石炭時代の終りと淑女   作:小沼高希

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質量二の水質同位体 3

「必要であれば作れるが、推奨するものではない」

 

 夕食後のゆったりとした時間に、執事のラドウィックは紅茶を飲みながら言う。地下の台所でなければもう少し風情というものもあったのだが、この場所のいいところの一つはお湯を沸かし直すのが容易だということなのでよしとしよう。

 

「推奨しない理由は?」

 

「まず前提を整理させてもらおう、お嬢様」

 

 そう言って、彼は紙と鉛筆を取り出した。

 

「私からの要請は何らかの形で研究者に資金、物品、情報を提供できる組織。それは人を雇用し、機材を購入し、寄付の形で渡すことができ、かつ調整も行うものであってほしい。私の名前は出したくない。もし名義が必要ならミス・バクスターで」

 

 私の言葉を聞きながら執事は記録を取っていく。この後で色々と修正が入るだろうし、まずは言えることを言ってしまったほうがいいだろう。完全に条件を満たさなくともどこまでなら行けるか、みたいな話は彼の得意分野だ。

 

 しかし屋敷の外にいるときの少し気の抜けた彼と、ミセス・ブラッケンやフィーマの前で見せる執事としての彼と、今の真面目な表情を浮かべている彼と、どれが本性なのかは正直よくわからない。あるいは全て違うのかもしれない。それを混ぜることがかつての彼の仕事であったわけで、今でもその仕事は続いているのだろうし。

 

「必要であれば使える法人はいくつかある。それらは信頼できる会計士と紐づいており、専門家の調査があればわかるようになっている」

 

「それは精査に耐えるという意味で? それとも誰かが来たことを検知するという意味で?」

 

「後者の役割が大きい」

 

「なるほどね」

 

 そんな感じで私はラドウィックの講義を受けていく。大学で色々と聞いてきた経験から一方的に批評させてもらうのであれば、彼の話し方は落ち着くものだ。紅茶の刺激がなければ眠りに落ちてしまいそうになる。このあたりの調整も彼の技量に入っているのだろうか。もしそうだとしたら色々と恐ろしいので、ただの偶然かあるいは私の寝不足ということにしておきたい。

 

「……すなわち、七人を集める必要がある。もちろん全員名義を借りるだけでもいい。法人格は個人とは切り離されて運用されるからな」

 

 ラドウィックは何もないところからちゃんと法人を作る方法を説明してくれる。思ったより簡単だし、そう簡単に穴はないかという両面がある。堂々とやれる事業をしたいなら問題ないが、後ろ暗かったり秘密を保ちたかったりするなら知識か金が要る、というわけだ。

 

「私は署名できる?」

 

「法的には可能だが、私の依頼主は嫌がるだろうな」

 

「今更ではあるけどね。……そういえば、本名の私は今どこにいるの?」

 

「大学卒業後は消えている」

 

「消えている……?」

 

 私の理解が足りていないと判断したらしいラドウィックは少し考えていた。申し訳ないね、一般常識というものが欠如していて。

 

「具体的な事例を考えよう。もしある名前の人物を、この首府(トゥーン)で探すとなればどうなるだろうか?」

 

「何かの名簿を探すことになる、という認識でいい? 出生登録簿、不動産取引、選挙人、登記、あとはそうか、保険評議会がやっている共通名簿紙みたいなもの?」

 

 よくある誤解として運算機関(レックニングエンジン)が穴の開いた紙片とかに全部記録を残している、というのがある。実際にあるのは鍵番号に紐づいた紙片と分類や検索を行う装置で、そこにその番号に紐づいた各種の書類などがどこにあるかの記録がある、という感じだ。例えば出生証明書なら番号と出生地域と誕生年月日ぐらいであれば穴の有無で記録できるが、家族関係や証明者などを入れるには情報が足りなすぎる、ということになる。

 

「概ねそれでいい。では、それらを調べて載ってない人は存在しないと言っていいか?」

 

「……出生証明書は名前を変えれば探しにくくなるし、都市にいる人間について一人ひとり追跡して調べることはできない。私は女性で世帯主ではないから選挙人名簿には当然無い。本名で探しても大学時代の話までしか出てこないなら、存在しないも同然、か」

 

 私の言葉にラドウィックは頷いた。まあこの私の本名に相当するものも東洋の響きを無理やり共同連邦(コモンウェルス)のクウェーンズに変換したようなものだからな。正直言って自分の名前だという気がしない。実質的な偽名だし。母の家名が入っているわけでもなく、我らが碌でもない一族の候補の中から父親を状況証拠で特定するつもりもないので、それなら友人たちに奢った時の偽名が一番私を私たらしめている気がする。

 

「必要であれば、東洋系の女性がやってきたという形で書類を作ることはできる。それに、ラジリッズ茶葉商会(ティー・チャップマンリー)が倉庫を借りるために使っていた法人は残っているので、それを使っていいという話にはなっている」

 

「……ラジリッズ茶葉商会(ティー・チャップマンリー)って、解散したのでは?」

 

 母の家が懇意にしていたという商会だ。茶葉よりももっと大きなものをやり取りしていたという話は聞いている。「民間船舶用大型汽缶」に「精密光学観測計算機器」、「海事用複合素材」だの「高圧機械用特殊鋼」、はては「人道的医療物資」と引き換えに比較的真っ当な美術品とか工芸品とか繊維製品と一部で人気の広告とかを取引していて、途中から開き直って普通に重工業製品と工芸品の貿易会社になった組織。医薬系は別の地域で失敗したのでさらりと撤退したらしい。

 

「ああ。実質的に茶葉の輸入企業という体面だった組織としては解散し、公に貿易を行う複数の企業の集合体として再編された。だがかつて倉庫を借りるための名義としてラジリッズ茶葉商会(ティー・チャップマンリー)が作った法人は関係者が辿りにくい形で残存している。もともと東洋系には倉庫を貸せない、ということで作られたのだからな」

 

「……よく考えなくても、私に流れている血は両方とも碌でもないものね」

 

 誰だかわかっているのは母親のほうだけであるが、物心付く前の朧げな記憶にあるあれがその母親に相当する人物なのかはわからない。雇われの乳母に育てられ、大使館では現地語を使うのが基本であるとのことでクウェーンズばかりだったし、母について語ってくれる人はあまりいなかった。今ではちょっと変らしいとは理解できたが、当時はそういうものだと思っていたからな。

 

 とはいえ、母の祖国についての話は当然聞くわけだ。極東の神秘の島国、大君藩国(タイクーンダム)。かの国の立ち位置については以前見た風刺画が適切だったな。三陣営の紳士の前で民族衣装の裾をめくり、そして金を投げさせている東洋国家の女性。扇で隠した口元の上で目が蔑んで笑っている。あの銅版画家は風刺画作家にしては珍しく丁寧な取材の上で全方位を嘲笑うし、業界の人からはその腕があるなら風刺画なんてやるなよと言われているらしいが、詳細は知らない。フィーマがなんかそういう世間話をしていた。

 

 そしてまあ、両親の組み合わせが色々と問題があって、私は表に出せないがかといって処理するにも困るということで生活費と屋敷を抱えて暮らしているのである。何が面白いって屋敷を見繕ってくれたラドウィックと生活費の額を決めた担当者との連絡がまともに取れなかったせいで過剰に貰っていることなんですがね。私に責任があることではないので気にしても仕方がないが。




6. Any seven or more persons associated for any lawful purpose may, by subscribing their names to a memorandum of association, and otherwise complying with the requisitions of this Act in respect of registration, form an incorporated company, with or without limited liability.

6. 合法的な目的のために結集した7人以上の者は、基本定款(memorandum of association)に氏名を記載して署名し、かつ、登記に関して本法の定める要件を遵守することにより、有限責任を伴うか否かを問わず、法人格を有する会社を設立することができる。

Great Britain. Companies Act 1862, 25 & 26 Vict. c. 89, § 6.
英国、1862年会社法、ヴィクトリア女王の治世25・26年、89章6条
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