「計算が間違ってますね、いや計算は正しいか? じゃあ何が……」
私は呟く。机の上には参考までに引っ張り出してきた各種の雑誌と分光学の資料集。この資料集の編集人はヘズリン・ホルトという実験屋で、最近は面倒な政治とか予算配分とか冬の講演会の準備とかで忙しくなりめっきり鏡も回折格子も触らなくなってしまったという男だ。そんなやつがなぜのんびりと古めの雑誌を読んでいるのかは考えないほうがいいだろう。
だから嫌だったんだ。本好きの前にこんな本棚を差し出したらこうなるのはわかっていただろう。駄々をこねられても困るし、ここで本を持ち帰られたりなんかしたら後で女中補がうるさい。蔵書の後継者として名乗りを上げて私のことを簒奪者呼ばわりする彼女はサーロウ教授の大姪であるのだし、教授と会ったことのない私に比べれば正当性があるのが困るところだ。
「君への依頼の中に、論文の詳細についての批評は入っていないが?」
「今なら電報で計算が正しかったかどうかぐらいは問い合わせられるでしょう、組版もそこまで進んでいないでしょうし」
そう言いながら、紙に自分しか読めないどころか明日になれば自分でも読めないような奇怪な字で計算を進める。計算結果は微妙だが、まあ非常に大まかに言えば、1に近い。
「……それで、何か面白いものは見つかったかね?」
「質量数問題に大きな進展がありますね。解決したかどうかまでは断言できませんが」
「説明してみたまえ」
「……分光学の権威たるホイットマール卿に? それとも」
「冬の講演会に来るような子供相手に、だ」
「……毎年来ているような子でいいですか?」
「許そう」
「助かります、真空中に凹面回折格子を置く話を子供向けにできるのは総帥ぐらいしかいないので」
原子論の基礎、
「
私は手元の論文を見ながら言う。
「散乱光の説明がない」
「このあたりは勘弁してもらえませんか? 振動
私は確かに数学ができるが、このあたりは本職の理論屋の領分である。
「……まあ、私も理解しきれていないから構わないが、あとで数式の一つでも残しておいてくれ」
私は頷く。まあ結局は節数違いの局所振動のうなりだ。結局はこれも微分方程式であり、適切に模型を立てれば
「えーこの散乱光の波長と強さの組み合わせで核の中に入っている粒子が偶数か奇数かがわかります。具体的には捻れ数ですね。捻れには右か左、あるいは正か負があって、奇数ならどうやっても相殺できません。それに電荷と全捻れの偶奇一致の経験則にも反しています」
「話が長い。秤では十四個あるはずなのに、紙袋を開けてみれば七個しか林檎がない、でいい」
「……いいんですかねぇ、そうすると
「見えない透明な林檎がある、ということで十分だ。あと偶奇については貨幣の話でいいだろう。一個なら
「うーん、まあ妥当な比喩だと思います。語り落としているものも多いですが」
「全てを語ろうとすると
私は頷いた。さて、ここからが面白いところと言いたいのだが、結論自体は非常に素直なものだ。というより今までの学術議論だの今回の論文だのを読めばとても自然になる。
「というわけで紙袋の中には透明林檎が七個入っている、ということになります。十四個ではない。だから普通の林檎と合わせて合計は偶数。そしてこの論文が分析した
「後半は削ったほうがわかりやすいだろうな。それで、見えない林檎をどうやって扱う?」
「飛んでいる時に他の林檎に当たれば、他の林檎が動いたことは確認できます。弾き飛ばされた林檎がどこまで飛んでいくかを見れば、透明林檎の重さと速度を見積もれます」
「軽くて速い林檎と、遅くて重い林檎を区別する方法は?」
「というのがこの論文ですよ、計算が合わないって言ってますけど普通に質量を仮定すれば導出できて、重さはほぼ
「御講義中失礼、ミス・バクスター」
私が自慢げに言った時、後ろから男の声が聞こえた。足音の一つもしていなかったのに。震えながら、私はゆっくりと振り返る。
普段余所行きに使っているお人好しの顔とは異なる、冷たい目をした屋敷の執事、ラドウィックが紅茶の乗った盆を持って、そこに立っていた。
しかし、その放射線が質量1、電荷0の粒子、すなわち
CHADWICK, James. Possible existence of a neutron. Nature, 1932, 129.3252: 312-312.
ジェームズ・チャドウィック『中性子の存在可能性』、1932年