日は落ち、時刻は時を重ねて夕方となった。
ぽりぽりと頰を掻いた井伊月重吾は、先ほどからずっと向けられている好奇の目線に顔を逸らし、部屋の壁に掛けてある時計を見遣る。
「早く帰ってこないかな……」
溜息を零し、井伊月重吾は時計から目を逸らした。今度は目の前の机の上にあるコーヒーカップに視線を定めた。
「ねえ」
ーーーきた。井伊月重吾は口元を歪めた。
「おにーさん、中々良い顔立ちをしてるわね」
「そ、そうかなぁ……」
顔をコーヒーカップからズラさず、そう返す。
「ええ。髪も珍しい色をしてますし……。赤茶色なんて初めて見ました。私ったら運が良いですね」
「あっはは、良かったね」
「はい。本当に……」
好奇の目線がさらに濃くなったのを感じる。
少しだけ顔を持ち上げてみると、未だ目の前の"少女"がこちらを見続けていることがわかった。表情も変わらず、最初と同じようにずっと笑顔だ。たまにウインクだってしてくる。
勘弁してくれよ。そう心の中で愚痴を漏らした井伊月重吾は、まだ帰ってくることのない女性に想いを馳せ、時計の秒針の音に耳を傾けた。カチカチと鳴っているその音を聞いていると、不思議な虚しさが胸を覆った。
「織斑先生……」
ーーーそれは、二時間ほど前の出来事である。
◆◆◆
「犯されかけました」
その一言ほど辛いものはなかった。
事実ではない、根拠もない言いがかりだ。だから勿論反論しようと立ち上がったし、無実を主張しようと弁解を求めた。けれど女性が返してきた一言は、
「そういうのは段階を重ねてだなーーー」
優しく、諭すような言葉であった。
井伊月重吾はそんな女性の態度に、もうどんな言い訳も意味が無いことを悟って項垂れた。女性の背中に隠れている事の発端の少女は、どこか嬉しそうな表情でニコニコとしていた。
若干苛立ちを感じたが、少女がやった事だ。もう忘れよう。そして早く顔を洗いたい。汗が表面に纏わり付いているから、気持ちが悪いから。
溜息をひとつ零し、井伊月重吾は頭を掻いた。視線を横に流して廊下の壁の穴を見てみると、あの生き物は動く気配も見せないで静寂を保っている。どうやら死んでしまったらしい。顔にある六つの瞳がいつの間にか灯りを消していたから、井伊月重吾はそうだと思った。
「あれ、私が倒したんですよ?」
得意げな表情の少女が、穴の中の生き物を指差しながらそう言ってくる。
「……ありがとう」
先ほどの事があったので抵抗があったが、命を助けられたのは確かな事実である。だから井伊月重吾は一応の礼儀を見せてみた。
「ふふーん♪」
すると少女が、綺麗にターンを決めた。バレエのような美しいターンをその場で決め、お辞儀を返してきた。
嬉しさでそうしてしまったのかはわからないが、井伊月重吾はそれに不思議さなどを感じなかった。素直に可憐だと、その少女の姿が綺麗だと思った。
「井伊月重吾」
「……あっ、はいはい?」
意識を戻した井伊月重吾は、名前を呼んできた女性の方を向いた。すると女性は眉を寄せていた。何故だ?
「お前、涙が……」
「え?」
指摘されて反射的に目元を拭ってみると、確かに涙が溜まっていた。悲しくはないのに、冷たい雫が頰を伝ってきていた。
疑問に感じた井伊月重吾は、人差し指ですくった涙を見つめ、頭を傾げた。涙の理由が解らないから、止まらないから、ジッと見つめたまま身じろぎをしない。
不意に見つめていた手を掴まれ、そして垂らしていた片手も握られる。視線を上げると、両手を握ってきたのは少女だった。
「なんで泣くの?」
悲しそうな顔だった。泣いているのは井伊月重吾なのに、その少女は憂いを帯びた表情をしていた。
鼻をすすり、笑いかけてみる。僕は大丈夫だよ、と目元を擦って涙を拭き取る。
しかしそれでも少女の悲しそうな表情は潜まない。気持ちだけの空元気を見破っているのか、さっきまでしていた笑顔を見せてくれない。それが酷く悔しくて、井伊月重吾は顔を顰める。
「僕はまた……また君を……」
その言葉を漏らした直後、ふと井伊月重吾は何かを思い出してしまった。突然の映像を脳裏に浮かばせてしまい、目を見開いて静止した。
それは炎の景色。そして黒塗りの空と、瓦解した建物。
子どもが泣き、大人は赤ん坊を抱いて焼け死んでいる。
ーーー地獄だった。
希望は微塵も感じない、ただ絶望のみで構築されている世界。炎が、熱が、風が、全ての景色を酷たらしい惨状に変え、傍観している井伊月重吾の心臓を熱く高ぶらせる。
これは昔の記憶か? 今は思い出せない、自分の過去か? だとしたら、そうなのだとしたら、自分は何故ここにいる? 場所が違うだろう。産まれた処は、その地獄の世界の筈だ。帰らなければいけない。帰らなければ、帰らなければ、
ーーー"あの人が待っているから"。
「井伊月ッ!」
その声が頭の中を揺さぶった刹那、頰に鋭い痛みが走った。
チカチカとする視界に動揺した井伊月重吾は、足元をもつれさせて、思わず後ろに向かって倒れてしまう。目を見開いて状況を確認すると、女性がこちらを見下ろして、片手を振り切っていた。どうやら先ほど頰に走った痛みの原因は、女性による張り手だったらしい。
「僕、僕……僕は、なにをしていました?」
まだ少しだけ揺れている視界の中、こちらを見下ろす女性に問いかけた。自分で思い出せばいいことなのだが、如何せんそれが出来ないでいる。女性にされた張り手を理由にする訳ではないが、衝撃が強過ぎてさきほどまでの時間、何をしていたのかがサッパリなのだ。
少しの沈黙の後、振り切っていた片手を降ろした女性が、今度は違う手をこちらに差し出してくる。
身体に力を入れ、その手を握った井伊月重吾は、女性の引っ張る力を借りて立ち上がった。
「お前、気は確かか?」
「まだ少しだけ変な気分です。頭がグラグラしています」
「違う、そうではない。状態ではなくて、さっきまでの行動に対しての問いかけだ」
「さっきまでの行動?」
だから憶えていないんだ。少しだけ強くした口調で「知りませんよ」と答えた井伊月重吾は、女性から視線を逸らした。すると逸らした先には少女がいて、何やら身体を抱いて呼吸を乱していた。顔も少し蒸気していて、瞳も潤んでいる。
ーーズキッ。
「また」だ。また胸が苦しんだ。彼女を見ていると原因のわからない鈍痛が胸の芯を刺激して、内側が酷く痛んでしまう。
でも、何故、痛むーーー? 何の痛みだ?
胸を貫いた「感覚」は、井伊月重吾に痛みを与えた。
それは今まで体験したことのないーーー感じたことのない痛みだった。
胸を覆う服を握り締めた井伊月重吾は、喉奥から酸素を搾り出して大きく口を開けた。顔の前で停滞したその溜息には、様々な感情が混じっている気がした。
「とにかく離れろ!」
女性が井伊月重吾の襟を引っ張る。
井伊月重吾は突然の後ろからの力に、顎を上へ向け、おかしな声を漏らして足をバタつかせた。
「何すんです!?」
少し眉を寄せて、肩越しに女性を睨む。
「お前は楯無に抱きついたんだよ? 見れば分かることだろうが。節穴じゃないんだから、状況把握ぐらいしろ」
「抱きついたぁ? 僕がっ!?」
言われ、少女を見遣る。すると少女が照れた様子で顔を伏せ、体に回している両手の抱き締めをさらに強くした。
井伊月重吾は唖然とした。だって憶えがないから、当然そうなる。けれど少女の反応をみる限り、女性が言ったことは本当なんだろう。
途端、顔に血が昇ってくる。きっと今の自分は、のぼせたような顔をしているに違いない。
井伊月重吾は軽く咳払いし、それからまた少女を見た。少女はもうこちらに目を合わせたくないのか、顔を伏せたままだ。もどかしい気持ちが、恥ずかしさがどんどんと強さを増していくような気がして、井伊月重吾も遂に目を逸らした。
「嘘でしょ……」
「馬鹿なんだよ、お前」
女性が溜息を吐く。
「ーーーじゃあ、私は後片付けをするから、後の面倒は楯無に見てもらえ。終わったら迎えに行ってやる。更識楯無! いいな? こいつの面倒は、お前が見るんだ」
それに、少女が勢いよく顔を上げる。
「駄目です! 駄目ですよ、先生! だってこの人……」
少女がこちらを見ーーーすぐに逸らした。
井伊月重吾は口元を歪め、気まずさに頰を掻いた。
「抱きついてきた人と一緒なんて……!」
「なんだ? 照れているのか? くははっ。お前、あの更識楯無だろう? だったら、いつもみたいに相手を弄び、脇腹をくすぐってやればいいじゃないか」
「先生は、私にイジワルしています!!」
「なんのことだか」
言い終わり、女性が背を向ける。そして去っていく。
「このっ!……このっ……くぅぅ!!」
去りながら手を振る女性を睨む少女が、悔しそうに表情を歪めて、女らしからぬ荒さで地団駄を踏む。
遠目でそれを見る井伊月重吾は、嫌な予感がすると思い、少しづつ少しづつ、少女に気付かれないように、壁に背中を合わせながらこの場を遠ざかろうとした。しかし、
「どぉこに……行くのかしらあ?」
少女がそれを許さなかった。
こちらに向く少女。その顔、その瞳はこちらに据わっていて、妙な迫力と怪しさがある。
「部屋に戻ろうかな……って。なんちゃって」
苦笑しながら言う。
少女がニコリと微笑んだ。しかしその瞳は据わったまま。微塵も楽しげな雰囲気を感じさせない。それがまた恐ろしくてたまらない。
もうこれ以上の紡ぎは駄目だ。井伊月重吾は開けていた口を閉じ、言葉を発するのを止めた。次いで、足を静かに動かしていたのも止めた。
「……私ですね、生徒会長やってるんです」
「うん、凄いね」
ーーー逃げたい。井伊月重吾は強く思った。少女の、少しも穏やかでない声色が怖かったから、早く女性とココアを飲んだあの場所に移動したかった。
「……僕、行くねっ」
そう告げて去ろうとしたが、やはり駄目であった。女性が、足裏を放ってすぐ横の壁を蹴り付け、行き先を通行止めにしたから、逃げ出すことが不可能になったのだ。
「あの〜」恐る恐る、そう問いかけると、少女がニンマリと、しかし怒りの灯った瞳でこちらを見てくる。井伊月重吾はそれに気圧され、思わず顎を引いてしまい、少女に従うしかないことを理解した。
「お部屋はこちらよ?」
「はあい……」
言い、瓦礫の散らばった廊下を進む少女。
その背中を、ぼうと眺めながら、井伊月重吾は着いていく。
「……覚悟してくださいね?」
不意だった。
こちらを見ずに、少女がそれを言ってきた。
「ええ……?」
よくわからなかった。だから怪訝な表情をして、「何をです」と問いかけた。
ーーーピタリ。少女が歩くのを止める。
突然止まったので、井伊月重吾は、少女の小さな背中とぶつかってしまいそうになった。いったいなんだ?
「貴女に、仕返ししてやりますから。……私、負けず嫌いなんですよ。ね? わかりますか?」
「はあ……」
言われても理解出来なかったので、適当な返事を返した。頷いて、頭を上下させ、困った表情で苦笑して見せた。
少女がこちらをジッと見ている。ルビ色の瞳を差し向けて、口元を山なりに変形させて、見透かすような真剣さで、こちらを伺っている。
音が静止しているのかーーー? 井伊月重吾の耳には、微かな音も聞こえなかった。窓が震える振動も、その原因を生み出している風の声も、井伊月重吾の鼓膜にはひとつも。しかし、ただひとつだけ、聞こえるものがあった。それは、激しく脈動する心音。井伊月重吾の体の内側を震わせる、高ぶった心臓の音だった。
「覚悟していてくださいね」
「……ん? ああ、うん。いいよ?」
ぼうとしていたので、咄嗟の返事を返す。
だが、その時ほどそれを後悔したことはなかった。
その返事をしなければきっと、井伊月重吾は「地獄」を味わうこともなかった。
「織斑先生が戻ってくるまでは、ずっと"二人っきり"ですね」
そう言って、笑った少女。
その悪戯っぽい、独特の笑みは、井伊月重吾に悪魔を連想させるほどの恐怖を感じさせたーーー。
◆◆◆
「ーーーーー聞いてます?」
どうやら、少々深く、先刻前のことを思い出してしまっていたらしい。井伊月重吾はハッとして、何度も呼び掛けをしていたであろう少女に目を向けた。「何かな?」
「少しは反省しましたかって、聞いてるんです」
「あはは、ごめんなさいだよ。ホントに」
「……随分、素直なんですね」
「君のちょっかいが堪えたみたいだ」
現に、井伊月重吾は酷い疲労感に見舞われていた。頭も鉛のように重いし、動作のひとつひとつに緩慢さがある。少女のあどけない精神攻撃は、だいの大人をこんなにも憔悴させた。
目の前の机に置いてあるコーヒーカップ。それを手で取り、口元に近付けて傾ける。口の中に流れ込んできた珈琲の味は、何故か前に一度飲んだ時よりも苦く感じた。
「もうしないよ。僕の負けです」
苦笑しながら言うと、少女がキョトンとした。しかしすぐにそのあと表情を輝かせ、少女は心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。その笑顔には、どこか見覚えがあるような気がした。
(なんだろう……。この子に会った時から、僕……変だ)
胸の辺りに発生したざわつきに、コーヒーカップを置く。少女は余韻に浸っているようで、まだ笑顔を輝かせている。
そんな彼女の姿に井伊月重吾は、不思議なほどの既視感に苛まれた。頭の奥底を刺激されているような感覚。鍵を掛けているのに、外側から無理矢理こじ開けようとしてくる強制力。これを生み出している原因はなんだ? 自分は彼女に何を想像して、何の感情を抱いている?
「ーーーーー仲良くやっとるか?」
と。開いた部屋の入り口から、後片付けを終わらせた女性が帰還してくる。顔には少々疲れの色があるようだった。
立ち上がり、井伊月重吾は女性に近付いた。
「そう見えます?」
「デートでもしそうなぐらいにはな」
「あはは、冗談でしょ」
チラリ、と少女を見た。その顔は何故だか、不満を感じているような、そんな感情が見え隠れしていた。
「夕方か……。飯を食わせてやろう、井伊月」
その言葉に、胸が高鳴った。
「是非!是非! お腹ペコペコだったんです!!」
目を覚ました刻から、この時間まで、口にした物はココアと珈琲だけで、まともな食事はとっていなかった。人間、やはり噛む物を食さなければ、力も出てこないと思う。井伊月重吾は笑顔で両手を合わせた。
「食堂の人、いないですよ? 私が作りましょうか?」
おお、この子は料理が出来るのか。井伊月重吾は驚きと感嘆、それと彼女に対しての好感を持った。その歳で料理をやれるとは、彼女よりも年上の自分にとっては、少々情けない気持ちになるが……。
「頼めるか?」女性がそう言うと、少女は快く「はい」返事を返していた。それだけの短いやり取りだったが、井伊月重吾は女性と少女の間に特別な信頼感が存在しているのを、人知れず理解していた。
「じゃあ着いて来い。案内してやる」
話が纏まり、女性が促してくる。反転して、さっき入ってきたばかりの入り口から、また廊下に足を踏み入れる。
井伊月重吾は短く頷き、女性の後を追いかけた。が、寸前のところでハッとし、振り返り、後ろで待機していた青髪の少女に道を開けてあげる。
「あら、いいんですか?」
「またあの化け物が襲ってくるかもだから」
「うふ。でも、守るのは私ですからね?」
ペロリ、と下を出した少女。
彼女は小悪魔のような雰囲気で、井伊月重吾の横を通り過ぎていった。
「やっぱり……なんか、見覚えあるんだよなぁ」
まだ少しだけ、こびり付いている残留感に眉を寄せ、頭髪をワシャワシャと掻き回す。違和感は消えることはない。それが不快で、痛みで紛らわそうと、髪の毛一本を引き抜いてみる。
ーーーまた会えたら……その時は……。
「痛てて……。強く抜き過ぎたかな?」一瞬だけ通り過ぎた少女の幻影に、井伊月重吾は惚けた顔をした。指と指の間で挟んでいる髪の毛は赤茶色だが、幻影の少女の髪色は青色をしていた。それはなんと綺麗で、対照的なことだろうか。また井伊月重吾は、惚けた顔をし、そして自分の口元が微かに緩んでいることに気が付いた。
窓から差し込む夕陽は、血の色をしていた。
◆◆◆
「冷蔵庫にある食材、適当に使っちゃいましたけど」
「ああ。また私が言っておく」
着いて行き、辿り着いた場所は、かなりの広さのある食堂であった。
「和食を作れるんだぁ」
「味は保証出来ませんけど」
沢山並べられている机のひとつに座り、井伊月重吾は「そんなことないよ」と笑顔を浮かべる。少女は謙遜したようだが、目の前に置かれた和食料理からは、自然と涎が溢れてくる美味しそうな香りがしてきている。これで不味いのなら、それはきっと自分の味覚がおかしいのだ。
隣の席に、黒スーツの女性。目の前には少女が座った。もしかすると今の状況、誰かが見たら親子の食事に見えたりするのだろうか?
「醤油、かけるだろう?」
「あ、はい」
「ほら」
おかずのひとつの秋刀魚に醤油をかけ終えた女性から醤油を受け取り、自分の分にかけ、今度は目の前の少女に渡す。
「私はポン酢派なんです♪」
しかし少女は、醤油よりもポン酢をかける方が良かったらしく、机の端に置いてあるポン酢を取ることはして醤油は受け取らなかった。
「ーーーお片づけ、終わったんですか?」
使い終わった醤油を元の場所に置き、井伊月重吾は女性に問いかけてみた。隣で秋刀魚の骨を乱暴に取っていた女性は、一旦箸を動かすのを止めると、小さく息を吐いて話を始めた。
「終わるには終わったんだがな? あの壊されっぷりだ。色々と業者を呼ばなくちゃならん。……それがまた、面倒で仕方がない。全く」
「でも誰も怪我しなくて良かったですよね」
「馬鹿か。私を部屋に押し込んで、貴様は化け物相手に死にに行ったではないか。怪我どころでは済まなかったかもしれんのだぞ」
少しの怒りが混じった声でそう言い、女性が秋刀魚の身を一口食べる。
痛いところをつかれた井伊月重吾は、ただ苦笑するしかなく、苦し紛れにお茶を啜った。
「じゃあ、あの時、私が飛び込んで行かなかったら危ないところだったんですね」
「感謝してるよ、わかってる」
だんだんと少女の性格が理解出来ているから、言葉の返しが巧みになってきている気がする。
ニコニコとする少女を視界に、もう一口お茶を飲んだ井伊月重吾は、並べられている秋刀魚のお皿に箸を伸ばした。
こうしていると、なんだかずっと昔から、一緒に過ごしてきたような錯覚を覚える。勿論、女性と少女に会ったのは今日が初めてで、記憶の片隅にも姿は無い。だから昔から一緒だったなんてこと、当然ある筈が無いのだけれど、この空間の雰囲気がそんな思いを感じさせてくるのだ。井伊月重吾は「変だな」と口中で呟き、箸で摘まんだ秋刀魚の身を口に放り込んだ。
◆◆◆
「ーーーどうだ、広いだろう?」
食事を終えた井伊月重吾は、女性に今日の就寝場所へ案内されていた。さっきまで一緒に居た少女は、お風呂に入るとか何だとか言い、井伊月重吾達と食堂で別れて行った。
「はい」
廊下を歩きながら、時折すれ違う部屋の説明をしてくれる女性に律儀な返事を返しつつ、井伊月重吾も建物の中を良く観察してみた。外装もそうだったが、中身もやはり作り込まれているようだった。歩きながらだが、こうして間近に見てるから分かる。
「ここって学校なんですよね?」聞くと、女性が「そうだ」と短く返してくる。
そういえばさっきの少女も、初めて会った時の水着のような格好から着替えた服装は、白を基調とした、まるで制服のような服だったな。思い返し、頷いた井伊月重吾は、あの服は少女に良く似合っていたなと感慨深く思った。
「さあ、ここだぞ」
肩越しに振り返った女性が、そう促してくる。
女性の前には、部屋へと通じる扉が在った。
「入っても?」
「押してあける扉だ」
ドアノブに手をかけ、助言通りに扉を押し込む。窓を開けたままにしているのか、微かに開いた扉の隙間から、冷たい風がこちらに流れ込んできた。それが頰に当たると、背筋に震えが走った。
構うもんか。覚悟し、井伊月重吾は扉を一気に押し開けた。するとさっきから流れ込んでくる微風など足元にも及ばない強風が体に吹き付けてきて、井伊月重吾は思わず呻いた。しかし案外にも風はすぐに止んで、井伊月重吾は「あら」と情けない声を漏らしてしまった。
「私の部屋だ。少し散らかっているが……我慢してくれ」
「いやいや。文句なんて言えるわけ……」
と。そこで井伊月重吾は思わず絶句した。
女性の部屋が、半端な域ではなかったからだ。少しなんてものではない。ゴミ屋敷、という言葉が見つからない程の散らかりっぷりである。服は散乱し、部屋の中央の机の上に空き缶の山が出来上がっている。何をどうしたら、ここまで酷い有様に成れるのか不思議でたまらない。
錆びたように固い首を回し、女性の方へ振り返ると、女性は何故か不敵に笑うだけで反省はしていなかった。それが妙に癪に障った井伊月重吾は、女性を押して自分だけ部屋の中へ入り、扉を勢いよく閉めた。
「おいおい! 何をしている、貴様!」
「普通じゃないでしょ!? 片付けるんですよ!」
そう、片付けてやる。これはあまりにも酷いから、徹底的にだ。埃ひとつも残してやらない。
「待て待て待て! 分かった。私も手伝おう。だからこの扉を開けて中に入れろ、井伊月よ!」
「部屋を駄目にした人間が、部屋を元に戻せる訳ない!」
「せめて下着だけでもな? な? 私が自分でやってやるから、一旦こっちに戻ってこい」
「気になんかしませんよ」
「私が気にするのだ!ーーーああっ。分かった、百歩譲って部屋の片付けはさせてやる。下着もだ。……だが黒色の下着は触るなよ!? あれはいつから置いてあるものか分からんやつだ!」
「もう黒色は持っています」
「貴様ぁぁぁぁァーーーッ!!」
扉の向こうで、女性が雄叫びを上げた。
しかし構わず、井伊月重吾は鼻を鳴らして袖を捲り、隅に投げられていた空き袋を引っ掴んで掃除を開始する。
「ーーーあら? 織斑先生、なんで体操座りなんかしてるんです? みっともないですよ?」
少女の声が聞こえた。風呂から戻ってきたのだろうか?
「……体操座りって」
苦笑し、井伊月重吾は「よし」と頷いた。
この部屋は鍵を掛けてあるから、中には入れない。だから部屋の住人である女性は外の廊下だ。季節が冬だから、廊下はとてつもなく寒い筈だ。締め出している女性、そして風呂から戻ってきたばかりの少女を湯冷めさせない為、手早く掃除を済ませて中に入れてあげよう。
「ゴミが多過ぎるんだよなぁ……」
愚痴を零しつつも、腕を動かす井伊月重吾が握る空き袋の中には、どんどんとゴミが溜まっていき、瞬く間に満タンとなっていった。
井伊月重吾は満たされた袋の口を閉め、今度は脱ぎ散らかされた衣類の整理に取り掛かる。女性はしなくていいと言っていたが、構いはしない。ここまで放置していた女性が悪い。
投げてある下着や服を、部屋の奥の洗面所に設置してあった洗濯機の中に放り込む。そして洗濯機の上に置いてある洗剤を適量分だけ流し入れ、スイッチを入れる。数秒後、洗濯機が音を立てて稼働し始めた。
「……あの人、黒い服が好きなんだなあ……。パンツとブラの色も黒だったし……大人だなあ」
なんて考えに耽っている暇はない。
洗面所を出た井伊月重吾は、掃除はしないのに何故か道具だけは豊富に取り揃えてある押入れの中から、立派な掃除機を引っ張り出し、床に溢れている食べカスなどを吸い込んでいく。……こうして掃除をしていると分かってくるが、あの女性には掃除をするという考えが本当に無いのだろうな。
「ーーーーーこんなもんか」
机の下、部屋の隅ーーー全ての場所を掃除し終えた井伊月重吾は、ようやくマシになったと息を吐き、掃除機を片付けた後に部屋の鍵を開けてあげた。
「終わったかぁ……」
すると鍵が解除されて扉から、全く生気の感じられない女性がヨロヨロと入ってくる。
「おっ邪魔しまーす!」
次いで、ワイシャツの上に黄色のパーカーを羽織っただけの寒そうな少女が、部屋に入室してくる。
「君っ、寒くないのかい!?」
その格好を見た井伊月重吾は、思わず少女の手を握り、彼女の両目を見つめた。少女は驚きと、そして羞恥心が混じり合ったような表情でこちらを見返してきた。
「大丈夫れす! ほら、下にも着込んでますしさ!」
滅茶苦茶な呂律でそう言った彼女が、頭のネジが飛んでしまったのか、なんと自分の服をたくし上げ始めた。
あまりにも突然な、異常な奇行に眉を上げた井伊月重吾は、咄嗟に視界を両手で塞いだ。しかし耳に伝わってくる衣擦れの音がなんと厭らしいことなのだろう。井伊月重吾は、自分の脈動する心臓に呼吸を乱しながらも、「ほらほら!」と半ば自暴自棄になっている少女の声から意識を遠ざけた。
「早くしまっちゃってよ!」
「まだ見てないでしょ!」
「この馬鹿娘め……!」
覆わせていた両手を少女に伸ばす。
少女が、それに目を見開く。
「きゃっ!?」
「君がそんなことをやるから、腕を掴むんだ。大人しくなさい!」
ジタバタとする少女にデコピンをしてやると、途端に勢いを無くして静かになる。それに合わせて、服を下ろすのと、少女を座らせてやるのを同時にやってのけた井伊月重吾は、ようやく収まった騒動に息を吐いた。
座らされた少女は、俯いたまま動かない。自分がやった行為の反省しているのか、それとも"見てもらえなかった"ことに悔しさを感じているのか。井伊月重吾は前者であって欲しいと溜息を吐き、そして自分が着ている上着を少女に被せてやった。
「……すまんな」
「この子、盛ってるんですね?」
「特別なんだ」
「ああ、なるほど……」
年頃ーーーということなんだろう。
頷き、井伊月重吾は少女から視線を退かした。
「気分どうです? すみません。まさか掃除しただけで、貴方がそんなになるとは思わなくて……」
「いいんだ。これは不甲斐なさが表立っているだけで、憤っているわけではない。……しかし強いて言えば……下着は触らないで欲しかった。あれだけは本当に……」
確かに、今思うと、自分はトンデモないことをしてしまったのだろう。いや、してしまったのだ。女性の気持ちも考えず、ただ我慢ならなかったからなんて、それは獣だ。理由や言い訳を突き付けても、正しいとは言えない。
「やっちゃ駄目でしたよね」俯き、反省する。部屋は綺麗になったというのに、全然気持ちが良くない。
「いい……いいさ。お前の優しだよ」
ーーー感謝している。そう続けた女性の笑みに、井伊月重吾は口をポカンと開けた。
「顔に出てます……よ!」
後ろから、復活した少女に首をつねられる。
「痛いな!? 何がさっ?」
「エッチな顔してるってことよ」
「君、いい加減にしないと怒るぞ!」
忠告してやるが、少女は気にしていない様子で舌を出してきた。悪戯っぽく、笑ってもいる。
懐かしさを感じつつも、それに苛立ちを感じた井伊月重吾は、少女を取っ捕まえてやろうと手を伸ばした。しかし先ほどみたいに成功はせず、上手い具合に避けられる。その巧みな少女の動きは、まるで流れ落ちる水流のよう。
「このっ、てりゃっ」
「あっははは! 面白いわね、貴方」
ふふっ、という笑い方。それにはやはり見覚えがある。
「この、おてんば娘! 大人しくしなさい!……あだっ!?」
「あははは! 壁にぶつかって、あだっ!? ですって。……ぷっ、くくく! あはははっ!」
だが、そんな物懐かしさは、このひと時が忘れさせる。
記憶が無いことも、少女との戯れが朧にさせる。
井伊月重吾は、自分が今、危険な状況にあることを理解していなかった。この世界に馴染むことの危険。それを理解せずに、現在(いま)を満喫していた。昔のことを思い出そうともしないで、現在を生きていこうと無意識の内にーーー。
また今度!