『感じる水の冷たさが、私を鉄に変えたーーー』
◆◆少女の想い◆◆
見上げた先には満天の星空がある。
発光する数多の光。
ぼう、と見つめ続けてしまう星の展覧。
楯無は、それをじっと眺めていた。片膝を抱いて、無言で。
頭の中は真っ白だった。特に何も考えてはいない。先刻からずっと星を眺め続けているのだけだから、思考を放棄しているのだ。......いや、本音はあえて何も考えていないだけ。めんどくさいから、何もしたくないのだ。
楯無は息を吐き出し、吸った。
こん、と後頭部を後ろにぶつけ、顔を傾ける。視界に映る星空の映像が斜めになった。
三日前、楯無の元に一通の手紙がきた。内容は『本国に帰国せよ』というもの。産まれた国である日本ではない、国家代表としての楯無が所属しているロシアに、帰ってこいとの通知がきたのだ。
急な話しだったが、驚きはしなかった。その手紙が送られてくるだろうなということは予想していたし、待ち構えていたから理解するのも早かった。
ーーー白兎。
そのワードを思い出すと、自然と顔が歪む。
楯無は腹部に手を乗せ、背筋をなぞった寒さに瞼を閉じた。
本国が自分を呼び戻した際の用件はきっとそれだ。違いない。
最近、世界的に有名になりつつある白兎という存在は、極端に言ってしまうとテロリスト。とてつもない規模の損害をもたらす、歴史上最悪のテロリストだ。
街があればそこを焼き、目的があれば武力で介入する。
周りの被害を考えない、エゴのみの行動。
無視は出来ない。それが自分であるなら、尚更だ。
……しかしーーー。
「どうしろっていうのよ……」
何度目かの溜息は、白く濁っていた。
楯無は瞼を開け、もう一度夜空の星に目を向けた。綺麗だ。数え切れない星の雨。こんな綺麗な星の日は、誰かと一緒に眺めていたいとーーーふと思う。それが、誰かとは言わないが。
そっと薬指の指輪に手を触れた楯無は、重い腰を上げ、座っていた窓枠から降りた。ジッとしていたせいで、身体はすっかり冷え切っていた。
吐く息は白く、視界は悪い。夜も更けているから、余計に。
もう一息吐いて歩き始めた楯無は、薄暗い廊下を静々と進んだ。早足はしない。癖なのか、ただ神経質になっているだけなのか。きっと前者だろう。ここは実家の武家屋敷だから、小さな頃に教え込まれた作法が自然と出てしまっているのだ。だから早く廊下を渡り切ろうと思わないし、感情を荒立てる気も起きない。
渡り廊下を冷や風が通り過ぎ、障子紙が震えた。
足を止めた楯無はついと瞳を動かし、廊下に沿って並ぶ障子を見つめた。汚れひとつ無い、綺麗な障子紙だ。子どもの頃から何も変わらない、つまらない家なこと。
鼻を鳴らして障子から目を背けたその時、廊下に降り注ぐ月明かりの光が増した。スポットライトを当てられたように、楯無の全身が浮き彫りになる。
影が障子紙に大きく映し出された。
楯無はそれを見、不思議なほど怖くなった。大きくなった自分の影が、まるで自分とは違う何者かに思えたから、声にならない悲鳴を漏らした。
ズルリ。後ろに足を出したその時、縁側に足を滑らせてしまったのか上体が崩れた。「あ」揺れた視界に声を上げた楯無は受け身を取ることもせず、そのまま後ろに倒れてしまう。そして後にドンとーーー衝撃が走った。
気付くと、月が目の前にあった。
周りには星だ。
視線を動かすと、家の庭に植えられている松と、それを引き立てるために置かれている石が目に入る。……おかしい。なぜ庭にあるこれらが、こんなにも近くで見えるのだ。
そこでようやく自分が廊下から地面に落ちたことを理解した楯無は、可笑しくなって笑った。あはは、と短く笑った。着ている着物は汚れ、そしてはだけている。笑うと、胸が上下してさらに着物がはだけた。
「くくっ……もう笑っちゃうわよ……ほんと……」
右腕で顔を隠し、唇を噛む。
頬をーーー涙が伝った。
「寂しいよぉ……井伊月さん……」
触れた薬指の指輪は冷たかった。どうしようもなかった。
彼にーーー井伊月重吾に会いたい。話がしたい。また困った顔を見せてほしい。自分を本気で心配してもらいたい。その優しさで、安心を与えてほしい。
楯無は怖かった。自分を襲ったウサギ。それが恐ろしかった。また自分を殺しにくるかもしれない。そんな想像をさせるから怖くて堪らなかった。
ーーー守ってほしい。誰でもない、井伊月重吾に。
立ち上がり、楯無は縁側まで歩いた。そして座った。
伏せた顔から涙が落ち、地面に染み込む。
嗚咽の我慢で背中が跳ね、身体を抱きしめた。
夜は更け、月明かりが世界を照らす。
屋敷の中、独り泣くその少女の頭上には、満天の星が輝いた。
◆◆兎と兎〈前編〉◆◆
始まりはその一言だった。
『戦いなさい、ラウラ・ボーデヴィッヒ』
私はその言葉を聞いてハッとした。
そうか、自分はその為に産まれてきたのかーーーと。
「……夢か」
微睡みの中、ふと昔のことを思い出したラウラは、ベッドから身体を起こし、膝を抱えた。日は暗く、夜だった。どうやら長い間、眠っていたらしい。
少し黙り込み、ベッドを出たラウラは、傍に置いていた眼帯を取り上げ、違和感のある左目に着けた。すると、どうしようもなかった不愉快さがそれにより消え、さっぱりとした心地がラウラを包み込んだ。
まだ慣れていないのか、私は……。
一瞬だけ膨れた苛立ちを追求することもなく、ラウラは部屋を出た。部屋の外に広がる廊下は様々に交錯していて、一見すると迷路に見えるものである。しかしラウラはここで産まれ、ここで育った。自分の家を迷うことなんて無い。
記憶している経路を歩き、しばらくして目的としていた部屋の前にたどり着く。ラウラが一歩踏み出すと、その部屋を閉ざす扉が自動で左右に開いた。それを確認し、気を引き締めたラウラは部屋の中へと歩いていく。扉を通過し進んでいくと、後ろで扉の閉まる音が聞こえた。
「ーーーーー捕捉出来たか?」
薄暗い中、巨大なモニターのみが照明灯となっている部屋の中心に佇む女性に、ラウラは慣れた様子で話しかけた。
「いえ、それがまだで……」
申し訳なさそうにそう言った女性は、ラウラに振り向き、キレのある敬礼をした。
ラウラはそれに手を上げて制す。すると女性は微動だにしなかった敬礼を止め、今度は休めのポーズをとった。相変わらず真面目な奴である。
「……クラリッサ。「兎」はここを狙うだろうか?」
クラリッサ。そう呼び、問いかけると、女性ーーークラリッサ・ハルフォーフはハキハキとした口調で意見を述べた。
「奴の狙いは「コア」でありますから、十中八九襲撃にくるでありましょうね。それに同じ「兎」です。縄張り争いが起こるかもしれません」
「……勝てると思うか?」
「同じ兎です。不利有利はありません。……と、言いたいところですが、どうでしょうか……。正直、私だけの意見では何も言えません……」
クラリッサが自信無さげに言うのも分かる。テロリストーーー兎なんて呼ばれている奴は、この短期間の間に5つの軍事基地を襲い、そして壊滅させてきた。その場所に在る、インフィニット・ストラトスの命である「コア」も奪取している。
兎はたった二体の存在なのだ。戦力差でいえばどの基地も勝っている。しかしそれでも、そのたった二体に基地が壊滅させられたということは、並大抵の敵では無い。それこそ「ブリュンヒルデ」が相手でなければ対抗できないのではないか? と顔を顰めてしまうほどに。
一瞬だけ黒髪の女性を思い浮かべたラウラは、苦い顔をするクラリッサの肩に手を置いた。
「まだ猶予はある。しっかり探せ」
嘘をついた。猶予なんて無い。兎は既に目を瞑ってはいられないほどの被害をもたらしてくれている。正直なところ、時間なんて存在しない。
しかし、落ち着かせる為にはこれしかない。
嘘を吐き、微笑んでやるしかーーー。
ずいぶん前にいた上官の真似をしてみたのだが、上手くいっただろうか? 普段、あまりこういったことを試みないから、少しむずかゆい気持ちになった。
「……うむ。私は空を巡回してくることにしよう。捜索はそのままで、貴様たちはドイツ全域を見守れ。何かあれば私にすぐ通信を入れろ。回線は開いたままにしておくからな」
言って咳払いし、出入り口へ向かう。
背中に「お気をつけて」部下達からの言葉が当てられ、ラウラは軽く肩越しに振り返り、頷いてから部屋を出て行った。
心の中には、よく分からないもどかしさがあった。
◆◆兎と兎〈中編〉◆◆
夜の風は冷たかった。
頰に当たると自然と眉が下がった。
ラウラは専用機である〈シュヴァルツェア・レーゲン〉の外装甲を撫で、中に組み込まれているコンソールパネルを操作し、温度の調節を行った。するとすぐに体がポカポカと温かくなってきて、夜空の寒さを感じなくなる。ISの身体保護機能が調子良く稼働したようだ。
ハイパーセンサーに敵影は無く、静かな時間が流れる。
基地にはクラリッサ達が同じくウサギを探してくれているが、今のところ異常発生の通信も無い。このまま何も問題が起きなければ、一時間後に帰投しよう。
黒く塗り潰された〈シュヴァルツェア・レーゲン〉のブースターを加速させ、全身にその圧を感じるラウラ。滑っていく夜空の景色は幻想的で、完成された絵画のよう。しかし想うものが無いラウラにとって、それはただの夜空にしか映らない。
(……)
ふと視線を動かし、月を見た。大きな月を。
月の中にはウサギに見える模様がある。他国ではそれをカニの模様だと言う者もいるらしいが、ラウラは最初にウサギの模様だと聞いてしまったので、どうしてもカニの模様には見えなかった。
そんな自分に、クラリッサは物の見方を変えれば、また別の見方もできると言っていた。しかし見方とはなんだ? 別の捉え方があるのか? 月は月だ。ラウラはそう思っている。月以外の何があるというのだ。太陽か? 地球か? 馬鹿げている。
ーーーしかし。しかし、そんな考えだから、自分は戦いの中でしか生きていけれないんだと思う。愚直に、他の考えを持つことができないから、自分で道を示せないんだと思う。
恩師は言っていた。戦いは道じゃない。道とは、希望ある未来なのだと。
ラウラはそれを聞いた時、正直訳がわからなかった。試験管の中で産まれた紛い物の自分にとって、戦うことこそ生きる道だと信じていたから、「希望」なんて言葉は酷く不愉快だった。
(……すみません、教官。しかし私には仲間が出来たのです。守ってやりたいと思える仲間が出来たのです。……私はもう、一人じゃない。だから……)
そうーーー仲間。
十年以上かけてようやく理解できた、仲間という存在が、今の自分にはある。だから言える。自分の進む道は、戦いの道だと断言できる。他人を傷つけ、痛めつけーーーそして仲間を守ってやる戦いの道こそが、自分の進むべき道なんだと自信を持てる。
恩師が言った道とは確かに違う。だが、道はひとつじゃない。戦いの中にだって、希望はある。未来はある。見失わなければきっと、迷わず進んでいけるのだ。それがたとえ、暗闇の中だったとしても。
ひゅっと吹いた風に、左目が疼いた。
左の眼帯に触れたラウラ。その口元が微かに微笑んでいたことは、自分ですら気付けなかった。
「……帰ろう。皆が待ってる」
脳裏に浮かべた仲間の姿。笑っているその姿にラウラは不思議な感覚を覚え、さらに深くーーー微笑んだ。
月明かりが映える夜空。
酷く虚ろで、酷く酔いそうな黒い空。
ラウラは何も感じれない。感じられない。けれどふと、こんなことを考えた。こんな月、クラリッサ達にも見せてやりたいーーーと。
そう、普段では考えられないことを思った自分を鼻で笑ったラウラは、体を反転させて地上を目指した。心の中は何故かドキドキとしていた。きっとそれは、仲間という存在が待ってくれているという確証が、自分の中で存在しているからなんだろうな。その考えにまたおかしくなって、ラウラは笑った。
『ーーーーーもういいかな?』
唐突に聞こえた声。
ズグンーーーと体が揺れた。
何が込み上げてくる感覚と、焼けるような胸の熱。
突然の違和感に視線を落としたラウラの視界に、自分の胸から飛び出す人の手が、鮮明に映った。そしてそれが、最後の光景でもあった。……いや違う。最後に見たものーーーそれは、
「……き、さ……ま……っ⁉︎」
それは、一匹の「黒ウサギ」だった。
『ーーーーーおやすみなさい、ラウラ』
◆◆ウサギとウサギ〈後編〉◆◆
いくら時を経ても、経てもーーー兎が見つからない。
そろそろ目が疲れてきた。目頭を揉む。……駄目だ、こんなものでは癒されない。青白いモニターの光が苛立たしい。兎が一向に現れないから尚更だ。
眉を寄せたクラリッサは被る軍帽を被り直し、静かな吐息を漏らした。見ると、モニターの前に張り付く仲間の少女達にも疲労の色が見えているのが分かった。隊長が戻ってくる時間まであと少し。戻ってきたら、彼女達を休ませてやろう。
「あと一時間。もうしばらく辛抱して監視を続けろ」
言って、クラリッサは再び集中した。
彼女達が休む分を補うのが自分だから、気合を入れなければいけない。自分はこの隊の中で最年長だから、守ってやる責任もある。
(……兎か。……こんな、平和を保ち始めた時代に現れるなどと、まったく邪魔で仕方がない)
そう毒吐いたクラリッサは、スッと目を細めた。
心の中を、黒い何かが蠢いていた。クラリッサはその正体を知っていた。粘りのある、拭いきれない何かを。クラリッサは解っていた。
左眼の眼帯に触れる。触れて、思い出す。
過去の事だ。自分は幼かった。言われたことには従い、言われたことは守る人間だった。
だって仕方がないだろう。軍で産まれた、試験管ベビーのプロトタイプの自分は道具だったのだ。刷り込まれて生きてきた人形だったのだ。人格が形成された年代で、個性を出せる訳がない。自然と拒んでしまうのだ。
それは、私が弱いだけーーー。
ようやく気付けた己の歪さ。なんて長くて、遅い答えだったんだろう。自分が初めて「個人」であることを悟るに、クラリッサは酷く時を消費してしまっていた。
なぜ? なぜ、私は戦うーーー?
問答は何度も繰り返してきたつもりだった。けれどそれでも辿り着けなかったのは、自分の意思が弱かったからなんだと今なら理解出来る。そして辿り着くことの出来たーーー自分の意思を『確固』に出来た理由も、今なら解る。
「試験管No.014。識別ネームはラウラ・ボーデヴィッヒ。お前から数えて14番目の試作品だ。No.でも、識別ネームでも好きな方で呼称してくれ」
きっとーーー家族が出来たから、なんだろう。
「ーーーーー副隊長‼︎」
その声で我に返ったクラリッサの鼓膜に、それは届いた。
少女の泣き声。何物にも代え難い、大切な少女の助けを求める声が、クラリッサの神経を逆撫でた。そして行動させていた。
我が身に専用機、〈シュヴルツェア・ツヴァイク〉を纏ったクラリッサは、一匹の獣と化していた。基地の中だろうと構わずブースターを起動し、天井を突き破って空を目指したクラリッサには、明確な殺意の意思が芽生えていた。
感じる鼓動は激しく、吐く息は熱い。
まるで全身が燃えているかと錯覚してしまう。
体の奥は疼いて、今にも破裂してしまいそうだ。
クラリッサはひたすらに進んだ。基地の中を、ひたすらに。
そしてようやく辿り着いた地上に目を向け、凝らし、真っ赤な血に塗れた少女の亡骸を、その両目でしかと刮目した。月明かりに照らされた少女の姿を、目撃した。
「うっ……あ、あぁ……っ」
すぐさま寄り添い、手を触れた。冷たかった。けれど体に付着している血は温く、酷く不快な気持ちを際立たせる。
クラリッサは冷静になれなかった。それもそうだ。目の前に横たわっている少女はラウラ・ボーデヴィッヒ。とても大切な自分の家族なのだ。冷静になる余裕なんて、今のクラリッサは持ち合わせていない。
どうすれば、どうすればいい……っ!
表情が歪む。
傷の治療法や、対処の仕方は分かっていた。が、頭がパニックを起こしているせいで正常な判断が出来ない。
クラリッサはそんな自分に怒りすら覚えた。大人になり、成長したというのにも関わらず、自分は弱いままではないかーーーと。
しかし、そんな混乱状態でも関係無く、クラリッサの体は本能という防衛機能を正常に働かせていた。
もっと細かに言うと、背後から忍んできた鋼色のナイフの突きを察知し、ラウラを抱きかかえて空に飛び上がっていた。
「貴様……貴様ァ!!」
目をいっぱいにして広げ、クラリッサは地上を見た。するとそこにはラウラの流した血の上に悠然と佇む、一匹の「黒兎」が存在した。
自然と怒りが込み上げる。そして、ラウラをやったのはあいつだという確信も生まれる。
クラリッサが恨みがましく睨んでいると、黒兎が突然、不思議な行動を取った。人差し指をついと動かし、クラリッサの方を指差してきたのだ。
何かのサインか?
クラリッサは疑問に思ったが、黒兎は顔を黒い外骨格の装甲で隠しているから、意思を汲み取れない。その仕草にどんな意味があるのかを理解出来ない。
するとそんなクラリッサを思ってか、黒兎が声を発した。耳に届いた黒兎の声は、不思議と聞いていたくなる、優しい声色であったーーー。
『その子の出血時間は10分と25秒だ。今はまだ息をしているけど、このままいくと呼吸不全になり、体の機能がだんだんとい歪になっていく。ナノマシンの活動のおかげで、まだその子の体は余裕があるけど、早くしないと"取り返し"がつかないことになるよ? クラリッサさん』
そこで初めてハッとした。
そうだ、私は何をしているのだ。
気付くと、黒兎が忽然と消えていた。辺りを見渡しても、どこにも姿が見えないし、気配も無い。ハイパーセンサーにも引っかからないし、本当に消えてしまった。
生かされた……?
そんな考えが生まれ、クラリッサは下唇を噛んだ。そして口中で静かに「クソ」と呟き、ラウラの治療を急ぐ為に、静まり返った基地へと帰投した。
◆◆廃墟の人間◆◆
誰も足を運ばなくなった廃墟。
その建物の中で独り、獣が、声を上げていた。
「あ、がっ……ぐ……あぁああっ!」
それは人だった。
足元には、空になった注射器が散乱している。
その人間は、注射器を何度も体に突き刺し、そして何かの薬品を体に投与していた。
「……ふー!ふー!……うっ……!」
人間が手に持つ注射器の針を体から抜く。すると力が抜けたように廃墟の床に前のめりになって倒れた。
口から赤黒い液体を吐き出し、体が不自然な震え方をしている。体に注射した薬品の副作用が、肉体を襲っている証拠だった。
ーーーしかしそれも、暫くすると止んだ。
人間は何度か深呼吸して気持ちを落ち着け、そして立ち上がって口元の液体を拭うと、脱いでいた服をその身に着た。服といってもそれはボロボロの布切れで、着るといっても体に巻き付けただけである。
溜息を吐くと、人間は廃墟の壁に背中を預けた。
もう、体が震える様子は全く無い。
「……」
その人間の視線の先には星空があった。
何かを思い出したのか、人間が手のひらをハッと見つめた。しかし望んでいたものが無かったのか、少し悲しげな瞳をした。
「……」
そして人間は無言になり、ジッと動かなくなった。
ただ、視線を夜空に向け、星を眺めるだけで。
ひゅっーーーと風が入り込んできた。
埃が巻き上がり、月明かりに照らされ、幻想的に舞う。
遠くに海があるのか、さざなみの音が聞こえてきた。きっとさっきの風に運ばれて、ここまできたのだろう。
「ーーーーー」
ようやく口を開いた人間が発した言葉はか細く、そして掠れていて、運ばれてくるさざなみの音と一緒くたになった。
だが、聞き取れなくても、発した言葉がその人間にとって、とても勇気をくれる言葉であることは、人間の緩んだ口元を伺えば、何となく分かってしまうものであった。
月明かりが移動し、今度は廃墟の奥の奥を照らす。
暗闇に満ちていた空間を、浮き彫りにする。
人間が眼を動かし、月明かりを追った。そして確認した。
数多に積み上げられた《IS》のコアが存在していることを、その金色に発光した瞳でーーー。
続く……かも。