石畳を走る馬車の車輪の音。上機嫌らしい学生の声。春の日差しが差し込む部屋で、街のざわめきと昼の鐘を聞きながらの午睡以上の贅沢があるだろうか。
しかし、私の幸せな時間も途切れてしまう。響く電鈴の音。ああ、来客だ。私じゃない誰かが出てくれるでしょうと考えて、結論が出るより先に私は寝台から飛び起きていた。
今日は誰もいない。私一人の留守番。ということは来客対応しなくちゃいけないわけで。ああそれにこの音ってことは裏口じゃなくて正面からだ。大荷物とかかな。居留守を使うとなんで応対しなかったんだと怒られる。
急いで鏡を見た。女中服を着た女性。顔立ちが東洋系なのもあって少し若く見られることもあるが、これでも二十は過ぎているのだ。服の皺が頬についているが、きっと気がつかれることはないだろう。寝癖と髪質のせいであまり膨らんでいない髪を手櫛で整えながら、私は使用人用の階段を少し早足で降りた。
屋根裏部屋から二階へ、二階から一階へ。そして正面の扉へ。もう一回電鈴が鳴る。
「いま出ます、お待ちください」
まあこの屋敷にまず来客はないからおおかた取り寄せた本か電報だろうな、と思って私は扉を開けた。そこには手に鞄と杖を持った白髪混じりの紳士が一人、背筋を伸ばして立っていた。
「……その格好は、何かね?」
名乗りでもなく挨拶でもなく、いきなり服装についての質問。おお、なんという無礼な男なのであろう。そして自分の服装を確認する。午前用、つまりは汚れる家事用の前掛けをつけていた。あと帽子も忘れていた。なんてことだ、こんな振る舞いでは執事と女中長に怒られてしまう。
「お客様ですか、何か主人との面会の予約などは」
私は何事もなかったかのように笑顔で返す。まあ彼がこの屋敷に来る予定がすぐに思いつくほどではないので時間稼ぎというのもある。
「たまたま近くを通りがかって、友人と顔を合わせるのに、わざわざ予約が必要かね? 必要なら名刺でも渡せばいいかね?」
そう言って、彼は一枚の紙を指に挟んだ。手近にあった名刺盆を持って差し出すと、困ったような顔をして彼はその上に紙を置いた。
初代ホイットマール男爵ヘズリン・ホルト。何度見ても爵位負けしていること甚だしい地味な名前である。そして職業、
「これはこれは、
「……一旦座らせてくれないかね? 友人の見舞いで歩いてきた帰りに寄ったものでね、少し疲れているんだ」
予約もなしに昼の来訪、そしてすぐに座らせろという要求。これだけ見れば偽紳士間違いなしであるが、まあ彼がわざわざ来るとなればそれなりのもてなしが必要だろう。紅茶でも淹れるかと思ったが、彼を一人にしてこの屋敷に放置するのは普通に怖い。
「では……客間のほうにご案内します、卿」
私は暖炉の前の椅子に彼を案内する。少なくともここを客間と呼ぶのであれば、眼の前の空間丸ごとが来客に屋敷の威信を見せつけるためのもの、ということになる。しかしまあ、この価値がわからないやつを客として認めたくはないな。
壁をぶち抜いて並べられた本棚。補強用の鋳鉄の梁。二階の一部まで侵食する吹き抜けと追加の本棚。そこに並ぶは
「サーロウ教授の蔵書については噂では聞いていたものの、これほどまでとは。彼とは生前数度話したことしかなかったが」
本棚に並ぶ合本の背などを横目で何度もちらりと見ながら総帥は言う。
「ご利用を希望されるのであれば事前にご予約をお願いいたします、卿。複製でよろしければそちらで対応させていただくこともありますので」
「……そろそろ、言いたいことを言ってもいいかね?」
「何でしょうか、卿」
「この家に一人で来たのは悪かったと思っているよ、時間についてもそうだ。だが君の方は一体何だね、どういうことだその格好は」
怒っているというよりも困惑している口調。分光学の専門家にして複数の干渉計の設計で知られる男、そして大学の物理学をやる学生たちにとっては
「女中服です。数値切断の型紙で作られたもので、私の背に合わせて大きなものになっています」
「そういうことではなくてね、なぜ女中服を着ているのかと聞いているのだ」
「最も動きやすく、様々な活動に対応している服装だからです。うちでは取っていませんが産業効率分野の論文ではしばしば扱われています」
「……いや、君の頭脳が無駄になっていないなら、私からはもうとやかく言えはしないのだが」
「雑談でしたら、電報の一つもくださればそちらに伺いますのに」
「いや、今日は見舞い帰りに寄っただけだと言っただろう?」
そう言って、総帥は鞄から印刷された紙を取り出した。等幅の印字の並びからしてちゃんとした組版ではなくて
「物理分会の来月号ですか。
「
「うーんこの分野ですとリードフィントン教授あたりですか? あの真似できない測定精度の検証実験が得意な」
「そうだ。で、彼のかわりに誰かが前文を書かねばならない」
「このあたりって誰が書くかが微妙な問題になりますよね。リードフィントン教授であれば、誰もが少し不満を抱える程度でしょうが……お、
「……不躾な願いだが、君に頼めないか? それだけの力があるとは知っている。
総帥は大学を出ていないのでこのあたりを褒め言葉に使うのだが、正直言って恥ずかしいというか気まずい。当時の同年代たちは運動に社交、それに将来のためのあれこれを抱えていたのに、私の方は勉強に集中できる環境と好きな時に講義に潜ることができていた。それで得た成績を誇るのは無粋というものだろう。あと女性なのにとかいうのであれば一位より上を取った先人がいるので褒め言葉ではないな。
「いいですよ、編集部名義で良ければ」
特に断ることもないか、と私は考える。責任を取らされるとかなら困るが、見た範囲で特に酷い論文はなさそうだ。ここしばらくの
扉を開ける時は、訪問者から話しかけてくるため、あなたが話しかけるべきではありません。たとえその人の身なりがどんなに立派であっても、単に「あなたの女主人」や「この家の奥様」とだけ言って面会を求めているのであれば、そのような人を貴重品のある部屋へ通してはいけません。主人や女主人の名前を挙げられない訪問者には、もしすぐ近くに控え室がないのであれば、玄関広間が対応に最適な場所です。
The servant's behaviour book; or, Hints on manners and dress for maid servants in small households, by Emily A. Patmore, 1859.
使用人のための作法書; あるいは小規模家庭の女性使用人に向けた作法と服装に関する助言、エミリー・A・パットモア著、1859年