めんどくささなんてものが生まれてこなければっ!
あ、はい。どうぞ。
避難場所に選んだ軍事基地は既に避難民で溢れ返っていた。入り口まで焦燥に満ちた人々で埋め尽くされており、休息できるような場所が存在しない。数人の軍の人間が統制をとっている様子が見受けられるが、人々の混乱はその指示を跳ね除けている。ナターシャはそれを見、隣の男を見遣った。
「これじゃあ何を言ったって聞いてくれそうにないわね」
「……」
そう感想を漏らした青年は、振り返って歩き出した。向かう方向は入ってきた軍の入り口。どうやら外に出ようとしているらしい。
ナターシャは走り、青年の肩を掴んで振り返させる。それによって青年の両目と自分の両目が対面する。そこで気付いたが、青年の瞳は綺麗なルビ色をしていた。……いや、今はそんな観察眼を働かせている場合では無い。
「なんで外に……」
問うと、青年が視線を逸らした。後ろめたさがあるかのように、視線を伏せた。
しかし青年は、再び視線を上に上げた。その瞳には決意に満ちたような圧力が込められていた。一連の動作の中で想いを奮い立たせる何かが存在したのか、青年の雰囲気は先ほどのよそよそしさとは一変していた。
「僕は……ーーーーー貴方の敵だ」
そして青年が零したその言葉は、ナターシャが感じていた違和感の正体を暴き出しーーー奈落させた。
◆
緋色の閃光は一瞬であった。
胸を撃ち抜かれたと思った。
ーーーしかし、閃光は角度を変え、彼方へと消えた。弾かれたように空へ飛んでいき、真昼の星と成った。
目を向けた先ーーー。
そこには普段ならば決して見られない程の俊敏さで白ウサギの背後に回り込む、
「ーーーラージさんっ……!」
ラージ・エレクトロが存在した。
「立てっ、楯無‼︎」
叫んだラージが振り下ろした健脚が、白ウサギの首元を捉えたーーーかと思われたが、やはり白ウサギであった。ラージの足首は掴まれ、そのまま遠心力と共に降り投げられる。
宙でブースターを何度か点火させ、体勢を立て直したラージは地面に低い状態で着地、こちらを向かず「動けるか?」安否の確認を取ってくる。
「は、はい……!」
「そうか。なら下がってろ。あいつの相手は私がーーー」
ざんーーー。
ラージの言葉を遮って響いたその音は、酷く不愉快になる心地の悪い音であった。
不思議に思い、視線を動かした楯無の目に飛び込んできたものはーーー真赤な雨。空の青さに似合わない、不吉なものを連想させる『赤』の色。ラージの肩口から迸る、異様な赤色。
「な、に……ーーー⁉︎」
零したラージの視線の先に、佇む白ウサギ。
『右腕……もーらい』
真赤に濡れた手を掲げる悪魔がーーーそこにいた。
「お前はァ……ッ‼︎」
「馬鹿、やめろ楯無!」
よろめきながら、静止の言葉を叫ぶラージ。
しかしそれは楯無には届かない。駆け抜けた電流に身体が突き動かされ、引き抜いた槍の切っ先を傾け突進した。恐怖などはもはや麻痺し、ごった返しになった感情の波だけが内側を埋め尽くす。
捉えるものは白ウサギ。その胸を穿つことだけを考え、肉薄していく。肩は脱力し、糸釣り人形の傀儡の様だが、それでも尚突進を止めない楯無は既に思考と呼べるものを捨てていた。
踏み締めた大地。
駆け抜ける地上。
血に濡れた戦乙女は他が為にーーーその猛威を振るう。
「貴方はっ!」
その少女は槍を振るい、自らの血を撒いた。
「いつだってーーー‼︎」
叫び声が空に響く。
「大切なものを奪っていく……っ」
それはーーーと続けた楯無の腹部を、強烈な痛みが襲った。くの字に折れ曲がった少女の腹を直撃したのは、白銀の脚であった。
喉元までせり上がってきたものを、たまらず吐き出す。血の混じった赤黒いそれが地面へと滴り、楯無は手足をついた。
気分が悪い。呼吸が不規則に乱れて治らない。
二度目の吐き気に、口元を押さえた。だがしかしその嗚咽に対しての我慢を体が拒否し、強制的に異物を吐瀉してしまう。
顔を歪めた楯無を襲ったのは怒りだった。自分達をここまで苦しめる白ウサギに対しての怒りだった。
そして次に後悔だった。自分がムキになって白ウサギに立ち向かわず逃走を図っていれば、リディアもラージも怪我を負わずに済んでいた。その後悔であった。
涙は枯れていたから、頰に不自然な熱は感じなかった。だがその代わりの『熱』が確かに存在しているのを、楯無は胸の辺りに手を置いて理解していた。
「くそっ……くそっ……私は何をやっても……!」
ひたすらの自虐が支えでもあった。罪を犯したことに対しての責め苦が、楯無の感情をかろうじて保させていた。
そんな楯無の頭上に差し掛かる影。
手刀を振り上げた白ウサギの牙が、項垂れる少女の背中に振り下ろされる。
「ーーーー触るなッ‼︎」
しかしーーー弾かれる白ウサギの手。
楯無のそばまで駆け付けたラージの拳が、白ウサギの牙をへし折ったのだった。
ラージの専用機〈ガイア〉は、その名称からは想像もできないほどの高機動タイプのISで、各部位の装甲にスラスターが組み込まれているのが特徴であった。先ほど白ウサギの背後に回り込み、蹴りを見舞おうと出来たのも、〈ガイア〉が生み出す爆発的な加速を持ってしてのことだった。
楯無を抱き上げたラージは、白ウサギに牽制の蹴りを見舞いながら、その場から離脱した。
揺れる振動に肩の痛みを再発させた楯無は、「何をしているんですか!?」顔を歪めて叫んだ。
しかしそれをラージは、「ふざけんな、勝てる勝負じゃねぇ」と一喝して掻き消した。
「逃げては勝てません! 遊びじゃないの……ここで倒さなくては戦火の波は止まらないんです!」
「それをしちゃ死んじゃうのさぁ。わかってるかぁ?」
「私はまだやられたつもりでいないわッ!」
「ふざけんな。お前は負けてるよ」
「何が!?」
「心がーーーだ⁉︎」
どういう意味ですか。そう問いかけようとした楯無の顔に、生温い何かが降りかかる。自分の血かと思い、触れてみた。が、顔にかかった位置からして、決して違うことを理解した。ならば誰の血だ。
頭のどこかで悟りつつも、それを認めたくなかった楯無は、決死の覚悟で上を見上げた。するとそこには、目をまん丸に見開き、懸命に何かを堪える様子のラージと、そのラージの口元から溢れる血液を見てしまった。
「先輩……!」
「逃げろ、楯無! そしてこいつの脅威性を、兎狩りのメンバーに伝えるんだ……! ごぷっ……っ」
ラージは吐血しながらも楯無を降ろし、そして叫んだ。
「先輩……先輩……っ‼︎」
「リディアも連れてけ……まだ、間に合う傷だ……」
「いや、先輩……嫌です! 私をひとりにしないでください‼︎」
「黙って行けよ‼︎ 早くッ……‼︎」
ラージの声色で、そこでようやく気が付けた。ラージの背中から、数本の糸が後方に向かって伸びていた。小さな針金を数本束ねて作られたようなワイヤーがラージの体に噛み付いて、その体を拘束していたのだ。
ぼたぼたとーーー血が滴っていた。それは見ずとも解る、ラージの血液である。ワイヤーが深く突き刺さっている証拠だ。
獣のように歯を剥き出し、吐息を漏らすラージ。
鎖に繋がられた猛獣の抵抗を、鎖の束が封じ込める。
「こんな……もん…!」
勢い良く腕を突き出したラージの背中から、数あるうちのひとつのワイヤーが引き抜かれる。それにラージは可能性を見出し、肉が抉られる痛みに我慢しながら力み始めた。
その様子を傍観する楯無の視界を横切ったーーー死神の手招き。
痛みの代償に引き抜かれたワイヤーを超える数多のワイヤーが、さらに後方から飛来してラージの体に巻き付き、噛み付き、そして食らいついた。
もはや手も足も出ない状態である。ラージも諦めを決意したのか、ぜーぜーと肩で息をして俯いていた。指先からは血が流れ落ちていて、真下に赤の色を加えていた。
熱かったーーー。頰を撫でると、その熱が涙であることを知った。何も出来ない。見ていることしか出来ない。手を伸ばせば届く距離にいるのに、手が震えて動かせない。頭を地面に擦り付け、抱え込んだ。なぜこんなにも無力なのか? それが苦でしかなかった。
だんだんと拘束が強まっていくワイヤー。
ラージの体を縛るように絡みつき、次第にその体力を奪っていく。
楯無は泣いた。ただひたすらに。
そうしている間にも、ワイヤーは大切な人の体を締め付ける。
首をーーー腕をーーー腹をーーー脚をーーー。そしてその命を搾り取ろうと牙を立てる。
「あぁ、痛ってぇなぁ畜生がよぉ〜……」
十字架に貼り付けられたようなラージが、薄ら笑いを浮かべてこちらを見た。きっと安心させてあげたいという思い遣りが込められ笑みだったのだろう。しかしそれはとんだ間違いである。楯無にとってのそのラージの笑みは、全くの真逆だったのだ。自分を恨んでいる。助けてくれない自分を憎しんでいる。そう感じ取り、思考を混乱させるものだったのだ。
あまりの動揺に後退りした楯無は、自分の手に何かが触れたことに気が付いた。見るとそれは、真っ黒に焼けたーーー人間の死体だった。
鼻腔を刺激した死臭に叫び声を上げ、気がおかしくなった。
自分でもなぜそんなことをしたのか分からない。思考という思考を既に捨てていたから、無我夢中で白ウサギへと駆け出していたのだ。
『なに!?』
予期せぬ行動に白ウサギは驚きの声を上げた。
「あああァッ‼︎」動かない片腕を垂しながら走った楯無は、白ウサギ目掛けて我が身をぶつけた。どん、と衝撃を感じた後、楯無は糸が切れたように倒れ込み、そして白ウサギを見上げた。
白面に備わる、青白い切れ目の双眸。白ウサギのセンサーアイはチカチカと点滅し、楯無を見下ろした。
吐き出した息は熱かった。きっと、ずっと息をするのを忘れていたから、熱を持ってしまったのだ。
荒い息を吐きながら今度はラージを見ると、彼女はこちらを見ながら何かを叫んでいた。しかし周りの炎の音がうるさく、よく聞こえない。動くことも出来ないから、近づいていくこともできない。
『楯無! おい、楯無! 返事をしろ、楯無ぃ‼︎』
何か伝えたいということは分かった。
けどーーーそんなに暴れたら、体のワイヤーで傷をつけてしまう。だから、もうしばらく待ってほしい。あと少ししたら、そっちに行くから。
俯瞰にも似た、遠い意識。
まどろみにいるかのような心地が、心を弱らせる。
震える指先に力を込め、手を伸ばした楯無は、ラージに笑ってみせた。私は大丈夫だよ? と、微笑んでみせた。けれどなぜなんだろうか。ラージはより一層激しく声を荒げ始めた。不思議だ。不思議でならない……。私は、こんなにも元気なのにーーー。
と、そこであるものに目を奪われた。
それは薬指に嵌められた指輪。『彼』の物である指輪。楯無にとって大切なお守りでもあり、拠り所でもある指輪であった、
「あ……あぁ……井伊月、さん……っ」
会いたい。会いたくてたまらない。
彼の笑顔がみたい。彼に心配してもらいたい。彼に慰めてもらいたい。彼に抱き締めてもらいたい。ひ弱で臆病な自分の心を温めてもらいたい。
指輪を外し、抱え込むように胸に抱いた楯無は、まるで子どものように泣きじゃくった。
ラージがそれを見て、さらに激しく暴れた。
目の前の白ウサギが、楯無から顔を逸らした。
「もう嫌だ……帰りたいよぉ……私はいつまで、戦わなくちゃいけないのよ……ねぇ、井伊月さん……教えてよ……」
帰れば学校がある。家がある。妹がいる。
ひとりではない。だが、私は独りだ。
幼少から今に至るまで、真の安心は無かった。母が死んでしまったあの日から、忘れてしまった。だからこそ、この涙が止められない。久方の『想い』の熱があまりにも心地良すぎて、愛しさを求める涙が止められない。
白ウサギが手を振るった。すると不思議なことに、周りの炎が一斉にその姿を消した。
感じなくなった外からの熱に顔を上げてみると、そこには小さな少女が寝ていた。涙でぼやける視界をこすって確認すると、横で寝ていた少女はリディアであった。
嗚咽を飲み込み、緩慢な動きでリディアの胸に手を当てる。そして今度は脈絡。そして呼吸。……良かった。息はまだある。これならまだ間に合う。
頭を上げてまわりを見ると、さっきまでの様子とは一変して周りが鎮まりかえっていた。先ほどまでのことが夢でない証拠に焦土が存在している。ーーー気付けば、白ウサギの姿もどこにも無かった。
「あ。ラージさん……ラージさん!」
腕と体を引きずりながら振り返ると、視界に専用機を解いたラージの姿が映った。遠目でもラージの体に、ワイヤーの食い込んだ痛々しい痕があるのが分かった。
どこからか、車の音が聞こえてくる。
弾けたように音源に向いた楯無は、それが何であるのかを確認することもせず、大きく声を上げた。「助けて! 怪我をした人がいるの!」
次第にその音が近付き、そしてその姿を見せた。するとやはり車だった。望んでいた医療車の外見ではないものの、その車はこちらに気付いた様子でこちらに向かってきている。これでラージとリディアを病院まで運び込むことができる。
車が目の前で止まり、砂埃を立ち上げた。
ホッと安堵の息を漏らした楯無は、瞼を閉じるリディアの頭を優しく撫でた。「もう少し頑張ってね」
車のドアが開く。そのドアから、急ぎ足で人が降りてくる。
黒の軍服に黒の眼帯。車から降り、目の前に立ったその女性の出で立ちを見て、楯無はすぐに理解が及んだ。彼女はドイツの部隊の人間だ。確か、『黒ウサギ部隊』といったか……。
「間に合って良かった。すぐに運び込みましょう。……更識楯無殿の方は無事で?」
「私の名前を……」
「私達は国家代表です。顔を合わせたことがなくとも、資料での拝見はさせてもらっています」
「……確かにそうですね、クラリッサ・ハルフォーフさん」
リディアを抱き上げ、そっと車の座席に座らせるクラリッサ。
楯無もクラリッサの手を借り、リディアの隣に座る。
最後にラージを助手席に乗せ、白ウサギに奪われた片腕の止血を施したクラリッサは、急いた速さで車を発進させた。「少し揺れるかもしれません。隣の少女を押さえていてください」
言われた通りにリディアの体を少しだけ押さえながら、楯無はホッと息を吐いた。車窓から見える風景は、数時間前のロシアの景色と様変わりしており、どこもかしこも黒ずみの地表に変わっていた。
「貴方達を見つけるまで、ロシアの街を走っていました。……酷いものでしたよ。道端に、当たり前のように死体が転がっていた」
「全部……全部白ウサギの所為です」
先刻までの恐怖は無く、代わりに怒りがあった。白ウサギを討伐せねばならないとの決意も、新たに生まれた。
「その声色は、恨んでいるのですね。白ウサギを」
「……」
「何をしてやられたか聞いてもよいですか?」
クラリッサがハンドルを動かし、曲がり角を曲がる。
楯無はなるべく平然に話せるよう、深呼吸をしてから口を開いた。
「一ヶ月前です。……たぶん、それが始まりです。私は一人の男性と出会いました」
彼を思い出すだけで頬が緩むのがわかった。もう隠しはしない。自分は井伊月重吾のことが好きなのだ。
「素敵な男性で、でも少し子供っぽくもありました。織斑先生のお墨付きなんですよ?」
「なんと。教官殿のですか?」
「そういえば織斑先生は、一時クラリッサさんの部隊にいたんでしたね」
「ええ、とても立派な方でした。ーーーああ、すみません。話の途中を遮ってしまって……」
「いいえ、構いません」
おかげで少し落ち着けた。心が軽くなったのがわかる。
肩によりかかったリディアの頭を撫でた楯無は、「がんばってね」と微笑み、再び話を再開した。
「その人は大人というにはあまりにも頼りない方で、記憶に障害があったんです。私達のところにきたのも、助けてもらいたいからという理由でした。でも、悪い人ではありませんでした。万人が善人と言えるほどに、澄んだ人だったんです」
「あなたが言うから、きっとそうなんでしょうね」
クラリッサの言葉に、楯無は静かに頷く。
「私はですね……好きだったんです。その方のことが」
「……」
「でも……奪われたんです。突然に……」
車の中に冷気が満ちるのがわかった。車を運転するクラリッサからは、少しの激情を感じた。
指にはめた指輪を撫で、楯無は外を見遣った。黒煙が立ち込めた地区からすでに遠ざかった空は、晴れやかな快晴さを誇って太陽を輝かせている。そういえば彼と出会った日も、こんな青空の日だった。楯無は懐かしさに頬を緩めたが、肩に走った痛みにうずくまり、嫌な汗を垂らした。
◆
突きつけられる銃口が死のお告げに思えた。
この場にいる人間達はパニックに陥っている。しかしそれは、ひとりの女性がひとりの男性から銃を向けられている状況からのパニックではない。人々は、外からくる不安に駆り立てられているのだ。
女性はこの状況を知られていないことに、良しと感じた。
両の視線を一直線に伸ばし、目の前の男を据える。数分前まで仲良く談笑を交わしていた男は、自分に向かって銃を差し向けている。それがたまらなく不思議でならない。
「……あなたはテロリスト?」
ナターシャ・ファイルスは問いかけた。目の前の彼に。
「……敵ですよ」
彼の返答は至極簡単で、真っ当なものだった。だからこそ、彼が危険な存在なのだと理解できた。
ナターシャは少しだけ後ずさろうと脚に力を込めた。しかし彼はそれを許さなかった。「動くな」
「騙したの? 私を」
「……」
「ねえ、なんとか言ってよ。今なら私……貴方を許すことができるかもーーー」
銃が鳴る。弾丸が飛び出す。
ナターシャを目を見開いた。撃ち抜かれたかと思ったからだ。
だが、身体に痛みはない。どこからも出血は無い。
視線を動かすと、彼は地面に向けて銃を向けていた。地面に突き刺さった弾丸と、そのすぐ隣に落ちている薬莢から小さな白煙が登っている。
ナターシャがホッと安堵した瞬間、今度は悲鳴が鳴った。パニックでこちらに気付かなかった人々が、先ほどの銃声によってようやくこちらに目がいったのだ。走り回り、こけて怪我をする人たちが出始めている。
「貴方……!?」
「なるべく撃ちたくはないよ。けど、君がこれ以上抵抗するっていうんなら、両手足を撃ち抜いて動けなくする」
再び銃がこちらに向けられた。無慈悲で残酷な銃だ。
しかしそれを恐ろしいと感じないのは、きっと目の前の彼の、銃を握る手が微かに震えていることを知ったからだろう。
ナターシャは閉じていた口を開いた。「ねぇ、もうやめましょうよ」
「……っ」
さらに手の震えが強まった。
ナターシャはそれを見て、彼との距離を詰めた。彼は少し怯えたように後ずさった。やはり怯えている。きっと彼は、誰かに脅されてこんな事をやっているに違いない。
「大丈夫。私なら救ってあげられる……。だから、ね?」
「近づかないでくれ……っ。本当に撃つぞ⁉︎」
それが嘘だと分かっているから、近づくことをやめない。ナターシャはなんとなく分かっていた。彼が、根っからの善人であることを。先ほどまでの時間の中で、信じても良いと思えるほどまでに。
彼との距離が詰まる。銃口が胸に沈む。
ナターシャは手を動かし、銃に触れ、そしてグリップを握る彼の手に重ねた。震える彼の手を包み込んだ。
どんっーーー。彼は、そこでナターシャを弾き飛ばした。
「あ」と声が溢れた。視線の先には迫真な彼の顔がある。ナターシャは不思議に思えた。なぜ自分を突き飛ばしたのかと。なぜ自分を拒絶したのかと。
しかしその理由はすぐにわかった。彼は、私を助けてくれたのだーーー。
「貴方ッ……⁉︎」
ナターシャは彼のそばに駆け寄った。当然だ。何故なら彼の胸から多量の血液が溢れ出し始めたからだ。
彼が胸を押さえて膝をつく。顔を歪めて血を吐き出す。
見ると、彼の遥か後方にある建物の屋上から、煌めく何かがあることに気がついた。すぐさま《シルバリオ・ゴスペル》のフェイスマスクを部分展開し、その建物の屋上を確認したナターシャは、それがスナイパーの構えたライフルの反射だということを知った。
ばちゃんーーーと彼が血の池に落ちる。
それにナターシャは目を見開き、痙攣する彼の肩に手をおいた。
『おいよー。元気かー? 元気だなあ? 元気だ。うん』
通信回線に入り込んできた女性の声には聞き覚えがあった。
「……イギリスの御方」
「おいっす」
見つめる建物の屋上が再び眩いた後、目の前には青白い装甲に身を包んだスナイパーが立っていた。名はネグレド・イース。過去に一度だけ共闘し、その射撃精度の高さには何度も助けられたことがある。正真正銘の「強者」と呼べる人物だ。身に纏うISの呼称は確か……《ラースラ》である。
専用機を解いたネグレドが、目の前の彼を見下ろす。碧眼の瞳の視線は冷たく、明らかな侮蔑が存在していた。
「こいつ殺すぞ。カイシャクカイシャク。このままにしてたら苦しんで死ぬからさっさとやろう」
言ってネグレドが、太もものホルスターに納める拳銃を引き抜き、横たわる彼のこめかみに押し付けた。グリグリとし、弄ぶように顔を覗き込んだ。ナターシャはそれを止めた。あまりにも見るに耐えなかったからだ。
ネグレドがこちらを見る。その目からは、止めるなという意思がこもっていた。しかしそういう訳にもいかない。彼にはここで死んでほしくはない。
「病院へ運びます」
「えー」
「ネグレドさん。彼には利用価値があります。……でしょ?」
「……分かったよ。そうしよ」
しぶしぶといった感じにネグレドが拳銃を納め、彼の体に手を置いた。そして脇に差し入れて抱き起こした。
ナターシャはホッと息を吐いた。手のひらには汗が滲んでいた。この短時間で緊張と興奮が一気に押し寄せたから、季節外れの汗をかいてしまっていた。
その時、ナターシャはふとあるものに目がいった。青く、どこか儚いような小さな輪っか。淡いながらも、人を魅了する気品を漂わせた華美過ぎない輪っか。彼の左の薬指に嵌められた、『愛』の形である指輪にナターシャは目を引かれた。
「なんだ」微笑んだナターシャは、少しだけ悲しい気持ちになった。彼にはーーー愛する人がいたのだ。心安らぐことのできる女性が。
残念だ。とって変われる人間に成れると思っていたのに。
「……ふふ」
「んー?」
「いえーーー。さ、早く運びましょう」
踏み出した足の先にあったーーー真っ赤な血の池。
軍事基地の中の医療室を目指して歩くナターシャとネグレド。そして未だ血を垂れ流す彼の異様さに、周りの人々達は恐怖するよりも立ち尽くし、 言語を失った人形と化している。
ぱちゃん、ぽちゃん。血を引きずり、残しーーー点々とした血の痕跡が床に染みていく。
彼の息は安定していた。不思議なほど乱れていなかった。それが少しだけ心残りだった。あれほどの一撃受けた体にしては恐ろしいほどに健康で、恐ろしいほどに肉体が保たれている。それが少しだけーーー不安だった。
考え過ぎか……。群衆を掻き分けながら進みつつも、胸の中にある靄にざわつきが収まらなかった。ナターシャは彼の横顔を一度だけ覗き込む。……やはり穏やかな顔だ。まるで心地良く眠っているような横顔だ。
「ーーー待ちたまえ」
そんな時、基地の中に男の声が響き渡った。
振り返ったナターシャの視線の先には、黒い軍服を身に纏った複数人の軍人達が佇んでいた。
「その男、こちらに引き渡してもらおう」
「……どなたかしら?」
軍人の態度に少しの苛立ちを覚える。
「そやつはテロリストだろう? ここで一悶着あったのは、ここに避難している民間人から報告を受けた。……貴方とて軍人ならそれぐらいのことはわかる筈だ」
軍帽を深く被った軍人の考えていることは、きっと至極真っ当なことなのだ。民間人に被害が及ぶかもしれないという不安があるから、あのような態度で命令をしてくるのだろう。
ナターシャは少しだけ考えた後、どうしようもなくなって唇を噛んだ。そして横目でネグレドの顔を見、頷いて、静かに口を開いた。「わかりました。お渡ししましょう」
「……感謝する。ナターシャ、ファイルス殿」
そう言い、軍人達はナターシャの元まで近付き、慎重に彼の身体を受け取った。そして受け取った後、上官であろう軍人がお辞儀をし、背を向けて歩き始めた。
「意外にあっさりしてんねー」
「別にそういう訳じゃありませんよ……。私じゃ彼を救ってあげられないと思ったから、引き渡したんです」
「……ふーん」
どこか釈然としないような感じのネグレドは、頭の後ろに手を組んで鼻を鳴らした。
遠ざかっていく軍人達の背中を見つめ、ナターシャは胸のざわつきに手を置いた。これで良かったのか、という葛藤があった。
私情に身を任せることは危険だーーー。かつての上官に教えてもらったことに従えば、彼を引き渡した行為は決して後悔するものではない。だが、一人の女としては……それはーーー
と、そこで思考を振り落とした。これ以上は駄目だと思った。
ナターシャはシャツのボタンを一つだけ外し、壁に背を預けた。隣にネグレドが立ってくる。彼女もまた、自分と同じように何か思い残すことがあるように、難しい表情をしていた。
「あれで良かったんですかね……私は」
「……さーねー。……どうでもいいわ」
「ふふっ。ですね」
あまりにも正直なネグレドの言葉が少しだけ心を晴らしてくれた。ネグレドも、口角上げて楽しそうに笑っている。
日も落ち、基地の明かりが点き始めた。それに夜の訪れを悟ったナターシャは、これから始まるであろう戦いの準備をする為、ネグレドと共に基地の奥深くへ、足を差し向けた。
続く。