学園の地下の、さらに深く。
ドーム型の内壁の全てを、電子モニターで覆い尽くした暗黒の世界の中心に、千冬はひっそりと佇んでいた。腰に手を当て、瞼を閉じ、話し合いという名の喧騒を耳にしながら、口を固く結んでいた。
モニターの中には人影が映っている。それが全てのモニターに存在しているのだから、薄ら寒さを感じる。恐怖ではない、どこか気持ちの悪い寒さを。
モニターの人間達は己の欲望をまくし立てていた。千冬にはそれが、酷く滑稽に映って仕方がなかった。大人達は唾を吐き出しながら、他人の反論など聞かず、自分だけの言葉を述べては怒号を飛ばしている。酷い。見るに耐えない姿である。だから千冬は静かに、口を挟むこともせず、暗闇に身を預けて息を殺していたのだった。
しかし、モニターの人間達はそれを許さなかった。
千冬の思いなど、やはり理解せず、意見を求めてくる。
千冬は溜息を静かに吐いた。瞼を持ち上げると、モニターの人間達の視線を一身に集めていた。それにまた、溜息を漏らしてしまう。遥かに年齢の低い自分に意見を求める程、迷走してしまっている大人達の現状に酷く苛立つ。
腰から手を退かし、胸を抱いた千冬は、口を開けーーーかけ、再び閉じた。視線を逸らしても、映るものは青白い光を発するモニターと、そこに映る人間達の焦る顔だけ。やはりこんなことをしても無駄な時間だった。千冬は「それでは」了承を得ぬままドーム状の部屋を出て行く。背後から、モニターの人間達の言葉の槍が飛んでくるが構わない。あそこに居ても大人達は喧嘩をするだけだから、今さら口を挟んだところで意味は無いのだ。だから千冬は、口を開けようとしたところで馬鹿馬鹿しくなり、部屋を出たのだった。
「……学園が襲われたのを、他所に知られないようにはどうすればよいかだと?」
ドーム型の部屋を出てすぐの廊下。
曲がり角が無く、目の前に真っ直ぐ伸びる廊下。
そこを静かに、それでいて気丈な様で歩く千冬は、先ほどの人間達の話し合いの議題である内容を口にして思い出し、そして鼻を鳴らした。
どうやらあの大人達は、学園が襲われたことによる、生徒達への被害はどうでもいいようだった。それよりも学園が襲われたことから生じるであろう摩擦、そして信用の崩落の方が心配らしく、千冬が初めにした「生徒二名」への被害報告など気にも留めないで、それの解決策を話し始めたのだ。
廊下を渡り切った先の壁に備え付けてある二つのボタンのうちひとつを押し込むと、目の前の壁が左右に開く。銀色に塗装され、特殊な合金で造られたエレベーターだ。足を運び、そのエレベーターに乗って体を反転させた千冬は、上階へ向かうボタンを押し込んで、そしてゆっくりと扉が閉まっていく光景をぼうと眺めた。
上昇の圧を感じながら、壁越しに聞こえてくるゴオンゴオンという振動に体を震わせ、千冬は吐息を漏らした。
彼等は一体何に恐れているのだ。怖いものなんて、この世界には山ほどいる。ましてや他人を押し退け、国家の責任者まで登り詰めた彼等達なら、千冬が知らないような強大な人間とも対峙してきたと思う。なのに、何が怖いと感じる? なぜ、人の命よりも軽い事情がそんなにも大切だと考えられるのだ。
選んだ階に到着したエレベーターが微かに震える。それに、エレベーターの壁から背を離す。垂れた前髪を払い、少しだけ乱れたスカートの裾を正して、左右に開くエレベーターの入り口から外に出て行く。
と。視界の端に何かが横切ったようだった。
足を止めて振り返ると、そこにはエレベーターの扉の横にある窓枠に腰を降ろす、ひとりの少女が居た。外の景色を静かに見つめる青髪の少女、更識楯無という一個人が、どこか憂いを帯びた表情で傍観していた。
はっと息を呑んだ千冬は、楯無に歩み寄る。心臓が高鳴る。胸に「あの時」の後悔が再び込み上げてきた。少女がこちらを振り向く。その瞳には涙の薄い膜が張られている。ああ、心臓が今にも張り裂けてしまいそう……。
「……もう、腹の痛みは無いのか?」
震えていた。自分の声が。
唇を噛み、千冬は彼女を見下ろす。
楯無はこちらをじっと見つめた動かない。
吸い込まれそうなその瞳に、千冬は思わず表情を顰めた。すると、少女がそこで初めて色のある表情をした。笑顔である。しかしその笑みには楽しげな感情など一切無く、造り物の何かしか詰まっていないように見える。千冬はそんな少女に、ただ黙り込むしか出来なかった。
「報告したんですよね?……どうでしたか?」
「あ、ああ……特には何も無かった。気にするな」
「嘘」
即座に反応した少女が立ち上がり、千冬を覗き込んでくる。
「嘘ですよね。言っても、何も取り合ってくれなかったんですよね? ね? 先生。だって大人達って、自分のことばかり考えていますもの。だから先生が私達のことを言ったって気にも留めず、自分達のことばっかり馬鹿みたいに話していたに違いありませんよ、絶対に」
楯無は自分の指先を摩り、考え込むように頭を垂らす。
千冬はそれをおののくような目で見つめ、そして自らの蛮行を思い出し、謝罪の言葉を喉奥から絞り出した。「すまない」
「……先生だって同じですよ。あの時、私は井伊月さんを探したほうが良いって言ったのに……聞いてくれなかった。ーーーそれがこの結果を生んだんです」
そうだ。楯無の言った通りだ。自分は彼女の言い分を聞かないで、安心して学園を出て行った。きっと彼は無事に違いない。呑気しているに違いない。そう勝手に想像して、楯無を病院に連れて行ってから、井伊月重吾の探索を始めたのだ。
「おーい、井伊月、どこにいる?」しかし彼はどこにも居なかった。学園の全てをくまなく探しても、楯無達と三人で寝た自室を見ても、彼の姿は少しも残って居なかった。代わりに、学園の庭に、血痕が存在した。量にして致死量の、既に赤黒く変色してしまった血のカーペットが、井伊月重吾の置き土産のように広がっていたのだ。
自分はそれを見つけた途端、思わず悲鳴を漏らした。悲鳴なんて一度も上げたことは無かった。弟と二人で生きていくと決めた時からーーーいや、生まれてから一度もだ。しかし自分はその光景に堪らず漏らしてしまったのだ。罪悪、後悔。病院に連れて行った楯無に、一体どんな告白をすればいい? そんな問答が一気に脳裏に浮かんだから、自ずと張り裂けた悲鳴を上げてしまったのだ。
千冬は、頭を項垂れさせる、目の前の少女の肩に手を置いた。するとわかった。少女は震えていた。きっと恐怖からの震えではない。井伊月重吾がいなくなってしまったことからくる、悲嘆の震えだ。
あ、と言葉を零し、千冬は思わず楯無の肩から手を退かした。退かせた手のひらを見ると、微かに痙攣しているのがわかる。何が怖いのだ。千冬は歯噛みし、震える手のひらを握り締め、楯無に双眸を向けた。
「楯無よ。……あいつは生きている」
「あの血は……井伊月さんのものです……」
「確証は無い」
嘘だった。本当は知っていた。あの血が井伊月重吾のものであることを、調べた張本人である千冬は知っていた。楯無にはまだ告げていない。本音を言ってしまうと、バラせば彼女の心か壊れてしまうのではないかと思い、怖かったのだ。
「……だとしたら、何なんです。会わせてくれるって言うんですか?ーーー無理ですよ」
そう言った楯無の瞳は潤んでいて、翳りがある。
心の中が淀んだ人間のする瞳である。
吐こうとした息を飲み込み、言葉も飲み込んだ千冬は、どこか寒気を感じている肩に手を置き、目を伏せた。彼女の顔を直視するのが怖い。楯無は普通の人よりも、直感が優れている人間だから、千冬の嘘を見透かしているかもしれなかった。だから見ることができない。視線を下げ、床を無意識に見てしまう。
「……病院に戻ります。まだ、本調子じゃありませんから」
楯無が横を通り過ぎていく。
下げた目線の先に、彼女の手が横切った。その手には、いつか見た井伊月重吾の指輪が嵌められていた。
「楯無……その指輪は……」
呼びかけ、彼女が振り返る。
「……失くしたくありませんからね」
楯無が薬指に嵌められたその指輪を、大切そうに摩る。とても大切そうに、失くしてはいけないと。優しく、優しく。
「そうか」漏らし、千冬は楯無に微笑んで見せた。しかし、その微笑みが目に見えて作り物であったことを、千冬は知る由も無かった。
楯無が小さなおじぎをする。背中を向け、去って行く。
日が増し、廊下に明かりが増え、同時に影も増えた。
楯無の後ろ姿はとても悲しげであった。いつもの陽気な軽快さが無く、重々しい雰囲気がある。井伊月重吾がそんなにも好きだったのか? 成れ果てた少女の後ろ姿に犯してしまった過ちの重さを再認識した千冬は、とうとう楯無から目を逸らし、小さく「どうすればいいのだ」と弱々しく呟いた。楯無は、既に千冬の前から消え、どこかに去っていた。
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同時刻。アメリカのとある島。
木々に隠され、秘境とも呼称できる島の中央に建造されたそれは、皮肉も込めて「名も無き基地」と呼ばれていた。故は、誰からも見られず、誰にも知られず。ただ深々とそびえるその姿からだ。
外装の壁には蔦が這い、それに似た蛇も同じく、舌を鳴らして壁を登っている。
本当に人の気が無い、秘境だ。
しかし、なんとそんな物々しい雰囲気を漂わせる基地を目掛けて脚を動かす女性が、そこには存在した。金髪で色白。瞳が淡い緑色をした、麗しい女性が顔に微笑みを浮かべて歩いていたのだ。
木々がざわめく。
葉が舞い、一枚が女性の肩に乗った。
口をすぼめた女性が、その葉を手で払った。
ゆらり、ゆらゆら。と、葉は再び中を舞う。
その時、基地の壁を這っていた蛇が、女性の方を向いた。舌を鳴らして眼を光らせ、口を開けて尖った牙を外に晒した。
ヒュッーーーという音と共に、蛇が空中を滑る。
獲物を見つけた蛇が、本能に従って飛んだ。
牙、そして滴る毒のエキス。
感覚を麻痺させる、害となる毒。
鳥の卵すら丸々飲み込む蛇の口は、女性の首筋を捉えていた。しかし女性は気付かないでいる。他に葉が付着していないかどうかを確かめている。
蛇の口は既に噛み付こうとしている瞬間だ。
瞬きすれば、女性の悲鳴が上がる。毒を流し込まれ、女性がもがき苦しむ。それらが解るほど、蛇の牙は女性の首に接しかけていた。
しゃあ、と空気を鳴らす蛇の鳴き声。
それは蛇自身が口を閉じることにより、然りと止んだ。
同じくーーー女性の動きも静止した。
一瞬だけ蛇は体をくねらせ、そして女性の首から離れて地面に落下した。舌を鳴らして頭を動かし、体を波揺らせながら奥の茂みの中に消えていく。
残された女性は未だに動かない。
蛇に噛みつかれた時のポーズで固まっている。
が。なんと動いた。微かだが、指先を弾ませ、んんと吐息を漏らした。蛇の毒を受けた筈の女性は、まるで心地よいマッサージを受けたかの様子で大きく伸びをし、笑顔を浮かべたのだ。
「んもう。ビックリしちゃったじゃない」
そう言って再び歩き始めた女性の首筋には、「銀色」の小さな壁が出来ていたーーーようにも見えた。
◆◆◆
「へえー。なるほど。まさかねぇ......」
時刻は丁度十二時。
そろそろ腹が空いてきた。
腕に巻いた時計を見、息を吐く。数えて小一時間は場所を移動していないから、暇である。手に持つ「資料」には全て目を通してしまったから、やることが無い。待ち人を待つのにも飽きてきた。そもそも自分は、待つという行為が焦れったいので好きではない。
銀色の壁で取り囲まれた一本道の通路。
そのーーー入り口でもあり出口でもあるエレベーターの横で来訪者を待つイーリス・コーリンは、目尻に涙を浮かばせ欠伸を漏らした。
ずっと壁に付けていた背中がとてもひんやりとしている。半袖なのが間違いか?
目線を腕に落とすと、鳥肌が立っていた。やはり冬にこの格好は少々ーーーいや、かなり違っていたようだ。
冷たくなった手を擦り、ほうと息を吐くと、白い煙が舞った。イーリスはそれを見つめ、そして背中に振動を感じた。
音が鳴り、隣のエレベーターの扉が開く。
壁から背中を離したイーリスは、そのエレベーターを除き混んだ。すると見知った顔が中に居た。久しぶりの対面に表情が緩んだイーリスは、床を蹴ってその人物に抱きつき、名前を呼んだ。
「ひっさしぶりじゃねぇか、ナタル!」
「ええそうね、イーリ。ふふっ」
ーーーイーリス・コーリング。
ーーーナターシャ・ファイルス。
此処に今、「二人」のアメリカ国家代表が揃った。
◆◆
俯瞰すると壮大で、凝らすと身近である。
近過ぎず、そして遠すぎない距離から見下ろすその孤島は、自分にとても不思議な感覚を体験させた。島の中央は近代的な建物。しかし回りには猛禽が飛び回っているという、矛盾に似たその孤島の状況下がそう感じさせたに違いない。
瞼を瞬きさせていると、不意に背中に気配を感じた。
振り返って後ろを見ると、一匹の「白兎」が立っていた。
ーーー空に。
一度だけ視線を下げ、孤島と同じく眼下にある海上を見た自分は、海のうねりが少し激しくなっていることに気が付いた。これは直に嵐がくるかもしれない。
「遅いよ」
「......」
白兎は答えない。
白兎が隣に並んだ。顔を下に向け、孤島を見ている。
真っ白な体に、二対のとんがった耳。それは風になびき、はためいている。そして姿は、まがうことない兎だ。
「ーーーーーねえ......かあさ......」
と。そこでやめた。
恐ろしくなった。何が?と聞かれると困るが、白兎に対してその名称を口にすることがーーーとしか言えない。自分がその名称を口にしようとしたことがーーーとしか理由をつけられない。
息を飲み、吐き出す。
今いる場所が上空なせいで、少し風が強い。
「行くよ」
そして、白兎が降下した。
体を頭から下に向けて、重力のままに。
口元を結んだ自分も、それに続いた。顔に風が吹き付ける。しかし冷たさは感じない。代わりに、これから行うことへの熱が胸の内側をチリチリと焦がしていた。
(......)
孤島に着陸するのは容易かった。際に足元に衝撃を感じ、少し痺れたが、意外と楽なものであった。チラリと隣を見ると、一緒に降り立った筈の白兎は居ず、既に孤島の中央に在った建物に向かって歩き始めていた。
「遅いよ」
こちらを見、そして白兎が言ってきた。
それに少し静止した自分は、暫くして歩きだしたのだった。
「ーーーーーあ......。雨が......降ってきたな」
◆◆
ヒュッーーーと。
世界がひっくり返った。
「まだいける!」
そう意気込んだ頃にはもう遅く、体は床と接地していた。強かに打ち付けた背中が痛い。受け身をとったが、それでもズキズキとする。イーリスとは久しぶりの組手だったが、やはり彼女は強かった。ナターシャも訓練して強くなった筈なのに、やはり最後には負けてしまう。ほうと息を吐いたナターシャは、汗でぐしゃぐしゃになった胴着をはだけさせ、「参りました」冷たい床の感触を感じながら瞼を閉じた。
「押しが足りないのよ、押しが」
にしし、と綺麗な歯並びの歯を見せ、イーリスが笑う。
「駆け引きもたまには必要なんです」
ベーと舌を出し、やり返してやると、イーリスがまた笑った。言い訳は見苦しいぞと、勝者の余裕で胸を張った。
「......このスリムボディめ」
「うるせえ巨乳」
こっちの方が楽な体型だぜ。言い、イーリスは奥のシャワー室に消えて行った。
起き上がり、自分の胸を左右から押し上げたイーリスは、「こっちの方が魅力的よ」と胸の谷間に垂れた汗をペロリと舐めた。
◆◆
「ーーーーーそういやよ?」
汗を流す為のシャワーを浴びていると、同じく隣の個室でシャワーを浴びているイーリスが話を持ち上げてきた。聞くと、その話は自分の耳にも最近届いてきた「IS学園襲撃事件」のことだったので、ああと反応した。
「まさかあの場所を襲った奴がいるなんてなぁ......。ビックリだと思わねえか? なあ? ナタル」
「ええそうね」
「なんだ? 興味無いのかよ?」
ここと隣の部屋を区切っている壁の隙間から、イーリスの手が出てくる。ヒラヒラと何かを求める手が。
ため息を吐いたナターシャは、持参しているトリートメントのボトルをその手のひらに乗せてやった。すると壁の向こうからイーリスの「さんきゅー」という軽い声が上がる。またため息を吐いたナターシャは、シャワーの湯を止め、入り口の近くに置いてあるタオルを取り、それを体に巻いた。「別に私達とは関係無い話でしょ。興味ありません」
「けどよ、けどよ! 硬いセキュリティに囲まれた場所を襲った奴だぜー? しかもブリュンヒルデも退けたって話だ。強い奴なんだよ~! きっとさ~!」
そう、子どもの駄々のような声を上げてシャワー室から出てきたイーリスが、タオルで拭いたばかりの体に抱き付いてくる。
「もうしつこいわよ!?」
「戦ってみてえじゃんかよぉ~!!」
「子どもみたいなこと言わないでったら......もう」
イーリスを引き剥がし、シャワー室を後にする。「あ、まってまって」というイーリスの声が聞こえたが、無視だ。
「なにが楽しくて、物騒な話をしなきゃいけないのよ」
替えの服に着替えながら、唇を尖らせる。久しぶりにあったのだから、もっと楽しい会話をしたいのに、彼女は少しもわかってくれていない。
「あー、さっぱりした」
顔に笑みを浮かべたイーリスが、シャワー室から出てくる。
既に着替え終えた自分は、イーリスから貸していたトリートメントのボトルを受け取った。
「会えたらいいなぁ~。そしたら戦えるのになぁ~」
隣に立つ親友は、まだそんなことを言っているようで、ぶーぶーと子どものように不満を垂れていた。
堪えきれず溜め息を吐いたナターシャは、そんな親友の額にデコピをかましてやる。「おう!」とイーリスが声を上げ、顔を仰け反らせた。ナターシャは何も言わず、その場を立ち去る。
「ナタル、なんだよ!」
まだ着替え終えてもいないのに、イーリスが追いかけてきた。中途半端に首を通した上着が、肩に乗っかっている。
「いい? 危険なことにはいちいち顔を突っ込もうとしなくていいの。分かってる?」
「相手に興味があるんだよ」
「認めません。認めません!」
ただでさえイーリスは危なっかしいのだ。それがさらに死地に向かうような真似をしているとなると、ナターシャとしてはなんとしてでも止めてやりたいのだ。この前も百人組手なんていう馬鹿げたことをして、脱水症状を起こしたと聞く。馬鹿は、誰かが御してやらなければならないのだ。
尚、我が儘を言うイーリスの肩を掴む。
互いの目を対面させ、その顔を据える。
イーリスはまだへらへらとしていたが、こちらの雰囲気を察して黙ってくれた。そういうところは敏感なのに、なぜこちらの「心配」は察してくれないのだろうか?
「いい? 貴方は強い。この基地の仲間達との戦いが、もう満足できなくなっているのもわかる。けど、貴方は戦うために軍人になったんじゃないでしょう? 世界にいる人たちが笑っていられるような......そんは世界が好きだから、私と一緒に正義の軍人になったんでしょう? ねえ、イーリ。不満なのはわかる。けれど心配なのよ。私は、貴方のことが......」
彼女に遠回しの言葉なんていらない。彼女は素直だから、正直な気持ちを伝えることが最善なのだ。
イーリスは少し俯きがちになった。
何かを考えているのだろう。それが良い方向の考えであればいいのだが......。
肩に乗せていた手を引き、イーリスの頭を抱き寄せた。するとその時、イーリスが小さな声で「ごめんな」と呟いたのが聞こえた。ハっとしたナターシャは、ああ、もう安心だーーーとイーリスの頭をさらに抱き締め、微笑み、優しく囁いてあげた。「いいのよ」と。
「......でも、一回だけなら」
「全然わかってないじゃない! 馬鹿ッ!!」
その時の自分は、自分でも驚くほどの声を上げていた。
◆◆
「......ん? おい、これ見てみろよ」
「どうした?」
ナターシャとイーリスが在中している基地の管理室。様々な機材、そしてメインである監視カメラのモニターが部屋の壁に大きく広がっているこの部屋の中を任せられている軍人の片割れが、監視モニターの一つにとある何かを見つけた。
「ウサギか?」
「ウサギ......だな」
基地の廊下を映す監視モニターに、どこから入ったのか二匹のウサギが映っていたのだ。監視員の軍人二人は、ただ頭を傾げるしかなかった。
「どうする? 捕まえるか?」
「......いや、放置だ。誰かが捕まえんだろ」
「了解......」
そうして持ち場に戻る二人。
モニターに映る二匹のウサギは楽しげな様子で廊下を跳ね、そして監視員の気付かぬうちに、監視モニターの画面から唐突に消えたのだった。
◆◆
ーーー親友との食事。その最中、「それ」は突然訪れた。
軍の基地全体に設置されたスピーカーから、鼓膜を不快に刺激するノイズが発生する。様々な高音が何重にもなって流されるその音は、非常時にのみ轟くサウンド。
昼食のスパゲッティをかきこんでいたナターシャとイーリスの二人は、その不協和音を聞いた途端、机の影に身を隠し、太股のベルトに挟み込んであった拳銃を引き抜き、そしてセーフーティーを外した。
しんと静まり返った部屋の中。
二人は顔を見合せ、立ち上がった。
部屋の扉を開け、廊下を見るとーーー何も無い。異常は特に見当たらない。コンクリートで固められた壁も、そして白い床にも変化は無い。が、物々しい雰囲気だけは感じ取れる。廊下の奥の奥。扉で仕切られた向こう側で、何かが起きている。
ペロリ、とイーリスが下唇を舐めたその時、隣にいたナターシャは不意な気配に目を見開き、左手に握った拳銃を振り向き様に構えた。すると、そこには二匹の「ウサギ」がいた。
「ーーーーー残念、ハズレだ」
それは、間近からの声だった。
反射的にイーリスを掴んで飛び退いたナターシャの視界に、形が霞むほどのスピードで放たれた人の拳が、扉の影から飛び出してくる。
呼吸をするのを忘れ、拳銃を構えたナターシャは、その拳と扉に向かって威嚇射撃を放った。
「......ッ」
イーリスとナターシャは互いに言葉を交わすことも無く、廊下を駆け出し、そして向こう側とこちら側を仕切っている扉を蹴破って場所を離れた。が、目に飛び込んできた光景を認識した瞬間、両者の足はピタリと止まった。
空間がーーー静まり返っていたのだ。
聞こえるのは我が身の呼吸と、そして人の「寝息」だけ。
視界の全面に広がる大広間に、軍の仲間達の崩れ落ちた姿が存在している。皆、瞼を閉じ、まるで昼寝をしている子どものような四肢を投げ出した格好で。
「催眠ガスか......ッ!」
吸い込む空気に違和感を感じたイーリスが、忌々しげに呟く。
「......緊急事態ね」
背後からの足音に目を細め、ナターシャは小さく舌打ちを漏らした。隣のイーリスも激しく苛立っているようで、眉間に皺を寄せていた。
空気に漂う催眠ガスは、どうやら基地全体に充満しているらしく、誰もこの以上事態に騒いでいる声が聞こえてこない。ナターシャとイーリスが無事だったのは、きっと女子寮を閉ざすあの扉が、強く頑丈に造られていたおかげだろう。
......とにかく、このまま催眠ガスを吸い込み続けていると危険なので、ナターシャはイーリスに目配せした。するとこちらの意図に気が付いたらしく、イーリスがこくりと頷く。
装着ーーーというよりも、着るに近いそれは、数秒もかからず身体に備わった。インフィニット・ストラトスという名のそれは、所有者であるイーリス・コーリングの鎧と成ってここに顕現した。
それに、ナターシャも続いた。首にかけてあるネックレスの装飾部を握り締め、口中で名前を呟いた。「きなさい、シルバリオ・ゴスペル」
心の奥、胸の内側が照りつけられるような感覚。暖かい、優しさと安心があるそれは、自然と気分を高揚させた。そして、ナターシャを両翼を持つ天使に変えた。
「......敵は二人」
視界に映るのは、〈シルバリオ・ゴスペル〉が認識する敵の体温と生体反応の信号。そして、機体自身の残量しているエネルギー数のメーターである。
一度だけメーターを確認し、まだ余裕があることを認知したナターシャは、握っていた拳銃を床に捨て、そして背中にある翼を前に動かした。
(ぶっつけ本番だけど、調子は良かった......。信じてるわよ、可愛い私の相棒)
両翼。光る羽。バチバチと稲妻のような閃光が、翼に備わる羽のひとつひとつを駆け抜け、脈動する光を発光させる。破壊を携えた不吉な光が、どんどんと脈動の速度を加速させて周囲を照らし上げていく。
ピピピーーー〈シルバリオ・ゴスペル〉が、羽に収束されたエネルギーが限界値に達したことを伝えてくれる。出来るじゃない。口角を思わず上げ、不敵に笑ったナターシャは、だんだんと激しく振動を始めた全身に力を込め、そしてーーーーー放った。
「Burst(バースト)!」
翼から一直線に照射されたそのエネルギーの線は、床を削り、扉を溶かし、そして先ほど敵と会合したであろう女子寮を消し炭に成した。激しい衝撃が身体を襲ったが、それよりも気分を洗い流してくれた爽快感の方が強かったため、ナターシャは膝を着いても顔をしかめたりはしなかった。
背後では、イーリスが仲間の軍人達を介抱してくれている。彼等は寝ているだけなので、変な心配をする必要はないが、やはり仲間だから気にはなる。目だけを動かし、ナターシャは眠りこく仲間を見た。その顔はとても安らかである。するとなぜかナターシャはこめかみに違和感を感じ、謎の苛立ち感じた。
ふうーーーと一息つき、視線を前に戻す。
破壊した女子寮は、もう形を成していない。ぴゅうぴゅうと風が流れ込んできている。寒くはない。火照た身体には丁度良い風である。
歩みを進めて、その女子寮の跡を覗き込むようにして見た。焼けた瓦礫から漂う熱に顔をしかめながら、敵の姿が無いかどうかを確認した。
「逃げた?」
「......かもしれないわね」
見当たらない敵にそう思うことにしたナターシャは、女子寮の残骸から離れて頭を上げた。が、その瞬間ーーー誰かに頭を捕まれた。声を上げることも、表情を変えることも意識しないまま、強い力で押さえ込まれた。
顔に、強い痛みが走る。そして衝撃も。
動転する思考の中、ナターシャの鼻腔を掠めたのは焦げた臭いだった。焼けた瓦礫の臭いだった。そして感覚で理解した。頭を何者かに捕まれた、叩きつけられたのだということを。この焦げた臭いは、自分が破壊した女子寮の臭いだということを。ナターシャ・コーリングは理解したーーー。
「このウサギッ!」
イーリスの怒声が聞こえる。
ウサギ?
頭を押し込んでくる力が増した。痛い。息が出来ない。
ナターシャは背中の両翼を動かし、飛ぼうとした。しかしどういう訳かそれが出来ない。故障か? いや違う。頭と同じように翼を押さえつけられているのだ。
ならばーーーと。ナターシャは背面スラスターを上に向け、最大出力の噴出を行った。押さえつけられる圧力がそれによってさらに強まってしまったが、背中に存在する「何者か」をスラスターの炎で炙ることができる。この状態での、最高の反撃だ。
だが、尚ーーー圧力がやまない。このままだと冗談抜きで、頭を覆うフルフェイスが割られてしまう。
援護を......‼
通信回路を開き、ナターシャは叫んだ。「助けて! イーリ!」
目の前がひび割れていく。バリバリと音を立てながら、亀裂を走らせていく。このままだと本当にまずい。破損していくフェイスマスクの亀裂が何よりの証拠だ。この〈シルバリオ・ゴスペル〉だって頑丈ではないから、抵抗虚しくという訳にはいかない。
「イーリッ‼ 援護を‼ イーリ、早く助けてっ‼」
押さえつけられる中、必死で叫んだ。だが、その返事は返ってこなかった。開いた通信回線にも返信が無い。それどころかーーー声が聞こえてこない。
まさかやられた?
いや、そんな筈はない。彼女は国家代表候補生。この基地の誰よりも強かった女性だ。そんな彼女が、易々と倒されてしまう訳がない。信じない。
......しかし、いくら経っても声は返ってこない。
イーリスは優しいのだ。自分のこんな様を見れば、すぐに助けにきてくれる。けれどそれが無い。声が聞こえないということは、彼女はーーー。
(駄目......意識が......遠......く......)
絶望に上乗せされた絶望。
既に砂嵐の画面になっていたハイパーセンサーは表示を切り替え、人間本来の視界状態の視野に戻っていた。ようやく飛び込んできた光景は、瓦礫に隠された地面だった。
背中にある敵の脚が、ナターシャの胸を押さえつけて五分。もう呼吸をする力も残っていない。そして溜め込んでいた肺の酸素も底をついた。
もう自分ち待っているのは昏睡だけ。なにも出来なかったという役立たずの称号が付いた後の、眠りだけだ。
(悔しい......私の夢は......人、を......守れる......正義の............み、か......た......)
目の前が暗転した。思考も途絶えた。
何も感じない。暗い、暗いーーーただ暗い。
怖さと、少しの怒り。
ナターシャ・ファイルスは役立たずであった。
闇が来る。近付いてくる。
深い、深い、黒の波。
全てを呑み込む大きな闇。
深く、深くーーーとても深く。
ーーーその闇は、
ーーーーー私の中を、
ーーーーーーー満たして、
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーーーー
ーーーここはーーーどこ?
「ッ⁉ イーリッ‼」
親友の名前を叫び、視線を動かした。目に映ったのは真っ白な壁で囲まれた病室だった。隣には心拍数を測る医療機器が音を立てている。ナターシャはベッドに寝かされていた。
ハッとした。そうだ。私はウサギに潰されたのだ。
頭を抱え込み、嫌な感覚に顔を歪める。とても鮮明で不愉快になる記憶の残留が、頭にこびりついて離れてくれない。
ーーー静かな病室だからだろうか? 隣から人の息づかいが微かに聞こえてくる。
頭を持ち上げたナターシャは、隣とここを仕切っている青緑色のカーテンを少しだけ開けた。すると隣のベッドにはやはり、人が寝ていた。
隣の人間もかなりの重症なのか、ナターシャと同様にたくさんの管を体に貼り付けられ、心拍数を測られていた。呼吸は落ち着いているようだが、それは口を覆っている呼吸器具のおかげなのだろう。そのベッドに寝かされている人間は、目に見えて衰弱しているのが分かる。
ーーーと。そこでようやく気付いた。
この人間を知っている。会ったことがある。短髪に、小柄な体つき。その全てを理解している。わかる。
ナターシャは震えた。
嫌な考えが浮かんだのだ。
そうであって欲しくない。当たらないでくれ。
少しだけ開けていたカーテンを一気に開け、ナターシャは立ち上がる。
苦しい。口の中が渇く。うすら寒さが体を冷やす。胸の内側を脅かすその不愉快さに、自分は恐怖していた。開け放ったカーテン。そしてそこに寝ていた人間。それが自分にとってかけがえの無い存在だったから、理解した瞬間に膝から崩れ落ちた。ーーーそして、叫んだ。
ーーー眠る「友」の名前を。
「イーリッ‼ イーリッ‼ いやぁぁぁァァ‼」
友は、右腕を失い。そして、左目を欠かしていた。
続く。