井伊月重吾の物語   作:名無しの執筆者

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終わり……かな?


井伊月 重吾 『後編』

 

 /僕の名前は

 

 爆発した。

 血が舞っている。

 僕を墜とし損ねた目の前の女性の姿は、もうどこにも存在していない。一瞬の閃光が目の前を埋め尽くした後、鮮明になった景色の中から消えていた。

 

 けれど、代わりに血があった。

 

 酷い臭いだ。鉄……いや、もっと不愉快な香り。僕の過敏な鼻が、否応無しにそれを吸い込み、感じさせてくる。

 と。そこで獣の雄叫びが鼓膜を震わせた。

 血濡れた手から顔を上げると、眼前に一発の弾丸が在った。

 ーーー呼吸すら忘れ、音すら途絶えたコンマの世界。

 僕はただそれのみを見つめ、見開き、そして躱した。

 キィン、と耳横を通り過ぎた弾丸は、背後へ遠ざかっていく。

 忘れていた息を取り戻し、極限まで絞られていた緊張感から胸を押さえた僕は、次いできた第二波のミサイルに目を細めた。

 数はそれほど多くはないが、それでもミサイルだ。一発でもどこかに着弾してしまえば、それこそ木っ端微塵である。

 一瞬だけ、先ほどの光景を硝煙と共に思い出した。血飛沫と共に消えた女性を脳裏に浮かべたーーー。

 彼女は一体、何故あんなことをしたのだろう。機体の自爆機能なんて、それこそ秘密保持の為のものだ。我が身を犠牲にする為のものではない。彼女だって、それを分かっていた筈だ。なのに"それ"を発動させたということは、彼女はーーーーー

 

 蘇った記憶に目を見開いた。

 そうだ、彼女の名前はバレルだ。バレル・コンソールだ。憶えている。憶えているとも。何度も助けられたことがある。人種が違えど、同じ人間だと言って、彼女はいつも立派だった。そうだ。僕は彼女ほど母性に溢れていた女性を知らない。あんなにも、志の高かった人を見たことがない。そうか……そうだったのか。僕はーーー"また"バレル・コンソールを殺してしまったのかーーー。

 

 そこで我に返り、僕は間近に迫ったミサイルを正面から受け止めた。大きな加速度で衝突してきたミサイルに運ばれ、遥か後方の瓦礫の山に叩き付けられ、未だブースターの燃料が尽きないミサイルの重圧に歯を噛み締めた。

 取り返しのつかないことをしてしまった。僕は、彼女を殺してしまった。ラベルとの談笑が、彼女は何より好きだと豪語していた。娘と共に過ごす時間が何より大切だと、微笑みながら教えてくれた。

 

 それなのに、僕はそれを奪った。

 結果を変える為に全てを捧げていたのに、それでも犯してしまった。また一人の親子の幸福を、幸福でない僕が奪ってしまった。

 嫌だ。こんなのは嫌だ。

 何故こうなる。僕は違っていたのか?

 この身を引き裂き、命と時間を充分にかけた。それなのにまだなのか? まだこの世界の運命は、対価を必要としているのか?

 

 ーーーカンッ。

 

 見えない場所で音が鳴った。と、同時に、我が身を押さえつけていたミサイルが膨れ上がり、そして爆散した。

 蒸せ返るような熱風だった。身体を襲った爆発の衝撃が、急激な速度で真下の大地を食い潰していく。視線を下げた先にあるのは焦土の地表。黒炭の地獄が、そこには広がっていた。

 いつの間にか倒れていたことに気が付いた僕は、激しく痛む身体を懸命に動かした。地面に手を着き立ち上がる。そこで気が付いたが、《黒鍵》の展開が解けてしまっていた。どうやら先ほどのミサイルで絶対防御が発動してしまい、全エネルギーを使い切ってしまったようだ。ああ……これじゃあもう、戦えないか。

 

 諦めだと思った。

 生きることへの諦めだと。

 思えばかなりの無茶をした。後先を考えずに走り回った。そうだ。全部僕の為だった。誰の為でもない。僕だけの、僕のたったひとつの望みの為だけに、世界を壊した。

 分かっている。

 分かっているとも。

 それが悪い事だってことは充分に分かっている。

 でも仕方ないじゃないか。それをしなくちゃ世界が終わってしまうんだ。無視なんて出来ないよ。みんなが死んでしまう"未来"なんて、変えるべきものじゃないか。大義だった。やるべきことだったんだ。誰でもない、罪人の僕自身がーーー。

 

 仰向けになり、飛び込んできた空は変わらずの暗雲だった。写し鏡の真っ黒だった。光が差し込む隙間すらない、絶対の雲の壁。恐ろしいほどの闇が、目の前に広がっていた。

 吐いた息は白かった。見つめた先は闇だった。

 腹部に感じる熱は、きっと痛みだろう。久しく感じていなかった人間の証を、僕はいま実感している。

 ああ、懐かしい。人間って、こんな感覚だったっけ?

 

「ふふっ……くふふふっ。あはははっ!」

 

 青年は笑った。

 嬉しくて笑った。

 夢が叶ったとーーー自分は人間であるとーーー笑う度に走る鈍痛に涙を流しながら、その実感を幸福だと泣き叫んだ。

 狂ってしまった? 違うさ。もう狂っている。

 世界の改革を任されたその日から、僕の破滅は決まっていたんだ。望んでいたんだ。怖いわけがないだろう?

 

 胸からの血は止まらない。バレルにやられた傷は、もう塞がることはない。胸の傷は初めてでないから、既に起こした奇跡は起こらない。今の僕はただ、流れ出る血の暖かさに嬉々と笑いながら、結末を待つのみの待ち人だ。死を待つ"ウサギ"だ。決まっている結末を、今か今かと心躍らせる観客の一人だ。

 

 笑いがどうしても止まらなかった。

 やっと報われる。そう思うと、どうしてもーーー。

 

 願ったものとは少し違う。予想よりも沢山の人を殺めてしまったし、街も景色もいっぱい壊した。残ったのは僕だけ。僕のこの、命だけだ。

 僅かに動く、弱々しい心臓の鼓動を、胸に手を当てて感じた。

 いつの間にこんなに弱り切っていたのだろう。若い頃が懐かしい。あの頃の僕は、いつも沢山の友達と、馬鹿みたい笑い合って過ごしていた。何気なくて暖かい日常の中で、皆との日々を謳歌していた。

 ーーー頬を伝ったものは涙。

 指先で掬い上げた雫が、天に昇る光の柱に負けず劣らずの輝きを放っているように見えた。

 細く微笑んだ僕は、静かに呟く。これで良かった、と。後悔なんてない、と。グシャグシャに濡れた視界の中で、こちらを見降ろす国家代表達の姿を見据えながら、掠れた声で力強く。

 

 国家代表の一人がこちらに銃口を向けていた。光の収束が伺える。どうやら既に弾込めは済んでいるらしい。ならばこちらも最後の仕上げの時だ。

 僕はボロボロのズボンのポケットから、この瞬間の為だけに残しておいた最後の薬品を取り出した。

 

『これを使えば、君は君でなくなるよ?』

 

 母はこれを僕に渡す時、そう言っていた。

 応ともさ。これが危険な劇薬だというのは分かっている。けれどこれが幕引きの為の鍵なんだ。だからどうか、僕の最後の足掻きを見届けていてよ、母さんーーー。

 僕は薬品を握り締め、口の中に入れて飲み込んだ。そして次第に薄暗くなっていく視界の中、僕は最後まで空を眺め続ける。

 

 かちりーーー。

 

 そしてどこかでまた、スイッチの音が聞こえた。

 

 ◆

 

 時間はどれくらい経っているのだろう。

 空を突き抜ける"光の柱"は、依然異様さを保ったまま、落雷を周囲に落とし続けている。

 視界にある光源はその光の柱と、僅かに残っている火災の残りカスのみだった。嫌な光である。

 ナターシャは顔を顰め、そして視線を真下に落とした。

 隣には国家代表達が円になって、下で倒れている黒兎を見下ろしていた。それぞれが神妙な表情をしている。誰も黒兎の元に近付こうとしていないのは、奴がまだ生きているのではないか?という恐れがあるからだろう。

 ナターシャだってそうだった。近付いた瞬間に、もしかすると反撃されるかもしれないという疑惑がある。だから死亡を確認したくても、それができなかった。

 ちらり、と視線を動かし、向かい側の少女を見た。ラベルだ。

 彼女ははたから見ても分かるほど、気持ちを消沈させていた。それもそうだろう。黒兎を狩る為に先行した女性、バレル・コンソールが死んだのだ。死体が無いのは、黒兎を堕とせる可能性を作ってくれた自爆の所為だ。ラベルとバレルは血は繋がっていないにしても、親子だった。見るたびに喧嘩をしている姿が伺えたが、それでも彼女達の間に確かな"信頼"が存在しているのは知っていた。

 

「……あのボロ切れ……どうする?」

 

 静かに耳打ちしてきたシャララ・ザバス。

 国家代表の一人である彼女の意見に、ナターシャは唸った。

 

「拘束するにも、彼奴は死にかけ。塵をコレクションする趣味など……私にはない。さっさと燃やすのが最とみる」

「……同意」

「恨み心で悪いですが、手を挙げましょう」

 

 それぞれが口にする思い。

 ナターシャは耳に伝わるそれらを飲み込み、さらに頭を悩ませた。

 現在、司令塔であったバレルはいない。代わる誰かが指揮をとっている訳でもなく、実質今はそれぞれの独断のみで行動していた。

 統計が麻痺している訳ではなかったが、やはりどこか決断力に欠けていた。死にかけのテロリストなど、どうすることが先決かすぐに判明している筈なのに、未だそれをしようとしていないのが何よりの証拠である。

 小さく息を吐いたナターシャは、その踏み込みが出来ない人間に自分も含まれていることに、どうしようもなさを感じた。

 

「二時間経過。黙祷を捧げましょう」

 

 シャララ・ドールがそう言って胸に手を置き、静かに瞼を閉じて口を結んだ。

 ナターシャは迷ったが、手を出す領域ではないと踏み留まり、押し込んだ同情を焼却した。

 

「うぐ……ひっぐ。バレルぅ……なんで死んじゃったんだよ馬鹿野郎……うぅ。私の……花嫁姿、見たいって……言ってたじゃんかよぉ……」

 

 けれど、あのような少女の嗚咽を見てしまうと、体が勝手に動いてしまう。

 真似するように胸に手をやったナターシャは、何も言わずに祈りを行った。簡単な仕草での祈りだったが、それでもしないよりかはマシだと思った。

 シャララやナターシャの姿に反応したのか、他の国家代表達も思い思いの黙祷を捧げ始める。泣きじゃくる少女を残しての黙祷は、静かでーーーそれでいて多少の怒りを孕んでいるように感じた。

 

「死者への手向けではありませんわ」

「サミット……」

 

 呟いたのは、バレルの特攻を最後まで見届けたサミットであった。その顔は険しく、そして暗い。

 

「貴女は勇敢でしたよ」

「勇敢とは、何かを成し遂げた者にこそ贈られるべき賞賛ですわ。私は何も出来なかった……。褒め称えられるに値しない人間です」

 

 それは違うと思った。

 彼女のおかげで、黒兎を見つけることができ、そして葬ることが出来たのだ。全ての責任が、彼女にあるというのはどこか違う。むしろ責め立てられるべき者は、ここでこうして黙祷を捧げている、自分を含めての人間だ。

 

「……私、少し彼女と話をしてきます」

「ラベルちゃんですか? 今はやめておいたほうが……」

 

 サミットの言葉をやんわりと断り、ナターシャは機体を滑らせラベルの元に近付く。

 顔を覗き込むと、ラベルの表情はやはり重い。

 ナターシャは一瞬口を歪めたが、ラベルの顎に溜まった涙に気付いた途端、胸の内にしまっていた言葉が自然と出てきた。

 

「ラベルちゃん。こっちにいらっしゃい」

 

 そう優しく語りかけると、ラベルはゆっくりと機体を反転させながら、ナターシャの胸に頭を寄せた。

 それが堪らなく愛おしくなって、ナターシャは彼女の頭をしっかりと抱いてあげる。

 

「バレルが……死んじまった」

 

 震えるラベルの声。

 ナターシャは、静かに耳を傾けた。

 

「ずっと一緒に居てくれるって約束してたのに……なんでなんだよちくしょう……」

 

 きっと彼女は今、どうしようもないんだろう。孤児だった自分が初めて手に入れた居場所が、突然に居なくなってしまったことが、どうしようもなくなっているのだろう。

 ナターシャは躊躇った。彼女に同情することを。どこまで彼女の心に踏み入ればいいのか、分からなかった。

 

「……大丈夫。大丈夫だから……ね?」

 

 そう諭すしかなかった。

 母親ではないナターシャ・ファイルスは、胸に浮かんでくる質素な言葉をただ並べ続ける。

 ラベルが俯きがちだった顔を上げ、こちらを覗き込んできた。目に溜まったその涙に、心臓を刺されたような痛みが駆け抜ける。

 

 ああ、なんて可哀想な娘……。

 

 きっと彼女はこれからの人生、この理不尽な悲しみを胸に抱いたまま、大人になっていくんだろう。そしてそれを処理し切れず、待ち受ける孤独と戦わなければならないのだ。

 それはなんて地獄の苦しみだ。そしてそれが計り知れないからこそ、非情なまでに無視したいと思ってしまう。彼女の心に踏み入りたくないと、悪い考えに身を委ねてしまいそうになる。

 

「……」

 

 だがそれは人間の考えだ。

 怖いと感じてしまうのは、彼女だからだ。

 ナターシャは躊躇ったが、それでも頭を撫で続け、そして甘えさせた。それしか出来なかったからではなく、それをしたいと思ったからだ。

 この行為は同情ではないと思っている。この、彼女に対して自分が行っているものは、無意識に似た本能的慈愛だ。優しさとはまた別の、「母性」から溢れる女の性なのだ。

 

「ラベルちゃん。大丈夫、大丈夫よ? 大丈夫。私達がちゃんと側にいてあげるから。貴女を絶対に一人にさせないから」

 

 そう語りかけ、返ってきたラベルの小さな「ありがと」という言葉が、ナターシャの心を決めた。

 ナターシャ・ファイルスは半ば無意識に、彼女を我が子だと錯覚してしまった。

 

 ーーーその時だった。

 

 突如鳴り響いた、かちりというスイッチの音。

 顔を向けたその先に、実態の見えない「黒い」何かが、地上にうずくまっていた。

 

「あれは……なに?」

「……怖い」

 

 胸に抱くラベルが、小さな力で腕を握ってきた。それにナターシャはハッとし、彼女の身体をさらに抱き寄せる。

 

 黒い何かは、その全体を靄のような蜃気楼で包んでいた。だから目を凝らしても詳細が分からず、ハイパーセンサーを駆使しても鮮明に見ることができなかった。

 ナターシャはラベルの為になるべく心を乱さぬようにしていたが、それは少し難しかった。

 予想ではあるが、あれは黒兎なのだ。靄がかかって判別できないにしても、あの漆黒のカラーリングは他に思いつかない。

 死んでいた筈だが、いったい何故立ち上がっている。確かに死亡確認はしていなかったが、はたから見たあの姿は、完全に死者のものだった。狸寝入りをしていた? いや、そんな訳はない。だが、それ以外の説明ができるのか?

 

「な、なあ……大丈夫かよ?」

 

 気付かぬうちに己の不安が表出ていたらしく、ラベルが震えた声を上げてこちらを見てきた。

 しまったと思ったナターシャは、笑顔をつくって彼女の頭を撫で、そして安心させるように言った。「少し待っててね」

 

「……わかったよ」

 

 暗い面持ちだったが、それでも先ほどよりかは幾分かマシな顔になっていた。

 彼女は今、国家代表としての威厳を取り戻しつつあった。

 それに頼もしさを感じつつも、やはり不安があったナターシャは、自分でもぎこちないと思う笑みを浮かべた。心のどこかが騒ついていたーーー。

 

「あれは黒兎?」

「静まっていた屍でしたが、どうやら目を覚ましてしまったらしいです。ずっと見ていましたが、奴は本当に死の淵から蘇ってしまったらしい」

 

 シャララの言葉に息を飲んだナターシャは、各人に告げた。

 

「あれから目を離しちゃ駄目。既にジャマーがかけられるているわ。もし見失えば、二度目の命懸けをしなければならないことになる……」

 

 つかの間も無く、それに皆が返事を返した。

 一人の命が無くなったことが、皆の神経を尖らせているらしい。

 

「……気持ち悪いですわね」

「うちのダディもたまにあんな風になるよ?」

「否、それは人間の括りでは無し」

 

 空と地上。地上と空ーーー。

 俯瞰する大地に佇む悪魔の姿は異様の一言。

 張り付く喉の渇きに唾を飲み、目を見開くのはナターシャ・ファイルスだけではない。ここに存在する人間達が皆、殺されそうな緊張感の中で生きていた。

 

 あれは本当に黒兎なの?

 

 皆が口を揃えて言うーーーあれは黒兎だと。

 しかし黒兎の邪悪さは、もっとまともなものだった気がするのだ。悪に"まとも"もクソもないが、それでも芯の通った野望で動く悪役だったと。

 だからいま目の前で佇む「あれ」が、どうしても黒兎だとは思えなかった。あの、黒く深くーーーそして人間の本性を全面に押し出したような生き物のことが、同じ人間だと識別することが嫌だと感じた。

 

 嫌悪感とはまた違う……そう、恐怖。隠すつもりもないわ。私はいま、あの怪物を怖がっている。

 

 確かめるまでもなく、腕に鳥肌が立っていた。

 視線を動かし、背後にいるラベルを見る。

 

「ラベルちゃん。少し、離れていてくれる?」

「え……?」

「大丈夫。お姉さん達は強いから」

「ま、待てよ……! 戦うんだろ? なら私も一緒に戦うっ。みんなで戦えば、あんな奴なんて……!」

 

 と。そこで意外な人物が彼女を制した。

 

「ここは大人しく引き下がっていただきたい。貴方のような子どもは、ここにいるだけ邪魔になる」

 

 黒い眼帯に切れ長の眼。

 ラベルを押し留めたのは、クラリッサ・ハルフォーフ。

 今までどこにいたのか、突如現れた彼女に、ナターシャを含めた国家代表達が驚いた。

 

「なんだと!?」

 

 そのクラリッサの言葉に腹が立ったのか、ラベルが震えた声で怒声を上げた。しかしその怒りは、クラリッサの心を乱すことも変えることもなかった。

 

「下がれと言った」

「な、なんだよ……! 何なんだよテメエはよ! バレルでもないのに……親でもないのに私に指図すんな!!」

 

 少女の溢れ出した激昂は空を抜け、人の間を抜け、そしてーーー

 

『ーーーーー皆殺しだ』

 

 平穏だった黒兎を触発させた。

 

(動き始めた!?)

 

 それに皆が憤った。静かにだ。

 弾けたように振り返り、動き出した黒兎を見た。というよりも見なければならなかった。なぜなら既に行っていたから。ーーー殺人を。人の所業に外れた行為を、黒兎がしてしまっていたから見るしかなかった。

 

 誰かが叫ぶ。

 時が動き出す。

 

 ラベルは悲鳴を上げ、クラリッサはそんな彼女を背中で隠した。

 ナターシャは身の内から溢れ出る得体の知れない感覚に歯を食い縛り、思考も定まらないまま《シルバリオ・ゴスペル》を滑らせる。このままでは殺されてしまう。そう思ったからの防衛本能だった。

 

(ありえない。こいつ、黒兎じゃない!)

 

 手が震えていた。

 ナターシャ・ファイルスは黒兎に対して、過剰なまでの恐怖を感じていた。

 見れば、周りの者も同じである。

 思考が伝播したかのように、皆の表情は共に凍りつき、そして顔を歪ませているーーー。

 

 一陣の風が吹き、両者の中を通り過ぎた。

 眼を見開き、逃すまいと黒兎を捉えていたナターシャは、そこで黒兎の体周りに漂っていた靄が晴れていることに気が付く。邪魔だった霞がようやく晴れ、露わになった黒兎のその姿はやはり漆黒に塗り潰されていた。

 

 黒兎が動きをとり、さらなる緊張が駆け抜ける。

 背面のバーニアを点火させ、先ほど殺めた国家代表代表の女性を放り投げた黒兎が、ゆっくりと上昇し始めた。黒塗りのフェイスマスクには兎のような赤い切れ長のアイセンサーが二つ宿っており、それが嫌な不気味さを醸し出していた。

 戦争が始まるーーー。

 何故だかそんな気がしてならなかった。

 それはとても小さな戦争で、沢山の人が死ぬ戦争。

 優しさなんて概念は存在していなくて、ただ死が広がるだけの世界が創り上げられるのだ。

 

 考えるだけで汗が噴き出す。なんて地獄なんだろう、と。

 

「ーーー殺気! 彼奴、来るッ!」

 

 灰色の専用機に身を包んだシリクが、まるで日本武士のような覇気のある声色でそう告げた。

 桁違いの暴威の風が尖った神経を削り取る。

 一触即発に似た空気の波が闘争本能を掻き立てた。

 まず動いたのは黒兎だった。

 黒兎は柔軟な動作で跳躍しながら、両手に構えたアサルトライフルを四方八方に乱射する。規則性は無く、奴の発射した弾丸は嵐の如く被害を及ぼすものだった。

 ナターシャは苛立たしいと思った。

 例えるならば羽虫だろう。

 ISに対し、通常兵器は無意味な玩具だ。だが当たれば当然衝撃が伝わるし、感覚もある。なんでもない些細な感触だが、それが逆に苛立たしいのだ。まるで体が、数多の羽虫に纏わり付かれているような嫌な感覚を感じてしまう。

 《シルバリオ・ゴスペル》は主人を守る為、今も誠実にエネルギーシールドを張り続けていた。

 ナターシャはエネルギーの残量を確認し、まだ余裕があることを良しとし、未だアサルトライフルを乱射する黒兎に手の平をかざした。

 照準を定め、手の平にエネルギーを集中させる。

 黒兎の動きを止めるには、どんな些細な攻撃でも良いのだ。あれはただ周囲を威嚇しているだけの遠吠えであるから、何かの引き金がいる。

 充填させたエネルギーの塊を発射する。するとそれを察知した黒兎の動きがやはり止まり、放ったエネルギー弾に向かってアサルトライフル本体を投げつけるという行動をとった。

 放たれたエネルギー弾と、投げられたアサルトライフルがぶつかり合い、一瞬の閃光と共に火球が出来上がる。

 網膜を刺激した光の波長に顔を顰めたナターシャだが、目映い閃光の眩みに乗じて機体を加速し、黒兎の認識外であろう真下から背後に滑り込んだ。急な加速による血液の圧迫が身体中の血管を膨らませ、自ずと顔が歪む。

 スライドしていく景色の奔流だけが頼りの視界に、不自然な塊が映り込んだ瞬間ーーー手を出した。もはや癖のような動作であったが、何千何万と戦いを行ってきた者の勘は、馬鹿にできない鋭さを持っている。この、突き出した両手が掴む黒兎の腕が、それの何よりの証拠だ。

 

「ーーーな……っ⁉︎」

 

 しかし突如、その握っていた腕だけではなく、黒兎自身が霧のように霧散するという嘘のような光景を目の当たりにし、ナターシャはまるで夢見心地のような気分を味あわされた。

 視線をいくら動かしても黒兎の姿は無く、虚しい感覚だけが手の平に残っている。いまだどういうことなのか理解が及ばず、まともな思考が定まらなかった。

 その時、不自然な違和感を背中に感じた為、ナターシャは微かに右に避けた。するとそのすぐ後に、何が顔の隣を横切っていく風を感じた。

 疑問に眉を寄せたナターシャが後ろに振り返ると、そこには黒が広がっていた。もっと正確に言うと、眼前に黒兎の健脚が接近していた。

 ーーー後ろにいた……っ⁉︎

 答えも見出せぬまま、もはや避けられぬ距離にまで迫ってきていた蹴りを喰らい、ぐわんと揺れた視界に呻く。しかしこのままでは最悪堕とされてしまう懸念もある為、ナターシャは続けざまにくるであろう第二波に備えてガードの構えをとった。

 が、その危機を仲間達が援護射撃で防いでくれる。

 ナターシャは間一髪で脱出し、黒兎から大きく離れた。その瞬間にとてつもない安堵感が体を襲い、心臓が激しく動き出す。

 

(殺されるところだった……っ。駄目、勝てない。あれは完全に前の黒兎とは別物の何かだーーー。何があったのかは分からないけれど、このままではやられる……)

 

 そうだ。

 親友のファイルスだってやられてしまっている。一筋縄でいかない相手だというのは、初めから知っていたことではないか。

 胸の辺りにある痛みに喉を鳴らしたナターシャは、仲間が続ける射撃を難なく躱している黒兎を見据えた。

 おぞまいしいと思う。

 あれが人間であるならば、私たちは一体何者なんだろうと考えてしまった。

 あれは紛れもない怪物だ。怪物に成ってしまった人間だ。

 怪物を倒すのは人間だ。しかしそれは勇者として崇められる人間だけの特権だ。だから英雄でないものには倒せない。あの極限まで破綻した黒の怪物を、打ち取るビジョンが浮かばない。

 

「なら、チームワークか」

 

 上等ーーーペロリと下唇を舐めたナターシャは、周りの仲間に目配せした。すると同じ考えを持っていたのか、数人と目が合った。

 エネルギー残量を確認すると、まだ余裕はあった。

 ナターシャは目が合った仲間にサインを送り、自分は接近戦、貴方達は援護ーーーとの提案を出してみる。他国の人間に命令されるなど憤慨ものだと思うが、どうだろうか。

 少しだけ不安があったナターシャだったが、提案に対しての頷きが返ってきたことでそれも無くなる。

 手のひらを数回握り締め、再び黒兎と対峙する確認を決めたナターシャは、何も言わずにイーリスから借りてきてしまったコンバットナイフを《シルバリオ・ゴスペル》のパスロットから取り出した。イーリスが訓練後にいつも綺麗に磨き上げていたそのコンバットナイフは、夜の色を吸い込んで、黒兎に負けない漆黒さで刃を塗り潰している。

 それを強く握り締め、ナターシャは大きく息を吸い込む。

 そして弾けたような空中を滑り、《シルバリオ・ゴスペル》と共に前衛へ躍り出たーーー。

 

「ふっ!」

 

 一息で抜いたナイフの太刀筋。

 それはまるで暗闇の閃光。

 黒兎の籠手に防がれ、火花を散らしたその一瞬が、まるで酷く長いように感じる。

 黒兎からの反撃は以外も以外、無かった。

 ナターシャはそれに違和感を覚えつつも、攻撃の手を緩めず、仲間の射撃により行動が制御されている黒兎に蹴りを見舞う。

 また反撃が無し。ーーー違和感が強まっていく。

 口を引き締めたナターシャは、続けざまにナイフを一線する。少しの焦りが表に出たのか、繰り出した斬撃の太刀筋が、目に見えて弱かった。

 

「ーーーーーく」

 

 白羽取られたナイフを引っ張られ、ナターシャは状態を崩される。

 このままではマズイと思いつつも、友人から借りたナイフを奪われたくないという気持ちに悩まされたナターシャは、グリップを握る手を離すに離せなかった。

 そうしている間に、黒兎が放った拳をまともに受け、不快な鉄の味を感じながら顔を仰け反らせる。

 ナターシャはグッと歯を噛み締めながら、その痛みに耐えた。

 離せしなさいーーー今度はこちらがナイフの握り手を強く引っ張り、黒兎を引き寄せる。だが上手くはいかなかった。黒兎が逆にその力を利用し、さらに強力な拳を放ってきたのだ。

 しかし好機ーーー。

 ナターシャはそれを寸でで躱し、黒兎に近付いた。そして体に抱き付いて羽交い締めにし、あらかじめ充填させておいたエネルギーの塊を零距離でぶつける。

 こちらにも被害が及んだが、腹が焼けた程度である。

 ナターシャは黒兎を蹴飛ばして離れ、ずっと掴まれていたナイフが無事かを確かめた。

 

「畳み掛けろ!」

 

 誰かの声が響き、より激しい射撃が黒兎を蹂躙した。

 ナターシャもそれに便乗して射撃を始める。

 赤青黄色の火花が散るが、全くもって心踊らない。

 戦火の花火など見ても、胸が締め付けられるだけである。

 戦いが始まって二時間ほどかーーーーー

 周りを見渡すと、焦土だけがある。焦げ臭い炭の香りと、仄かに香る肉の焼けたような臭いも。

 来るべき時がきたのだと、思った。

 ようやく敵が殺せる。そう考えると元気が出た。

 非情であるが故の高揚なのかもしれない。

 散々苦しめられてきた。友人も傷付けられた。

 他国の者達だってそうだ。皆、国を焼かれ、人を焼かれ、親愛者を焼かれている。ここにいる国家代表達全員が、それを味わっている。

 だから射撃を止めていない。

 黒兎はきっと死んだ。数多の銃弾に貫かれたはずだ。

 けれど皆がトリガーを押し続けるのは私情があるからだ。「恨み」という名の私情に心が埋め尽くされているから、ずっとずっとーーーずっと狂っている。

 

「ーーーーー嫌いよ、こんなの……」

 

 呟いた言葉よりも、銃撃の音の方が大きかった。

 ナターシャはついと視線を動かし、空を見た。

 真っ黒な空である。この黒が全て黒煙なのだと思うと、どれほどの戦争をしたのかを認識させられる。

 今度はかざす手に視線を移した。

 白塗りの装甲で包まれた手は煤に汚れ、黒に染まっていた。汚れなんてつけたことはなかった。訓練、戦いーーーそれが終わってもいつも白銀の輝きは損なわれていなかった。

 

 なのにーーーどうしてこんなに汚れてしまった?

 

 目映い輝きが周囲を照らす。それが戦火でなければ、なんて綺麗だと感じたことか。

 

 それはーーー酷い戦いをしたから。

 

 ナターシャはギュッと瞼を瞑り、そして開いた。視界を何度も刺激する光が、あまりにも眩しく、そして辛かった。

 

 汚いーーー貴方を汚したのは誰なの?

 

 ーーーいつの間にか音が止んでいた。

 見ると、皆が射撃を止めている。肩を上下させて息を吐き、表情を酷いものにして汗を垂れ流している。

 ナターシャはそこでようやく気付いた。戦いが終わったことを。《シルバリオ・ゴスペル》のエネルギーが底をついていることを、目覚めた思考によってようやく気付いた。

 手を降ろす。

 手のひらを見る。

 やはり銀の鎧は黒く汚れていて、鈍い輝きしか放っていない。

 周りを見渡し、世界を見渡すと、途端ーーー涙が溢れてきた。悲しくもないのに、涙が溢れてきた。

 

「終わった……。仇を……とった」

 

 黒兎は、もはや形を成していないほど崩れていた。周りに弾痕の跡が拡がっている。それはまるで祭壇に捧げられた花束のように、黒兎の骸を飾っていた。

 専用機を解いたナターシャは、ゆっくりと地面に足をつけた。

 久しぶりの大地を踏む感覚が、何故だか不思議に落ち着く。人間が感じる感覚が、凄く心地良いと思った。

 

 一歩、二歩。

 

 静かに黒兎の亡き骸に歩み寄る。

 次第に大きくなっていく黒兎は、やはり形を成していない。

 

「ーーーーー……貴方の人生は……正しいものだった?」

 

 片膝をつき、そして問いかけた。目の前の兎に。

 ナターシャは、続けて問いかけた。

 

「どうして、世界を?」

 

 愚問かなーーーと思った。

 けれど問わねならないとも思った。

 世界とは、それこそ人類の宝だ。

 悪人であれ大悪人であれ、世界を壊すなんて夢は狂言だと笑うに違いない。それこそたった一人の戦争であれば、腹を抱えて破顔するだろう。

 だけれどーーーけれどもーーーこの者はそれをした。してみせた。国を壊し、コアを奪い、実質世界を壊したに等しい「悪」を達成させた。

 きっとここにいる者達は口を揃えてこれを言う。未だかつて、こんなにも世界を揺るがせた人間は、"篠ノ之束"を除いて他には存在しない、と。畏怖を込めて言う。

 考えれば考えるほど、ナターシャの問答は深まった。

 どうしても黒兎の野望というものが解らない。

 強い望みだったということは、行動で示していた。

 だけどその本懐まではどうしたって解らなかった。

 

 己の為?

 誰かの為?

 それとも死を躊躇わない程のーーー

 

「貴方はとっても……悲しい人ね」

 

 ーーー好きな人がいたからなのかもしれない。

 

 かちり。

 

 そしてどこかで、スイッチの音が聞こえた。

 

 ◆

 

 それは確かにスイッチの音であった。

 家の電気を点けるような、小気味の良い音だ。

 穏やかな音だが、それ故不気味でもあった。戦場の中で聞こえたその音は、こんな地獄で鳴るような音ではないから、ぞわりと寒肌が立った。

 気持ちが悪かった。吐き気もある。視界は歪んでいてよく見えないし、地上に立っている感覚もどこかおかしい。まるで見ている世界全てが「偽物」であるかのような矛盾感が、頭の片隅で叫んでいる。

 手のひらを見た。次いで、胸を見た。

 すると、どうだろうか。手で触れた胸の中心に、ぽっかりとした穴が開いているではないか。不思議だ。井戸の底のような穴だ。

 引き攣った声を上げる。少しのパニックに陥った。

 何が起きている? 私は夢でもみているのーーー?

 その時、胸の穴がさらに広がり始め、じわじわと首元辺りまでせり上がってきた。というよりも胸がドロドロと溶け始め、まるで泥のように肉体が崩れだしていた。

 ナターシャは目を疑った。だってこんなの普通じゃない。ドッキリだとかで済まさなければ、冗談でも笑えない。

 手で触れてみると、ズブリと胸に指が入り込んだ。慌てて引っ込めると、胸に指が入った跡が残り、ナターシャは気持ちが悪くなった。指先を見ると、そこには謎の液体が付着していて、ぞわりと寒肌が騒いだ。

 理解しようとしても及ばず、思考だけが掻き乱れていく。

 声を上げようにも、既に溶けてしまった喉では悲鳴を上げることも叶わないし、立ち上がることも出来やしない。

 ナターシャは、もはや何をしたいのかも分からなくなっていた。これは夢であると何度考えたことだろう。自分の体が溶けていくなんて、悪夢以外の何でもない。趣味の悪いB級映画みたいに不愉快である。

 ナターシャは微妙な感覚の体感で、自分の肉体を成しているのが頭だけになっていることを悟った。けれどどうやら、眼球まで溶け始めているらしい。目に映る景色が自分の体みたいに、ドロドロに見える。

 べちゃべちゃの肉が周りに散らばる。

 いや、気持ち悪い。気持ち悪いーーー!

 言葉を成さないその悲鳴が、唯一の感情。

 ナターシャ・ファイルスは己が世界の中から消えゆく感覚に怯え、そして死にたくないと願う。

 嫌だ、誰か助けてーーー!

 助けを乞うたその際に浮かんだものは、親友のイーリス・コーリングでもなく、独特の雰囲気を好きだと感じた、「彼」の顔だった。助けて欲しいと、彼を想いながら思った。

 なぜ彼なのだろう?

 ふと考えたが、今はどうでもよかった。縋るものができた。その事実だけで満足できた。

 怖いものを退けてくれる光。まるでおとぎの国の王子様。

 崩れゆく視界に最後に映ったのは暗闇だけ。けれど不思議と怖いとは思わない。まるでずっとこの時を待っていたかのような渇望や胸の踊りで、心が湧き上がってくる。

 ナターシャは安堵した。もう一人じゃないと感じたからだ。

 

 あれ? 私……何で怖がっていたの?

 

 そして感じた小さな疑問。

 ナターシャはああそうか、と思った。

 

「そうだ……一人じゃないんだった!」

 

 あはは、と声が聞こえた。

 

 ーーーそうだよ。僕がいるよ?

 

 でもそれは楽しそうじゃなくて、

 

 ーーーだからもう、おやすみをしようか。

 

 なぜだかとっても、悲しそうな声だった。

 

「見て見てイーリ! ほら、こんなにも星が綺麗っ」

 

 ああ、明日はどんなーーー楽しいことがあるのかな。

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ーーーーーーーーーーーーーーー

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 ーーーーーーーーー

 ーーーーーー

 ーーー

 

 /僕の夢

 

『僕の夢は、世界を平和にする事です。』

 

 馬鹿みたいにそう言ったそれを、僕はずっと忘れずに生きてきた。お母さんがあんなのだからこそなのかな? でも正しいことは良いことだって言っていた人がいたから、僕はそれを誇らしいと思っていたし、みんなの喜ぶ顔が見たかったんだ。

 

 

「ーーーーーッ……!!」

 

 

 ずっとずっと戦ってきたんだ。

 刃折れの剣で、汚れた手でーーー戦ってきたんだ。

 報われたし、それに見合う幸せも掴めた。友達は笑い、彼女も褒めてくれ、みんなが僕を英雄だと呼んでくれた。

 

 そう、嬉しかった。

 けれど何より、彼女との間に出来た子ども。それの、小さな小さなーーー本当に小さな手に握り締められた時が、一番嬉しかった。

 この世界に産まれた時から、ずっと誰かの為だけに戦ってきた。僕の為じゃない、誰かの為にだ。

 馬鹿と怒られた。やめろと殴られた。けれどそれを、嬉しいと感じてくれるみんなだったから、僕はそれをやり続けた。

 

 

「ーーーーーっあ……がぁッ」

 

 

 自分の望みなんてない。

 誰かが幸せになれば、僕も幸せ。

 それで僕の世界は成り立っていた。

 

 けれど家族ができて、子どもが産まれて、そこでようやく僕は気付けた。幸せの認識が間違っていたことに。今までやってきていたことが、全部自分の幸せじゃなかったことに、ようやく気が付けた。

 

 

「ーーーーーうわぁぁアアアッ!」

 

 

 だけどそれが、いけないことだった訳がない。人の為に生きたこと。それ自体は紛れもない幸せで、僕やみんなの幸せになっていたことは分かりきっていた。間違っていたのはその考え方だけで、僕は何一つ後悔なんてものはしなかった。

 

 だってほら、僕には家族ができたんだから。小さな幸せでも分かち合える家族が、僕にできたんだから、もう後悔なんて馬鹿げたことはしないんだ。

 

 これからは、この家族の為に生きていく。

 

 それが、この僕の新しい幸せーーーーー

 

 

「ーーーーーみんな……ごめんなさい……っ」

 

 

 だと、思っていたのに。やっと幸せになれた僕を待っていたのはーーーーーばらばらと壊れていく、たったひとつの世界だったんだ。

 

 

 

 /終わりの物語

 

「殺してください」

 

 そう懇願すると、目の女性が刀を抜いた。

 すらっと伸びた刀の刀身に、自分の姿が映る。

 黒い髪をなびかせる女性は、その切れ長の瞳をこちらに向け、抑揚のない静かな声で短く呟いた。

 

「ああ、死ね」

 

 と。

 

 数分前、突如現れたこの女性は、圧倒的な強さで戦況を塗り替えた。国家代表達でも叶わなかった黒兎を、有無を言わせぬ攻撃でねじ伏せた。

 

 でも少しおそかったね。目的はもう達成したよ。

 

 《黒鍵》のワールド・パージによって昏睡している国家代表達の姿を見る。皆、専用機を奪われて倒れている。

 やったのは自分だ。

 長い時間をかけて、ここまできた。そしてようやく、願いも叶うーーーーー

 

 女性が刀を掲げ、そして薙いだ。

 刃は我が身を削り、そして貫く。

 胸の中心を貫かれたようだが、やはり感覚はなく、痛いとは感じない。ただ胸の辺りに少しの違和感と、圧を感じるだけ。悲鳴なんて上げられるわけがない。

 

「……っ」

 

 女性が腕に力を込めたのが伺えた。

 真っ直ぐな刀身の刀が、さらに胸を穿つ。

 口から何かが溢れた。それはきっと血だろう。喉を込み上げてくるその感覚にはとても覚えがあるから分かる。

 口元から血が落ちた。一滴、二滴。

 胸に刺さる刀の刀身は、なんて綺麗なんだろう。

 いままで見てきたどんな剣よりも、この"雪片"は美しい。

 バチンーーーと音が轟いた。すると、鳴り渡っていた雷鳴もはたと止んだ。

 

 よかった。無事に終わったみたいだ。

 

「光の柱が……消えた」

 

 女性の言葉に微笑む。

 ああ、よかった。よかった、とーーー

 あの忌々しい光の柱は目に悪いんだ。

 瞼がとても重く感じる。きっと死に近付いているから、こんなにも眠いんだろうな。

 半眼が僅かに捉えるものは、こちらに視線を戻した女性。

 やっぱりこの人には、黒が似合うなぁ……。

 はは、と微かに笑った瞬間に、胸の刀が前に動いた。より深く、雪片の刃が胸の内へ突き進んでいく。

 ヨロヨロと後ろに下がると、女性も前に進んだ。

 カツンと音が鳴った。どうやら建物の壁の瓦礫と雪片が接触したらしい。こんなにも深く突き刺しているから、後ろの壁にまで到達している。これでは身動きがとれない。

 まるで十字架に磔にされた死刑囚だな。はは、ちょっと皮肉かもね。

 微睡みに落ちる瞬間のようにぼやけ始めた視界に、とうとう終わりを感じた。

 体中は血にまみれていて、艶やかなワインのよう。流れ過ぎた血液を輸血するには、もう遅過ぎる状態である。

 

 女性が雪片を離し、少し離れた。

 相変わらず雪片は胸に刺さったままだが、もはや引き抜く元気も残っていない。綺麗な刀身が赤に染まっているのは、なんだかとても嫌だった。

 

「……」

 

 女性が手を伸ばしてきて、頭を掴んでくる。

 きっと、世界をぐしゃぐしゃにした黒兎の顔を、最後に拝んでおきたいと思ったのだろう。

 

 ーーーけれど、それだけは駄目だ。

 

 もはや感覚の無くなった腕だったが、必死で動かした。動かして女性の手を掴み、その行く先を何とか止める。

 だが、それを女性は許さなかった。

 女性はもう片方の腕を動かし、雪片を掴んで押し込んだ。ぐいぐいと入り込んでくる雪片の刀身に、口内で残っていた血を無理矢理吐き出さされる。

 抵抗虚しく、頭を掴まれ、うな垂れた。

 心臓の鼓動はもう、鳴っていなかった。

 けれど意識は微かにあって、最後まで女性を見続ける。

 

「……死んだか」

 

 ううん。まだ死んでないよ。まだ少しだけ、起きていたい。

 女性は腕に力を込め、そして強引な力で仮面を剥いできた。それと同時に、視界が真っ暗に暗転し、何も感じなくなった。けれど最後に聞こえたものがあった。それは、

 

「ーーーーー井伊月……なのか……?」

 

 今にも泣き出しそうな、"織斑千冬"の声だった。

 

 かちり。

 

 そしてどこかで、スイッチの切れた音が聞こえた。

 

 

 

 

 




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