「おお、霧箱なんて出してくるんだ」
私は遠目に机の上に置かれた機材を見る。講演三日目。今日の内容は放射線物理学を通した物質の本質の解明についての最先端である。総帥は現役を離れているとか言いながら普通に今研究者にとって話題のものをやってくるし、その上でわかっていないことが多いという雰囲気を出すのが巧い。
「思ったより小さいですね、霧箱って」
フィーマが懐中双眼鏡を取り出して覗きながら言う。こういう小物は屋敷で経費として払っているのだが、ちゃんと仕事に使うならいいかということになっている。他にも懐中計算機とかも経費で買っている。胡椒挽きの愛称で知られる、よく衛生査察官が手の中で回しているやつですね。
「大きいと大変なのよ、磁界とかで電荷を見る場合にはどうしても大きさに限度があるし」
光速の数十分の一で飛んでいく
とはいえどのぐらいの電荷や速度を持っているかを知るためには磁界内で曲がる様子を見るのが一番いい。しかし普通の鋼鉄磁石ではどうしても作れる磁界が弱いので電磁石にするか大きな霧箱を作るか、となるのだ。それに下手な磁石では並べると隣の磁石に飲まれて磁気を失ってしまうのも辛いところである。この種の鉄鋼はなぜか極東の方で戦争めいた開発競争が起きていて三陣営が置いていかれているという奇妙なことになっているのだ。
「見に行けますよ、どうします?」
フィーマが尋ねてくる。論文では見たことがあるし大学の授業でも見物させては貰ったが実際に間近で動いているのを見た記憶があまりないな。見に行くか。
というわけで階段を降り、総帥と机を挟んで向き合う。こちらを見ても表情を変えないあたりとんだ役者である。まあ知り合いがいたからって特別扱いするような人ではないからね。
この箱は本来気象研究の過程で用いられたものだ。気体に溶ける事のできる水の量は一定で、温度によって低下する。暖かい部屋の中の空気が冷たい窓のガラスに当たると水滴になるようなものだ。あれを箱の中全体でやる。このような現象は川の湿気と夜の冷たさで生まれる
そしてこの種の霧や雲は、核となる埃や塵に水滴が集まることで形成されると言われていた。ではそういうものをどんどん無くしていったらどうなるだろうか、という試みがされ、それでもなぜか飽和状態の気体から霧ができる現象が確認された。先に答えを言ってしまえば、それらの霧は
「あ、今見えましたよ」
そう言ってフィーマが指を向けるガラスの板の向こうでは、太い線が一つ現れては途切れて消えていった。この飛距離だとすると第一種
「見えているわよ」
数秒に一回、霧の筋が走る。そんな短い時間の見物を終えて、私達はもともと立っていた場所まで戻ってきた。前の方で見るのもいいものであるが、こうやって後ろから舞台というか劇場全体を見るのもまた一興である。いやこれたぶん悪い観客ですね。素直に舞台を楽しめばいいんですよ。
「ああいう筋になるんですね。本で写真を見たことはあったのですが、実物ってあまり大きくないしなんていうか……儚い霧の線なんですね」
「簡易的……と言っていいのか微妙だけれども、あの形式は
かつての主流だった方法では霧箱を膨張装置と組み合わせて蒸気の飽和状態を作っていたのだが、そうすると飽和状態を一瞬しか作れないという問題がある。放電管とかで
「うーん、やっぱり難しい話ですねここらへんは」
「現場の人の経験よ。だから取り寄せたい本があるのだけれども……読めないのよね」
大陸中央部、山脈地帯の諸国家は
理由としては面白く、宇宙からの
とはいえ、そういう面倒な話は雪が溶けて元気になってからにしよう。冬の間にそういう事をやりすぎるとミセス・ブラッケンの作業が多くなってしまい、美味しい食事が食べられなくなってしまいますからね。
膨張完了時に達せられる程度まで過飽和となった蒸気中において、凝縮を促進しうるあらゆる核がその周囲における滴の成長によって可視化されるため、微弱な放射線でさえ目に見える効果を持つということは驚くべきことではない。
WILSON, Charles Thomson Rees. Condensation of water vapour in the presence of dust-free air and other gases. Philosophical Transactions of the Royal Society of London. Series A, Containing Papers of a Mathematical or Physical Character, 1897, 189: 265-307.
チャールズ・トムソン・リーズ・ウィルソン『塵を含まない空気および他の気体の存在下における水蒸気の凝縮』、1897年