質量二の水質同位体 1
ああ、私の落ち着いていて幸福な日々はどこに行ってしまったのでしょう。夏になれば暖房をつけなくなるから各種の掃除も少なくなるし、のんびりと本を読めると思っていたのに。
「……あと何本?」
私は文字から目を上げて言う。今日も屋敷に客は来ないし、女中服の前掛けを外す必要もない。一階の図書室の隅の机の上に論文を積み上げ、ちょっとした社交をしている。
「依頼はあと五本ですね。ちょうど折り返しです」
フィーマは冷たく言う。彼女の手元には私の読み上げた文章の口述筆記がある。つまり私が論文を読み、それを要約し、言葉にして、それをまとめて、という作業をしているわけだ。
今読み終わったのは
振動とか回転から得られる光を見ることで、重さの差を確認することができる。
「リードフィントン教授も無茶を言いやがって……」
「金でも取りますか?」
「
「私の一ヶ月分の給与が二
「……経費で筆記具代を出していることについて、私はとやかく言っていないつもりだけど」
「そうですね、いやぁ下級の女中にこんなにしっかり給与をくれるお嬢様は実にいい方です、気前の良い美人さんでありますからね、もっと気前よくしてもいいのですよ」
「欲しいならミセス・ブラッケンに言いなさい。私が使える金額もあなたと同じぐらいだから」
「は?」
怒気の籠もった声で言われる。いやまあ年金だか信託だかよくわからないということになっている金が流れ込んできているのは事実ですが、この屋敷も結構金がかかるので固定費だけでまあまあ飛んでいくのですよ。
しかしおかしいんだよな、貰っている金額には見合わないほど格の低い屋敷に住んでいるし、気体に水圧、水道に石炭みたいなものを家賃に足して給金諸々を含めても余裕で余るはずなのだ。まったく、一体どこに消えているんだろうなと私は本棚に並ぶ論文誌を見る。
いや、会費を払うと名簿に名前が載って面倒だからあくまでそこそこの額を匿名の寄付としてサーロウ図書館に届けてもらっているみたいなそういう建前です。金があるならちゃんと社会に還元するのは紳士淑女の責務ですから。
あと継続的に出すのではなくて単発だから、そこまで酷いことにはならないと思う。寄付先は散らばせているはずだし、総帥にも気が付かれていないはず。たぶん。きっと。まああの人なら知っていても知らないふりをしてくれる親切さがあるだろう。きっとそうだ。
「しかしお嬢様も大変ですね、面倒な文通相手を持ってしまって」
「フィーマがいて本当に助かったわよ、見るからに紳士の文字をどうやったら書けるのかは気になりますけど」
「汽缶室で毛布にくるまって寝るだけで済む程度には私は生活に困らなかったので、金のため、とはあまり言えないですね」
フィーマはサーロウ教授が亡くなってから、ずっとこの屋敷にいる。その意味を私は理解できるとは思わない。安易な言葉で慰めたところで彼女のためになるとも思えない。ただ、彼女がこの屋敷を維持できるほどの給金を手にできる仕事に就くことはできないだろう。それぐらいの金があるような紳士なら、この屋敷の使えなさを理解できてしまうはずだ。そして私の金は、誰かにその権利を譲れるような類のものではない。
「……ところで、やっぱり注文が無茶よね」
「そう思います。こんな無名の雑誌を探し当てた私を褒めてください。おかげで
高温高圧、鹸性金属を用いた還元、そして
「
私はそう言いながら次に要約する論文誌を手に取る。
いや、やりますけどね? この仕事結構楽しいので嫌いではないですし、夏はどうせ暇ですし、いくら読んでも終わらない蔵書を前にするよりはすこしは達成感もありますよ?
「健康にいいみたいな話であれば女性向けの雑誌とかにもありますよ」
「うちで蒐集する?」
「
「冗談よ」
前に総帥から頼まれた前文は四ヶ月ぐらい前だろうか。夏になって、寝るときに苦しくなってくる時期である。輸入物の氷とか、あるいは断熱膨張とか吸収冷凍機とか。どれも金がかかる。いやまあ必要なら払ってもいいのだけど。あるいは暖房用の配管に冷水を回すことを考えてみるべきかもしれないな。
あれから色々と分析が進んで、
その結果として、大量の液体水素を蒸発させ、最後の1立方センチメートルの最終留分から蒸発した気体を捕集することによって、2つの水素試料を調製した。最初の試料は、大気圧下で蒸発させた6リットルの液体の最後の部分から採取され、2番目の試料は三重点をわずか数ミリメートル(水銀柱)上回る圧力下で蒸発させた4リットルから採取された。
UREY, Harold C.; BRICKWEDDE, Ferdinand Graft; MURPHY, George M. A hydrogen isotope of mass 2. Physical Review, 1932, 39.1: 164.
ハロルド・クレイトン・ユーリー、フェルディナント・グラフト・ブリックウェッデ、ジョージ・モーズリー・マーフィー『質量2の水素同位体』、1932