井伊月重吾の物語   作:名無しの執筆者

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どうぞっ


重吾と刀奈、そして

 風の音は止んでいる。窓の震えも止んでいる。

 外を覗けば、晴空が伺えた。時計を見ると、時刻は朝で、空の太陽が眩し過ぎることにも納得がいった。

 

「ーーーだよ。起きて」

 

 隣で寝息を立てる彼女の名前を、耳元で囁いてあげる。

 

「……良い朝。ーーーの顔が目の前にあって、私はこうして貴方を感じられている」

 

 起き上がり、彼女が寄りかかってきた。

 抵抗なんかはしない。自分は彼女が好きだから、そのまま受け止めてあげる。彼女の身体を、その全てを。

 

「ああ、良い朝だ」

 

 言い、彼女にキスをした。何度もしてきた熱いキスを。何度も交わしてきた愛のキスを、今日も二人で確かめ合った。

 

「……お盛んなのね」

「君ほどじゃないさ」

「ふふっ、嫌だわ。お互い様って言ってよ」

 

 ふふっ、という笑い方。そんな悪戯っぽい彼女の笑い方が、自分は好きだ。あどけない表情で笑う。それは自分だけに気を許しているということだから、堪らなく愛おしく感じるのだ。

 髪を撫でてあげると、彼女はくすぐったそうに肩を震わせた。やめてよ、と言いつつも受け入れて、身体に触れることを許してくれた。

 そう、彼女は許してくれるーーー。自分が何者であっても、それが「ーーーーー」という人間であれば、味方でいてくれる。産まれが異常であっても、過去がどうであっても、持ち得ている優しさで包み込んでくれる。

 けれど、時折思うのだ。彼女のそれは酔狂だと。ただの慈愛であるのだと。そう思ってしまうから、自分は考える。もしかすると、自分を本当に受け入れてくれる人間は、一人もいないのではないか?ーーーと。

 

「……また、その顔」

「してたかい?」

「ええ……悲しそうだった」

 

 だけどそんな考えは、彼女と触れ合うことで、間違いだということに気付かされる。彼女は優しいから、気遣いなのかもしれないが、それでも実感できる。

 

「……抱いていいかい?」

「え?」

「ごめん」

 

 了承を得ず、彼女を押し倒した。彼女はこれから"されること"を予想したのか、少しだけ照れた顔をして瞼を瞑る。それが良いとのサインだと分かった自分は、途端に彼女を貪った。

 

「……やっぱり、お盛んなのは貴方だわ」

「それでもいいさ……。僕は、君を感じていたいんだ」

 

 そう、感じたい。愛されているのだということを、確信したい。だから求める。彼女を求め、本能に従い、その身を抱き締める。強く、強く。

 

「ーーーーー不安なんでしよ?」

 

 その言葉に、自分は耳を塞ぎたくなった。怖くなったと言ってもいい。彼女にそれを悟られることで、逃げられてしまうこと想像してしまったから、自分は聞く耳を捨てたくなった。

 

「分かるわよ。貴方のことだもの。……不安な気持ちが、痛いほど伝わってくるわ」

「違う……不安がっちゃない!」

「嘘おっしゃい」

「うるさいっ……!!」

 

 激昂し、思わず彼女を押し退けてしまう。自分から求めた筈なのに、真逆な行動をとってしまった。それに自分は、すぐに我に返って唖然とした。

 しかし彼女は、そんな自分を抱き締めてくる。普通ではない。拒絶してきてもいいことをしたのに、彼女はそれをしてこなかった。

 

「昔から少し危なかったけど……最近の貴方は異常よ。……何かあったんでしょ? 言ってちょうだいな」

 

 言えない。言える訳が無い。彼女が傷付くのが目に見えているから、その「疑いの気持ち」を話せる訳がない。

 

「……分かった。もういいわ」

 

 呆れた声色で、彼女が漏らす。青色の髪を撫で、悩まし気な顔をしながら、困ったようにこちら見つめてくる。

 それに何故だか泣きそうになった。キスと同じように、何度も経験のある彼女のそれだったが、無性に心がざわついてしまった。

 理由はわかっている。気付いている。けれど気付いていないフリをする。だから思い込む。ああ、やはり愛していただけで、愛されていた訳ではなかったと。彼女に愛想を尽かされてしまったと。初めから、独りぼっちだった。それを解ってしまったと。ーーーだから、

 

「……ごめん」

 

 ーーー僕は、彼女を殺したんだ。

 

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 ーーーーーーー

 

 朝だ。陽の光が眩しい。網膜を刺激して、視界が白一色で染め上げられている。カーテンから溢れている微かな光だが、それでも寝起きの自分には少々堪えるものだ。

 井伊月重吾は床に手を付き、身体に掛かっている布団を剥ぐ。そしてボサボサの頭をさらに掻乱し、涙混じりの欠伸をした。

 

「ありゃりゃ、皆寝てんだ」

 

 目元を拭いながら、そう言った井伊月重吾の視界には、まるで喧嘩をした後のように床に倒れ込んでいる、少女と女性が存在した。昨日は少女も駄々をこねて一緒に寝たから、場所が狭かった。だから二人とも、あんな風に寝転がって寝てしまっている。

 もう一度、欠伸を漏らした井伊月重吾は、布団から立ち上がって部屋を移動する。少女と女性を踏まないように慎重に。そして勝手に借りて悪いが、洗面所へと行き、顔を洗った。

 

「……泥みたいな夢だったな……」

 

 洗面台と一体化している鏡に映り込む自分は、少し疲れているような気がした。まあ、無理も無いと思う。"あんな"気持ちの悪い夢を見てしまえば、嫌な汗もかいてしまうものだ。

 サッパリとした顔に息を吐きつつ、部屋を出ると、女性の方が起き上がって、ぼうとしていた。あの惚けた様子は、まだ微睡みにいるようだ。井伊月重吾の存在にも気付いていない。

 

「凄いだらしないですよ、貴方」

 

 苦笑しながら言うと、女性がこちらに振り返る。

 

「疲れているんだ」

 

 と。女性が語尾を強めに返してくる。

「確かに」井伊月重吾は、女性のボサボサになった髪と、普通よりもさらに細まった双眸を見て、頷いた。

 

「おい……おい! 更識ッ。お前、朝だぞ!」

 

 倦怠感が剥き出しになった動きで、女性が未だ眠っている少女に近寄る。腰を下ろし、顔を覗き込んで、そして女性が少女の身体を数度揺らした。

 んん、と小さく声を漏らした少女が、緩慢な動きで起き上がる。そして可愛らしい欠伸を漏らし、瞼を擦って「おはようございます、先生」お辞儀をした。

 見ていた井伊月重吾は、やはり人間は寝起きだと、誰しもだらしなくなってしまうのだな。そう納得し、昨日からは想像出来ない二人の姿に可笑しさを感じたのだった。

 

 ◆◆◆

 

「さて、今更だが、お前のことを解決せねばな」

 

 そう言い、珈琲を啜った女性の眼差しは、井伊月重吾を捉えていた。

 井伊月重吾は、「面倒なら後でもいんですよ?」女性が用意してくれた朝食用の食パンをトースターに差し込み、笑って見せた。しかし女性に「馬鹿者が」それを一蹴され、面食らい、思わず手に持っていた食パン入りの袋を落としかける。

 

「でもぉ、昔が思い出せないって、結構なことじゃないかしら? そんな簡単に回復出来ますかしらね?」

 

 奥のキッチンで卵焼きを作る少女が、上手い具合にフライパンを動かしながら言い放つ。

 

「急に出来んことぐらい分かってる。言わんでいい」

 

 珈琲の入ったカップを机に置き、面倒くさそうに女性が溜息を吐いた。

 

「記憶が無いこと……よく信じてくれましたよね」

 

 焼き上がった食パンをトースターから抜き取り、皿に乗せて運ぶ。そして「どうぞ」机に並べ、席に着く。

 

「なんだ? まるで、信じる訳ない人間だとでも、貴様は私を軽蔑していたのか?」

「だって普通じゃないでしょ? 記憶が無いなんて、そうそうあることじゃない。なった自分が言うからマジです」

「マジなのか……」

「はい、マジです」

「……そうか」

「っす」

 

 沈黙が流れた。静かで、微妙な沈黙が。

 女性は瞼を閉じている。自分は目の前の、二枚の食パンを見つめている。考えていることは小さなことだ。食パンを少し焼き過ぎたなとか、早くご飯を食べたいなとか、ありきたりな思いを浮かべている。

 女性の方は険しい顔をして、何か思案しているようだった。それが自分のことであることは、何となく解っている。けれどそれはあえて聞かないことにした。何故か?何故だろう? 怖いとふと、感じてしまったからだろうか?

 

「ーーーーーすみませーん!」

 

 井伊月重吾はハッとした。

 顔を上げると、目の前に笑顔の少女がいた。本当に眩しいほどの笑顔だ。そしてその笑顔には、やはりどこか懐かしい気持ちにさせ、不思議と胸を苦しめる作用があった。

 

「あはは……ごめんね。卵焼き、出来たんだ?」

 

 胸の苦しみを解消したくて、井伊月重吾は笑った。けれど無駄で終わった。痛みは消えず、まだ胸に滞留している。

 

「そうですよー。美味しいって言ってくださいね?」

「……」

 

 けれど、そんな痛みは、彼女を見ていると、何だかどうでも良いことのように思えた。それがどんな理由でなのかは、考えても判明しないことは分かりきっている。だから、分かりきっているからこそ、彼女に頼ってしまうのだなと、井伊月重吾は心の中で悔しさを感じた。

 

「さあ、食うぞ。ん?」

 

 思案し終わったのか、女性がトースターを齧り、早く食べろとの視線を送ってくる。

 井伊月重吾は正直、胸の違和感の所為で食事をする気分ではなかったが、女性に言われては仕方がない。「いただきます」手を合わせて言い、目の前に並べられた朝食に手を付けた。向かいに座っている少女も、どこか楽しそうな雰囲気で食事を始めていた。

 食パンを齧りながら、女性と少女ーーー二人の姿を観察していると、やはり確信めいたものを感じることがある。それは少女から産まれる懐かしさに似た、しかしそれでいて違う、心がポッと暖かくなる感覚。言いようのない幸せと安心感からくる、忘れてしまった過去からのメッセージだ。

 なら、封を切って中身を確認したい。そのメッセージはきっと井伊月重吾にとって必要な情報が詰まっている筈だから、今すぐに開封して中身を熟読してやりたい。……けれど、その過去から送られてくるメッセージは一時のものだから、読みふけることは叶わない。それを井伊月重吾は知っている。

 いつの間にか食パンを食べ終えていたので、二枚目に手を伸ばした井伊月重吾は、そこで初めて自分の手が震えていたことに気がついた。ガタガタとした震え。一目で、それが尋常ではないものだと理解した。

 井伊月重吾はハッとし、少女と女性を即座に見遣る。すると、まだ二人は自分の手の震えには気が付いていないようだったので、見えないところに自分の手を引っ込めた。手は、まだ激しく震えている。

 

(……嫌な感じ)

 

 先ほど感じた暖かさを求めるため、胸に手を這わせた。あの暖かさがあれば落ち着くと思ったから、バレないように触れにいった。しかしーーー

 

「……」

 

 もう、その暖かさは消え、代わりに、過去を忘れてしまったことからくる「冷たさ」が置かれていた。

 苦しかった。けれどそれが幸せでもあった。井伊月重吾は罪悪感を感じていたから、代償を欲していた。だからそのすり替わっていた「冷たさ」は、自分にとって丁度良い柵だったのだ。

 暫くぼうとしていたのだろう。飲んだ珈琲は、完全に温かさを失くして冷え切っていた。それが何だか皮肉に感じて、井伊月重吾は可笑しくなって笑った。

 

「あら? 気でも触れましたか?」

「いやあ、記憶が無いのにさ、こうして静かに朝食をとってるってことは気楽なんだなって……そう思ったんだ」

「別にいいんじゃない? 落ち込んでいるよりかは」

「そりゃそうか」

 

 苦笑し、井伊月重吾は残る珈琲を一気に飲み干した。

 

「ーーーーそういえば、貴様のことを調べてみたんだがな?」

 

 朝食を食べ終え、皿を退かした女性が、机の上に数枚の紙をばら撒いた。覗き込むと、その紙には細かな文字が印刷されていて、複雑な文書が綴られているのが解る。手に持って近付けた井伊月重吾は、その紙が人の個人情報の集まりだということに気が付き、眉を上げた。

 

「こうゆうものって、普通いけないものなんじゃないですか? だってこれって……人のプライバシーが書かれてある」

 

 紙の表面を叩き、問いかける。

 

「バレなきゃいいのだ。……貴様が記憶を取り戻したいのだから、昨日の後片付けのあとに集めた」

「いやでも……」

 

 視線を落とし、紙を見ると、確かにそこには井伊月重吾と同じ名前の人間の歴が書かれている。しかもどの紙も、漢字は違えど同じ名前の人物ばかりだ。

 井伊月重吾は唸った。確かに記憶が無いのは嫌だが、だからといって、こんな方法で取り戻したい訳ではないと。もっと安全で誰にも迷惑がかからない方法で辿っていきたいと、そう考えていると。だが、これが自分の為を思ってしてくれたのだと考えると、井伊月重吾はその思いを口には出来なかった。

 

「どれも同じ名前ばかり……」

「だがな? 別人ばかりなんだよ。これも、ほらこれも」

「以外に同一同名の方って多いんですね」

「違う人のプライバシーは覗いちゃいけません!」

 

 興味深々で紙を閲覧する少女からそれを取り上げ、井伊月重吾は自分の手元に置いた。しかし少女が「見せて」と背中に覆い被さってきたので、今度は尻の下に敷いてやった。

 

「僕のこと、出てこなかったみたいですね?」

 

 未だ紙を取り戻そうと、背中の上で暴れる少女をいなしつつ、頬杖をつく女性に聞く。

 

「ああ。時間がかかった分、かなり落胆したよ」

「ありがとうございます」

「だが成果もあった。これで、もう同名の奴らの情報を集めなくて済む」

 

 皮肉なのか、それとも当てつけか。

 どちらにせよ、井伊月重吾は苦笑するしかなかった。

 

「しかし貴様、戸籍が無いのか? 普通、情報が出てこないなんてありえんぞ? 死んでるのではないか?」

「冗談でも、それは笑えませんよ。……僕、ちゃんと生きてますから」

 

 井伊月重吾はそう言い、女性に自分の身体を見せ付けた。しかし女性は興味無さげな様子で手を振ると、立ち上がって珈琲のおかわりを淹れにいく。その後ろ姿を見つめた井伊月重吾は、もどかしい気持ちに唇を尖らせ、気晴らしに背中に乗る少女のデコを突いたのだった。

 

 ◆◆◆

 

 本の山と、その近くには木の椅子。壁には小さな机が着けられていて、上には振り子が置いてある。

 沢山の家具が密集している空間だった。この部屋は。しかし、ひとつだけ違う場所があった。部屋の中心だ。そこは唯一何も置かれていなくて、ポッカリとした空間が存在していた。まるで別の世界のような雰囲気を漂わせている、そんな感じがあった。

 しかし、その中心には一匹の兎が仰向けで寝ていた。耳をピクピクと動かす、白色の兎が天井を見上げていた。

 埃が舞う虚空を見つめ、その兎は絵を描いていた。しかし画用紙は無かった。指腹に絵具が付いている訳でもない。だがそれでも兎は、絵を描いていたのだ。見えない画用紙に、見えない絵具で筆を踊ろせていたのだ。楽しそうに、まるで想いを描くように、鼻歌を歌いながら独りで。

 カチ、カチ、カチーーー机の上の振り子が鳴っている。針を一定の間隔で左右に振りながら、この静かな空間に一層の静けさを演出している。

 だが兎は"それ"を感じていなかった。昔から孤独と隣り合わせで生きてきた人生だったから、静けさとは友達のようなものだったのだ。だから、虚空に絵を描いているのを止めてない。鼻歌も続けている。

 

「……」

 

 しかしそうであっても、兎は寂しかった。

 当たり前だ。孤独に慣れるなんて、ある訳がない。たとえ兎が人間で無くても、それなりの寂しさは感じてしまう。それも自分の子どもを思い出してしまえば、尚更である。

 上体を起こし、立ち上がった。白い毛並みに付着する埃を払って、兎は軽く身震いした。付着していた埃が、それによって宙に舞った。

 

「会いに行こっかな……」

 

 ーーー寂しいからさ。

 続け、兎は部屋を移動した。そして扉を開けた。外へと通じる扉である。

 隙間から入り込んできた光は眩しく、目を細めた。兎は四角の入り口を抜けて外に歩み、鼻腔を掠めた木の香りを目一杯に吸い込み、吐き出した。身体の中を循環した酸素は、都会では決して味わえない天然の良さを含んでいた。

 そういえば、外に出るのは久しぶりだ。ずっと家の中に篭っていたから太陽が懐かしく感じる。

 兎は、太陽の光が満遍なく直撃するよう、両手を広げ、背を仰け反らせた。沢山の光を浴びたかったから、数秒はそうした。

 

「……うん。いいかな」

 

 頷き、体勢を直す。

 太陽の光を浴び過ぎたせいか、身体を覆う毛並みが、月明かりの元で発光するススキのように燐光していた。

 手で毛並みを払ってみると、光が宙に散らばる。その散らばり方は、夜空のスクリーンに映し出される星のようであると、兎はふと思った。

 視線を流すと、茂みが見えた。家の脇にある庭の草が、外にずっと出ていなかったから伸び放題になってしまっている。あれではいけない。

 兎は庭に近付き、雑草の草原の中心までいった。そして周りの草を乱暴に引き抜きながら、あるものを探した。

 

「……あった」

 

 草が覆い被さったそれを払い、手に取ってみる。

 手に取ったそれは、小さな赤色のスコップだった。

 

「あの子、よくこれを使って穴を掘ってたなぁ……。懐かしいなぁ……」

 

 そう、このスコップは"息子"が使っていたものだ。あんな風に庭に放り投げられてはいたが、これはあの子のお気に入りの道具である。

 表面にこびり付いた土を毛並みで拭い、磨き上げる。だんだん綺麗になっていくスコップが、太陽の光を反射させて、真っ赤な輝きを周囲に放った。

 草原から出た兎は、家の前まで歩いた。手にはスコップを持っている。

 兎は立ち止まり、地面に膝をつく。そして距離が近くなった地面目掛けてスコップを振り下ろし、そのまま突き刺した。静かな家の前でぽつんと立つそのスコップの姿は、何とも不思議な光景である。

 

「はやく帰ってくるんだよ……重吾」

 

 ぽつり、と呟いた兎は立ち上がった。すると風が吹き、兎は顔を顰めて空を見上げた。

 晴天の空には雲は無く、まるで画用紙のように何も彩られていない。青だけで塗り潰されているから、他の色が良く映えそうである。

 つい、と指先を動かし、また兎は、その空に向かって見えない筆を走らせた。鼻歌を歌って、楽しい気分で、自分が今一番望んでいる想いを絵に描いてみる。叶うことは無いかもしれないが、それでも描くことが出来ない訳ではないから、創造する。描くのは二匹の兎。白と黒の親子兎だ。白い兎が母親で、黒い兎が子どもである。

 楽しそうな絵だな。兎は微笑んだ。

 昔は、こんなことは望まなかった。子を産めば女性は母親になるというのは、どうやら本当だったらしい。世の中にはそうならない女もいるが、兎はその通り母親に変わった。

 描き上げ、見上げてみる。しつこいかもしれないが、兎は本当に絵を描いている訳ではない。当然空は青一色だけだ。そこに二匹の親子兎は存在しない。だがそれでも、兎には鮮明に、自分の想いを描いた絵が両目に映っていたのだ。だから笑ってもいたし、満足感もあった。それにーーー少しの寂しさも。

 さてーーーそう漏らし、兎は腕を下ろした。

 絵を描くことばかりに集中していたから、無駄な時間を消費してしまった。時は金なりと良く言うし、反省しなくてはいけない。有限ではないから尚更である。

 息を吐き、身体の力を抜く。時間のロスがあるから、少々気合を入れなければ遅れを取り戻せないだろう。兎は片手をそっと地面すれすれまで垂らして、腰は中腰にさせた。脚の関節を少し曲げて前屈みになり、顔を空に向けて固定させる。

 

「ーーーーーッ!」

 

 そして小さく、力を込めた息を吐き、兎は空へと飛翔した。速く、疾くーーー我が子の元へ向かう為に。純白の毛並みを、白銀の装甲に包まれた全身を煌めかせて、青空の下を滑空した。

 

 ◆◆◆

 

 その時、空が"泣いた"気がした。

 井伊月重吾は、ふと窓の外を眺め、目を細める。しかし変わったところは特に見つからなかった。空は変わらずの青空で、天辺からは太陽がこちらを見ているだけ。そう、目の前に広がっているのは変わらない、いつもの空だった。

 なら、先ほどの「違和感」は一体何だったのだろう? 胸を通り過ぎたあの不快感は、勘違いのものだったのだろうか?

 後頭部を摩り、井伊月重吾は頭を傾げた。空が泣いたのを確かに感じた筈だったから、何かもどかしいのだ。たとえ空が泣いたということの意味が分からなくても、感じてしまったから痼りとして胸に滞在している。

 

「おい、井伊月。早く来いよ」

 

 そんな中、頭に女性の声が響いた。

 声がした方に向くと、女性が腕を組んでこちらを見ている。

 そうだ。今は女性の手伝いをしていたのだった。思い出した井伊月重吾は「はい」返事を返して、女性の元へ駆けた。

 

「遅いぞ」

 

 少し切れのある女性の声色に苦笑し、「すみません」頭を下げる。そんなことをしていたら、いつの間にか胸の違和感はどこかへ消えていた。

 不規則な陽が射す廊下は薄暗く、物々しい雰囲気を漂わせている。廊下が長くて、奥にまで光が届いてない分、廊下はまるで廃墟のように人の気配が感じられない。いや、隣には女性がいるので怖くはないが、それでもそれなりの不気味さはある。

 

「そいうえば……えと、楯無ちゃんはどこへ?」

「お散歩だと。あいつは年頃だからな。ジッとはしていられん性分なんだよ」

 

 確かにこの建物や、建物を囲む敷地内は広いから、時間を潰すには丁度いい場所だろう。でも一人では、寂しくないか?

 井伊月重吾は思い、唇を尖らせた。

 

「暇人なんだ」

 

 そう言い、窓の外の空を見上げた。するとその時、井伊月重吾はそれを見た。空を流れていく白線と、その後を追いかける青白い光だ。かなりの速度で空を駆けていくので、それは流星のような刹那で井伊月重吾の上を通り過ぎて行く。

 空の中に消えていった流星に不思議な胸騒ぎを感じた井伊月重吾は、顔を顰めた。胸が苦しくて、手を置いた。頭の中で嫌なイメージばかりが思い浮かんでいる。太陽が沈み、世界が暗がりだけで成り立ってしまっている姿が、頭の奥深くで何度も点滅している。それはなんて怖いイメージなんだ。井伊月重吾は一抹の不安に唇を噛み、もうどこにも流星が無いことを確認してから、視線を前に戻した。

 朝食の時の出来事が過ぎり、自分の手を見たが、震えてはいなかったので安心する。流石にこのスケールでは、想像は出来ても体感することは無かったのだろう。

 安堵の吐いた井伊月重吾は、やっと前に集中することが出来ると、視線を女性に定めた。が、女性が前ではなく、何故か後ろを着いていく自分の方を見つめていたので、眉を寄せる。女性は驚いたような、それでいて悲しそう顔をしていた。

 

「どうしたんです? 立ち止まらないで行きましょうよ」

 

 いつまで経っても呆然としている女性にそう言い、井伊月重吾は前に進もうとした。しかし、脇を通り過ぎようとしたその時に腕を掴まれ、立ち止まる。

 

「なんです?」

 

 半ば呆れていたので、井伊月重吾は溜息交じりの言葉を漏らしてしまった。失礼な態度である。だがそんな態度をとったのにもかかわらず、女性はこちらを見て注意してこようともしてこない。それが少しだけ怖くなって、井伊月重吾は女性の顔を前から覗き込んでみた。

 両目と目が合う。女性の赤茶色の目と、井伊月重吾の目の行き先が交じり合う。だから分かった。女性の、瞳という名の小さな写し鏡に自分の姿が映っていたから判明した。女性が自分を見ていた理由を、驚いた顔をしていた訳を、それのおかげで知ることが出来た。

 

「……おかしいですね。……ははーーー涙が出てる」

 

 そう、涙だ。井伊月重吾の両目からは、涙が溢れていたのだ。だから女性もそれを見て、驚きで固まっていたのだ。

 ーーーいや、それだけで動けなくなるものなのか?

 ふと思ったが、すぐに一蹴する。今は涙を拭き取り、女性に対して笑顔をするほうが先だから、考えることはしない。井伊月重吾は袖で涙を拭い、そした笑顔をした。しかし女性の顔は変わらず、それよりもさらに険しくなった気がした。

 

「貴様ッ……!」

 

 女性が手を振り上げ、それを頰に振るってくる。

 甲高い音が鳴り、それと同時に叩かれたことを井伊月重吾は理解した。理由は分からない。けれど考えることはしない。そうーーー笑顔を見せなければならない。だから、

 

「何故、何故笑っていられる!?」

 

 女性に肩を掴まれ、そこでようやくハッとした。我に返り、井伊月重吾は口を震わせた。

 

「怖い……怖いです、先生……っ!」

 

 身体の奥底からの震えに、芯を揺さぶられる。この震えは、朝食の時の震えの比では無かった。きっとさっき想像した、世界が暗がりで包まれることのイメージが明確になったから、こんなにも恐怖を覚えているに違いない。ーーーだが、その恐怖は理解しなければ発症しない筈だ。体験だってしたことも無いのに、それが震えとなって現れる筈がなかった。

 ーーーなら、この震えはなんだ?

 身体を抱いた井伊月重吾は、想像が行き着かない恐怖の正体に息が苦しくなり、その場に崩れ落ちた。及ばない「恐怖」というものが、こんなにも嫌な感覚を味わせてくるとは思わなかった。井伊月重吾は瞼をギュッと閉じ、襲いかかってくる正体不明の恐ろしさに、ただ震えることしかできなかった。

 

「おい! しっかりせんか!?」

 

 女性が背中を摩ってくれるが、井伊月重吾の震えは一向に収まる気配を見せない。それどころかだんだんと、酷くなっているような気がする。吐き出す息も、体温が下がり始めているのか、それとも外気の温度が低いのか、白く曇っている。

 乱れる視界の中で、井伊月重吾は助けを求めた。こんなに苦しい思いをするのは嫌だ。誰か助けてくれーーーと。

 しかし、救いはこなかった。女性がどうにかして自分の震えを抑えようと頑張ってはいるようだが、心を蝕んでいく恐怖の感覚は消えてくれない。思考が出来ず、怖いという感情だけで頭が埋め尽くされていく。まるで自分が自分で失くなっていく消失感、そして不快感が、身体の内側を喰らい尽くそうとしていた。

 

「やだ……!いやだよっ、母さん! 誰か、助けて……!」

 

 吐き出すことも苦しく、吸うことも苦しい呼吸。目の前が歪んできて、身体が麻痺してくるのが分かる。

 

「ええい、どうすればいい……!」

 

 依然、女性は井伊月重吾を救おうとしてくれていた。それが嬉しくて、井伊月重吾は笑いたかったが、もうそんな小さな仕草を見せる余裕も残っていない。心が既に、侵食されかかっている。

 

(おかあさん、おかあさん! 嫌だよ。怖い、ひとりにしないで……。お願いだから、僕を助けて……!)

 

 判明することの無い恐怖の中、母親を求めるのは本能だろうか。そこには母親なんていないのに、井伊月重吾は目の前に手を伸ばして安心を求めた。

 開いた窓から吹き込んできた冷たい風が通り過ぎ、伸ばした手の指先を凍えさせる。安心は無く、温もりも存在せず、ただただ恐れの波に飲み込まれていくだけで、優しさは無い。

 だけども、井伊月重吾はそれしかできなかった。それしか方法が見つからなかったから、思い出せもしない母親を望み、ひたすらに手を伸ばした。温もりも何も無いことは理解している。けれど欲しいのだ。暖かさが、実感がーーーだから、

 

「ーーーーー誰か、助けて……」

 

 呟いたその声は、無慈悲にも風に攫われた。誰にも届くことは無く、青空の中に連れ去られた。

 涙が溢れ、言葉が出なくなった。恐怖で完全に動けなくなった身体はフラつき、女性が支える暇も無く、前に倒れて身動ぎしなくなる。井伊月重吾はふと考えた。もしかして自分は、ここで死んでしまうのだろうか? と。極端な考えだが、井伊月重吾はそれほどまでに怯え、そして憔悴し切っていた。

 女性の声が遠い。意識が薄れている証拠だ。

 井伊月重吾は手を降ろした。廊下の床に放りなげた。疲れたのだ。求めても、得ることが出来なかったから、もう無駄なことをしたくない。

 背中には女性の手があるようだったが、もうそれは重りでしかなかった。摩ってくれても暖かさなど生まれず、虚しいだけである。女性だって疲れている筈だ。もう放っておいてくれても構わない。「……やめてください」

 女性の手の動きが止まる。

 井伊月重吾はすまないと感じつつ、身体を無理矢理転がせ、仰向けになった。目の前に廊下の天井が映る。端には女性の顔がある。他人ごとの筈なのに、女性は心底心配そうな顔をして、こちらを見下ろしていた。

 

「……」

 

 ふと、あることを思い出した。きっと昔の記憶だ。確か自分は過去にも、こんな風に怯えたまま、身動きが取れなくなったことがある。けれどその時はすぐに治ったのだ。隣に"彼女"が居たから、倒れるまではなかったのだ。

 しかしそれなら、今の状況もあまり変わらない筈だ。昔の記憶の彼女とは違うかもしれないが、それでも隣には、自分を心配してくれている女性が居る。なんら変わりは無い。人物が違うだけで、心配してくれる人間は隣には居るのだ。なのにーーーなのに何故ーーー僕の心はーーーこんなにも「空っぽ」なのだろうーーー

 遂にボヤけてきた視界に瞼を閉じた井伊月重吾は、頰の辺りに不自然な温もりも感じた。体温が上昇したのか? 最初はそう思ったが、どうやら違うらしい。己の実感で感じる体温は、まだ冷たいままで、身体の震えも止まってはいない。だからこの頰に現れた熱は、きっと別の何かだ。

 

「ーーーーーあ、君は……楯無ちゃん、だね」

 

 重い瞼を開け、飛び込んできたものは、笑顔の少女の顔だった。頰に感じていた暖かさは、その少女が両手を当てていた為に発生していたものだった。

 

「……お散歩は終わったのかい?」

「何かね……嫌な予感がしたの。それで戻ってきたら、織斑先生と貴方を見つけたわ。……一体どうしたんです?」

 

 頰を指先で撫でてくる少女に尋ねられ、一瞬迷う。しかし彼女ならば良いだろうと、井伊月重吾は震えが収まりつつある唇を動かし、言葉を紡いだ。

 

「さっきね……空で流れ星を見たんだ。そしたら急に、怖いことばかりを考えるようになってね。……嫌だったよ。自分ではどうすることも出来ないほど、身体が言うことを聞かなくなって……最後はこんな風だ」

「流れ星……ですか?」

「うん。白と青が混ざりあったような色をしてた……。でも流れ星だったから、すぐにどこか行ったんだ。速くてね」

「……」

 

 少女が視線を固定し、何かを考え始める。

 見ると、女性も難しい顔をして思案しているようだった。

 

「井伊月。それは青と白が混じり合ったような色をしていると言ったな? 確かだな?」

 

 意味深な雰囲気を感じさせる強さの口調で、女性が問うてくる。

 頭の中で思い返し、確かにその色をしていたことを確信した井伊月重吾は、女性に向かってコクンと頷いた。すると女性は一層険しい顔をし、また思案することを始めた。

 

「……とりあえずベッドに行きましょ? 貴方、動けます?」

 

 考えるのをやめた少女が、こちらを覗き込んでくる。

 

「ちょっと難しいかも……」

 

 そう返答すると、少女は微笑みを見せた。

 

「大丈夫。私も肩を貸しますから、ゆっくり行きましょ。ーーー織斑先生、後は……」

「任せろ」

 

 短いやり取りだったが、井伊月重吾はその中に、重要な何かが隠されていると感じた。それが何なのかは、然程気にはしなかったが、無意識でそう受け取った。

 少女が脇に手を入れてきて、立たせてくる。

 井伊月重吾はその力を借りて脚を動かし、引っ張られる力と共に両脚を直立させた。身体はまだ少し弛緩していたが、立てるほどには回復していたようだった。

 

「少し歩きますからね?」

 

 少女の確認に頷きで返し、井伊月重吾は歩き始める。脇では少女が肩を貸してくれているから、歩くのが楽である。

 心の中で礼をした井伊月重吾は、一人残る、女性を肩越しに見遣った。

 女性は床に膝を着けるのをやめ、立ち上がっており、窓の外を睨みつけている。井伊月重吾の言った流れ星が気になるのだろうか? しかしその双眸から放たれている眼光は、決して好奇心から生まれるようなものではなかった。

 嫌な予感がする。これは流れ星を見た時と同じだ。

 口元を歪めた井伊月重吾は、それが杞憂であることを願い、再び前を向いた。後ろ髪を引かれたが、もうこれ以上の不安は感じたくはない。だからもう女性は見ず、窓の外も伺わず、少女の誘導に大人しく従って脚を動かした。

 

「何かあれば言ってね?」

「うん、ありがと」

 

 廊下を進み、更に進みーーー静かな部屋の前に辿り着く。少女が脇から手を抜き、一旦離れ、その部屋の扉を開けた。

 どこからか薬の匂いが漂ってくる。匂いを嗅いでそれを辿ってみると、薬の香りは部屋の中からしていることが分かった。

 壁に背中を預ける井伊月重吾は首を回し、開いた入り口から中を伺った。白を基調とした内装に、壁際には様々な瓶と書類が詰められたガラス棚がある。隅の方には、カーテンで区切られているベッドも二つあった。

 そうだ、ここは学校だ。思い出したそれに、部屋の正体が保健室だということを理解した井伊月重吾は、戻ってきた少女の力を再び貸り、中へと脚を踏み入れた。

 隅に置かれている二つある内のベッドの一つが、綺麗に整えられている。どうやら先に中に入った少女が準備してくれていたらしい。ありがたい。

 

「よいっ……しょっと。ふう」

「ごめんね、手間かけさせて」

 

 苦笑すると、「いいえ、全然」少女が軽く微笑んだ。

 

「何か今度、お礼をしたいな」

「別に大層なことした訳じゃないんですから、変に恩義を感じなくていいですよ。……あ、窓開けますね?」

 

 言い、少女が窓の方へ歩いて行った。

 閉じられていた窓が開け放たれる。保健室に充満していた古い空気がそれによって、綺麗なものと入れ替わった。呼吸をしてみると、どこか心地良い気分になれ、井伊月重吾は小さく息を吐いた。

 

「少しこうしてましょ」

 

 窓際から戻ってきた少女が、ベッドのすぐ傍に椅子を仕掛けて座った。脚を組んだ。

 こちらから見ると、少女の艶かしい脚の奥が見えそうになるので、目のやり場に少し困る。が、井伊月重吾は咳払いという名の誤魔化しをし、隙を見て、少女の組まれた脚を観察した。もちろんバレないようにだ。

 

「真昼間に流れ星だなんて、きっと疲れていたのね。幻か何かを見ちゃったんですよ」

 

 膝に手を乗せた少女が、困った顔をして言ってくる。

 それに、目を上げた井伊月重吾は、頭を掻いて唸った。

 

「そうかな……」

 

 確かに少女に言われた通りである。夜なら分かるが、昼間の流れ星なんてある訳がない。きっとあれは飛行機か何かで、それを疲れていた自分が勝手に解釈してしまったのだ。「勘違いだったのか……」

 頷き、少女が立ち上がる。そして窓際に行き、窓を閉めた。

 

「そんな落ち込まなくたって別にいいじゃないですか? 悪いことした訳じゃないんですし」

「でもさ……でもさ、変な考えをさせちゃったでしょ? それがなんていうかさ……少し情けなくて」

 

 昨日の出来事ーーー謎の生き物の襲撃を思い出した井伊月重吾は、ベッドのシーツを少女の見えない所で握った。

 女性は昨日の出来事で、目に見えて疲れていた。それに加えて自分の記憶についても考えてくれていたから、身体に感じている疲労感は相当なものだろう。なのに井伊月重吾は、さっき流れ星を見たなんていう妄言を吐いてしまった。そんなことを言えば誰だって、頭のどこかで思案してしまうのは分かっていた筈なのに。しかも謎の生き物に襲われた次の日に言われてしまえば、その流れ星のことを謎の生き物だって思い込んで、神経質にさせてしまうことも理解していたのに自分は……。

 

「……よっと」

「何してるの!? まだ寝てて!」

「先生に勘違いでしたって言わなきゃ。……あの人は僕達のことをよく考えちゃう人だから、流れ星のことを忘れさせてあげなきゃいけない」

 

 だから居ても立っても居られない。今すぐベッドから出て、女性の元に向かって、「勘違いでした」と言いたい。

 

「だったら私が言いますから、貴方は……」

「本人が言わなきゃ意味ないでしょ?」

 

 寝かし付けてくる少女を、逆にベッドに引きずり込んだ井伊月重吾は、靴を履いて歩き出した。しかし、身体がまだ本調子に戻っていなかったらしく、井伊月重吾は情けなく保健室の床に倒れてしまう。

 後ろで小さな悲鳴を上げた少女が、すぐに駆け寄ってきた。少女は怒った顔をしていた。当然だ。井伊月重吾は唇を噛み締めて、床に額を擦り付けた。「ごめんなさい」

 

「自分の身体のことだから、貴方はどうでもいいと思っているのでしょうけど、心配している人がいるってことを忘れないでください。頭でもぶつけたらどうするんです? また記憶を失くしたいんですか?」

「……わかってる。……ごめんよ」

「言葉じゃなく、行動で示して」

 

 もう何も言えず、俯いた。

 少女の言葉は正しい。これでは悪循環だ。心配をかけまいとしても、自分の行動がそれを悪いものに変えていく。

 ベッドに再び戻った井伊月重吾は、少女が掛けてくれた布団で顔の半分を隠した。少女は溜息を吐いていた。きっと歳上である自分が情けなく、そして子どもに思えたんだろう。

 

「もし今度抜け出したら、私……嫌いになります。ーーーそれじゃ、お休みなさい」

 

 背中を向け、少女が出口に向かっていく。

 横になった井伊月重吾は、悶々とする気持ちに窓を見た。

 

「ーーーーーあら、何か落ちてる」

 

 背後で、少女がそう言ったのが聞こえた。

 身体を反転させ、少女の方を見る。すると少女は腰を屈めて床に手を伸ばし、何かを掴んでいた。伺えるそれは、陽の光を吸収して光っている。井伊月重吾は気になり、ベッドから出て、静々と少女に近寄った。

 

「……指輪だね」

 

 背後から覗き込むと、少女が拾ったものは指輪だということが分かった。輪は金色で、青色の小さな粒の宝石が埋め込まれている。

 

「これ、内側に名前が彫られているみたいですよ?」

 

 言い、少女が指輪をこちらに近付けてきた。

 凝らして見てみると、確かに指輪の内側には文字のようなものが彫り込まれてあった。とても綺麗だ。

 ふと、あることを思った井伊月重吾は、「ちょっといいかな?」少女から指輪を取り、窓際の明るい所で今一度、指輪の内側に目を凝らす。金色の光が陽に反射して眩しかったが、どうやらその彫られたものは、人の名前であるようだった。それが判明したので井伊月重吾は、言葉に出して読んでみる。

 

「……じゅう……ご。……かた、な?」

「え?」

「じゅうご……重吾。それと、かたな? きっと人の名前だよ。人の名前が英語で彫られてた」

 

 少女の方に持っていき、見せる。覗き込んだ少女はその名前を見ると眉を寄せ、言葉に出来ないといった風でこちらを見返してきた。

 

「重吾って……これ、貴方の名前でしょ?」

「……これ、僕の指輪なんだ」

「それに……かたなって……かたなって、それは……」

「さっき転けた時に、服のどこかから飛び出したのか?」

 

 頭を傾げさせ、井伊月重吾は指輪を眺める。やはり綺麗な指輪だ。華美過ぎてないところがまた良い。

 よく見てみると、指輪には滑らかな線が入っていた。気になってなぞってみると、それはどうやら、指輪の内側の名前のように彫られているものではなく、何やら細工のような拵えられ方だった。

 ふとした思いで、その指輪を上下から引っ張ってみる。かなりの力を込めて、井伊月重吾は指輪を引っ張っぱってみる。

 すると、パキッーーー心地の良い音が指輪から鳴った。と、同時に井伊月重吾の両手も、掴んでいた指輪から離れた。

 離れた両手を交互に見ると、なんとそれぞれに指輪を握っていた。金色の指輪だ。ひとつしかない筈なのに、何故か両手の指にそれぞれ持っている。これはどういうことだ。

 

「……あ! これ、元々が二つなんだ」

 

 それぞれの指輪を近付けてみると分かった。この金色の指輪は元々が二つの物だが、あの滑らかな線に合わせて嵌めると、一つに合体出来るように加工されていたのだ。

 どうやら名前もその細工によって、二つに分かれるとそれぞれに名前があるように。そして合わせると、二つの名前を一つに集められるようになっていたようだ。

 井伊月重吾はそれに気付いた時、思わず感嘆の息を吐いてしまった。この指輪を考えた人は、なんて素敵な細工を施したんだろう、と。これを受けとった女性は、きっと凄く愛されていたに違いない。そう思い、自然の笑みも一緒に零した。

 横を向くと、何やら少女の様子が可笑しかった。唇が震えている。目も少し乱視していた、普通ではない。

 肩を叩いてみると、少女がビクリと揺れる。それを見て井伊月重吾はやはり尋常ではないと、少女を前から覗き込んだ。

 

「どうしたんだい?」

 

 なるべく優しい声で、ゆっくと少女に語りかける。しかし少女は顔を横に振るだけで、何も答えてくれない。

 口元を引き締めた井伊月重吾は、少女を日向に連れて行った。そしてもう一度、「どうしたの?」問いかけてみる。ようやく少女がこちらを向いた。乱視はしていたが、それでも先ほどよりは幾分か穏やかな様子である。両肩に手を置き、井伊月重吾はそんな彼女から出る言葉を静かに待った。

 

「……すみません。言えません」

 

 やっと紡ぎ出された言葉はーーーそれであった。

 

「事情があるんだね?」

 

 聞くと、少女が頷く。「わかった」井伊月重吾も頷き、少女の頭に手を乗せた。すると少女がこちらを見上げてきた。少女の赤い瞳は、陽の光を浴びて爛々としている。いや、それは涙の潤みの所為でもあるんだろう。

 

「聞かないよ。大丈夫」

「気に……なりますよね?」

「二度は言わない」

 

 少女が口元を歪ませ、俯いた。そして言葉を漏らした。

 井伊月重吾はそれを聞き取り、微笑んだ。その、少女が微かに漏らした「ありがとう」という言葉を受け取り、頭から手を退かせる。

 

「ーーーーーやはり仲がいいよ、貴様ら」

 

 いつの間にか、女性が保健室の入り口に立っていた。ずっとこの光景を見ていたらしく、その顔には悪戯な笑みが浮かんでいる。

 

「性格の悪い人だ。ね?」

 

 笑いかけると、少女が「そうですね」久し振りな笑みを見せてくれた。それが嬉しくて、井伊月重吾も釣られて笑った。

 女性が言う通り、仲が良くなってきている証拠なのだろうか?

 

「あ、そうだ。先生、これが……」

 

 先ほど見つけた指輪を女性に渡す。金色の指輪を受け取った女性は、それを頭上に掲げ、訝しむような目で観察し始めた。

 

「……名前か」

 

 暫く経った後に、女性がそう呟いた。

 

「流石です。そうです」

「ふむ、成る程な……。貴様の名前か。それと……」

 

 女性は井伊月重吾を見、そして視線を逸らして一瞬だけ後ろの少女を見遣った。その瞳は此処ではない何処かを見つめているような、そんな遠い目をしていた。

 

「既婚者だったのだな、お前さん」

 

 女性が指輪を投げてくる。

 それを慌てて受け取った井伊月重吾は、女性を睨んだ。しかし女性は朝食の時にも見せた、手をヒラヒラとさせる仕草で、勝手に話しを始めた。

 

「指輪には貴様の名前があった。そして女の名前もな」

「え? かたなって、女の子の名前なんです?」

「なんだ、もしかして貴様はそっちの気があるのか?」

「違いますよ!」

 

 どこか自分とは少しズレた女性の調子に戸惑う。

 確かに指輪に、自分とは別の名前が彫ってあれば、それが女性のものだと考えるが普通なのかもしれない。しかしだからといって女性の名前なのかを疑っただけで、そこまで言われる筋合いはない。井伊月重吾は指輪を大切に握り締め、女性に忌々しげな視線を送った。

 

「まあそう怒るなよ。手掛かりにはなるじゃないか。……今度はかたなっていう、"男"の名前を探せばいい」

 

 嘲笑混じりに放たれたそれに、とうとう我慢できなくなる。

 

「貴方、何歳ですか……」

「二十五歳だが?」

「僕より二つ歳下じゃないか!? なら、あまり馬鹿にしないでくれ!! しかも既婚者だ!!」

「既婚者は関係なかろう?」

「う、あ……あ、あるよぉ!」

 

 こちらの怒りが伝わっていないのか、女性は微動だにしない表情でこちらを見返している。それが無性に悔しくて、井伊月重吾は子どもっぽく地団駄を踏んだ。

 

「と、とにかく! とにかくだよ。とにかく先生は、あまり年上の僕をからかわないでください! わかりました!?」

 

 ビシッと、指先を突き付けてやる。が、やはり女性は動じてくれない。そのあまりの鉄面皮さに井伊月重吾は、もしかして女性は機械で出来ているのではないかと疑った。

 

「……まあそこまで言うのなら、今度からなるべく控えることにしよう。……しかしな、井伊月。貴様にも非はあるぞ?」

「なにが!?」

「すぐ顔に出る。感情が豊か。下手に出過ぎている。……そして子どもっぽいんだよ、お前は」

 

 そう言い、女性は妖艶な笑みを浮かべて去って行く。

 その後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた井伊月重吾は、途端負けたような気分になって悔しくなり、唸りながらベッドに身体を投げ出した。

 

「……子どもっぽいって言われるのは、そういうところから来ているんじゃなくって?」

 

 窓際に立つ少女が、悪戯っぽい笑みを浮かべている。

 

「……わかってるよ」

 

 起き上がり、息を吐く。すると少しだけ落ち着いたので、井伊月重吾は自分のことについて考えてみた。

 思い返すと、確かに自分は子どもっぽかったかもしれない。女性にも少女にも頼りっぱなしだったし、なんにも一人で出来ていないから、女性が自分のことを「子ども」だと言うのも、無理もないんだろう。けれどそれでも嫌な気分にはなる。女性が歳下だということには驚いたが、それなら女性には年上としての扱いをされたい。助けてもらっている身分で我儘だが、それでもそういう願いはある。

 

「ーーーでも、その考えが既に子どもなんだよなぁ……」

 

 難しいものだ。考えとは、見方ひとつでどうにでも変わるものだから、どれが正解かを見出すのが難しい。

 頭を掻いた井伊月重吾は、少女の方を見た。少女は、未だ悪戯な笑みを浮かべている。その笑顔を見つめていると、少し思うことがあった。たとえ表面は笑顔でも、裏側はどうなっているのだろうか? やはり子どもでもそれなりの悩みを抱え、苛んでいたりもする筈だ。だからそれを知らないで馬鹿にするのは、良くないことではないのか?

 ーーーと。そこまで思いを浮かべたところで、井伊月重吾は自分が嫌になった。やはり自分は、考えがどこか甘い。それが子どもっぽいと言われた一番の理由な気がする。けれどこれを直したって自分が変われないことを、井伊月重吾は頭のどこかで理解していた。

 

「……なんだよ」

 

 小さく漏らし、井伊月重吾はベッドから出て入り口へ向かった。後ろの少女が「どこに行くの?」と問いかけてきたので、「先生の手伝い。約束してたから」ぶっきらぼうにそう返す。

 振り返りはしなかった。きっと少女のことだから、自分の態度に苦笑しているだけだと思ったから、その顔を見ようとは考えなかった。けれど、知っていたらーーー僕はきっと振り返っていただろう。少女が悲しそうな顔をしていたのを知っていたなら、僕は彼女を慰めていただろう。どうしたの? 大丈夫かい? と語りかけ、困った顔をして笑いかけたに違いなかっただろう。

 けれど、もうそれは遅い。井伊月重吾は保健室を出て、自分に対しての憤りを感じていたから、少女のことなど微塵も考えていなかった。悲しんでいることなんて、悟らなかった。だから「最後」の別れだって、出来る筈がなかったーーー。

 

 ◆◆◆

 

 出て行った彼は、最後までふて腐れた顔をしていた。やはり子どもだ。歳が上でも、そう感じさせる幼さを持っている。しかし本人はそれを嫌っていたから、だから態度で保健室を出て行ったんだろう。

 溜息を吐いた楯無は、窓にそっと手を触れた。陽の光を受ける窓は、ほんのりと暖かい。季節は春だから、その太陽の日差しを浴びていると、不思議とポカポカとした心地になれる。

 

「別に子どもっぽくても……私は好きだけどなぁ……」

 

 呟き、楯無は苦笑した。

 さっきまで彼が寝ていたベッドに、身体を預ける。するとベッドには彼の体温と、そして彼の仄かな匂いが残っていて、楯無は瞼を閉じた。

 

(……やっぱり……あの人のこと、私、嫌いじゃないわ)

 

 彼とーーー井伊月重吾と初めて会ったのは昨日だ。無人機のISに襲われているところを、寸前で助けてあげた。

 彼は優しい人だった。嘘で身体に傷を受けたフリをしていたら、まるで自分のことのように慌ててくれた。……いや、それは誰でもそうなるか。思い、楯無は頰を緩ませた。

 ベッドの上で丸くなっていると、少しだけ睡魔がやってくる。きっとこの暖かさと、彼の、どこか落ち着かせる匂いがそうさせてくるんだろう。

 

「そう言えば……記憶が無いんだったわよね……」

 

 彼は記憶が無いと言っていた。どれくらい前の記憶から無いのかは聞いていないが、彼はそれを取り戻そうとしている。だからここに来たのも、記憶が無いことを女性に話し、助けてもらったからだと知っていた。

 朝食の時に、女性が調べてくれた情報の中に彼の名前は無かった。普通ならばあり得ないことである。彼は記憶が無い以前に何者なのだろう? と楯無は思ったが、それを知るにはやはり記憶を取り戻す必要があることも理解していた。だけどいかんせん、彼の記憶は簡単に戻らないような気がしてならない。

 楯無は仰向けになって天井を見上げ、彷徨している井伊月重吾の記憶の行方にほうと息を吐いた。

 

「……かたな……か」

 

 偶然ーーーだとは思うが、楯無にはひとつの心配があった。それは指輪のことだ。彼が転んだ時に落としたであろう、質素な指輪のことである。

 あの指輪には彼の名前と、そしてーーー"自分の名前"が彫られてあった。もちろん、始めは偶然だと思った。違う女性の名前だとも考えた。しかし、どこか違和感があるのだ。確かな違和感が。

 彼は自分を見て泣いたことがある。最初は、それは何かが記憶を刺激し、それに反応して井伊月重吾が泣いたのだと解釈していた。けれどその時、彼は確かに自分を見てーーー自分の姿を見た瞬間に泣き出したのだ。平然だった井伊月重吾が自分の姿を見た途端に、懐かしむように、抱き締めてきたのだ。そう、何かあると考えるのが普通であった。

 

「でも私、彼とは昨日会ったばかりなのよねぇ……。指輪のことといい、泣いたこといい……私と彼の間に何かあったって思うのが妥当よね……。はぁ」

 

 身体を起こし、伸びをする。いけない、このままだと眠ってしまいそうだ。

「よしっ!」頬を叩いて気を引き締めた楯無は、井伊月重吾の記憶集めに参加することを決めた。協力することを決意した。だって気になってしまうもの。彼と、あるかもしれない自分との関係の正体が。それに楯無は、彼の記憶ではなく、彼自身のことについても興味があった。

 

「その為には先ず、戸籍のこと。そんでもって血縁だとかの大まかなことよね」

 

 睡魔から完全に醒めた楯無は、学園の生徒会長ーーーそして裏世界の更識楯無として覚醒していた。目つきは鋭く、口元は妖艶に歪んでいる。服の内側に忍ばせている扇子を広げて胸を抱けば、もう彼女の意識は、暗部の人間へと早変わりするのだ。

 

「ーーーーーさあ、行きましょうか!」

 

 そう高らかに宣言し、楯無はベッドから降りた。扇子で優雅に空気を撫でながら、保健室の入り口を目指した。

 頭の中では井伊月重吾のことについて埋め尽くされている。そして彼の情報を得る為の算段も、着々と構築されている。

 この優秀さ、そして冷静さは、自分が暗部の家の跡取りに選ばれた所以であるのは知っている。昔はこの優秀さが嫌いであったが、今は感謝したい。こうやって彼のことについて追求していけられるのは、この大嫌いな優秀さを伸ばしてくれた、大嫌いな家のお陰なのだからーーー。

 歪んだ笑みと、楽し気な微笑み。それを一緒くたに混ぜ合わせる楯無は、これからのことが楽しみで仕方がなかった。彼のことを知ることが出来る。そうすれば、仲良くなれる。そう思っていたから、暗部としての自分とは別の、乙女としての自分の喜びが表情で現れていた。

 しかし、それはあえてやめない。押し込まない。

 この感情は初めてのものだから、新鮮な気分なのだ。汚い仕事をする時の、いつもの冷たいものとは違う"もの"を、このまま暫くは味わっていたい。だから、このままでいきたい。

 

「既婚者でも……それはそれでいいわよね。うふ」

 

 呟き、廊下に出た彼女の瞳は、実に楽し気であった。

 ーーーーーが、それはすぐに歪んだものに変わった。突然腹を貫いた、銀色の棒の痛みによって、楯無の嬉々としていた表情は、歪なものに変わり果てた。

 

「な、に……これ……ッ⁉︎」

 

 視線を下ろすと、腹部から血が流れていた。服が赤色で染め上げられ、下半身がガクガクと痙攣していた。

 不意に、背後に気配を感じた。

 痛む身体を強引に動かし、振り返ると、そこには一匹の白兎が立っていた。窓の枠に足を乗せ、天に向かって伸びる耳を動かす白兎が、こちらを見据えていた。

 楯無は眉を寄せた。兎? と。なんで兎がそこにいるのかと。そう思ったところで、二度目の突然の痛みを感じた。今度は肩に生じた。

 見ると、肩にまた銀色の棒が刺さっていた。血は出ているが、腹部ほどではない。いや、もうどこに刺さろうが関係なかった。楯無の腹に突き刺さった棒が致命傷だったから、楯無の意識はもう途絶えかけていたのだ。

 

「あ……」

 

 脚に力が入らなくなり、正面に倒れる。身体が揺れ、衝撃が走った。痛みは無く、感覚は既にボヤけているようだった。

 足音が聞こえる。ヒタヒタと、小さな足音が近づいてくる。頭を動かして確認してみると、白兎がこちらを見下ろしていた。

 

「先生……井伊月、さん……」

 

 薄れゆく意識の中、もう何を呟いたのか分からない。ただ冷たくなっていく身体を感じ、瞼を閉じていくだけ。音も感覚も今は無く、嫌な浮遊感だけが残り物としてあるのみだ。だから少し経ってーーーーー更識楯無の意識が途絶えるのは必然であった。

 

 




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