「ミセス・ブラッケン、いまお時間よろしいでしょうか?」
私は埃を払っている女中長に聞く。
「ええ、お嬢様。何かしら?」
「……うちの財務ってどうなっています?」
「こちらへ」
彼女は作業を止め、二階の部屋に向かった。若旦那の居室である。東洋系の若者で、何か特別な仕事をしているらしく、屋敷に帰ってくることがあまりないということになっている男。そして彼がいないことをいいことに、我々使用人は気の抜けた日々を送っているということになる。
飾り棚の前に立ち、ミセス・ブラッケンは取り出した鍵を差し込み、数字の刻まれた文字盤を左右に回す。まあこの書類は普通に恐ろしいことが書かれているからな。
中に入っていた表紙付きの紙束には、丁寧な筆致で数字が並んでいる。計算手の持つべき、というか多くの書類作業を伴う仕事に求められる技能は綺麗な字を書くことだ。特に数字は容易に間違えるものであるし、それで統計が狂うこともある。未亡人が受け取れたわずかな保険金について保険評議会を訴え、結果として計算間違いが見つかったなんて話もある。まあその時に評議会が被った損失も実質的には保険で補填されたのだろうが。
「……先月末の時点で、資産は八百と六十七
そうやって彼女が見せてくれる数字の下には鉛筆で描かれた図表。正本ではないが、見て理解するには十分なものだ。割合としては入ってきた金額全体の三分の一ぐらいが、各所へ雑に突っ込まれた支出として計上されている。
「主な支出は寄付。だよね……」
入ってくる金は増える予定がない。建前としてその金はあまり貯められないもので、使い切らなくちゃいけない。となればむしろ若旦那の想定年収ぐらい貯金として確保できているのは成功と言っていいのかもしれない。
「どれも単発の出資であり、かつ匿名です。ですので、もしなにかしたいことがあればそちらに回すことはできます」
「それはそうなんだし、寄付に依存するほうが悪いと言われればそのとおりなんだけどね……」
罪悪感、みたいなものがある。既にあるものを取り上げるのはあまり行儀の良い行為ではない。それなら最初から寄付をするなという話ではあるのだが、観客としては役者に惜しみない声援を送り、そして心付けをするべきではないだろうか。
「……家政のほうの支出は?」
私は紙をめくって言う。ずらりと並ぶ各種の費用。とはいえ
「無駄を作っているわけではありませんが、切り詰めているわけでもありません」
「ありがとうね」
「どういたしまして」
家政書で読んだ数字を思い出す。あれより少し多めではあるが十分許容範囲だろう。食事については下回っているぐらいだ。しっかりと量のあるいいものを買って丁寧な調理と見事な味付けまでしているのに。世の貧乏な屋敷というものはきっと心の余裕がないに違いない。金がないので余裕がないのは当たり前の話である。
あと私はこういう数字を読むのがそこまで得意ではないんだよな。
光統計と電子統計は熱放射光と分光像の再現のために調整された分野だ。理論から模型を作る人からすれば実験結果に合わせるために都合よく作ったものであり、実験結果から模型を作る人からすればそうすると説明ができるんだから神の視力が都合よく悪いらしいのを受け入れろ、となる。このあたりの争いはしょうもないものだと思うが、とはいえ双方ともに譲りたくはないだろうからな。難儀なものである。
「……少し資金が必要になりそうなものがあって」
「何をするのでしょうか?」
「液体水素を作る機材というか設備を購入する補助金を出そうかなって……」
私が一番慣れ親しんでいる言語は
「フィーマから話は大まかではありますが聞いています」
「はい」
「あなたは他人を金で粗雑に動かそうとするきらいがあります。相手のことを完全に理解しろとまではいいませんが、金で終わる関係ならその作法に則るべきです」
「……と、いいますと」
「匿名で何かをするより、何かをする会社か組織を立てるべきでしょう。代理人を置いてもいいですが、もしあなたがそこで行われていることをその場で確認したいのであれば、ラドウィックに相談するべきです」
「それもそうか……」
今までお金をもらっているのと同じような方法、と言えばいいだろう。あれだってたぶん担当者が色々やってくれて一目ではどこから来たのかわからない資金にしてくれているのだ。それを応用するなり、模倣するなりすればいい、と。大きな金額を動かすならそういうほうがいいというのはありそうだ。
「植民地におけるそういった組織の例であれば、かつての仕事で知ったことを、一般例としてはお伝えできます」
「……あの、それって秘密なのでは」
公務秘密法のあたりだと結構広い範囲が指定されていたし、非公務員の契約者にまで義務が課せられるはずだ。植民地で行っていたあまり良くない資金の流れを作る会社とか組織とかの情報は間違いなくその中に入るだろうし、彼女は省にちゃんと雇用されていたはずだからそのあたりに抜け道はないはず。
「計算手が読み取れるようなことを秘密にできると考えているのであれば、植民地省の男は馬鹿ばかりとなるでしょうね。そこで働いているのは彼らがそのままでは理解できない数字を扱う専門家だったというのに」
そう言うミセス・ブラッケンの目は、ちっとも笑っていなかった。
もし今我々が、対称な固有関数を含むこの問題の解を採用するとするならば、任意の波に結びつけられた分子の数に対する全ての値が同じ先験確率をもつことを見出すはずであり、そしてこれはまさにEinstein–Bose統計力学を与える。*これに対して、もし我々が反対称な固有関数を伴う解を採用するとすれば、我々が各波に関連付ける分子は0個または1個のいずれかとなるため、我々は異なる統計力学を得るはずである。対称な固有関数による解は、光量子に適用した場合には正しいものでなければならない。なぜなら、Einstein–Bose統計力学が黒体放射のPlanck則を導くことが知られているためである。しかし、反対称な固有関数を持つ解は、それが原子内の電子について正しいものであることが知られており、また、分子は光量子よりも電子にいっそう近いと予想されるから、おそらく気体分子にとっては正しい解である。
* Bose, ‘Zeits. f. Phys.,’ vol. 26, p. 178 (1924); Einstein, ‘Sitzungsb. d. Preuss. c.,’ p. 261 (1924) and p. 3 (1925).
DIRAC, Paul Adrien Maurice. On the theory of quantum mechanics. Proceedings of the Royal Society of London. Series A, Containing Papers of a Mathematical and Physical Character, 1926, 112.762: 661-677.
ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック『量子力学の理論について』、1926年