「お時間を取っていただきありがとうございます、男爵閣下」
私はそう言って頭を下げる。今着ている上下別れの既製服は、どう考えても淑女の服ではない。上流気取りの屋敷ならちゃんと上下合わせの昔ながらのものにする。既製服がこうなっているのは汚染を浴びた時にすぐに着替えることができるということ、そして一人で支度ができるというためだとか。あと上下の大きさを個別に作れるので体型の違いを吸収しやすい。
まあともかく、ここで行われているのは紳士と淑女の密会ではなく、総帥と作業員の世間話である。というか総帥は普通に既婚者でもともと浮いた話がなかったところをいいところのお嬢さんと結婚させられて悪くはないのだが光学機械より繊細な人物だよ、と惚気ていた。それを寄宿学校に通っているような年齢の娘に言うのって大丈夫なんでしょうかね。
「いいよ、総帥で」
「規範ですから」
「……前、君の家に行った時に当てつけのように『
「学のない女中のやることです、どうせ大学も卒業していない身でしょう」
これは嘘ではない。私の所属していた女子学寮は大学の一部の講義を受ける権利をくれたし、
「……まあ、私としては君とのこういう会話は結構楽しいし、なによりそれなりに寄付を貰っている身だから屈辱というわけではないし構わないがね。他のところでやったら文句は言えないよ?」
「まったく、女中の戯言に一々感情を動かすとは最近は紳士の質も落ちたものですな」
「その質を落とした元凶が私だけどもね」
いやあ、この種の話は気心知れた友人とやるのが一番である。この会話の内容を聞かれたら普通にまずいが、そもそもこんな会話をしたという話を信じてもらえるかが怪しいな。
さて、楽しい笑顔の時間もそこそこにしよう。私は書類を取り出す。少し前に散歩がてら手紙だけ直接届けておいて、暇な時に読んでもらって、また相談ということにしていたのだ。
「ついさっき目を通したばかりだがね。液体
「ええ。技術的には特殊な、とはいえ十分確立された構造の機構を追加するだけです。工場を一つ建てるようなものではなく、設備を一つ導入するもの。それも安いわけではありませんが、科学技術分野からの定期的な需要があるとなれば対応できる、との話でした。もちろん今後調整は必要でしょうが」
私は紙を広げていく。ラドウィックはこの手のものを数字とそれを語る人の口調でしか理解できない。私だって実際の操作を理解しているわけではない。というかそのあたりの実験の手つきであれば、おそらく総帥が、初代ホイットマール男爵ヘズリン・ホルトが得意とする分野であろう。というよりもっとちゃんとやるなら誰か紹介してもらったほうがいいな。
「……いいだろう、
「お手数おかけします」
「リードフィントン教授が君に無理をさせているのは私のせいでもあるからね」
「そうですよ、あいつのせいで暇がなくなり、私は午睡もできず、女中長からは清掃進捗が遅れていると怒られる始末……」
私が肩を落とすと総帥は憐れんでいいのか笑っていいのか困ったような表情で私を見ていた。ああこれは笑っていいところです。でもそれを言うのって優雅じゃないな。背筋を伸ばそう。
「それと、これはミス・バクスター名義で行われるのかね?」
「ええ。実質的な匿名ですが。……ところで念のため確認ですが、今までの寄付って知ってますよね?」
「特に使途の指定も成果についての制限もない、匿名の数百
「ああ、はい……」
知られていますか、そうですよね。一応毎回取り寄せている
「そういう金は細々としたところに使わせてもらっているよ。階段の補修、来賓への土産、あるいは見学に来た子供たちへの菓子代」
「思っていた使われ方とはちょっと違いましたね」
「そういうところに使える金がないのだよ。政府のやつらは細かく予算を見てくる。……そういう意味では、匿名の寄付は本当に助かっている」
「何のことだかさっぱりわかりませんが、もしそういう金を払っている人がいたら一定金額は匿名のままにするようには言っておきますね」
「ああ」
よし。これでラドウィックにも寄付について総帥は誰からのものかは言っていなかったと伝えられるな。どうせ一瞬でわかる欺瞞だが、そういう建前というものによって守られているものは多いのだ。もし紳士が淑女に払うべきとする献身がなければ今頃女性はどうなっていたことか。女性が力を持つならその献身は相互の敬意へと変えねばならないはずだが、それをどうやるかの調整についてまともに議論したその手の活動家の本を読んだことはない。フィーマならなにか知っていたりするのかな。
「……それと、ミス・バクスター」
「何でしょうか」
「君は趣味で、これだけの金を出すのかい?」
「趣味でしょうね。人が何を面白がるか、何に価値を見出すかは異なるでしょう。小説を楽しむ人もいれば、思索にふける人もいる。測定装置を弄っていて金をもらえることを天職と思う人もいるでしょう」
「そうか……。いや、これは老人の戯言だと思って聞き流してもらってもいいのだが、いつでも引く準備をしておいたほうがいい」
「おや、どういうことでしょう」
「何かを好いていた人が、急に転換することがある。それまでの人格とは異なったようになることは、決して珍しい話ではない。飽きは悪いことではないが、それで他人に迷惑をかけないのが紳士淑女の振る舞いだ」
「……はい」
「まあ私がそれで散々他人に迷惑をかけてきたのだがな。勲章などいらん、貴族になどならんと言った男が男爵様だ。女王陛下の飼い犬に成り下がったと言われもするさ」
「……はい」
いや面倒な話をされてもどういう顔をすればいいかわからないんだが。意趣返しだな。きっとそうだ。なら一勝一敗、いい勝負ができたということで。
Although the total amount to be disbursed annually was not large, very few persons, qualified to make good researches, usually applied for its assistance, and it was difficult to dispose of the whole. The chief causes of this difficulty were:—a grant from the fund was an unprofitable gift to accept, because it was only sufficient to partly pay the expenses out of pocket for chemicals and apparatus, and allowed nothing for the skill, time, or labour, nor for payments made to assistants. Further, "By order of the Council, all instruments, apparatus, and drawings, made or obtained by aid of the Government Grants, shall, after serving the purpose for which they were procured, and in the absence of any specific understanding to the contrary, be delivered into the custody of the Royal Society."
五。政府助成金制度の拡大。──数年にわたり、英国政府は科学を振興する目的で年額千
毎年支出される総額は決して大きくはなかったものの、優れた研究を行う能力を持つ人物のうちその支援を申請する者は普段はごくわずかであり、その全額を配分し切ることは困難であった。この困難が生じた主な原因は以下の通り──すなわちこの基金からの助成金は薬品や器具に対する自己負担費用の一部を賄うのに足りる程度に過ぎず、技能、時間、労力に対する手当は一切認められず、助手への支払いも認められていなかったため、受け取ったところで得にならない贈与物であったからである。さらに「評議員会の命令により、政府助成金の援助によって製作または取得された全ての器具、装置、および図面は、それらが調達された目的を果たした後は、それに反する特段の取り決めがない限り、王立協会の保管下に引き渡されるものとする」と定められていた。
The Scientific Basis of National Progress, Including that of Morality, by George Gore, 1882
ジョージ・ゴア『国家進歩の科学的基礎、そして道徳の基礎』、1882年