーーーこの人に犯されかけました」

 

 それが井伊月重吾と更識楯無の、二度目の初めての出逢いだった。




続く。
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