井伊月重吾の物語   作:名無しの執筆者

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前編


井伊月 重吾 『前編』

 /強い涙

 

 白兎との戦闘から数時間が経ち、クラリッサに連れられた病院で治療を受けた楯無は、未だ目を覚ますことのないリディアとラージの治療室の前で、静かに時が過ぎるのを待っていた。

 目の前の硝子が遮っているだけなのに、医療室で眠るリディアとスカイの二人との距離が酷く遠くに感じた。冷たい硝子に手を重ね、そして額を当てた楯無は、自身の身体に巻かれた包帯の跡を見て、深い溜息を吐いた。硝子がそれによって少しだけ曇り、顔に不快な熱が伝わってきた。

 コツ、コツコツ。ヒールを踏み鳴らす音が向こうから近付いてきていることに気が付き、振り返った。すると背後には、毅然な様子で病院の廊下を歩むクラリッサがいた。

 いつ何時も変わらぬ真剣な面持ち。彼女の性格故のそれが、少しだけ羨ましく思えた楯無は、小さく会釈した。そして眠り続けるリディアとラージに再び視線を戻し、静寂が支配する空間の中に身を預けた。

 クラリッサが隣に並び、同様にリディアとラージの様子見を始めた。一度だけ横目でクラリッサの横顔と眼帯を見、楯無はまた視線を前に向ける。

 ーーー時計の針すらが、大きな音に変わっていた。それほどまでに、静かな時間が楯無の意識を支配していた。

 苦痛ーーーとはまた別の居心地だった。離れようとも思いはしない。気分が良いという訳でもない。身動ぎしないクラリッサは気になるが、別段聞き込もうとも考えない。答えを出すことすらしようとしない。

 楯無はただただ無心で前を向いていた。時折、指輪の表面を撫でながら、一片も逸らすこと無く視線を固定していた。

 ーーーそんな意識と無意識の狭間に身を置いていた所為か、気が付けば小一時間が過ぎていた。

 変わってしまった時計の針の位置と、自分の堕落さに流石に呆れた楯無は、小さく笑って近くの椅子に腰掛けた。

 ふと周囲を見回すと、クラリッサの姿が失くなっていた。どうやら時間の概念どころか、彼女が居なくなったことすら感知していなかったらしい。

 

「ーーー……」

 

 自分の危うさに二度目の笑みを零した楯無は、視界の横から急に差し出された珈琲の缶に変に驚くことも無く、振り返ることすらしない緩慢さでそれを受け取った。「ありがとうございます……。クラリッサさん」

 

「上の空でしたね」

 

 そう言いながら、目の前にクラリッサが移動してくる。

 苦笑し、頷いた楯無は、渡された珈琲に口を付け、流れ込んできた液体の苦さにホッと息を吐いた。

 窓の方に視線をやると、日が少しだけ傾きかけていた。

 青空から夕暮れへーーー。さして変化の無い日常の風景が、病院の中を暖かく満たす。

 珈琲を一気に飲み干し、空になった缶を手の中で弄んだ。何も考えず延々永く、飽きもせずに弄り回す。

 缶の表面と指輪が接した際に鳴る音と、時計の針の音だけが、楯無とクラリッサが存在する空間の奏でだった。気が遠くなるような単純な音楽だけが、音を支配していた。

 

「……戦わないのですか?」

 

 初めに、その世界を破ったのはクラリッサであった。

 楯無は視線を動かさず返答した。「わかりません」

 

「貴方の葛藤は、きっと一時的なものだと思う。鳥は自分が何をしているのかを忘れても、餌を取ることは忘れない。それは本能という意識とは別の衝動を奥底に預けているからです」

 

 言っていることは理解出来る。確かに自分は、やるべき事を見失った訳ではない。敵の存在も、その危険性も身に染みて理解しているつもりだ。

 しかしーーーそれとはまた別なのだ。己が抱えている問題は。そう容易く、一筋縄に解決出来る課題ではないのだ。

 クラリッサはきっと、心配と憤りがあるから、そんなことを口にしたのだろう。だが楯無は、そのどちらでもないのだ。心配を感じさせる問題でも、憤りを感じさせる悩みでも、そのどちらでもないのだ。

 突然、両手に痛みを感じた。見ると、缶を握り潰していた。

 ハッとした楯無は缶から手を離し、慌てて胸を押さえた。自分が恐ろしかった。押さえていた胸を抱え込むように体を曲げた楯無は、肺に溜まった酸素をゆっくりと吐き出し、気持ちを落ち着かせようとした。しかし、込み上げた衝動はそれだけでは治らないほど強くーーーそして激しかった。

 楯無の状態を察知したクラリッサが、腰を屈めて隣に並び、背中を摩ってくれる。暖かな人の手が、こんなにも安心するものだとは思わなかった。とても心地が良い。

 

「話してごらんなさい。私には、それぐらいのことしか出来ないが、それぐらいのことは出来ます」

 

 優しい言葉だ。少しだけ、母を思い出した。

 楯無は俯きがちになっていた顔を持ち上げた。視線がクラリッサと交錯する。口を開け、閉じーーーそしてまた開けた。けれど言葉が出てこなかった。喉の奥でつっかえて、上手く言葉にすることができない。

 そんな楯無を、クラリッサは微笑んで見つめる。大丈夫。大丈夫、と。背中を摩り続けてくれる。それはまるで本当に母のようで、思わず涙腺が緩むのが分かった。

 

「私……私はーーーもう、戦いたくない……っ!」

 

 きっとそれが、産まれて初めて口にした、更識刀奈の「本音」だった。何も塗りたくっていない本音の言葉であった。

 

「そうですね……そうですよ。普通ではありえないことなんです、こんなことは。……誰が子どもに、銃なんて握らせるものですか」

 

 頭を抱き締めてくれたクラリッサの言葉には、他にも色々な私情があるような気がした。彼女も、自分と同様に何か思うことがあるのかもしれない。

 クラリッサの胸の暖かさに微睡みを覚えた楯無は、胸に置いていた手を恐る恐る伸ばす。そして身近にあるクラリッサの体にそっと触れ、そして抱き着いた。強く、強く。

 ああ、やっと……やっと私はーーー。涙が込み上げるのがわかった。嗚咽がせり上がってくるのがわかった。

 楯無は静かに泣いた。けれど押し殺すことはしなかった。

 少女は静かに、安らぎを感じながら歯を噛み締め、己の中の甘えと弱さを一緒くたに垂れ流しーーー涙した。

 

「大丈夫です。世の常は変わらない。貴方達子どもは、守られるべき存在なんですから……」

 

 その言葉があまりにも嬉しくて、あまりにも頼もしくてーーー私は、どうしようなくなって、ただただ泣き続けた。

 

 

 /僕の名前

 

 周りに人がいる。囲まれている。気配がする。

 打った薬の作用だろう。昔よりも少しだけ、人の「気」というものに過敏になってしまった。……だからわかる。周りを取り囲む彼等は、酷く殺気立って自分を見ている。

 ああ、頭が痛い……ーーーー。

 

「おい、貴様」

 

 髪の毛を捕まれ、無理矢理顔を上げられた。目隠しされた布を通り越す光の波が、ずっと暗がりにいた視界を虐めてきた。

 

「このタイミングで国家代表を襲ったということは、お前は白兎の仲間だな? そうなんだろう?」

 

 断定仕切ったような口ぶりに、焦りが見えた。

 口を動かし、それに返答する。

 

「違いますよ」

「……なんだと?」

 

 苛立った声が聞こえたその瞬間、腹部に鈍い痛みが走った。次いで顔面を蹴られたかのような衝撃も襲ってくる。椅子に固定された状態でのその暴力は、とてもじゃないが我慢出来るような痛みではない。

 

「……」

 

 けれど、痛みは感じなかった。

 痛みなんてものは、もうずっと前に忘れてしまった。

 体は、きっとボロボロになっている。今も尚、殴られ続けている。顔を、腹を、足を、腕をーーーなすがままにされて、体は既に悲鳴を上げている。

 だけどやっぱり痛みは無い。生じない。

 おかしい? そう、おかしいのだ。僕は人間じゃない。いつの間にかその枠から外れて、人では無くなっていたのだ。感情だって少し歪んでいる。感覚だって殆ど無くなった。ずっとずっと悪いことばかりしていたから、神様から天罰を貰ってしまったみたいで、人間であることを許されなくなってしまった。

 殴られた反動で、拘束されていた椅子と共に倒れる。どん、と視界が揺れて、拍子で目隠しの布が上へとズレた。

 明るみになった視界の中、まず初めに光を見上げた。暗がりの中にポツンと寂しく存在する輝きを、霞む視界のレンズで捉えた。古びた電灯なのだろう。天井から吊り下げられたそれは、チカチカと不規則な点滅を繰り返して、寿命の終わりが間近であることを必死に叫んでいた。

 壊れそうな椅子に、埃が被った机。そして灰色のみで構築された部屋の中を見ただけで、ここが尋問部屋であることがわかった。しかし、この汚さはずっと放置されていたんだろう。蜘蛛の巣だって張られている。……ずっと平和な世界だったから、使われることが無かったのだ。

 

「……っ」

 

 唇を噛み締め、覚悟を決めた。

 誰であろうと構わない。邪魔するものは全て穿つ。

 喉の奥にしまい込んだ「スイッチ」を口内まで込み上げさせ、奥歯でそのスイッチを押し込んだ僕は、これからすることへの罪悪感に震え、立ち上がった。

 人の所業から遥かに離れた悪をーーー。

 人の望むことを体現する願いをーーー。

 神様……。これからすることは、決して許されることのない悪です。しかしどうかお許しください。私は、必ず罪を償う。償いを終えるほどの「夢」を成就させます。だから……だから今だけは神様ーーーーーー『僕を、悪魔でいさせてください』

 

「なっ⁉︎ 撃て! 撃てェ‼︎」

 

 自分を取り囲む人間達が、その言葉で一斉に射撃を始めた。止まることのない鉄の雨を全身に向けてきた。

 しかしその弾丸は全て弾かれる。鎧を着た自分には通じない。通りはしない。血の一滴も垂れ流すことなく、そして僕は目の前の男に向かい手を突き出し、胸を穿った。手のひらに、肉を掻き分けていく嫌な感覚が微かに伝わってきた。

 ひとつ目……残り四つ……ーーーー。

 

「き、貴様ァ……黒兎ぃいッ‼︎」

 

 仲間の死が引き金となり、人間達が昂る。

「名前」を叫んで銃を乱射する。

 人間のひとりが通信機のようなものを耳に当て、声を上げていることに気が付いた。それは駄目だ。

 雨止まぬ鉛の中を闊歩してその男に近付く。手を伸ばしてその行為を阻止しようとする。しかし、後ろから羽交い締めにされ動きが取れなくなった。

 

「は、早く応援を……っ」

 

 だから、今度も同じように胸を穿つ。

 自分を拘束する男の胸に右手を貫通させ、引き抜いた内臓を握り潰す。そして次いで目の前の男に襲い掛かり、通信機ごと頭蓋を殴り壊し、腹を踏み抜いて体を壊す。

 二つ目……もう少しだ……ーーーー。

 酷く気分が悪かった。薬が切れたのかもしれない。もう三日も打っていないから、胸の「古傷」が少し開きかけている。早く終わらせなけないかもしれない。

 振り返った先にいる残りの人間達を捉え、目まぐるしく回る視界の中、平衡感覚も無くなった状態で歩いた。

 左右にゆらゆらと揺れ、血飛沫で体を濡らした自分の姿は、きっと彼等にはこの世のものではない異様な化け物に見えたに違いない。情も情けも無い化け物にーーーーきっと自分は見られたに違いない。

 

「貴様は……貴様の所為で世界が終わるのだぞ……!? ISのコアなど奪って何をするつもりだ! このっ……化け物めがっ‼︎」

 

 荒い息を吐き出しながら、目の前の人間が叫ぶ。

 

『……ごめんなさい』

「なんだとっ……!?」

 

 ただの返答にさえ驚かれ、僕は本当に化け物になったことを自覚した。覚悟が確固になったと言ってもいい。

 震える右手を差し出すと、「敵」が狼狽える。

 はははと笑って、僕は悪魔を演じてみせた。

 血の鱗粉が鼻をくすぐると気分の悪さが加速する。崩れ落ちた人間の体を見下ろすと、酷い頭痛がした。けれども心は異様さを保ったままで、目の前の敵を潰すことしか「思い」になかった。だからーーーー

 

「ごめんなさい」

 

 体に突き刺した手のひらを引き抜き、崩れ落ちた人間の骸を眺めた。怯えていた筈の人間の死骸を跨いだ。部屋の隅まで後ずさった最後の人間に銃を向け、発泡し、無情に殺した。

 そしてーーー静寂が訪れた。

 顔を両端から押さえつけ、体を湾曲させる。

 内側から鳴るノイズが五月蝿くて、耳を押さえた。けれど、音は一向に止まない。鳴り止まない。激しく打ち付けてくる共振は脳を揺らし、内臓を揺らし、心を揺らす。

 震える足に自ずと膝をついた。

 殺した人間から流れた血が、弾けて散らばる。

 荒い呼吸をしているうちに苦しくなって、《黒鍵》の展開を解除し、露わになった口にめい一杯の酸素を取り込んだ。鉄の味を仄かに感じさせる酸素を味わった。

 胸を見ると、服の上から分かるほどの血が滲んでいた。やはり古傷が開いてしまっている。じんじんとする痛みが、喉元からせり上がってきた。

 だが、今は止血している時間も惜しい。薬なんて後でいくらでも打てる。だから早くしなければならない。「母」から受け取った狼煙を、ここから上げなければならない。

 

「ふぅッ……‼︎」

 

 パスロットにしまい込んでいた物を粒子構築し、手のひらに握り締める。筒のようなそれの起動スイッチを押し込み、スライドして長く伸びたそれを、血の匂いで満ちた部屋の中心に突き立てる。

 

「狼煙……これは狼煙だ。戦争の合図。僕だけの、僕と世界との小さな戦争……。始まるんだ、やっと……。この時を僕は、ずっと待ち望んでた。ずっと」

 

 明かりを帯び始めた狼煙が、その光を一点の穂先に集中させーーー天へと放出した。戦いの狼煙を上げた。

 腰のバックから注射器を取り出し、胸に突き刺して薬を打ち込む。そして注射し終わったそれを放り捨て、雄々しく輝く光の柱を見上げた。

 

「……じゃあ、僕は行くよ」

 

 そうして長い夜の幕が上がり、青年は空へと駆けた。

 

 ◆

 

 突如、激しい振動が病院内を揺らした。地震だろうか。窓が波打ち、硝子に亀裂が走っている。床から伝わってくる大地の胎動が体を揺らし、思わず膝をついてしまった。

 楯無はクラリッサから離れ、窓に張り付いた。涙で霞んだ瞳を擦り、外を見遣ると、そこには想像を絶する光景があった。

 

「なんです……あれは!?」

 

 同じく外に視線を向けたクラリッサが、その光景を見つめて驚愕する。夜空へ向かう階段を、暗闇を掻き消す光の柱を。その瞳で視認した瞬間に愕然とする。

 楯無は不吉なものを感じた。あの柱は、とてもじゃないが普通ではない。あの光は、戦いのノイズを奏でる狼煙だ。これから間も無く、何かとんでもないことが始まろうとしている。それを告げる合図だ。

 どうやら病院を揺らした振動は、あの天柱から発生しているものらしい。ここからでも分かる、その脈動。楯無の体を微かに震わす強大な鼓動は、決して終わることがないように思える。

 

「また戦いが始まるの……?」

「……更識殿はここにいてください」

 

 ーーー何を言っている?

 反射的に伸ばした手でクラリッサの腕を掴んだ楯無は、こちらに振り返ったクラリッサに向かって、精一杯の想いを見せつけた。行かないで。一人にしないで。しかし、クラリッサは微笑むだけで何も答えてくれない。違う、そうじゃない。私をひとりぼっちにしないで!

 突如、彼方の天柱から雷鳴が轟き、病院内を真っ白に照り上げた。驚いた楯無は、肩を震わせて天柱に気を取られる。クラリッサはその隙を見逃さず、病院の廊下の暗闇へと走り去って行った。

 待ってーーー。その言葉すら発する間も無かったことに、楯無は座り込んだ。再び瞬いた雷の衝撃に床を這い、部屋の隅に逃げて膝を抱えた。

 

「もう嫌……早く終わってよ!」

 

 少女の叫びは、雷鳴に掻き消される。

 その間にも、彼方の大地から天へと伸びる天柱は怪しく輝き、その全身から雷鳴を轟かせ、次第に災厄をもたらし始めていたのだったーーー。

 

 

 /兎狩りの夜

 

「ひゅぅ〜。派手に始まったねぇ〜」

「あっははは! でっけえ光の柱。映画みてぇっ!」

「……嫌な光だな」

「まあそう言いなさんなよ。ようやく敵さんも、本腰入れてくれたってことさ。な? お前らよぉ」

「やれやれ。ここには戦争馬鹿しかいないのかしら」

「ふふふはははっ。それはテメーも一緒・だ」

「あーあー……早く帰りて〜」

 

 夜空に突き刺さる光の柱を眺める各々が昂り、憤り、訝しみ、それぞれの感情表していく。屋上に集結した"国家代表達"の感情が混ざり、混濁したものとなって空間に溶け込む。

 彼女達から離れ、一人、《シルバリオ・ゴスペル》の調整をしていたナターシャも、その圧倒的な光景の前では集中することも上手く出来なかった。暗雲の中に雷鳴が鳴り渡る空の下では、闘争に似た昂りを抑えられない。

 手に持つコンソールを置き、口々に言葉を零す国家代表達の中に入り込み、目を細める。屋上のギリギリのラインに足を乗せ、少し前屈みになる。光輝く巨大な柱。その全体に目を凝らし、ナターシャはほんの少しの激情を覚えた。

 

「ーーーおっ。高エネルギー反応検出。よーしお前ら、そろそろ出発するぞ〜。全員真ん中に集まれー。早くしねーと拳骨だからなぁ〜」

「くくくっ。拳骨とか年寄りの言うことだぜ? バレルさんよぉ〜。くくっ、くくくくっっっ。あっははは! 流石いき遅れの三十路だぜぇっ。言うことも古臭いとかマジ駄目だな⁉︎ くはははっ……痛ぇッ!?」

 

 白髪の大人びた雰囲気のバレルと呼ばれた女性が、汚い言葉を吐いて馬鹿にしてきた少女を拳骨で黙らせる。

 

「あんたはホント口が悪いわ」

「な、なんだよ〜! そんな強く殴んなくたっていいじゃんかよ〜。うぅ……グスン」

 

 茶髪で短髪の、この国家代表で一番最年少であるラベルが、涙声でバレルを睨み付けた。

 確か師弟の関係だったか? あのバレルとラベルは。お互い共が国家代表とは珍しい。しかし資料で見た時では、既に引退して国家代表をラベルに譲っていた筈だが……。嫌々呼び出されたのだろうか?

 

「まあ馬鹿は放っといて、敵さんのエネルギー反応が検出されたみたいだから気合い入れてくださいね〜。欠席者は……おいおいマジかよぉ。ロシアのラージも更識も居ねえじゃん。何やってんだあいつら。……うわ、ドイツも欠席。お〜いぃ〜、クラリッサ・ハルフォーフさん出てきてくださいよぉ〜」

 

 呆れた声で点呼をとったバレルが、面倒くさそうに頭を掻き、そして屋上の中央に集まったナターシャ達を据えた。バレルの瞳には先ほどまでの倦怠の色は無く、思わず身構えてしまうほどの威圧が込められている。ここは最早死地。彼女は、腐っても国家代表ということである。

 ふう、と息を吐いたナターシャは視線を下げ、今一度バレルの顔を見上げた。一瞬だけ背景にある光の柱に気を取られたが、すぐさま戻して口元を引き締めた。

 各面々もこの場の雰囲気に染められ、厳しい顔をしている。そして臨時体制の限界に突入している。関節を鳴らして指をほぐし、息を吐き出して気を興奮を高めている。

 うむ、とバレルが頷いた。皆の調子に納得がいったように。

 ナターシャもそれに微笑み、首にかけた待機状態のネックレスーーー《シルバリオ・ゴスペル》に触れた。

 

「よく聞けーーー国家代表よ。ここは最早、美しい街並みが広がっていたロシアではない。地は焼かれ、そして根太やされたのだ。逃げ惑う国民を焼き、子ども達を根太やされたのだ。ーーー貴様等に問う。それは許せることか? 貴様等に問う。志し高くある者達よ。貴様等に問う! 我々は何をすべきだッ‼︎ 我々は何をしなければならないッ‼︎」

 

 張り上げた声に含まれる、バレルの感情。

 

「私は悔しい。だからこそ、平和という安息を鎖国し、争いを遠ざけてきた世界の中に唐突な火種を産み出した兎共が許せない。あの獣の首を絞め、討伐したいと思っているッ!」

 

 それはあまりにも大きく、あまりにも深い。

 

「問う! 貴様等に今一度問う! 平和を取り戻す為の助力はできるか? 平和を望む心があるか? この世界を守り、自国を守る意思があるか!? 問うっ。私は問う! 貴様等の体、私に預けるほどの闘争心はあるのかッ!? 答えろっ、強者共の群衆よォオッ‼︎⁉︎」

 

 激情、悲観。その両方を重ね合わせたバレルの演説、そして問いかけに皆が口を開いた。ここに集った総勢二十の強者共が、口を揃えて言葉を口にした。

 

『あるーーーッ‼︎』

 

 と。

 

「良い答えだ野郎共! なら刀を抜け、銃を握り締めろっ。目の前にいるのは未だかつて無いほどの敵だ。兎だっ。自分の国を、子ども達を守りたいなら女を見せてみろっ!」

 

 バレルの咆哮を合図に、皆が専用機を纏う。色並み豊かな装甲を怪しく光らせて、雄々しく輝く災厄の柱を睨み付ける。

 一瞬だけ「彼」の姿を浮かばせ、すぐに沈めたナターシャも、続いて《シルバリオ・ゴスペル》を纏った。神経と接続し、我が身と一体化していく感覚に瞼を閉じながら、高揚という名の衝動に震えた。

 

「さあ、行くぞ野郎共‼︎ーーー」

 

 そして、火蓋が落とされた。

 

 ◆

 

 キィンーーーと不愉快な雑音が脳を揺らした。

 見上げる柱はとても輝かしい。ぼうとずっと眺めている。赤で染め上げられた部屋の中央に座り込み、人差し指で床をリズミカルに叩いている。

 ……鋭い感覚が殺気を捉えた。

 手に出現させた重火器で壁を撃ち抜き、ぽっかり空いた穴から夜空の彼方を見据える。するとずっと遠くの方に、忙しなく動く数多の「星」が見えた。いや、人間が見えた。こちらに向かって飛翔してくる、女性達の姿を瞳に映った。

 重い腰を上げ、立ち上がる。

 瞼を閉じると意思が研ぎ澄まされた。

 吐息と共に屋外へ出、天井に降り立つ。そして真横にある光の柱に手を突っ込み、中にある大黒柱ーーー「起動装置」の制限を一段階解除した。すると柱から轟音と雷が轟き、夜空の中を一瞬だけ昼に変える。矛盾の現象を引き起こす。

 それを眺め終え、柱の中から手を抜き、通信回線を開いた。通信先は仲間の「白兎」だ。ここよりも少しだけ離れた場所で、時が来るのを待っているのだ。

 

『来たみたいだよ』

『うん。見えてきた』

 

 徐々に近付いてくる機影。

 その全てが、手中に武器を構え始めている。

 

『作戦は憶えているよね? なるべく後ろに下がって、出てこないでよ?』

『……うん。お前も上手くやるんだよ?』

『ははっ。任せといてよ』

 

 それじゃーーー通信回線を切断し、夜風を浴びる。息を吐き出して星を眺め、屋上の斜面に腰を下ろした。

 

「……ふ〜ん♪ ふふふ〜ん♪」

 

 これは昔の癖だ。

 何も無いのに鼻歌を歌ってしまうのだ。

 自分の背丈の倍はある長銃を脚で固定し、スコープから伸びている接続コードを《黒鍵》のフェイスマスクの裏に繋いだ。するとハイパーセンサーとスコープの透視が結合し、望遠距離がさらに伸びて鮮明になる。

 唾液を飲み込んで集中力を高め、スコープを覗き込んだ。手のひらに「弾丸」を粒子構築して握り込み、長銃の中へセットする。吐く息と風が轟音に感じる程研ぎ澄まされた感覚の中、だんだんと体の芯が冷たくなってくるのを感じた。

 

「ふふ〜ん……ふふん、ふ〜ん♪」

 

 射程圏内まであと少しーーー。

 迫り来る敵は強大だ。勝てる見込みは正直無い。

 ……けれど我が身は朽ちかけの中古だ。新品では無い。要る物だけを残して、後は捨てている。だから壊れるのは自由だ。負けてしまったその時は、好きにしてくれてもいい。

 けれどあと少しだけ持ってほしい。こんな体にもまだーーー役目というものが存在しているから……。

 引き金に指を乗せ、呼吸を止めた。

 鼓膜に伝わる音は最早聴こえず、無音の世界に意識を置く。鼓動のみの振動が胸の内側を揺らし、風の瞬きを忘れた。

 ーーーあと少し、あと少し。

 スコープから伺える敵との距離が射程圏内に入ったその瞬間、長銃の引き金を一気に押し込んだ。破裂音と共に伝わってきた振動に耐え、飛来していく弾丸の行方を見つめーーーその一撃が敵の一人に直撃したのを確認した。

 突然の強襲。突然の一撃。

 普通ならば動揺で慌てふためく状況だが、どうやら彼女達の方も化け物だったらしい。彼方にいる彼女達は突然のことに驚きはしているものの、すぐさまこちらを認識してきた。我が身にはジャマーをかけ、索敵された際の反応を鈍くしていた筈なのだが、どうやら射角と風の流れだけでこちらの位置を割り出したようだ。恐ろしい。

 刹那ーーー。脳裏に響いたノイズに長銃を捨てて立ち上がり、翡翠色のレーザーソードを《黒鍵》の籠手から放出し、前面に構えた。そして己が出来る限界の稼働速度で腕を動かし、眼前に飛来してきたライフルの弾丸を兜割った。

 

「やるな、敵さん……」

 

 遂に視認できる程の距離まで近付いてきた女性達を見つめる。両手に小型の銃を握り締め、はぁと息を吐き出す。心は不思議なほど落ち着いていた。不安も恐怖も無かった。あるのはこれからすることへの罪悪感と、そして希望だけ。幕切れの後にある革命の未来図を思い浮かべると、まだ戦えると己を奮い立たせることができた。

 再び脳内で響き渡ったノイズに体を逸らし、次いで迫ってきた火球を避ける。止めどなく放たれてくる射撃の雨を掻い潜り続けながら、両手に握った拳銃のトリガーを押し込み、こちらも反撃を開始したーーー。

 

 ◆

 

 ーーーバレルは焦っていた。

 表出してはいないものの、心は焦燥に満ちていた。仲間が撃墜されたこともそうだが、バレルの焦りは予想外の敵の脅威性からだった。

 先ほど敵は、こちらが視認出来ぬ程の距離から、味方一人を撃墜してみせた。我々全員、国家代表という「強者」の位に立っているが、ISを纏った人間の認識外からの射撃など、到底出来る芸当ではない。仲間の一人であるイギリスの国家代表、リリアでさえ、弾丸の飛来を察知出来ていなかった。

 敵の位置は弾丸の射線から予測し、既に割り出してはいるものの、こちらの攻撃が届いているのかは怪しい。というよりも本当に"そこ"にいるのかどうかすらも分からない。

 弾丸飛び交う夜空の中、敵の姿だけが未だに見えない。

 翻弄されているーーー。歯を噛み締めたバレルは、視線を動かしてラベルを見た。必死にバルカンの弾丸を飛ばして、飛来するミサイルを撃ち落とす、懸命な彼女の横顔を見つめた。

 このままではジリ貧だ。固まっていては、いつかは敵の柵にハマってしまう。

 通信回線を開いてみると、ノイズがかかっていて不快な音が流れるばかりであった。周囲一帯にジャミングかけられているのか、ハイパーセンサーの調子も悪い。

 ーーーならば……。

 

「全員に通達する! 今から各自、別方向に散開だっ。ここにいては的になるばかりか、全滅の恐れがある。……必ずお互いが視認出来る距離にいろ! ジャミングがセンサーをイカれさせている。充分に注意だ!」

 

 通達の終了と同時に各人が四方に飛ぶ。

 バレルも皆が散ったの確認してから、ここから離れた場所まで機体を動かした。

 

『おい! どうすんだ!』

 

 不調だった通信回線が開き、ラベルの怒声が耳に入る。どうやらこの距離ならば通信が可能のようだ。こめかみに手を当て、「喚くな」そう一蹴する。すると通信回線の向こう側から、「だってよぉ……」弱気な少女の声が聞こえてきた。

 分かっている。分かっているのだ。お前が不安なのは分かっている。私だって不安だ。見えない敵の存在。かつてないほどの強大さに、今だって思考が混乱している。だから分かる。大人でさえこんなにも不安を感じているのだ。それが、まだ年端もいかぬ少女なら尚更だ。

「くそ」口中に呟いたバレルは、張った声で叫んだ。「怖いならこっちにこい」と。

 

「バレルーッ!」

 

 向こう側にいたラベルが、こちらの元へ戻ってくる。抱きとめてやると、ラベルは怖い夢を見てしまった子どものように、体を震わせて顔を埋めてきた。

 

「……くそっ……! くそっ、くそっ!」

 

 片腕でラベルを抱き締め、バレルは叫んだ。呼び出したアサルトライフルのトリガーを押し込み、弾丸が尽きるまで射撃を続けた。

 敵のミサイルが間隔を置かずに次々と飛んでくる。

 自分達はそれを絶対に後ろに通してはいけない。

 数では有利、状況では不利なのだーーー。

 敵には守るものが無い。だから遠慮無用の攻撃が出来る。けれど我々には守るものが多くある。だから遠慮無用の攻撃が出来ない。嫌でも体にセーブがかかる。

「これは世界を賭けた戦いだ。犠牲など、考えなくていい」

 兎狩りを立案した人間は、そんな無慈悲を淡々と言った。バレルもそれに頷いた。しかし、頷いただけだった。

 心の底では断固拒否である。そんなもの、絶対に認めない。

 ここが祖国では無いとしても、住む者達は同じ人間なのだ。ラベルはきっと笑うかもしれないが、自分は彼女の母親だと密かに思っている。道端でゴミに埋まり、寒さを凌いでいたラベルを拾った時から、母親になると決めた。どんな辛いこともやってやると覚悟した。だからこそ、今回の作戦にも参加した。ラベルが躊躇った時の為に、敵に情けをかけてしまった時の為に参加したのだ。……けれど、自分は母親なのだ。この手で、ラベルを育ててきたのだ。私は、人殺しにはなりたくない。犠牲など考えるな、だと? ふざけるのも大概にしろ。誰にもこの手は汚させはしない。この手は母親の手だ。ラベルを抱き締めてやるのに必要な手なのだ。だからこの手が、血に塗れてしまう訳にはいかないのだ。

 震えるラベルの体を強く抱き締め、獣の咆哮を上げる。歪だった思考に喝を入れ、脆くなっていた覚悟を確固にする。

 失うものか、誰もーーー。私は守り切る。この娘も、この国の国民達も、皆ーーー!!

 冷たい風は感じない。

 しかし吐息は白く濁っている。

 バレルは既に止まらなかった。己の衝動を止める術を知らなかった。ただこの娘を守りたい。ラベルを死なせたくない。その一心のみの「想い」が体を突き動かしていた。

 

『援護射撃だ! 私が先陣を切る!』

「は!? ま、待ってくれよバレル!」

『お供いたしますわッ!』

 

 ラベルの声は聞こえなかった。風に揉み消されたのか、ただ聴覚がそれを拒否したのかーーー。

 叫ぶ我が娘の手を離して、バレルは機体を加速させた。付き従うと言った仲間の一人が、僅か後方から伴走してくるのを確認し、更にブースターの出力を上げた。後ろからラベルの声が聞こえくるようだったが、それはエンジンの音に掻き消されていて良く聞こえない。だが自分を呼び求める声だということは何となく予想出来た。

 ーーー構わぬ。

 己の専用機である《ギャレン》のパスロットから、拳に嵌め込むタイプの武装ーーーナックルを粒子構築して装着し、組み込んであるパワーロックの段階を全て解除した。それにより薄紫だった《ギャレン》の装甲が真っ赤に発熱し、夜空を赤色に染め上げる炎と化す。

 ロック解除による更なるエネルギーの上昇に、ブースターの稼働域を越えた《ギャレン》の全身が既に軋み始めているのが分かる。体にかかる圧力にグッと歯を食い縛ったバレルは、時間制限のゲームであると、それを不適に笑い、胸に留まっていた酸素を無理矢理吐き出した。

 味方の援護射撃の射線をなるべく避けながら、付き人の"サミット"と共に敵の姿を探す。仲間が割り出してくれた場所まで後少しだが、この距離ならばハイパーセンサーが反応を検出してくれる。ジャミングの効果は既に《ギャレン》が"克服"してくれたお陰で、ある程度は回復していた。だがまだ、本調子という訳ではないので、ここから先は人間本来の感覚に頼ることになるかもしれない。

 隣に並ぶサミットの横顔は曇っていた。どうやら彼女の方も、まだ敵の姿を探し出すことが出来ていないようだった。

 くそっ……!飛んできたミサイルを横殴りにする。後ろで、ミサイルが爆発した際に起きたであろう爆音が鼓膜に伝わる。

 視線を動かし、敵を探した。ハイパーセンサーも出来る限り使い、その姿を見つけ出そうと躍起になっている。

 

(あいつはどこだ!?)

 

 けれども兎は一向に見つけられない。

 それによる焦りが、バレルの視野を狭くする。

 だが、仲間というのはやはり頼もしいーーー。

 

「捉えましたっ! 東に向かって200です!」

 

 刹那ーーーブースターを爆発させて機体を駆らせた。ハイパーセンサーが反応を示し、幾重にも拡大化された『黒兎』の御姿がやっとこさバレルの瞳に映った。

 

「ーーー見つけだぞッ!! く・ろ・う・さ・ぎぃぃいいいあああああああアアアアアアッ!!!!」

 

 既に敵は眼前。限界を越えた《ギャレン》の加速度が、敵との距離を一息で詰めてくれる。

 拳はもう構えていた。全身が滾っていた。

 黒兎は動かない。いや、自分の稼働速度が速過ぎるのだ。軋む全身の骨格の痛みにそれが分かってしまう。

 だが、それでいい……ッ! 口内に溜まった血液の味に感想を漏らす暇などは無い。私がやるべきことはひとつだけだ。この引き絞った拳という一振りの太刀を、相手の胸に突き刺してやるだけ。それが、全てーーー!!

 バレルが放った拳は、黒兎の装甲を貫き、そして胸を容易く貫いた。音は後から聞こえてきた。腕から伝わってくる黒兎の血が、バレルに勝利を確信させた。

 しんと静まり返っていた。

 辺りは静寂を宿し、口を紡いでいた。

 ようやく聞こえてきたのは自分の呼吸。

 バレルは乾いた笑いを零した後、やり遂げた達成感と、急に全身を襲った疲労感に、黒兎を抱えたまま後ろに倒れ込んだ。体が足元にあった建物の屋上に落下した。

 

「あー……くっそ。ごめんな《ギャレン》……」

 

 半壊した《ギャレン》を撫で、バレルは微笑んだ。胸に乗る黒兎を横に退かして、専用機の展開を解く。そして耳のピアスの待機状態に戻った《ギャレン》が、全てをやり遂げたかのように形を崩した。バレルの耳から、ピアスが落ちたーーー。

 静かに瓦解したかつての相棒を拾い上げる。再び、光を発することのなくなったそれを、宝物にしようと思った。

 立ち上がり、顔を持ち上げた。天に昇る光の柱は、まだ姿を消してはいなかった。黒兎を倒せば元に戻ると思っていたが、違うのか。倒れる黒兎の骸を見下ろし、バレルは鼻を鳴らした。その時、黒兎が動いた気がしたので思わず身構えたが、少し経っても変化が無かった為、思い違いだと視線を逸らした。

 落ち着いた今だから思うが、何故このテロリストは世界を相手にしたのだろう。どうしたって叶わないことは誰にでも分かることの筈なのに、一体どうしてだ。そこまでISのコアが欲しかったのか? 確かに魅力的ではあるが、どうも腑に落ちない。この兎には、もっと別の望みがあるような気がするーーー

 いくら考えても思惟を汲み取れはできなかった。だからバレルはそれ以上の思考を止め、遠くを据えた。

 遥か向こう。手を振る少女が見えた。きっとラベルだ。ああ、あいつも随分と大きくなったな……。生意気なところは変わらないが、私に負けず劣らずの女らしさを手に入れたと思う。きっと学校でモテモテに違いない。あいつだっていつかは、結婚もするだろうしな……。

 込み上げてきた笑いに思わず噴き出す。

 結婚なんて、ずっと先のものだと思っていた。自分ですらまだそのイベントを体験していない。だからラベルもきっと、結婚なんてものと無縁と思っていた。が、どうだろうか。母親だからそう思ってしまうのか、それとも歳を重ね過ぎたからそう感じてしまうのか分からないが、子どもの成長というのは本当に速いものだと思う。

 

「あー……はやく娘の花嫁衣装ってやつを拝みたいよ」

 

 きっとあいつと結婚する奴は、宇宙一の幸せ者だ。

 微笑み、手を振った。ラベルは忙しなく口を動かし、大声を上げていた。しかし距離が距離なので、その言葉は聞こえない。だがまあいい。すぐにそっちに行くから、話なんていくらでも聞いてあげることができる。

 一歩踏み出し、笑顔を作った。まずは一匹だ。残るは白兎だけだ。だが、少しは休んでもいいだろう。猶予は無いといっても少しぐらいは大目に見てほしい。一人じゃない。休憩中の話し相手にラベルが欲しいな。

 そうして、笑いながら足を踏み出したその時ーーー初めてその違和感の存在に気が付いた。

 痛い、とても痛い……。

 視線を下げ、バレルを根元を見た。そこは胸だった。

 赤く、血塗れた体。

 胸から足にかけてまで、それは伸びている。

 これはなんだ……? 分からない、分からない。

 膝に力が入らなくなり、崩れ落ちた。震える両手で胸を触ってみると、嫌な感触が手のひらから伝わってきた。「あ」

 視界が揺れ、体は力を無くし、バレルは倒れた。カツン、とどこかで音が鳴った。きっとそれは、胸に刺さった「刀」の音に違いない。

 暗くなっていく視界に歯を食い縛ったが、どうしようもなかった。我が身は既に血を流し過ぎた所為か、全くと言っていいほど動いてくれない。

 薄れゆく意識の中、目の前に倒した筈の黒兎が現れた。ああ、そういうことか。だからバレルは最後の力を振り絞り、《ギャレン》の自爆装置を人知れず起動させ、ラベルの姿を思い浮かべた。




続きます
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