井伊月重吾の物語   作:名無しの執筆者

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どうぞ。


母と子と

 悲鳴ーーーだろうか?

 張り裂けたような女性の悲鳴だ。

 不愉快である。心が騒つく。

 頭を押さえた井伊月重吾は、顔を歪めた。脳内で、誰かが惨殺されるイメージが浮かぶ。唐突なそれには、嫌なリアリティーがあり、気分が悪くなった。

 

(楯無か……!?)

 

 周囲を見渡し、少女の姿を探す。だが、少女とは保健室で別れったきりで、それからは声も聞いていない。だから探してみても、見つかることは無いのは当然であった。

 ーーーけれど、声が聞こえたのだ。頭に直接だ。

 それは偶像のような、自分の聞き間違いかもしれない声の響き方であったが、井伊月重吾にはそれが楯無の声である確信がどこかに存在した。

 

「すみません! 先生、僕っ、行ってきます!」

「なに?」

「すみません!」

 

 昨日の出来事で出来た瓦礫拾いをやっていた途中だったが、今やそれどころではない。全身の血液が沸騰し、溢れてしまいそうだ。変な性急さが、脚と心を無理矢理に動かしてくる。

 背中にぶつかる女性の声に振り返らず、井伊月重吾は廊下を駆け出した。偶に空を蹴りかけつつも、前を向いて走り、少女と別れた保健室を目指した。

 頭の中のイメージは、保健室に近づくにつれより明確なものになってゆく。惨殺されている人間の顔も、次第に鮮明に浮き上がってきている。

 また脳裏に声が響いてきた。更に強い思念と共に、ダイレクトに伝わってくる。

 そのあまりの熾烈さに、井伊月重吾は立ち止まって呻き声を上げた。胸が苦しい。張り裂けてしまいそうである。何処からか伝播してくる"意思"の強さに、心が縮小を繰り返しいるようだ。

 

「楯無……!? 違うっ! 刀奈だろ……っ!」

 

 誰かも分からぬ名前を呟きつつ、井伊月重吾は壁を伝い、悪い足取りで保健室を目指す。しかし遂に耐えきれなくなり、膝を着いてその場に座り込んでしまう。

 荒い呼吸で汗をかき、瞳孔も開き切っていた。誰の目から見ても、井伊月重吾の状態はおかしなものであり、平然さの欠片もない様である。

 しかし井伊月重吾は立ち止まっていけないことを理解していた。手遅れになっては、取り返しがつかないから、足を止めてはいけないと。そう理解していたから、無理矢理にでも脚を動かして進み、悲鳴を頼りにした。

 

「声がだんだん……強くっ……」

 

 ーーー痛い。

 ーーーやめてくれ。

 ーーー聞きたくない。

 と。叫びたい気持ちを必死に押さえ込み、それでも前に進み続けた井伊月重吾は、やっと保健室の前まで辿り着いた。

「やった……」安堵に笑みを零し、大きく息を吐く。頭の中で反響する悲鳴はまだ治っていなかったが、また少女に会えると思うと、それも耐えることが出来た。

 止めていた脚を再び動かし、保健室の扉を押し込むと、爽やかな風が井伊月重吾の肌を撫でた。花の香りと、太陽の暖かさが含まれたその風は、まるで人の手に撫でられたような安楽さが持ち合わされていた。しかしこんな心地に身を浸している暇はない。井伊月重吾はにわかに足を運ぶと、保健室の中に入り、周囲を見渡しながら「楯無ちゃん!」と少女の姿を探した。

 だが、保健室の中はもぬけの殻らしく、期待外れにも少女の透き通った声は返ってこない。井伊月重吾の呼び声はただ虚しく、開いている窓の外に吸い込まれているだけで、意味を成さなかった。

 詮無いことならば、もうここには居る必要はないだろう。頭の中の悲鳴に焦燥感を振り返した井伊月重吾は、保健室の入り口に向き直り、出て行こうとする。が、その時、視界の隅に何かが横切ったのに気付き、その身体を今一度、保健室の中に向けた。そして見た。

 

「ーーーーー楯無……ちゃん?」

 

 保健室の床に、血塗れの少女が瞼を閉じた状態で寝転がっている。血だまりも出来ていて、少女の身体はそれに浮かび、四肢を投げ出していた。

 目を見開いた井伊月重吾は、あまりにも衝撃的な光景に少女に飛び付いた。そして血に汚れることも厭わぬままにその身体を抱き上げ、彼女の名前を叫び上げた。

 

「嘘!嘘だ! 嘘だろ、おいっ!」

 

 何度も言葉を繰り返しても、彼女が目を覚ますことはなかった。身体から血が滴り落ちているのだ。掬い取って身体を押さえつけても、どうしようもない。しかし、このままで終わらせたくはない。

 井伊月重吾は必死になってベッドに駆け寄り、覆ってあるシーツを無理矢理引き裂いて、そして戻って少女の身体にそれをあてがった。

 だが、シーツはすぐに真っ赤に染まり、それ以上の血を吸い込まなくなる。

 ーーーなら、もっとだ。

 

「ふざけるな!」

 

 憤りに言葉を羅列させ、再びベッドのシーツを引き裂きにいった井伊月重吾は、今度は中々上手く裂けてくれないシーツに声を張り上げ、ベッドを蹴り倒した。激しい音を立てて横になったベッドは、埃を巻き上げる。

 

「包帯……。包帯は、どこ!?」

 

 保健室にあるガラス棚に張り付き、中を確認する。するとかなり奥の方だが、包帯が仕舞い込まれているのを見つけ、井伊月重吾は鍵のかかったガラス棚を拳で叩き割った。その際に手の甲が裂け、血が噴出したが、気にはしない。

 少女の元で膝を曲げ、先ずは冷静になろうと息を吐く。

 さっき抱き上げた時に、まだ微かな呼吸はしていたから、可能性はある。これからやる、自分の処置次第で、彼女の生き死にが決まるのだ。

「死なせるもんか!」そう決意した井伊月重吾は、さっき包帯を取ったガラス棚から一緒に拝借したハサミを使い、少女の服を切り裂いた。そして一番血の滴る量が多い腹部を露わにする。表情を歪ませた井伊月重吾は、その晒された少女のお腹に思わず口元を歪めた。彼女のお腹には、大人の男の拳ひとつ分の大穴がポッカリと空いていたのだ。

 

「誰がやった……こんなことっ」

 

 目に見えて、少女の傷は普通のものではない。明らかに誰かの手によって開けられた穴だ。しかもこの、皮膚が外に向かっている裂け方からして、少女は背後から何者かに襲われたに違いないと推測出来る。

 自分でも恐ろしいほど冷静になった井伊月重吾は、取り敢えず止血だけはしようと、包帯やガーゼ、血が止められるものならば何でも使い、少女のお腹を押さえた。

 だが、やはりこれだけでは少女を救うことは出来ない。

 どうすればーーー。顔を歪めた井伊月重吾は、何も出来ない不甲斐なさに、ただ泣きたくなるばかりだった。

 

 ーーー助けたいなら、私を使えばいいのに……。

 

「使う? 使う……。!?ーーーそういうことかい!」

 

 突き動かされるように服の内側をまさぐった井伊月重吾は、先刻見つけたあの指輪を取り出した。そしてそれを少女の薬指に嵌め、手を握り締めた。

 この行動の意味は、正直言って自分でもよく分からない。

 ただ頭の中に響いた声に従っただけである。

 しかし井伊月重吾にはそれでどうにかなるかもしれないという、不確かな可能性を感じていた。その声が神様の助言かもしれないと思ったから、賭けるしかなかったと言ってもいい。

 どちらにせよ自分には、もう彼女に施せる術は無い。後は頭で響いた声の可能性を信じるしか、他に手はないのである。

 

(頼む! 神様なら、この子を助けてくれ……!)

 

 冷たい彼女の手を摩りながら、必死に祈る。

 開いた窓から風が流れ込んでくる。忌々しい風だ。あの風が、少女の冷たい身体を、さらに脅かしている。

 けれど、あの窓を閉めにいく暇はない。今はこの少女から片時も離れる訳にはいかないのだ。

 想像したくはないが、窓を閉めに離れたその瞬間、少女が死ぬかもしれない。その時、誰も側にいてやらなかったら、娶ってやる人間が居なければそれは不幸だ。

 だから井伊月重吾は少女の手を握り、そして摩り続ける。それを現実にさせるものかと祈りつつも、それが起きた時の可能性を考えて、側に存在し続ける。だんだんと熱を失っていく少女に泣きそうになりながら、それでも尚ーーー隣で膝を着く。

 しかし、そんな想いも虚しく、暫くして少女の手は完全に熱を失った。血縁の暖かさと、僅かな呼吸の震えが止んだ。

 

「……」

 

 言葉は出なかった。

 井伊月重吾は呆然とした。嘘だ、と。これは夢であると、少女の手を離さず、摩るのを怠らず、目を見開いて口元を引きつらせた。

 

「い、あ……あぁ……あぁああぁぁァッ!!」

 

 少女の亡骸から飛び退き、廊下に飛び出した井伊月重吾は、歯を噛み締め、目を見開き、獣のような唸り声を上げながら駆けた。

 なにもしてやれなかった。死んでいくのを見つめることしかできなかった。

 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなーーー。

 己の中で怒りを連鎖させていく。涙を零し、少女の笑顔を脳裏に浮かべる。次いで井伊月重吾は冷たくなっていく少女の手を思い出し、そして乱暴に自分の手を壁に叩きつけた。走りながら、血が噴出したのにも目をくれず、激情する感情に抗うことなく自身を傷付けていく。

 

「誰がやったんだ!?」

 

 そして学園の外に出た井伊月重吾。

 空を見上げて目を凝らし、華やかな庭園を見遣って歯軋りし、少女を殺めた存在の認識を最優先に、思考を働かせる。

 

「出てこい! 殺してやるからッ!!」

 

 しかし、その怒りは空に消える。吸い込まれる。

 ならばーーーと。

 今度は両手を大きく広げ、自分の存在を見せつけるようにして叫んだ。だがやはり、何も起こることはなかった。虚しさだけが其処に残った。井伊月重吾の胸の中に、発散できない感情の雫が垂れ落ち、かさが増していくだけでなにも起こりはしなかったのだ。

 息荒く髪を掻き毟った井伊月重吾は、行く宛の無い感情の波にとうとう我慢が効かず、言語ではない雄叫びを上げた。太陽が輝く空に向かい、両手脚を大地に着け、本当の獣のように嘆き叫んだ。

 しかしその咆哮もやはり空に吸い込まれ、そして消えるだけである。怒りで増幅し、濃くなった人間の感情でさえも、無限に広がる空はそれを容易く吸収する。

 構わない。構うものか。この怒り、涙は、溜め込めんでいられるものではないのだ。吐き出さなければ、自分自身を殺してしまいそうになる。だからーーー『僕』は叫び続ける。それを馬鹿だと言う者が居れば、殺してやろう。

 

「刀奈ぁ……。刀奈ぁぁァ……ッ! あぁぁああアッ!!」

 

 独り、涙を流す井伊月重吾。

 その遥か後方の校庭では、一匹の白兎が跳ねていた。

 

 ◆◆◆

 

 その時、織斑千冬は瓦礫拾いに勤しんでいた。

 青年ーーー井伊月重吾がどこかへ行ってしまったから、人手が足りない分を補わなければならない。だから休むこともせずに千冬は、黙々と腰を屈めて地面と向き合っていた。

 

「全く。私は女なんだぞ……」

 

 しかし千冬とて人間である。何も感じていないわけではない。勝手にどこかへ去った井伊月重吾に対しては、少しの怒りは覚えている。

 けれどそれを感じつつも、作業の手を休めないのは、千冬の責任感の強さ故であった。それに教師という職業に就いている立場柄だから、学園の損傷に知らない振りをするわけにもいかない。

 ーーー経って、小一時間。

 織斑千冬は屈めていた腰を上げると、ようやくさっぱりしてきた廊下の姿に熱い息を吐いた。

 ずっと腰を曲げていたから、酷く痛む。ジジ臭い真似はしたくはないが、千冬は仕方なく腰の辺りをトントンと叩き、腰に発生している鈍痛に顔を顰めた。

 

「……さて、あと少しだ」

 

 前と比べ、散らかっていた瓦礫は跡を残していない。微かな小石が落ちているだけで、手早くやれば直ぐに済みそうである。

 瓦礫を集め、入れていた麻袋の口をキツく締めた千冬は、残った小石や砂埃を掃除する為、箒と塵取りを取りに行った。

 服にはたくさんの汚れが付いていた。まあこれは、頑張った証というやつだから、汚いとは感じない。むしろ誇らしい勲章のようなものである。

 しかし、千冬だって女性だった。当然、服の汚れは気になるし、髪にも埃らしき粒が多量に付着しているから、さっさとお風呂に入りたいと思っている。

 なら、何故部屋は綺麗にしたいと思わないのか?

 それを分かりつつも、深く考えようとしないのは、もはや千冬にとって日常茶飯事のようなものだった。小姑のような弟を思い出して苦笑し、小さな息を吐くことも。

 ーーー切り替え、千冬は再び教師という職業に就いた。

 先ほどまで頭の中に浮かんで温い想像は、元から無かったかのように消え去っている。この思考の切り替えの速さと鮮やかさは、織斑千冬が厳格な人間であることの証拠である。

 

「ーーーなんだ、まともな道具がないじゃないか」

 

 見つけた掃除用具の中を拝見すると、中には使えそうな物が二つ程しかなかった。しかもそれだって、何年も使われずに放置されていた物だから、ガラクタのようにボロボロである。

 まあ確かに、このIS学園はお嬢様育ちの人間ばかりが生徒として通う、言ってしまえば金持ちの学園だ。贅沢にも清掃員だって雇われているし、庭師だっている。だからこの掃除用具入れの中身は、仕方がないことなんだろう。だって清掃員を雇っているのだから、生徒は掃除をする必要はないのだ。代わりに清掃員の人間が手早く済ませてくれるから、生徒はそれをしないで勉学に励むだけである。

 埃の被った掃除道具を見つめ、眉を寄せた千冬は、自分が昔通っていた学校とはえらく違う環境だな、と溜息を吐いた。

 目の前の掃除用具の扉を閉め、まだ途中の掃除場所へ戻るための帰路へ着く。

 両手には掃除道具がある。右手には、持ち手の棒が半分ほどから折れた箒と、ヒビの入ったプラスチック製の塵取りだ。こんなになるまで放置されていたとは、今度教師全員がかりで点検する必要があるかもしれない。

 と。そこで千冬は立ち止まった。

 ーーー何かがおかしい。

 変な違和感だった。誰かに見られているような、そんな不愉快さが全身を駆け抜けていた。気にはしていなかったが、その違和感と不愉快さは先程から感じていたものと同じであった。

 にわかに箒を振りかざした千冬は、それを自分の遥か後方の空間に向かって投擲した。目を見開き、全身の筋肉を活気させて本気の投擲をした。感じる違和感が一番強い場所が後方だったから、試しに投げてみたのだ。

 すると、どうやら当たっていたらしい。

 箒が空中で突然弾かれ、床に落ちたのだ。何も無い、何も"見えない"空中で、何かと衝突したような弾かれ方をしたのだ。

 

「……敵か?」

 

 そう呟いた瞬間、不愉快さが一気に膨れ上がる。

 何かくるーーーそれに千冬は無意識的に横に転がった。

 刹那、先程まで佇んでいた場所が爆散し、細かな破片と凄まじい風圧が撒き散らされる。そしてその台風のような風圧は、千冬の身体を壁まで吹き飛ばし、空気を震わせた。

 

「……忌々しい」

 

 廊下の壁に身体をぶつけた千冬は、強く打った背中を押さえ、立ち上がった。

 爆散した廊下の床は、下の骨組みが剥き出しになっていた。昨日の事件で起こった被害よりも大きい、頭を抱えたくなるような損傷だ。

 それを刮目した千冬は、血液の沸騰を感じた。薄ら笑いを浮かべて肩を揺らし、頭を振った。

 誰がアレの面倒をすると思っている。瓦礫を拾い、そして業者に電話をし、日程なんかを組むのを誰がやると思っている。そしてそれがどれだけ面倒なことなのか、事を起こした存在は理解しているのか?

 

「ーーーま、承知はしておらんだろうな……」

 

 ペロリと、上唇を舐めた千冬は、廊下の曲がり角からゆっくりと現れたその存在に敵意を向けた。全身を鋼の鎧で包んだ、昨日と全く同じ姿の敵に、射殺す眼をした。

 点字に似た眼を点滅させる敵が、こちらを据える。

 それぞれ縦に三つ、横に二列。合計六つある敵の眼は、相変わらず蜘蛛の眼を連想させる気持ちの悪いものだ。

 手を数度を握り締めた千冬は、手近にあった瓦礫を拾い、それを眺めて鼻を鳴らした。

 昨日は逃げ回るだけだったが、今回は違う。隣に井伊月重吾が居ないから、守りに入らなくていい。相手が人外であれど、千冬にはそれを覆す自信がある。それは『ブリュンヒルデ』の称号からくる自信か。ただ純粋な強さからの自信か。それともーーー

 

「戯れてやる。こい、貴様」

 

 反応した敵が、甲高い悲鳴のようなボイスを上げ、千冬目掛けて突進を仕掛けてくる。それに口元を歪めた千冬は、久方振りの戦闘に高揚を隠し切れず、掠れた吐息を漏らしたのだった。

 

 ◆◆◆

 

 ーーー起きて。

 ーーー起きなさい。

 ーーー貴方には、まだやることが残っているんだから。

 遠くから聞こえてきたその声には、妙な既視感があった。自分の中から直に沸いているような身近さが。

 身体が怠く、腹部に変な違和感がある。肩もズキズキとしていて、身動ぎすると鋭い痛みが全身を駆け抜けた。

 

「……生き……てる?」

 

 目を見開いた青髪の少女ーーー更識楯無は、腹部を中心に発生している痛みに構わず、身体を起こし、自分を見下ろした。

 服が切り裂かれたようにボロボロになっている。脇にはそれをしたであろうハサミが投げられている。楯無はそれを見、誰かがこれをしたのだということを人知れず悟った。

 突然の鈍痛が身体を襲う。

 顔を顰めた楯無は、保健室の床に真っ赤な絨毯を敷いた腹部からの血を掬い上げ、我が身がどのような状態にあるのかを確認しようと目を凝らした。視界がまだ少しだけ霞んでいたが、意識して目の前に集中すると、それがだんだんと視えてくる。

 

「ーーー何、これ?……水?」

 

 不思議な現象が起きていた。

 自分の腹部にある傷穴が、透明な水で覆われていたのだ。ーーーいや、この感覚は覆われているだけではない。空っぽになった肉体の穴を塞ぐように、水が隙間なく詰まっている。それが身体の感覚を通して解る。

 恐る恐るその水に触れてみると、とても温かかった。人間の体温と寸分違うぬ温かさである。

 眉を寄せた楯無は、不可思議なこの水が気になって仕方がなかった。が、それよりも気になる物を発見してしまい、楯無の意識は傷穴から逸らされた。

 ーーー己の薬指。

 そこに、あの指輪が嵌められていたのだ。金色で、青い宝石が埋め込まれている井伊月重吾の指輪が、何故か楯無の指に存在したのだ。青い宝石から仄かな光りを発し、厳かな雰囲気を醸し出して。

 

「……」

 

 恭しい手つきでそれを眺めていた楯無だったが、突如耳に聞こえた轟音に目を見開き、反射的に立ち上がった。

 身体がズキりと痛んだが、音の正体の方が気になった為、保健室を出て廊下に出る。意識を失ってから時間はそれほど経っていないらしく、空の色はまだ青空であった。

 そういえば、自分は何者かに襲われたのだった。……そう、それは白い兎だ。窓の枠に座っていた、輝く毛並みの兎だ。それに襲われ、自分は身体に大きな傷を負ったのだった。

 ならば、先程の音の正体を早急に調べる必要がある。もしかするとそれを出したのが、あの白兎かもしれないから、誰かに被害が及ぶ前に確かめなければならない。

 そう意気込むと、楯無の脚は自ずと速まった。

 身体は怪我を負い、本調子とは全然言えない状態だが、この学園には武装を持たない人間が二人居る。だから生徒の長であり学園の守護者でもある生徒会長の楯無には、その存在を守ってやる義務があった。

 

「……ッ!ーーー……来てッ!」

 

 駆け抜ける痛みに悶えつつも、己の専用機である〈ミステリアス・レイディ〉を装着し、右手に一振りの槍を携えた楯無は、バーニアから青白い炎を噴射させて廊下を飛んだ。その際に生じる空気の圧に抵抗して呼吸をすると、腹部が痛んで苦しかったが、それでもISの操縦者保護機能の恩恵によって、傷口の痛みは幾分かマシになっていた。

 学園のマップホログラムを呼び出し、ハイパーセンサーで生体検知をすると、楯無から少し離れた場所に男性と女性の反応が出た。それぞれ違う場所にいるようだったが、どうやら無事なようである。

 マップを閉じ、バーニアの加速を強めた楯無は、近道をするために廊下の窓から外へ飛び出した。際に窓枠に、槍の先端をぶつけて一部を抉ってしまったが、怒られたくないので黙っておくことにしよう。

 悪戯っぽく舌を出した楯無。そうして空へ上がり、先ずは女性の反応が示された場所へ向かった。

 

 ◆◆◆

 

 呼吸が乱れている。

 汗で髪の毛が肌に張り付いている。

 視界の前では、熱を持った吐息が停滞していた。身体からは湯気のような熱気が上がっていて、否応なく我が身の体温の上昇を実感させる。

 織斑千冬は、身体の隅々までを満たしている疲労感に鼻を鳴らし、背中にある廊下の壁に頭をぶつけた。

 両目に映っている光景は、とても酷いものである。

 床は瓦解し、隅に飾られていた観葉植物は中身をぶち撒け、廊下の景色を滅茶滅茶に仕上げている。外観は白色で、染みひとつ無い学園ではあるが、その実、中身は戦場後の有様が広がっている。

 ーーーもちろん、先刻までは華美な内装ではあった。外壁と同じで、汚れひとつ見当たらないような森閑さを持っていた。

 この場所を此処までのものに仕上げたのは、とある存在と千冬との戦闘であった。説明するのも面倒な戦いだった。証拠は今の自分の状態だ。『ブリュンヒルデ』と呼称された自分に疲労感を満喫させる程の戦闘の所為で、こんな惨状が出来上がってしまったのだ。

 

「ーーーーーなあ? そうであろう?」

 

 と。千冬は嘲笑を浮かべ、"横"の存在に語りかけた。崩壊した床に身体を埋もれさせる、全身を鋼の鎧で包んだ"その敵"に、嘲笑う視線を向けて鼻を鳴らした。

 

「悪く思うな。久方ぶりに熱くなってしまったのだ。手加減しては、ブリュンヒルデの名が泣くだろう?」

 

 言い、片手に握っていた瓦礫の一部を放り投げた千冬は、立ち上がって深呼吸をした。それだけで、乱れていた呼吸は穏やかさを取り戻した。

 昆虫のような外見を持つ敵は、もうその六つの瞳を妖しく発光させてはいない。それどころか、六つのうち二つほどの眼を、千冬の手によって破損させられている。

 敵はその巨体を活かした、様々な攻撃をしてきたが、それでも千冬の方が強かった。危なくはあったが、何とか誰にも被害を及ばせず、小石一つだけで勝利することが出来た。廊下は激しい損傷を受けたが、それでもこの結末は、お釣りが返ってくるほどの結果であると自負している。

 

「先生ッ! 無事でしたか!?」

 

 突如、千冬の隣ーーー即ち、動かなくなった敵が倒れている真横の壁をぶち抜き、見慣れた顔の楯無が登場した。ヒビ入った頭上の天井から、パラパラと屑が落ちてくる。その少女は顔に焦燥の色を浮かばせ、こちらに寄ってきた。

 おう、と片手を上げて反応した千冬は、そこで初めて目の前の少女の腹部に、目も当てられないような傷が存在していることに気が付いた。遠目から見ても、その傷は痛々しい。血は止まっているようだが、あれは完全に背中にまで貫通していると判る。何をしてそうなってしまったのかは見当もつかないが、千冬にはそのまま座っている訳にはいかなかった。

 

「痛くはないのか? 楯無」

 

 楯無はISを纏っていたが、彼女の専用機は全体的に装甲が少ないため、腕や脚、腹部などといった肌は基本何も覆われていない。代わりに楯無の左右に停滞しているアクア・クリスタルから作り出される、半透明上の水ーーー通称アクア・ナノマシンが肌を守ってくれているのだ。が、そうだとしても、今目の前にある楯無の傷は、とてもじゃないが身体を動かせることが可能なものじゃなかった。もしかして彼女は、無理をしているのではないか?

 見上げると、楯無の両目と視線が合う。

 その赤色の瞳には、いつも変わらぬ芯の強い意志が灯っているように感じられた。だが、その意思の強さと一緒くたになる、苦しみも紛れているのがどこか判った。

 

「病院へ行くぞ、楯無」

「まだ井伊月さんを見つけてません」

「あいつなら、仕事をほっぽり出してどこに行ったよ」

「でも……」

 

 尚、井伊月重吾のことを気にかける楯無に、千冬は強引な手引きをした。楯無はそれにISの展開を解き、床に着地すると、「歩けますから」と文句を漏らしてくる。しかし千冬はそれを気にせず、いくら経っても青年の事を言ってくる楯無を抱き抱えた。

 

「先生! 彼は……!?」

「後で探すから黙っておれ」

「そりゃ無茶ですよ!」

「惚れた男が気になるのはわかるが、しつこ過ぎると、今度は相手に毛嫌いされてしまうぞ?」

 

 言ってやると、楯無の顔が途端赤くなる。その季節一番に収穫された果実のように、特有の色で頰を染まらせている。

 口元を釣り上げた千冬は、トドメに「連れていく病院に入院したら、お前の病室にあいつを向かわせてやる。だから大人しくしておけ、な?」と言ってやった。すると少女は縮こまった子猫のように静かになり、嬉しいような恥ずかしいような表情をして、えへへと笑った。

 鼻を鳴らした千冬は、それに乙女だなと頰を微かに緩ませ、楯無を抱えたまま廊下を歩いた。

 

 ◆◆◆

 

 どこだ。どこにいる。出てこい。殺してやるから。

 己の中で何度も繰り返す内に、それは口癖に変わった。

 走り、少女を殺した敵を探している最中に、静かにその嘲罵を漏らすのだ。意思を込めて、明確な怒りを込めて、丁寧に。

 自分は、穏やかな性格だと思っていた。

 が、真実は違ったようで、こんなにも殺意が剥き出しになっている。これでは穏やかさの欠片も、優しさも垣間見ることはない。だが、これは少女を殺したヤツが悪い。自分は悪くない。悪いのは敵。少女を殺した敵。敵だ。敵、敵の、敵で、敵な、敵を、敵が、敵、敵、敵、敵、敵ーーーーー。

 

「ーーーーーはっ、はっ、はっ、はっ……!」

 

 と、そこで意識がハッとした。

 視界が横になっている。外に植えられている気が、上ではなく横に向かって伸びている。空も、上ではなく横に在る。息が苦しく、呼吸がいつの間にか乱れていた。左頰に、固い感触を感じる。視線を動かし、自分の身体を見ると、そこで初めて井伊月重吾は、自分が地面に倒れていることを知った。

 死んだのか? そう思ったが、どうやら違うらしい。手足にある疲弊感と、肺を締め付けるズキズキとした痛みから考えて、がむしゃらに走っているうちに身体の方が持たなくなり、どうやら倒れてしまったようだった。意識は走っていたつもりだったから、全然気が付かなかった。

 指先に力を込め、地面を押し付けた。しかし、身体が持ちが上がってくれない。それもそうか。視界の隅で震えている、己の腕の痙攣を見ればわかる。限界なのだ。自分の身体は。

 くそ。不甲斐ない自分の身体に歯を噛み締めた井伊月重吾は、日に晒される藁のように四肢を投げ出した。走っていた為、身体の温度は上昇している。だからこうやって陽に当たっていると、呼吸が苦しくなる。しかし動けないので、井伊月重吾はその苦しさを嫌々味わい続ける。

 

(そういえば、僕……あの子のこと、刀奈って呼んだよな)

 

 周りに音が無いので、ふとしたことでも深く考えてしまう。それが少女のことなら尚更で、井伊月重吾は暑さで苦しい中、口元を少しだけ緩ませた。汗が、口元に垂れ落ち、しょっぱさが舌を刺激する。

 刀奈と呼んだあの時、言うことはなかったが、強い「愛情」を井伊月重吾は感じていた。血に塗れ、今にも死んでしまいそうだった少女に対してだ。

 けれど、井伊月重吾にはそれが不思議でならなかった。

 確かに彼女を好ましいと感じているのは事実である。だがそれは、普通の人間が、普通の他人に対して抱く好感と同じものだったのだ。だった筈なのだ。

 それなのに自分は、少女にこう感じた。愛おしいと。失くしたくはない人間であると。まるで愛し人を見る目で彼女を見つめながら、虚しい心に想いを馳せてしまった。

 それが不思議で不思議で、堪らなく不思議でならない。

 何故か? いい想いではないか?

 邪でないのなら、それは貫くべき感情だ。

 ーーー違う。

 他人が素敵と想うものは、本人にとっては絶対ではない。壮麗で汚れ無き想いでも、違うものに捉えられ、感じられ、そして痛事を生み出す原因に成り果てることもあるのだ。現に、井伊月重吾は胸に、彼女に感じる愛しさ故から、彼女を助けてあげられなかった罪悪感に苦しんでいる。引き抜くことの出来ない棘に痛みを感じ、涙を流している。

 それなのに。尚、その姿をさせる想いをまだ美しい感情だと言う人間が存在するのなら、その人間はきっと、境涯の中で一度も泣いたことが無い人間なのだろうなーーー。

 

「……こんなの、間違ってる。……世界は……こうあるべきじゃないんだ。絶対に……」

 

 ふと見上げてみると、空の中を一羽の小鳥が旋回していた。

 青空に決して負けない、青色の毛並みをした小鳥だ。嘴は遠目で判別出来ないが、きっと綺麗な黄色をしているに違いない。

 井伊月重吾を中心に、快い音色の鳴き声を奏でながら、その小鳥は旋回を続けている。何がそんなに楽しいのか、ずっと空中を飛び続けている。

 あれは、なんの鳥なんだろう。見たことがない種類だな。

 少しの間、思考を捨てた井伊月重吾。

 視線の先を小鳥に固定し、その様を観察する。

 小鳥は一羽だけで空を舞っているようだが、仲間はいないのだろうか? 小鳥は弱い。だから、必ず群で行動すると思っていたのだが違うのか?

 

「君、はぐれちゃったのかい?」

 

 ふとした質問だった。

 小鳥が、答えてくれる訳がないことはわかっている。けれど無意識に出たその問いは、無意識であったからこそ止めることが出来なかった。

 ぼうと、小鳥を見つめる。

 答えてくれるかもしれない。そう思ったからだ。

 だが、やはり小鳥は答えてくれない。楽しそうに、空を回り続けている。優雅に、陽気に。

 変な可笑しさに笑みをこぼした井伊月重吾は、戻ってきた体の感覚を頼りに立ち上がり、そして空に向かって手を伸ばした。正確には、空を舞う小鳥に向かって手を差し伸ばした。

 気付いた小鳥が、ピロロと鳴く。翼を強く動かして、勢い良くこちらに井伊月重吾に向かってくる。

 小さな体だが、その宙を羽ばたく姿はなんと雄々しいことだろう。日差しを受け、青色の毛並みを輝かせる姿は、まるで宝石の如く感じられる。

 その時、井伊月重吾は目を見開いた。

 何故なら小鳥が、巨大な鷲に変貌したからだ。いや、小鳥は確かに小さいままで、その姿も寸分変わっていない。が、小鳥がこちらに向かって滑空してくるあまりの迫力に、井伊月重吾は小鳥が鷲に見えてしまうという幻覚を起こしてしまった。

 情けない声を漏らして、尻餅をつく。井伊月重吾のすぐ上を、小鳥が通り過ぎて飛んでいく。

 口をぽかんと開け、小鳥の姿を目で追った井伊月重吾は、込み上げてきた可笑しさに大きな笑い声を上げた。

 

「なんだい。皆、いるじゃないかい」

 

 井伊月重吾の視線の先。そこには先ほどの小鳥を待つ、沢山の小鳥の群れが存在した。

 一匹や二匹の少数ではない。十や二十の大軍だ。

 皆、青色の毛並みをしている。家族だろうか?

 井伊月重吾は手を振り、おーいと声を上げた。しかし、やはり小鳥がこちらに反応してくれることはない。

 けれど、井伊月重吾はそれでも振り続ける。

 待ち鳥達が小鳥を迎え入れ、彼方に移動を始めても、構わず呼びかけ続ける。よかったねと。今度は、はぐれるんじゃないぞと。自分が独りであることの実感を再認識しながら、涙を流して声を張り上げる。その姿がたとえ惨めであっても、己の心をまやかす為なら構わず、必死でーーー。

 

「誰か……僕に返事してくれよ……頼むから」

 

 しかしそれは、強い虚しさも感じさせる。

 気丈な振る舞いは時として、嘆かわしい芝居に変わる。

 井伊月重吾は泣き崩れ、両手を地面に着けた。

 ああ、もう嫌だ。独りは嫌だ。記憶なんていらない。ただ温もりが欲しい。なんでこんな思いをしなければならない。自分がいったい何をした? 何をしたというのだ。

 肩を震わせ、嗚咽を漏らす井伊月重吾。

 目元から溢れる涙が頬を伝い、顎に集まり、大きな粒となって地面に落ちる。赤茶色の煉瓦の石畳みの隙間に、その涙は吸い込まれていく。

 哀しみ。嘆き。痛み。憂い。

 様々な感情が交錯し、「熱」となって心を焼く。

 息を吐けば苦しく、吸えば痛く。

 流す涙がさらなる苦しみを誘って、落ちる涙の光景がさらなる痛みを促す。

 そんな容赦なく襲いかかる絶望の波に、井伊月重吾は既に限界を迎えていた。いや、限界はとうの昔に迎えていた。解る。兆候が何度かあったから、予想が出来ていた。きっと熱を失った少女を看取ったあの瞬間、僅かだった支えが無くなって、一気に瓦解してしまったのだろう。

 が。崩壊の過程を理解していても、自分はそれを止める術を知らない。初めての経験、慣れぬ孤独の感覚は、知りたくても知れない経験だ。だから処置がわからない。病院に行け? 馬鹿げている話だ。

 

「……もう嫌だーーー助けてくれ」

 

 両腕を顔の前で交錯させ、頭部を地面に擦り付ける。

 収まる気配のない恐怖の波に、おかしくなってしまいそうだ。

 井伊月重吾は思い出したかった。自分の記憶を、その奥底に眠る過去を、呼び覚ましたかった。それが出来れば、こんな孤独ともおさらばできる。そう思っていたから、苦しいのを我慢してずっと耐え続けた。

 けれど、無理だった。

 たった二日程度の期間で、取り戻せる訳なかったのだ。

 ーーー当然だ。

 記憶というものは、そう簡単に出し入れ出来るものではない。失くしてしまえば尚のこと、それは難しくなる。

 勿論知っていたさ。自分のことだもの。だけど、それを知った上での井伊月重吾の我慢は、この二日間のあいだで終わってしまったのだ。大人なのに。大人なのにーーー。

 

「……死んだんだ……あの子が。……我慢出来る訳ないだろ」

 

 零したその時、不思議な音を聴いた。

 凛ーーーとした音だった。

 鐘のような、鈴のような、よく分からない、鉄を打ち鳴らしたような甲高い音。けれど全く耳をつんざくことがない、綺麗で儚い音色。

 顔を持ち上げた井伊月重吾は、涙の膜で霞んだ周囲を見渡し、そしてそれを見つけた。

 白く、白くーーー。銀色の毛並みを風になびかせる、一匹の白兎。天に向かう耳を震わせ、こちらを見遣っている白兎。

「かあ…さん?」無意識に、井伊月重吾は言葉を漏らした。どんな意味があるかも知らないで。どんな意味があるかも理解しないで。白い毛並みを持つその「白兎」に、安らぎを感じるその言葉を紡いだ。

 白兎が、静々とこちらに寄ってくる。

 恐れは感じない。だからこそ、井伊月重吾も這いずった。

 手を伸ばし、指先を伸ばし、吐息を漏らす。

 風の音が鼓膜を掠め、太陽の陽射しが地面を反射して網膜を刺激しようと、井伊月重吾は白兎に着々と近付く。

 あと少し、あと少しーーー。

 まるでこれは、やっとの思いで母親と再会した子どものよう。不安で、怖くて、孤独で仕方のなかった子どもが、やっと居場所に戻ることの出来た再会のよう。

 苦しみの中で、井伊月重吾は希望を感じた。

 きっとこの白兎は、自分を助けてくれる。「あの人」は、自分を救ってくれるかもしれない、ただ一人の存在だ。

 あと少し、あと少しーーー指先は、既に毛並みに触れている。

 

「……助けに来てくれたんだね? ね? 母さん」

 

 笑顔を浮かべ、そう言うと、白兎が自分を抱き締めてくる。

 それに苦しみからの解放を感じた井伊月重吾は、今まで以上の涙を流し、嗚咽を漏らし、優しい白兎の体に抱き着いた。暖かかった。白兎には優しさ、そして安らぎ、今は忘れてしまった「母」の愛を感じるような気がし、井伊月重吾は瞼を閉じた。

 が。瞬間、腹部に激痛が走った。

 声に成らない悲鳴に歯を食い縛り、視線を下げると、そこには白兎の腕を飲み込む己の腹が存在した。そして、「真っ赤」な何かも存在した。

 ごぽ、と喉元から何かが込み上げてくる。熱を持ち、舌先に絡み付く粘液のようなものが押し上げられてきて、我慢出来ずに吐き出してしまう。

 吐き出し、そして白兎の純白の毛並みに付着したそれ。

 真っ赤で、粘り気を持つその液体は、腹部から垂れているものと同様の我が身の血液であった。

 見、口元にある嫌な温かさに表情を歪めた井伊月重吾は、掠れた悲鳴と共に白兎から離れ、背中から倒れた。呼吸をすると、ヒューヒューという音が口元から溢れた。酸素を取り込もうと腹を膨らませると、また口から血液が溢れ出した。

 

「……なん、で……なん…でだよ……」

 

 揺れる視界の中で、必死に思考する。しかし腹部に発生している痛みがそれを凌駕し、涙だけが溢れ出してくる。

 

『スイッチは入れた。もうすぐ、何もかも思い出せるよ』

 

 白兎が、そんな訳のわからないことを言った。

 井伊月重吾は腹部に手を当て、噴水のように溢れてくる血液の温かさに更に表情を歪める。

 嫌だ、嫌だ。死にたくない。まだ何も思い出せていない。この世界で生きていたい。女性にも、恩返しをしていない。もっと沢山のことを知りたい。嫌だ、嫌だ。こんなのは認めない。こんな死に方、したくない。誰か、誰か、誰か誰か誰か誰かーーーーー。

 

「誰か、助けて……」

 

 視界が、黒で覆い尽くされていく。

 白兎が、こちらを見下ろしている。

 井伊月重吾は、冷たくなっていく自分を感じながら、ふと想像した。皆が笑っていられる優しい世界を。朝食には母が焼いてくれたパンを食べ、夜には愛しい想い人と笑い合う、争いも何も存在しない世界を。迫り来る終わりの恐怖に震えながら、涙を流しながら、必死に想像した。

 しかし、もう、何もかもが解らなくなり、井伊月重吾は冷たい感覚に身を投げた。呼吸も止めた。染まっていく視界の黒色に抗うこと無く、この世と別離していく感覚に己を預け、そしてーーーーー瞼を静かに閉じた。

 

 かちりーーー。

 

 そしてどこかで、スイッチの鳴る音が聞こえた。




また会いましょう。
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